02.整える知識、支える覚悟
夜の書斎は、静謐な空気に包まれていた。机に広げられているのは、解剖学の図解と栄養学の分厚い参考書。ページの余白には、付箋と細かな書き込みがびっしりと並んでいる。フウカはタッチペンを置き、凝り固まった肩を回して深く息を吐いた。
(……あと、少し)
ブルーライトで目の奥が熱い。けれど、この疲れは不思議と心地よかった。かつて自分の体型に絶望していた頃の、あの逃げ場のない重苦しさとは違う。今は、明確な「目的」があるから。
「……まだ起きていたのか」
背後から、低く落ち着いた声がした。アッシュだ。
「うん。消化吸収と代謝のメカニズムが、どうしても曖昧で……」
フウカは椅子を回し、開いたページを指差す。
「アッシュさんの指導を受ける人って、筋肉を“肥大させる”より“整えて保つ”ことを望む人が多いでしょう? だから、ヨガやピラティスの動きと連動させて、内側から回復を早める栄養素を提案したいの。極端な制限は、逆効果だから」
アッシュは、彼女の熱のこもった説明を黙って聞き、その書き込まれたノートに視線を落とした。
「……随分、遠くまで来たな」
「だって」
フウカは照れ隠しに小さく笑った。
「あなたの隣で、胸を張って誰かを支えたいんだもの。……あなたのフォロー、私にさせて?」
アッシュは一瞬、言葉を失ったように瞬きをした。それから、大きな手がフウカの頭にそっと置かれる。
「……ああ。頼りにしている」
試験当日。会場の重苦しい空気の中、フウカは何度も心の中で反芻していた。
(大丈夫。焦らず、整えるだけ。いつも通り、深く呼吸して───)
それは、かつてアッシュが、パニックになりそうだった彼女の背中に手を添えて教えてくれた言葉。今はその教えが、彼女自身の血肉となって支えてくれていた。
───結果発表の日。タブレットの画面を確認した瞬間、フウカの呼吸が止まった。
「あ……」
指先が微かに震える。隣に立つアッシュの、硬く鍛えられた腕を思わず掴んでいた。
「……あった。受かってる……!」
「……そうか」
「アッシュさん、合格です……! 私、管理栄養士に……!」
言い終わるより早く、アッシュの腕が彼女を強く引き寄せた。以前のような指導官としての「支え」ではない。一人の男としての、熱を帯びた、確かな抱擁。
「よかった……本当によく頑張ったな、フウカ」
フウカは彼の胸元に顔を埋め、こらえきれずに小さく鼻を鳴らした。アッシュの服越しに伝わる鼓動が、自分のものと重なっていくのを感じる。
「これで……少しは、あなたの役に立てるかな?」
「……いや」
アッシュは彼女の肩を抱いたまま、静かに首を振った。
「資格があるからじゃない。フウカが隣にいてくれるだけで、俺はもう、十分すぎるほど救われているんだ」
ジムに戻った二人の連携は、会員たちの間で「魔法のようだ」と噂になった。アッシュが骨格と動作をミリ単位で整え、フウカがその身体を内側から作り変える食事と回復をプランニングする。
無理な減量も、悲鳴を上げるような酷使もない。けれど、会員たちの身体は、花が開くように確実に、健やかに変わっていった。
「不思議ですね」
午後の陽光が差し込むスタジオで、フウカが呟く。
「前は、“変わらなきゃ、頑張らなきゃ”って自分を追い詰めてばかりだったのに」
「今はどうだ?」
フウカは、マットの上でしなやかに手足を伸ばす会員たちを見つめ、微笑んだ。
「……“このままの自分で、ずっと続けられる”って、そう思えるんです」
アッシュはその横顔を眩しそうに見つめ、頷いた。
「それでいい。派手な増強よりも、静かな継続。それが、一番強い筋肉になる」
夜、ジムの灯りが落ちる。並んで歩く帰り道、フウカはふと思い出したように、隣の男に問いかけた。
「ねえ、アッシュさん。私……ちゃんと、あなたの隣に立ててますか?」
アッシュは足を止め、月明かりの下で彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「最初から、ずっとだ。……これからも、俺の隣は、お前がいい」
静かな夜。「支える」という選択をした彼女の手を、アッシュは力強く、けれどこの上なく優しく握り返した。




