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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第3章 さようなら、優しいだけの世界【再起編】

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18.似過ぎた横顔

 朝、出社したフロアの空気は、少しだけざわついていた。


「今日から営業の風真くん、こっちの案件に入るらしいよ」

「へぇ、あの風真くん?  また頼りになる人が増えたね」


 給湯室から聞こえてくる噂話を、夏夢は他人事のように聞き流していた。事故から復帰して数日。今の彼女にとっての関心事は、日常生活を送るために必要な最小限の「筋出力」と、消えてしまったグレンへの想いの折り合いをつけることだけだった。総務課の自分には関係のない話───そのはずだった。


 資料の束を抱えて、営業部のフロアへ足を踏み入れたときだ。コピー機の脇を抜けた瞬間、視界の端に動く「背中」が見えた。柔らかい茶の髪。スーツ越しでも分かる、引き締まった背筋。そして、無駄のない肩のラインが描く、美しい逆三角形。ドクン、と心臓が跳ねた。


(……グレン……?)


 呼吸が止まる。理性が「そんなはずはない」と叫ぶより早く、身体が、ナツメとして刻んだ本能が、勝手にその背中へと歩み寄っていた。


「風真くん、これ、至急で確認お願い」

「了解です。すぐ目を通しますね」


 振り返ったその瞬間、夏夢は息を呑んだ。グレン・シルフィードがそこに立っている───そう錯覚させるほど、その佇まいは似ていた。




「どうかしました?」


 穏やかな声だった。少しだけ灰がかった瞳が、不思議そうに夏夢を見つめている。グレンのような威圧感はない。代わりに、湖の平滑な水面のような、底知れない静けさがあった。


「……あ、いえ。すみません、資料をお届けに」


 夏夢は慌てて視線を落とし、抱えていた束を差し出した。指先が微かに震えているのを、悟られないように必死で力を込める。営業部の話題の人物、│風真煉弥かざま れんやは、人懐こい、けれど一線を越えない絶妙な距離感の笑みを浮かべた。


「助かります。ありがとうございます、鬼頭さん……同期ですよね?  前にも何度かお名前見ました。いつも整ってて、分かりやすい資料だなって思ってたんですよ」

「えっ……あ、ありがとうございます」


 褒め言葉の温度が、あまりに自然だった。それがまた、夏夢の胸に棘のように刺さる。グレンの声は、常に大地を揺らす雷鳴のように低く、鋭かった。対して風真の声は、春の陽だまりのように柔らかく、聞き手の心を解きほぐしていく。


(……違う。全然、違う人なのに)


「このあと、会議室に行かれます?」

「ええ、資料配布を――」

「ご一緒しましょう。ちょうど僕も行くところだったので」


 風真は当然のように夏夢の横に並んだ。並んで歩くだけで、視界に入る彼の肩の揺れや、足運びのテンポが、どうしてもあの世界の記憶を呼び起こしてしまう。


(……歩幅が、同じだ)


 そんな些細な、偶然でしかない共通点を見つけるたび、夏夢の心は激しく軋んだ。会議室の前で、風真がスマートにドアを開けたまま押さえる。


「どうぞ、鬼頭さん」

「……ありがとうございます」


 受け取る際に、指先が触れた。ほんの一瞬。グレンのゴツゴツとした、タコのある硬い掌とは違う、滑らかで温かい手の感触。その熱が、呪いのようにいつまでも指先に残り続けた。




 その夜。夏夢は、いつものように自室でマットを敷いた。スクワット、プランク、ランジ。


『呼吸を止めるな!  腹圧で命を守れ!』


 頭の中で、グレンの怒声が響く。夏夢は歯を食いしばり、汗を滴らせながら、己の肉体を追い込んだ。


「……わかってる、わかってるのに……っ」


 膝が震える。昼間の風真の横顔が、彼の穏やかな瞳が、暗闇の中で何度もフラッシュバックする。似ているというだけで、こんなにも心が脆くなる自分が情けなかった。彼ではない。彼はグレンではない。そんなことは、誰よりも自分が一番よく知っている。


(会いたいよ、グレン……)


 マットに崩れ落ちた夏夢の目から、一筋の涙が床に落ちた。これは恋ではない。喪失の穴を埋めようとする、生存本能に近い渇望だ。


 翌朝。出勤した夏夢のデスクには、一枚の付箋が貼られていた。


『昨日の資料、助かりました。お礼に、昼、一緒にどうですか?  ――風真』


 文字まで、どこか整っていて温かい。夏夢は付箋を指でなぞりながら、深く息を吐き出した。


(前に進まなきゃ……。現実を、生きなきゃいけないんだから)


 自分に言い聞かせ、顔を上げたその時。耳元で、幻聴のような低い声が囁いた気がした。


 ───「俺以外に視線を向けるのか?」


 傲慢で、独占欲の強い、けれど愛おしくてたまらないあの声。夏夢は自嘲気味に、小さく笑った。


「……嫉妬してるの?」


 壊れたスマホの中にも、新しいスマホの中にも、もう彼はいない。返事のない問いかけを胸に、夏夢はゆっくりと立ち上がった。


 風真煉弥という「似すぎた男」の登場が、夏夢の止まっていた時間を、少しずつ、けれど残酷な方向へと動かし始めていた。

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