17.壊れたスマホと残った躰
退院の日は、驚くほど静かだった。病室の窓から差し込む冬の光は、刺すような鋭さを失い、今はただ穏やかに床を照らしている。一週間前、この場所で絶望の淵にいた自分を、白い天井は黙って見守っていた。
「それじゃ、無理しないでくださいね。リハビリ、頑張って」
看護師の温かな見送りを受け、│鬼頭夏夢は一歩、病院の外へと踏み出した。
頬を撫でる空気は、あのヴァルキュリア・トレーニングアカデミーの石造りの冷たさとは違う、排気ガスの匂いが混じった都市の冬の匂いだ。
───戻ってきた。
かつて捨てようとした、冴えない、けれど平穏な「現実」という場所へ。会社へと向かう満員電車。吊り革を掴む手に、無意識に力が入る。
前の鍛え上げる前の夏夢なら、この程度の揺れでも身体が流されていただろう。けれど、今の彼女は違う。足裏が吸い付くように床を捉え、骨盤が安定している。
(……身体が、覚えてる)
ポケットの中で、硬い角が指先に触れた。事故で粉々になった、壊れたままのスマホ。新しい端末は鞄の奥にしまってある。復旧作業も終えた。けれど、どうしてもこの「残骸」を捨てることができなかった。
オフィスに着くと、いつもと同じ光景が広がっていた。蛍光灯の均一な明るさ。忙しげに響くキーボードの打鍵音。挽きたてのコーヒーの香りが混じった、淀んだ空気。
「鬼頭さん、おかえり! 大丈夫だった?」
「災難だったわね、無理しちゃダメよ」
同僚たちの善意に満ちた言葉に、夏夢は練習した通りの笑顔を返す。
「ただいま戻りました。ご心配おかけしました」
その言葉が、まるで台本を読んでいるかのように自分から切り離されて聞こえる。デスクに座り、新しいスマホを取り出した。昼休み。指を震わせながら、バックアップから復元されたアプリの一覧を眺める。そこには、あのアイコンがあった。
『インナーマッスルに届け!』
インストールは無事に終わった。けれど、そのアイコンをタップした瞬間に現れたのは、残酷なまでの無機質なダイアログだった。
【データを復旧できませんでした。新規ユーザーとして開始しますか? 】
「……」
何度やり直しても、結果は同じだった。かつて自分が育てた、あの筋肉の塊のような、不器用で、誰よりも真っ直ぐな教官。あちらの世界で、確かに自分の名前を呼び、涙を流してくれたグレン・シルフィード。
彼はもう、この画面のどこにもいない。新規作成の画面では、デフォルトのモデルが味気なく立っている。髪の色、目の色、声のトーン。似せることはできるだろう。けれど、それは「彼」ではない。夏夢は、逃げるようにスマホを伏せた。
その日の夜。自宅の狭いリビングで、夏夢はヨガマットを広げた。鏡に映る自分の姿は、事故の衝撃と入院生活で、以前より少しだけ痩せ細っている。肩のラインは落ち、かつての「ナツメ」として誇っていた筋肉の│張り《トーン》は失われつつあった。
───終わったんだ。
そう思おうとした。スマホが壊れ、データが消えた。それがこの恋の、この夢の、終わりの合図だったのだと。
「……ふぅ」
深く息を吸う。鼻から空気を入れ、腹部を360度膨らませる。そして、口から糸を吐くように、ゆっくりと吐き出す。
(腹圧……。腹横筋を引き締め、体幹を固定する)
意識を内側に向けると、暗闇の中から、あの低く、厳格な声が響いた気がした。
『力を入れるんじゃない。……“支える”んだ』
夏夢は、ハッとして目を開けた。そこには誰もいない。けれど、記憶の中のグレンは、かつてないほど鮮明に笑っていた。
(……生きてる。私の中に、まだ残ってる)
夏夢は足を肩幅に開いた。スクワット。股関節から折り、背骨のS字カーブを保ったまま重心を下げる。衰えかけた大腿四頭筋が、すぐに熱を持ち、悲鳴を上げる。
『膝が前に出すぎだ。……腰を引け。筋肉の叫びから逃げるな』
「……わかってます」
幻聴に向かって、夏夢は小さく返事をした。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。涙が視界を滲ませる。けれど、動きは止めない。
次は、プランク。前腕を床につき、身体を一直線の「板」にする。震える腕。逃げ出したくなるような乳酸の蓄積。
『呼吸を止めるな、ナツメ。……俺を見ろ。信じろ』
「……っ、ふ……う……っ!」
汗が、マットに滴り落ちる。苦しい。吐き気がするほど、筋肉が熱い。けれど、この苦痛だけが、あちらの世界で彼と生きた証だった。
「……グレン……」
名前を呼んでも、返事はない。硬い胸板に抱きしめられることも、あの無骨な手で頭を撫でられることも、もう二度とない。それでも、夏夢は最後までセットをやり切った。マットに崩れ落ち、肩で息をする。床に伝わる自分の鼓動。血管を駆け巡る血液の熱。スマホは壊れた。アプリも消えた。………けれど。
(……この身体だけは、ここに残ってる)
彼が鍛えてくれた、彼が教えてくれた、この「鬼頭夏夢」の身体。それは、いかなるデジタルデータよりも強固に、あの世界と繋がっていた。夏夢は、そばに置いていた壊れたスマホを、そっと胸に抱き寄せた。
「私……まだ、諦めないから」
誰に届くでもない誓いを、静かな部屋に落とす。立ち上がる。明日も、会社へ行く。明日も、重い身体を動かす。それが、絶望という名の│重圧を押し返す、彼女の最初の一歩だった。




