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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第2章 触れたい本音と教官の仮面【葛藤編】

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14.触れない優しさ、触れたい本音

 深夜、会員の去った後のトレーニングホール。グレンは一人、パワーラックに向き合っていた。180kgのバーベルが、背負った肩に重く食い込む。スクワット。深く腰を落とし、大腿四頭筋が悲鳴を上げる限界点で静止する。そこから一気に、爆発的な力で床を押し返す。


 ───集中しろ。


 自分に言い聞かせるが、思考のノイズは消えない。脳裏に焼き付いているのは、昼間のナツメの姿だ。高齢の会員の手を優しく取り、そっとフォームを修正していたあの指先。会員が目標を達成した瞬間に見せた、太陽のような弾ける笑顔。


(……あんな顔、俺の前ではしなくなった)


 グレンはバーベルをラックに戻し、荒い呼吸を整えた。自分が見守るたびに、彼女の表情は引き締まり、「後輩」としての完璧な仮面を被る。それは自分が求めた「正しい距離」の結果であり、彼女の成長の証だ。


 けれど、その成長と引き換えに、彼女の瞳から「甘え」という光が消えていく。それが、自分の胸をこれほどまでに抉るとは思わなかった。




「……追い込みすぎよ、グレン」


 背後からアイナの声がした。彼女は備品のチェックリストを片手に、呆れたように首を振っている。


「いつも通りだ。心肺機能の強化にすぎない」

「嘘。あんた、ナツメちゃんのことで頭がいっぱいで、無意識に自分を痛めつけてるだけでしょ」


 心臓の奥を射抜かれたような気がして、グレンはタオルを手に取り、顔を覆った。


「……業務に私情を挟むつもりはない。彼女は今、重要な成長期にいる。俺が中途半端に手を貸せば、彼女の自立を阻害する」

「守ってるつもり?」


 アイナの声に、隠しきれない苛立ちが混じる。


「あんたが『触れない』ことで、あの子がどれだけ不安になってるか分かってるの?  育てると愛するを、どうしてそう極端に分けるわけ?」

「……俺には、不器用な接し方しかできない」


 グレンはタオルを下ろし、暗いホールの隅を見つめた。


「甘やかせば、彼女は自分を疑う。教官に気に入られているから評価されているのだと、そう思わせてはいけない。……彼女の実力は、本物だ。だからこそ、誰にも文句を言わせない強さを手に入れさせたい」

「……臆病ね、本当に」


 アイナは溜息をつき、彼の肩をポンと叩いた。


「でもね、グレン。筋肉だって、ただ追い込むだけじゃ大きくならないわ。適切な『休息』と『栄養』――つまり、あんたの愛情がないと、あの子、いつか折れちゃうわよ」




 翌日、ジムのフロア。グレンは意識的にナツメから離れた位置で、指導を行っていた。サブアリーナから聞こえる、ナツメの張りのある声。


「はい、あと一回!  逃げないで、自分を信じて!」


 その声を聞くたび、グレンの口角が無意識に緩みそうになる。


(……いい声だ。以前よりも、腹の底から声が出ている)


 ふとした瞬間に、ナツメと視線がぶつかった。距離にして10メートル。ナツメの瞳が一瞬だけ揺れ、潤んだような熱を帯びる。何事かを訴えかけるような、切実な眼差し。


 ───触れたい。


 グレンの指先が、無意識にピクリと動く。駆け寄って、その細い肩を抱き寄せ、「よくやっている」と声を殺して囁きたい。彼女が一人で戦っている孤独を、すべて自分の胸の中に吸い取ってやりたい。


 けれど、グレンはすぐに視線を逸らした。ここで微笑み返せば、彼女は「後輩」としての緊張感を解いてしまうだろう。それは、彼女が必死に築き上げている「プロとしての自負」を崩すことになる。


(待て。今はまだ、その時ではない……)




 仕事が終わり、ナツメは重い足取りで更衣室へと消えていった。グレンは、彼女に声をかけることもなく、一人で事務所の書類を整理し続ける。窓の外は、すでに深い夜の色に染まっていた。書類の文字を追いながら、グレンは自分の掌を見つめる。


 昨日、倉庫の死角で一瞬だけ触れた彼女の体温。細い手首。必死に耐えている、震える肩。


「……ナツメ」


 名前を呼ぶだけで、喉の奥が熱くなる。触れないのは、彼女の可能性を信じているから。距離を置くのは、彼女が自分の足で「頂上」にたどり着く日を待っているから。


 それが自分の「優しさ」だと信じている。だが、その優しさは、同時に彼女を孤独の底に突き落としているのではないか。


「……俺は、間違っているのか」


 答えは出ない。筋肉の鍛錬には明確な答えがあるが、心にはマニュアルがない。




 更衣室から出てきたナツメが、事務室の前を通り過ぎる気配がした。グレンは顔を上げなかった。ただ、彼女の足音が遠ざかるのを、心拍数でカウントしながら聞き届ける。


 ――1、2、3……


 彼女が一人で歩む夜道。その孤独こそが、いつか彼女を無敵のトレーナーへと変える。そして、対等なパートナーとして自分の隣に立つための、避けては通れない「減量期」なのだ。グレンは拳を強く握り、湧き上がる「本音」を胸の奥深くに押し込めた。


(いつか、すべてが終わった時。……今日、触れなかった分まで、お前を甘やかすと誓おう)


 今はまだ、触れない優しさを貫く。それが、不器用な男が選んだ、最高に重く、最高に切ない愛情の形だった。ナツメが去った後の静かなジムに、グレンの深く、重い吐息だけが残された。

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