06.またひとり…
「はぁ……」
重苦しい溜息が、夜の静かなリビングに落ちた。テーブルの上に放り出されたのは、先日届いたばかりの健康診断の結果表だ。昼白色のライトの下、いくつかの項目に刻まれた「要再検査」の赤い文字が、やけに鋭く目に刺さる。
「……わかってるんだけどなぁ」
誰に言い訳するでもなく呟き、ソファに深く身体を沈める。最近は階段を上るだけで動悸がし、デスクワークの後は石のように肩が重い。運動不足なのは百も承知だ。けれど、これまでの経験上、高額なジムも、ストイックなランニングも、一週間と続いた試しがない。「頑張れ」と言われれば言われるほど、心が先に悲鳴を上げて折れてしまうのだ。
「運動……無理しない……続かない人向け……」
半ば自嘲気味に、スマートフォンの検索欄へ投げやりに文字を打ち込む。スクロールする指が、ふと見慣れないアイコンの前で止まった。
───整えるだけ。
───整えば、結果は勝手についてくる。
「……嘘くさい。そんなに甘いわけないだろ」
鼻で笑いながらも、なぜかその柔らかな色彩のアイコンから目が離せない。怪しいと思いながらも、何かに導かれるように、指が画面をタップしていた。画面が切り替わり、淡い、心地よい光が広がる。
『インナーマッスルに届け!
───あなたの身体を、無理なく、等身大に整えます』
次の瞬間、確認のダイアログが浮かび上がる。
『「インナーマッスルに届け!」をインストールしますか?』
【はい】 【いいえ】
一瞬の逡巡。どうせまた、すぐに放り出すかもしれない。けれど、今この瞬間、何かが変わる予感がした。
「……ええい、ままよ」
指が【はい】を選び、画面上のインジケーターが静かに進み始める。
別の場所。無数の世界を映し出すモニターが並ぶ、あの静かな部屋。ひとつの画面が、水面に石を投じたときのような柔らかな波紋を描き、輝きを増した。古びた椅子に座る老トレーナーが、それを見て深く、満足げに頷く。
「……またひとり、じゃな」
背後に立つ老婦人も、慈しみに満ちた微笑みを浮かべた。
「ええ。必要な人の元へ、ちゃんと届いたわ」
モニターの中では、新しい利用者が、戸惑いながらもスマートフォンの画面をじっと見つめている。その画面の向こう側では、まだ名前も知らない教官たちが、それぞれのやり方で彼を迎える準備を整えていた。呼吸を整えること。
自分を否定せず、ただ続けること。そして、自分の身体を愛せるようになること。それを共に歩んでくれる誰かが、またひとり、新たな縁によって選ばれたのだ。老トレーナーは、祝福を送るように目を細める。
「よい……実によい流れじゃ。筋肉は、決して人を裏切らん」
老婦人が、そっと彼の肩に寄り添った。
「物語は、終わらないのよ。人がいる限り。身体があり、健やかでありたいと願う想いがある限り……ね」
画面の向こうで、誰かの新しい人生の一歩が、静かに、けれど確かな重みを持って踏み出される。
───またひとり、必要な人の元へ。
『インナーマッスルに届け!』は、今日も静かに、世界へと届いていく。




