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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第3章 さようなら、優しいだけの世界【再起編】

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19.触れない距離の心地良さ

 昼休みのエレベーターは、フロアを降りるごとに人を飲み込み、少しずつ密度を増していく。夏夢は、隅の方で手すりを握りながら、何度も自分に言い聞かせていた。


(ただの同僚との昼食。お礼を言われるだけ。深い意味なんて、あるはずがない)


 そう思おうとするほど、鼓動のテンポがわずかに速まる。それは期待ではなく、どちらかといえば「未完成の自分」を誰かに見られることへの防衛本能に近かった。


「鬼頭さん」


 営業部のフロアで扉が開くと、そこには風真煉弥が立っていた。パリッとした白シャツの上からでも、無駄のない体幹の強さが伝わってくる。彼は周囲の社員に軽く会釈をしながら、夏夢の方へ歩み寄った。


「お待たせしました。行きましょうか」

「……はい」


 並んでエレベーターを降り、歩き出す。二人の距離は、常にきっちり一歩分。近すぎて肩が触れ合うこともなければ、声が届かないほど遠くもない。


 ───最適解のような、距離。


 グレンのように、強引に手首を掴んで引き寄せることも、背後に立ってその熱気で圧倒することもない。けれど、そのあまりの“居心地の良さ”が、かえって夏夢の心にざわつきを残した。





 会社近くの定食屋。昼時の喧騒の中、二人は向かい合って座った。運ばれてきたのは、彩り豊かな季節の野菜が並ぶ和定食だ。


「ここ、よく来るんです」


 煉弥が箸を割りながら、穏やかに言う。


「野菜が多くて、油も控えめで。……鬼頭さん、こういうの好きかなって思って」

「……え?」


 夏夢は思わず目を瞬かせた。


「体の使い方が、すごく綺麗ですよね。姿勢もいいし。……普段から、食事やトレーニングに気をつけている人の身体だなって、ずっと思ってたんです」


 ドクン、と心臓が跳ねた。


 ───見られていた。


 自分が「ナツメ」として積み上げた努力の痕跡を、この男は静かに見抜いていた。


「……ありがとうございます」


 そう答えながら、胸の奥にちくりとした痛みが走る。グレンは、見抜いた瞬間にそれを指摘し、容赦なく修正を迫った。煉弥は、見抜いた上でそれを称賛し、踏み込まずに尊重する。どちらが正しいわけでもない。それなのに、夏夢の魂は、かつて受けたあの「痛烈な指摘」を、激しく欲していた。


「運動、結構されるんですか?」

「ええ、まあ……」


 夏夢は言葉を濁した。


「……昔から、教えてくれる人がいて」


 その言葉が、自然に口をついて出た。


「へぇ、素敵な先生なんですね」


 煉弥はそれ以上、深く追及しなかった。土足で踏み込まないその「待つ優しさ」が、今はありがたくもあり、同時に、どこか物足りなかった。




 食後のコーヒーを前に、煉弥が少しだけ声を落とした。


「……鬼頭さん」

「はい?」

「無理、してませんか」

「え……?」

「なんとなく、ですけど。……一人で頑張りすぎてしまう人の顔をしてるなって。少しだけ、心配になりました」


 胸が、ぎゅっと締め付けられる。


「……大丈夫です」


 即答してしまった。自分を護るための、反射的な防衛。

 煉弥は、一瞬だけ何かを言いかけたように唇を動かしたが、すぐにいつもの穏やかな微笑みに戻した。


「そっか。ならいいんです」


 彼は、夏夢が閉ざした扉を無理にこじ開けようとはしない。その優しさは、雨のように静かに夏夢を濡らしていく。


(……グレンなら)


 無意識に、比べてしまう。グレンなら「大丈夫なわけがあるか!」と怒鳴り、無理やりにでも休ませるか、あるいは「ならもっと追い込め」と背中を叩いただろう。


 安心を与えてくれる煉弥。

 成長を強いてくれたグレン。


 帰宅後のトレーニング。ランジで踏み出した足が、わずかに震える。


『視線、前。軸をぶらすな』


 頭の中の声に頷きながら、夏夢は深く息を吐いた。


「……どっちが、欲しかったんだろう」


 マットに座り込み、自分の鼓動に問いかける。煉弥の隣にいるときは、確かに「鬼頭夏夢」として大切に扱われている実感が持てる。傷つく必要のない、凪いだ海のような時間。


 けれど、鏡に映る自分の目は、まだあの激しい嵐のような日々を、血の滲むようなバルクアップの感覚を、忘れられずにいた。




 翌朝、コピー機の前で煉弥と目が合う。


「昨日は、ありがとうございました」

「いえ。……こちらこそ」


 自然な笑顔が交わされる。周囲から見れば、それは微笑ましい「いい雰囲気」の二人。けれど、夏夢はその触れない距離の居心地良さに、言いようのない孤独を感じ始めていた。


 このまま、穏やかな海に沈んでしまえば、あのアカデミーで流した汗も、彼と交わした本音も、すべてが「ただの夢」になってしまう気がして。夏夢の心は、安定と渇望の間で、激しく揺れ動いていた。

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