21.優しさは違う形をしている
ジムの空気は、少し乾いていた。重厚な石造りの壁も、松明の炎もない。あるのは、規則正しく並んだ最新のマシンと、空調の音、そしてイヤホンをつけた人々が淡々とトレーニングに励む、清潔で無機質な空間。
「思ったより、人が多いですね」
風真煉弥は、スポーツウェアに着替え、少し緊張した面持ちで周囲を見渡した。
「夕方ですから。仕事終わりの人が多いんです」
夏夢は、事務的に答える。ここは、あのアカデミーではない。思い出の場所でもない。それなのに、足裏がゴムマットを捉えるたび、身体が勝手に「ナツメ」としての緊張感を呼び覚ましてしまう。
「まずは、無理をしないメニューでいきましょう」
ストレッチから始める。股関節、肩甲骨、脊柱。夏夢は一歩離れた場所から、煉弥の動作をチェックした。
「……痛くないですか?」
「大丈夫です。少し、身体が固まってたのが解ける感じがして、気持ちいいです」
煉弥は、正直だ。痛ければ言い、無理だと思えば足を止める。グレンに叩き込まれた「筋肉の叫びから逃げるな」という狂気じみた精神論はここにはない。それは、あまりにも健康的で、安心できる時間だった。
「次はスクワットです。まずは自重で、基本のフォームを固めましょう」
夏夢は煉弥の正面に立った。指導者として、彼の身体のラインを注視する。
「……こう、ですか?」
煉弥が腰を落とすが、わずかに重心が爪先に流れ、膝が内側に入る。
(……修正したい)
ナツメとしての本能が、彼に歩み寄り、その膝を外側へ開き、腰をグッと押し込みたいと叫ぶ。けれど、夏夢の手は動かなかった。
「もう少し、お尻を後ろに引いてください。椅子に座るようなイメージで」
言葉だけで誘導する。煉弥は素直に頷き、何度もフォームを調整する。
「鬼頭さん、教えるの本当に上手ですね。言葉が具体的で、すごく分かりやすい」
「……ありがとうございます」
胸の奥が、熱を持ったように痛む。グレンは、言葉よりも先に手が動く人だった。背中に大きな掌を置き、腰に触れ、重心が乱れれば容赦なくその身体を支え、引き上げた。あの荒々しくも絶対的な信頼感。
それに対し、煉弥は夏夢に触れようとはしない。彼女のパーソナルな領域を尊重し、言葉の壁を越えてこない。
それは彼の「配慮」であり、紳士的な優しさの形なのだ。けれど、その「触れない優しさ」が、夏夢にはどうしても、物足りない余白として感じられてしまった。
休憩中、ベンチに並んで座る。煉弥が、自分の水とは別に用意していたミネラルウォーターを差し出してきた。
「どうぞ。お疲れ様でした」
「……ありがとうございます」
距離は、きっちり一歩分。近づかない。越えない。その完璧なマナー。
「鬼頭さん」
煉弥が、少しだけ声を落として夏夢を見た。
「……こういう時間、嫌じゃないですか? 自分のトレーニングの時間、奪っちゃってませんか」
「え……?」
「無理してるなら、いつでも言ってください。……僕は、君が笑っててくれるのが一番だから」
胸が、ぎゅっと締め付けられた。
───やめてほしい。
───でも、やめないでほしい。
彼の優しさは、今の夏夢の傷を癒す包帯のようなものだ。
けれど、包帯を巻いている限り、新しい皮膚は強くならない。
「……嫌じゃ、ないです。……本当です」
正直な答えだった。煉弥はそれ以上、夏夢の心の奥を暴こうとはしなかった。
「そっか」
柔らかく、太陽のような笑顔。その眩しさが、今の夏夢にはどうしようもなく苦しかった。
帰り道。夜風が火照った身体を冷やしていく。並んで歩く二人の手は、触れそうで触れない距離を保ち続けている。
「……鬼頭さん」
駅の改札前、煉弥が立ち止まった。
「焦らなくて、いいですよ」
「……何が、ですか」
「全部。……仕事も、身体のことも、……君が抱えてる、誰にも言えないことも。話したくなったら、話して」
それだけ。それ以上、何も言わず、彼は「また明日」と手を振って去っていった。優しすぎる。守ってくれる。けれど、踏み込まない。
その夜、夏夢は一人、自室で追い込みのトレーニングを行っていた。片脚を椅子に乗せたブルガリアンスクワット。
『逃げているな、ナツメ』
幻聴が、脳髄に直接響く。
「……違う」
声に出して反論する。
『守られているだけだ。そんな生ぬるい負荷で、何が変わる。……お前を完成させられるのは、誰だ?』
「……っ、うるさい!」
呼吸が乱れ、大腿四頭筋が千切れそうなほど熱くなる。
筋肉が震え、限界を告げている。
───「お前は、引き上げられる方が、好きだろ」
その言葉が、心臓を抉った。夏夢はマットに座り込み、額を押さえて荒い息をついた。
「……私、最低だ」
煉弥は、完璧だった。現実に生きる男性として、これ以上の「正解」はないほどに優しく、誠実で、自分を大切にしてくれている。
それなのに、夏夢の魂は、自分を壊し、再構築し、強引に高みへと引きずり上げる、あの銀髪の暴君を求めて叫んでいる。欲しいのは、安心だけじゃない。自分を限界の先へと導く、あの「覚悟」と「情熱」なのだ。
スマホに届いた煉弥からのメッセージ。
『無理しないで。また、行けたら。』
その言葉に感謝しながらも、夏夢ははっきりと自覚してしまった。
───この人では、私は完成しない。
その残酷な確信が、夏夢を次の選択へと、静かに突き動かそうとしていた。




