11.ヤキモチは筋肉より重い
ヴァルキュリア・トレーニングアカデミーの午後は、一日の中で最も熱を帯びる。重しが触れ合う金属音、床を叩く足音、そして人々の荒い呼吸。そのすべてが混ざり合い、独特の「重奏」を作り出している。ナツメは受付の端で、予約表を確認しながらも、視線は磁石に引き寄せられるようにホールの中心部へと向かっていた。そこには、巨大なパワーラックの前で、一人の女性会員にスクワットの指導を行うグレンの姿がある。
「膝が内側に入っている。親指の付け根でしっかり床を捉えろ」
グレンの声は、騒がしいホールの中でも驚くほど明瞭に響く。彼は女性の背後に回り、正しいフォームへ導くために、彼女の腰の外側にそっと両手を添えた。
――あ。
ナツメの胸の奥で、鉛を飲み込んだような、重く、鈍い感覚が広がった。理性では理解している。あれは「シルフィード教官」としての正しい業務だ。腰の安定を確認し、怪我を防ぐための補助。自分だって、男性会員の背中や腕に触れて指導することもある。この場所では、筋肉と骨格の対話こそがすべてであり、性別など二の次のはずだ。けれど。
(私には、あんなふうに自然に触れないのに)
昨日のフォーム確認の時、彼はあんなに頑なに「線引き」を強調し、ナツメに触れる指先さえ事務的に徹していた。なのに、今はどうだ。その会員女性が「重いです〜!」と笑いながら上体を揺らすと、グレンはわずかに口角を上げ、柔らかい表情を見せた。
ナツメの知らない、グレン。自分にだけ向けられると思っていた「特別」な空気。それが、仕事という大義名分の下で、いとも簡単に他者に分け与えられているのを見て、心が激しくささくれた。
「ナツメ、どうしたの? 鏡と睨めっこして」
アイナの声で、ナツメは弾かれたように我に返った。
「あ……いえ、なんでもありません。次の会員さん、入ります」
「そう? なんだか、スクワット100回やった後みたいな顔してるわよ」
アイナの冗談を笑い飛ばす余裕もなかった。ナツメは逃げるように、担当する会員の元へと向かった。けれど、一度乱れた心の「軸」は、そう簡単には戻らない。
「……はい、次はランジです。足を大きく前に」
声を出す。いつも通り、明るく、正確に。そう努めているつもりなのに、視線は勝手にグレンの方へと流れてしまう。彼が女性会員のバーベルを預かる。その時、ふっと指先が触れ合う。女性がまた楽しそうに何かを言い、グレンが頷く。
(集中、しなきゃ……)
「ナツメ先生? ここから、どうすればいいですか?」
会員の声に、ナツメはハッとした。
「あ、すみません。……もう少し、腰を落として」
「えっ……でも、さっきはこの高さでいいって……」
「バランス、崩れてます!」
自分でも驚くほど、鋭い声が出た。会員がびくりと肩を揺らす。その戸惑った顔を見て、ナツメは血の気が引くのを感じた。
「……申し訳ありません。もう一度、やり直しましょう」
取り繕おうとすればするほど、胸の奥のざわつきは増していく。
───ヤキモチ。
そんな醜い感情を、この神聖なトレーニングホールに持ち込んでいる自分が、情けなくて仕方がなかった。
「ナツメ」
セッションの合間、背後から投げかけられた鋼のような声。振り返ると、そこにはいつもの冷徹な表情に戻ったグレンが立っていた。
「……グレン、先輩」
「少しいいか」
有無を言わせぬ気配で、二人は人気のないストレージエリアへと移動した。グレンは腕を組み、高い位置からナツメを見下ろした。その瞳は、先ほどの女性会員に向けていたものとは対極にある、厳しい「教官」のものだった。
「今日の指導は、何だ。指示が雑だ。会員が混乱している」
「……すみません」
「謝るな。理由を言え」
ナツメは唇を噛んだ。
(言えるわけがない。「あなたが他の女の人と楽しそうにしていたから、頭が真っ白になりました」なんて……!)
