20.職業病、あるいは…本能
「……っ」
その小さな、けれど鋭い苦悶の漏れに、夏夢の身体は思考よりも先に反応していた。場所は営業部のフロア、共有のコピー機の前。大量の資料を抱えようとした風真煉弥が、腰を僅かに折ったまま動きを止めていた。
「大丈夫ですか?」
「あ、すみません。ちょっと、変な角度で力を入れちゃったみたいで」
煉弥は苦笑いしながら取り繕うが、その「立ち方」を、夏夢の目は冷徹に分析していた。重心が爪先に流れ、骨盤が前傾している。腹圧が抜け、重力と荷重のすべてを│腰椎の第4、第5番あたりで強引に支えようとしている───最悪のフォーム。
「……そのまま、動かないでください」
静かだが、有無を言わせぬ響き。ナツメとして数多の志願兵を統率してきた、あの「指導者」のトーン。
「え……?」
煉弥が驚いたように目を瞬かせる。
「今、腰の筋肉が限界まで緊張しています。無理に伸ばすとギックリいきますよ。……私の指示に従ってください」
煉弥は夏夢の気迫に押され、素直に頷いた。
「まず、足を肩幅に開いて。膝を少しだけ緩めて、重心を│踵の少し前に置いてください。そう、そのまま背中を丸めない。骨盤を……グッと立てて」
「こう……ですか?」
「そうです。そこから、お腹を内側から膨らませるように。……腹圧を入れて。息は止めないで、吐き続けて」
夏夢の言葉は、かつて自分がグレンから叩き込まれた「教え」そのものだった。自分の中に、彼が生きている。彼の語彙が、彼の視点が、今の自分の声となって煉弥の身体を修正していく。
「あ……」
煉弥の表情から痛みが消え、強張っていた肩の力がふっと抜けた。
「今、楽になりましたね。骨格で支える感覚を忘れないでください」
「本当に……すごいな、鬼頭さん」
煉弥の瞳が、一点の曇りもない尊敬で輝く。かつてグレンを見つめていた自分と、同じ輝き。
(……この目を向けてほしい相手は、あなたじゃないのに)
胸の奥が、ちくりと痛む。恩師を裏切っているような、あるいは、彼から授かった神聖なものを切り売りしているような、名状しがたい罪悪感。
「今日は重いものを持たないで。座るときも背もたれに頼らず、坐骨で座ってください」
「……はい」
真剣にメモでも取りそうな勢いで頷く煉弥の姿が、可笑しく、そしてひどく切なかった。
その日の帰り道。夕闇が広がる駅への道を、二人は並んで歩いていた。
「さっきは本当に助かりました。……昔、運動をしていたって言ってましたよね」
「ええ、まあ……」
「教え方、プロみたいでした。一瞬、本物のトレーナーに叱られてるのかと思ったくらい」
胸が、ぎゅっと締まる。
「……プロに、本気で教わっていましたから」
「そっか」
煉弥はそれ以上、夏夢の過去を暴こうとはしなかった。その「踏み込まない優しさ」に救われながらも、夏夢は心のどこかで、この均衡が崩れることを予感していた。
「……鬼頭さん」
駅の改札前、煉弥が足を止めた。
「また、教えてもらってもいいですか。実は、ちゃんとジムに通おうと思ってて。……身体の使い方、鬼頭さんみたいに覚えたいんです」
一瞬、思考が止まった。二人でジム。ウェア姿。重いものを持ち上げ、汗を流し、身体を支え合う。それは、ナツメとグレンが過ごした「聖域」そのものの再現ではないか。
(ダメ、それは……)
そう叫ぶ理性の裏で、煉弥の穏やかな瞳が自分を求めている。
「……無理のない範囲なら」
答えてしまった。自分でも気づかないうちに、グレンのいない寂しさを、彼に似た背中で埋めようとしているのかもしれない。
その夜。自室でデッドバグを行いながら、夏夢は天井を見つめた。対角の手足を伸ばし、体幹を固定する。
『軸がぶれているぞ! ナツメ!』
幻の声が、今夜はやけに厳しく響く。
「……わかってるよ」
煉弥に教えた言葉は、そのまま自分への刃となって返ってくる。私は、グレン・シルフィードに教わって、ここまで来た。誰かに教えるたび、私の中の「ナツメ」が、彼を求めて叫び出す。スマホに届いた煉弥からのメッセージ。
『無理しないジム、今度行きましょう』
夏夢は、震える指で画面を見つめた。これは、新しい世界へ進むためのステップなのか。それとも、届かない面影を追い続けるための、残酷な代償行為なのか。答えはまだ、暗闇の中に溶けたままだった。




