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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第2章 触れたい本音と教官の仮面【葛藤編】

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16.夢の終わりと触れられない現実

 冷たい。意識の底から這い上がってきたとき、最初に感じたのは、ヴァルキュリア・トレーニングアカデミーのあの熱気ではなかった。


 肌を撫でる空気は、消毒液の匂いを含んだ、ひどく無機質で乾燥した冷たさだった。次に感じたのは、重みだ。まぶたが、まるで鉛を流し込まれたように重い。筋肉の連動を意識して動かそうとしても、自分の身体ではないような、ひどい鈍痛と倦怠感が全身を支配している。


「……ん……っ」


 喉が焼けるようにひりつく。ゆっくりとまぶたを押し上げると、視界に飛び込んできたのは、見慣れない天井だった。ナツメの部屋の木目でも、ホールの高い石造りの天井でもない。均一で、のっぺりとした、蛍光灯の光を反射するだけの白い天井。


(……ジム……じゃない……?)


 その瞬間、心臓が警鐘を鳴らすように強く波打った。身体を起こそうとすると、左腕に鋭い違和感が走る。視線を落とせば、そこには透明なチューブ。点滴の液が、一定のリズムで自分の血管へと流れ込んでいた。


「……え……?」


 耳に届くのは、規則正しい電子音。カーテン越しに聞こえる、忙しげな足音と、誰かの話し声。どこからどう見ても、ここは───現代の「病院」の病室だった。




「気が付きましたか?」


 カーテンが静かに開き、白い制服を着た女性が顔を覗かせた。看護師だ。彼女は驚いたように目を見開くと、すぐに手元のナースコールへと手を伸ばした。


「先生!  302号室の鬼頭さんが意識を戻しました!」


 ――鬼頭。


 ――キトウ。


 その名前を耳にした瞬間、ナツメの……いや、彼女の脳内で何かが音を立てて崩落した。その名前は、あちらの世界で彼女が捨て去り、線を引いて消したはずの、前世の名前だった。


「……ナツメ……じゃ……ない……?」

「え?」


 看護師は不思議そうに首をかしげる。


「鬼頭夏夢さん、ですよね?  良かった……本当にもうダメかと思いましたよ。交通事故に遭ってから、一週間も目が覚めなかったんですから」


 一週間。


 言葉の意味が、脳を素通りしていく。一週間、ずっとここで寝ていた? では、あのアカデミーで過ごした日々は? グレンと出会い、共に汗を流し、筋肉を育て、そして――。


「……交通事故……?」

「覚えていませんか?  夜道でスマホを見ながら歩いていて、交差点で……。打ち所が悪くて、ずっと昏睡状態だったんですよ」


 フラッシュバック。雨の夜。手にしていたスマートフォンの画面。そこには、グレン・シルフィードの最新動画が映っていたはずだ。強い光。耳をつんざく急ブレーキの音。そして、すべてが断絶したあの日。現実が、逃げ場のない質量を持って、彼女の胸を押し潰す。




「……スマホ……」


 夏夢は、震える手で辺りを探った。


「スマホ!  ……グレン……教官……っ!」

「あ、落ち着いてください!  鬼頭さん!」


 看護師が慌てて彼女の肩を押さえる。けれど、夏夢は止まれなかった。あの中に、彼がいる。あの中に、自分があの世界へ繋がる唯一の扉があったはずなのだ。


『インナーマッスルに届け!』


 あの奇跡のようなアプリがあれば、またあのホールの空気を吸える。グレンの不器用な優しさに触れられる。


「……あの、私の……私のスマホは……どこですか!?」


 看護師は、痛ましいものを見るような目をして、視線を逸らした。


「……事故の際、車に踏まれてしまったようで。……もう、画面が粉々に壊れてしまっていたんです。警察から預かった遺留品の中に入っていましたが、修理も不可能だそうで……」

「……あ……」


 夏夢の指先から、力が抜けた。


 ───すべてが、終わった。


 連絡する手段も、彼の姿を見る手段も、そして、あの「ナツメ」として生きた日々を証明する手段さえも。この世界では、自分はただの「不注意で事故に遭った不運な女性」でしかない。グレン・シルフィードは、画面の中にさえ存在しない、ただのデータの残骸になってしまった。


「……そんな……嫌だ……」


 唇が震える。あの日。ナツメが意識を失う直前、グレンは確かに言ったのだ。『ダメなわけがないだろう、ナツメ』と。彼が初めて、鎧を脱いで、一人の男として自分を抱き締めてくれた。


「……恋人……だったんです……」


 誰に言うでもなく、夏夢は呟いた。看護師は困惑したように沈黙し、やがてそっとカーテンを閉めて立ち去った。病室に残されたのは、死のような静寂と、冷たい電子音だけだった。




 夏夢は、自分の右手を見つめた。ナツメの頃にあった、美しいマメや、引き締まった筋肉のライン。それはどこにもない。あるのは、点滴で青白く浮き出た血管と、一週間寝たきりで衰えた、細くて頼りない「鬼頭夏夢」の腕だけだった。


「……グレン、さん……」


 名前を呼んでも、返事はない。あの、重厚なホールの空気も。プロテインの混じった、少し埃っぽい匂いも。自分を追い込む時の、心臓が破けそうなほどの高揚感も。すべては───夢だったのか。


「……夢、なんかじゃない……」


 夏夢は、布団を握りしめた。あの時、頬に落ちた彼の熱い涙。自分の手首を掴んでいた、彼の大きな手の感触。あんなに痛くて、あんなに温かくて、筋肉の奥まで響くような「愛」が、脳が見せた幻覚であるはずがない。


 けれど、現実は無情だ。どんなに願っても、どんなに泣いても、この部屋のどこにも、銀髪の逞しい教官は現れない。


「……触れたい……って……言ってくれたのに……」


 夏夢は布団に顔を埋め、声にならない嗚咽を漏らした。二度と、あのホールには戻れない。二度と、彼と同じ朝を、違う名で迎えることはできない。恋をした。確かに、命を懸けて。そして───すべてを失った。一晩中、泣き続けた。




 朝、窓から差し込んできた光は、かつてナツメが愛した「トレーニングを始めるための光」ではなく、ただ、自分が生き延びてしまったことを突きつける残酷な光だった。


 夏夢は、ふらつく身体で立ち上がった。点滴のスタンドを杖代わりにし、窓際へ向かう。そこには、騒がしく車が行き交う、現代の街並みが広がっている。


(……もし、これが本当に終わりなら)


 彼女は、自分の胸元をそっと押さえた。筋肉は衰えてしまった。けれど、心拍の奥にある「正しい姿勢」を、魂はまだ覚えている。


(……グレン。私は、ここにいるよ)


 スマホは壊れた。アプリも消えた。けれど、彼が教えてくれた「生きるための意志」だけは、まだ自分の中に火を灯している。


 夏夢は、涙を拭った。たとえ、二度と会えないとしても。彼が愛してくれた「ナツメ」という人間の誇りを、この世界で捨ててはいけない気がした。


 静かな病室に、一歩、また一歩と、弱々しくも確かな足音が響く。それは、再びこの世界で立ち上がろうとする、一人の女性の「リハビリ」の始まりだった。

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