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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第2章 触れたい本音と教官の仮面【葛藤編】

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12.恋人禁止区域

 ヴァルキュリア・トレーニングアカデミーのスタッフルーム入り口に、その白い紙は貼られていた。


 《業務中、私的関係の持ち込み厳禁。トレーナーの品位を保つこと》


 ナツメはその前で一瞬、呼吸を止めた。昨日、グレンと「ヤキモチを焼いてしまう自分たち」を認め合い、心を通わせたばかりだ。まるでその余韻を冷たい水で洗い流すような、無機質な明朝体。


(……見透かされてるみたい)


「ナツメ、朝ミーティングよ。顔が怖い」 


 アイナの声に肩を揺らし、ナツメは慌てて表情を作った。

 ミーティングの円陣。その対角線上に、グレンが立っている。彼はいつものように、アイロンの効いた清潔なウェアを纏い、彫刻のような無表情で資料を見つめていた。


「最近、一部の会員から『トレーナー同士の距離が近すぎる』との指摘があった」


 アカデミーの責任者である老トレーナーの声が、静かな部屋に響く。


「我々の仕事は、筋肉と魂の鍛錬を補助することだ。そこに甘えや私情が混じれば、それは指導ではなく、ただの馴れ合いになる。規律を乱す者は、たとえエリートでも容赦しない」


 ナツメは指先をぎゅっと握りしめた。視線を上げると、一瞬だけグレンと目が合った。


 けれど、彼はすぐに氷のような無機質な眼差しで前を向き、短く「了解しました」と答えた。その瞬間、ナツメは理解した。彼は今日から、完璧な「壁」になるつもりなのだと。




 トレーニングが始まると、ホールの空気は一変した。グレンは徹底していた。ナツメが重いダンベルを運んでいても、彼は手助けをしない。近くを通る時も、挨拶以外の言葉を交わさない。ナツメが会員に指導している最中、グレンは一度もこちらを見ることなく、ただ背後を通り過ぎていく。


(……分かってる。これが正しいんだよね)


 ナツメは自分に言い聞かせ、会員のデッドリフトを補助した。


「腰を入れすぎないで。腹圧で支えて……そうです、いいフォームです!」


 声は張っている。熱意も込めている。けれど、心の一部が砂漠のように乾いていく感覚があった。昼前、共有のツールボックスを整理していると、グレンが背後に立った。心臓が跳ね、指先が震える。


「ナツメ。午後の合同セッションのプログラム、一部変更だ。お前はB班の補助に回れ」

「……はい、承知しました」


 会話は、それだけ。グレンの瞳には、昨夜の甘い熱など微塵も残っていない。彼はナツメを「愛する女性」としてではなく、単なる「代替可能な若手スタッフ」として扱っているように見えた。


 視線も合わせず去っていく彼の背中を見つめながら、ナツメは胸の奥が、ぎりぎりと締め付けられるのを感じた。




 午後のサーキットトレーニング。複数の会員を同時に追い込む過酷なプログラムだ。ナツメは、B班のデモンストレーターとして、自らもハードな動きを繰り返す。


「あと十秒!  筋肉の叫びに耳を貸さないで!」


 声を張り上げる。自分の太腿が乳酸で熱を持ち、視界がチカチカと点滅し始める。昨夜の情緒的な混乱と、今日の張り詰めた緊張感。精神的な疲労が、肉体の限界を早めていた。


 最後のセット、高強度のプランク・プッシュアップ。腕が震える。床に汗が滴り落ちる。


(……負けたくない。ここで倒れたら、彼に『私情で動いている』と思われる……!)

「ナツメ」


 不意に、真上から低い声が降ってきた。いつの間にか、グレンが横に立っていた。


「無理をするな。フォームが崩れている。……交代しろ」

「……大丈夫、です。まだ、いけます」


 ナツメは歯を食いしばり、床を押し返した。けれど、その瞬間、視界がぐらりと揺れた。


(あ――)


 膝をつきそうになった身体を、強い気配が包む。けれど、グレンはナツメを支えなかった。彼はあえて数センチの距離を保ったまま、鋭い声で言い放った。


「トレーナーが自分の限界を見誤り、怪我をしてどうする。……下がれ。これは命令だ」


 冷徹な「命令」。その一言が、ナツメの心に深く突き刺さった。周囲の会員たちが、何事かとこちらを見ている。グレンはナツメを一瞥もせず、すぐに別のスタッフに指示を出し始めた。


 触れられない。助けてもらえない。ただの「同僚」としての、冷たい正論だけが残る。ナツメは震える足で、バックヤードへと退いた。




 ジムの片付けが終わり、夜の帳が下りる頃。ナツメは誰もいないマットの上に、一人座り込んでいた。


「……恋人、禁止区域」


 呟いた言葉が、高い天井に虚しく吸い込まれていく。仕事中はプロとして振る舞う。それは当たり前だ。けれど、この「完璧な壁」の向こう側にいるグレンに、どうやって手を伸ばせばいいのか分からなかった。


(彼は、私を嫌いになったわけじゃない。……守ろうとしてるんだよね。この場所を、私の立場を)


 分かっている。分かっているけれど。スマホを握りしめても、メッセージの一通も送れない。彼だって、この「禁止区域」を自ら厳格に守っているのだから。スタッフルームを出ようとした時、廊下の暗がりに大きな影があった。


「……あ」


 グレンだった。彼は壁に背を預け、腕を組んで立っていた。ナツメが近づくと、彼は静かに視線を向けた。


「……ナツメ。午後の指導、後半は立て直していたな。評価する」

「……ありがとうございます」


 ナツメは、彼の横を通り過ぎようとした。これ以上、彼の「正しい言葉」を聞くのは辛かった。


 ───その時。


「……一分だ」

「え?」


 グレンが、ナツメの手首を掴んだ。指先の熱が、吸い付くように伝わる。彼はナツメをスタッフルーム横の、監視カメラの死角になる狭い倉庫へと引き入れた。積み上げられたマットと重りの匂いがする、狭い暗闇。


「……グレン、さん」

「……禁止区域なのは、分かっている。……だが、今日のお前の顔は、あまりにも……」


 グレンの声が、微かに掠れていた。彼はナツメの肩に額を預け、深く息を吐き出す。




「……限界なのは、俺の方だ。お前が目の前で苦しんでいるのに、手を貸すことも、励ますこともできない」


 その大きな手が、ナツメの背中を、服の上からぎゅっと握りしめる。


「……耐えろ、ナツメ。この場所を離れたら、……誰にも文句は言わせない」

「……っ、はい……」


 一分にも満たない、暗闇での抱擁。けれど、その間に伝わってきた彼の心臓の音は、今日一日の孤独な戦いをすべて帳消しにするほど、熱く、切実だった。グレンはすぐに手を離し、元の無表情な教官に戻った。


「……先に帰れ。夜道に気をつけろ」

「はい。……お疲れ様でした、グレン教官」


 ナツメは少しだけ、晴れやかな気持ちでスタッフルームを後にした。禁止区域の壁は、依然として高く、冷たい。けれど、その壁の隙間で、二人は誰にも見えない「秘密のバルクアップ」を始めている。恋人であることが、これほどまでに重く、苦しく、そして――愛おしい。


 ナツメは、貼り出された警告文をもう一度だけ見つめ、夜の街へと歩き出した。

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