「……体調管理の不足です。以後、気をつけます」
沈黙が流れる。グレンは、ナツメの嘘を見抜くように、その顔をじっと見つめた。やがて、彼は重苦しい溜息をつき、一歩、ナツメに近づいた。
「ナツメ。以前も言ったはずだ。感情を仕事に持ち込むな」
その声は低く、そして冷たい。
「それがプロだ。……俺と、お前がどういう関係であろうと、このホールの床に足を置いた瞬間から、お前はトレーナーでなければならない」
突き放すような言葉に、ナツメは泣き出しそうなのを必死で堪えた。
「……はい。その通りです」
「分かればいい。持ち場に戻れ」
グレンはそれだけ言うと、一瞥もくれずに立ち去った。残されたナツメは、拳をぎゅっと握りしめる。
プロ。正論だ。あまりにも、正しい。けれど、その正しさが、今のナツメにはどんな高重量のダンベルよりも重く、心にのしかかった。
夕方、ホールに会員の姿がまばらになった頃。ナツメは誰もいない女子ロッカーのベンチで、一人座り込んでいた。
「私、最低だ……」
タオルで顔を覆い、独り言が漏れる。嫉妬して、仕事をおろそかにして、彼に叱られて。
「恋人」になったからといって、すべてが上手くいくわけじゃない。むしろ、近くなったからこそ、今まで見えなかった「差」や「壁」が、より鮮明に自分を苦しめる。パタン、とロッカーの扉が開く音がした。
「……ナツメ」
顔を上げると、そこにグレンがいた。男子ロッカーとの仕切りがあるはずだが、ここは関係者以外立ち入り禁止の時間帯だ。
「……グレン、先輩」
グレンは、少し迷うような素振りを見せた後、ナツメの隣に腰掛けた。重みでベンチがわずかに沈む。彼の体温が、すぐ横から伝わってくる。
「……さっきは、言い過ぎたかもしれない」
珍しく、彼の声に迷いがあった。
「……いえ、言われたことはすべて事実ですから」
「……だが」
グレンは視線を正面の壁に向けたまま、不器用に言葉を継いだ。
「……俺は、誰にでも同じだ。教官として、会員に接する態度は一定でなければならない」
ナツメは、胸がズキリと痛むのを感じた。
(同じ……なのね。やっぱり)
「……はい。わかっています」
「違う」
グレンが、初めてナツメの方を向いた。その瞳には、先ほどの冷徹さはなかった。代わりに、戸惑いと、不器用な情愛が混じり合っている。
「……誰にでも同じ態度で接しなければ、お前への『特別』を隠し通せなくなるからだ」
「……え?」
「他の会員に触れる時、私は心の中で、筋肉の構造だけを数えている。そうしなければ……隣でお前が誰かを指導している気配だけで、俺は指導の手を止めて、お前を連れ出したくなる」
グレンは大きな手で顔を覆い、低く唸った。
「……プロとして、情けない。ヤキモチを焼いているのは、俺の方だ」
予想もしなかった告白に、ナツメは呆然とした。あの、完璧だと思っていたグレンが、自分と同じように醜い嫉妬に、そして「プロ意識」との葛藤に苦しんでいたなんて。
「……グレン、さん」
「……これ以上、私を甘えさせるな。仕事ができなくなる」
そう言いながらも、グレンはナツメの肩を抱き寄せ、その大きな胸の中に彼女を閉じ込めた。抱きしめられる強さに、彼の心の乱れが伝わってくる。
「……ヤキモチって、筋肉みたいに鍛えれば消えるものだと思ってました」
ナツメは、彼の胸板に顔を埋めたまま呟いた。
「いや、無理だ」
グレンはナツメの頭を優しく撫でる。
「これは、鍛えれば鍛えるほど……想いが強くなればなるほど、重くなる一方だ」
その重さは、苦しいけれど、どこか誇らしくもあった。自分だけが苦しんでいるわけじゃない。この強靭な男もまた、自分という存在に振り回され、必死に「正しさ」を保とうとしている。
「……明日も、ヤキモチ焼いちゃうかもしれません」
「……その時は、また叱る。そして、こうして二人きりの時に、埋め合わせをする」
グレンはそう言うと、ナツメの額に深く、長いキスをした。
恋人であり、後輩であり、ライバルでもある。二人の関係は、まだ「│バルクアップ《増量》」の途中だ。
痛みを知り、重さを知り、それでもなお、お互いへの想いを積み重ねていく。ナツメは、グレンの背中に手を回し、その確かな質量を感じた。
ヤキモチは、確かに筋肉より重い。けれど、それを一緒に背負ってくれる人がいるなら、この重ささえも、愛おしい勲章に思えた。
ヴァルキュリア・トレーニングアカデミーに夜が訪れる。二人の鼓動は、静かなホールに、これまでで一番深く、重く響いていた。




