15.じれったい恋の限界点
朝から、世界が少しだけおかしかった。ナツメは更衣室のベンチに座り、シューズの紐を結び直していた。いつもなら一瞬で決まる左右の締め加減が、今日はどうにも定まらない。何度も結び直しているうちに、視界の端がわずかに歪むのを感じた。
「……寝不足、かな」
独り言が、冷たいタイルに吸い込まれる。思い当たる節しかなかった。ここ数週間、ナツメの眠りは驚くほど浅い。
目を閉じれば、ホールで自分を冷徹に見つめるグレンの瞳が浮かび、眠りに落ちれば、彼と対等に肩を並べて笑い合う、叶いそうで叶わない夢を見る。
(仕事、仕事、仕事。……そして、グレンさん)
考えないようにすればするほど、思考は迷宮に入り込む。
「一人前になれ」という彼の言葉は、自分への信頼だと分かっている。けれど、一人前になればなるほど、彼は自分から一歩、また一歩と遠ざかっていく。その「正しい距離」が、今のナツメにはどんな重いバーベルよりも過酷な│負荷となっていた。
「ナツメ、準備できた? もうすぐ朝礼よ」
アイナの声。ナツメは無理やり顔を上げ、鏡の中の自分に気合を入れた。
「はい、大丈夫です!」
立ち上がった瞬間、ふわり、と足元が浮いた。
「……?」
すぐに踏みとどまる。三半規管が一瞬だけ悲鳴を上げたようだったが、ナツメはそれを「気のせい」だと断じ、扉を開けた。
午前中の指導は、気力だけでこなした。ナツメのクラスには、多くの志願兵が集まっている。彼女の丁寧で、かつ妥協のない指導は、すでにアカデミー内でも評判になっていた。
「いいですね、脊柱のラインが綺麗です。その調子で!」
笑顔を作り、声を張る。けれど、その裏側で、ナツメの体力は急速に削られていた。身体が熱い。喉がひりつく。
遠くのパワーラックで、グレンが別の会員を指導しているのが見える。彼は相変わらず、一度もこちらを見ようとはしない。その徹底した「無視」という名の優しさが、今のナツメには冷たい刃のように刺さった。
(……見て。私、一人で頑張ってるよ。……褒めて、グレンさん)
昼前。最後のセッションは、高強度の体幹トレーニングのデモンストレーションだった。ナツメはホールの中心で、マットの上に四つん這いになる。
「……プランクに入ります。腹横筋に意識を集中させて。身体を一直線の『板』にするイメージです」
前腕とつま先で、己の体重を支える。いつもなら、石像のように微動だにせず維持できるフォーム。けれど。
(……揺れる)
視界が、ゆらりと波打った。床のタイルの模様が、まるで生き物のように蠢き始める。腹筋に力を入れようとしても、神経がうまく繋がらない。
「ナツメ先生、腕が震えてます……?」
会員の不安そうな声。
「……大丈夫、です。もう少し……」
その時。
「一度、休め」
ホールに、冷徹で、けれど抗いがたい響きを持つ声が轟いた。グレンだ。彼は、いつの間にかナツメのすぐ側に立っていた。
「……大丈夫、です。まだ、秒数が……」
「中止だ。命令だ、ナツメ」
グレンの声が、いつになく険しい。ナツメは意地でも顔を上げようとした。けれど、次の瞬間。
視界が、ぐにゃりと反転した。高い天井の装飾が、激流に飲まれるように歪み、白く発光する。
「……あ……せん、ぱい……」
言葉が、形にならない。膝から力が抜け、身体が重力に引き寄せられる。
――ガシャッ、と、大きな音がした。
けれど、それはナツメが床に叩きつけられた音ではなかった。
ナツメの身体を、猛烈な熱と、鋼のような剛性が受け止めた。グレンの腕だった。
「ナツメ! おい、しっかりしろ!」
名前を呼ばれる。その声は、これまで数週間、彼が頑なに演じてきた「冷徹な教官」のものではなかった。焦燥、恐怖、そして抑えきれない愛しさが混じり合った、剥き出しの――恋人の声。
「……あ、あは……」
ナツメは薄れゆく意識の中で、かすかに笑った。頬に触れる、彼のウェアの質感。鼻を突く、彼特有の清涼な香りと熱。
「……今の、呼び方……恋人、みたい、でした……」
グレンの身体が、一瞬、強張る。彼は、周囲に他のスタッフや会員がいることなど、もう微塵も気にしていないようだった。彼はナツメを「│横抱き《お姫様抱っこ》」にすると、誰にも口を挟ませないほどの気迫で命じた。
「休憩室を開けろ! アイナ、救急箱と氷を!」
「り、了解!」
アイナの走る足音。周囲のどよめき。けれど、ナツメにとって、世界はもうグレンの腕の中だけだった。彼が自分を運ぶたび、力強い鼓動が背中から伝わってくる。
「喋るな。すぐ休ませる」
低い、けれど必死に震えを抑えた声。ナツメは彼の首に、力なく手を回した。
(やっと……触れてくれた)
その事実が、意識の混濁を上回るほど、残酷なまでに嬉しかった。
休憩室のベッドに、ナツメはゆっくりと横たえられた。グレンは、彼女が眠りに落ちるのを許さないかのように、その手を強く握りしめたまま、すぐ側に膝をついている。
「……すみ、ません。……不甲斐、なくて……」
「謝るな、と言っただろう!」
グレンが吠えるように言った。その瞳は、赤く充血している。
「……無理をさせた。お前の限界を、見誤っていたのは俺だ。……自立させようと、一人前にしようと急ぐあまり、俺は……」
「……先輩」
ナツメは掠れた声で、彼の言葉を遮った。
「……距離、取りすぎ、です」
グレンは、息を呑んだ。
「仕事だって、プロにならなきゃいけないって、わかってます。……私だって、あなたの隣に、対等に立ちたい」
一拍。溜まっていた涙が、目尻から溢れ出し、白い枕を汚した。
「でも……恋人、なんですよね。……ただ、名前を呼んでほしかった。……一度だけでいいから、頑張ってるねって、触れてほしかった……。……それって、トレーナー失格、ですか……?」
沈黙。広い休憩室に、遠くのホールの喧騒と、二人の乱れた呼吸だけが響く。グレンは、俯いた。その大きな肩が、微かに震えている。彼は、ナツメの細い指を、折れてしまいそうなほど大切に、けれど力強く握りしめた。やがて、絞り出すような声が、彼の唇から漏れた。
「……失格なのは、俺の方だ。……お前を想う心が、俺の『正論』を、とうに追い越していた。……ダメなわけがないだろう、ナツメ」
その言葉を聞いた瞬間、ナツメの心の中にあったピンと張り詰めた糸が、ぷつりと切れた。
「……ああ……よかった……」
安心感が、濁流となって全身を駆け巡る。視界が完全に白く染まり、意識の輪郭が溶けていく。
「ナツメ! ナツメ!」
遠くで、彼が何度も自分の名前を呼んでいる。「教官」でも「先輩」でもない、ただの一人の男としての、悲痛な叫び。
(……これで、いい)
意識が深い闇に落ちる直前、ナツメは確かに感じた。頬を撫でる、彼の無骨な掌。そこに落とされた、一滴の、熱い雫。
触れてくれた。本音を、聞けた。もう、これ以上、強くならなくてもいい気がした。ナツメは、彼の温もりにすべてを委ね、深い、深い眠りへと沈んでいった。




