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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第2章 触れたい本音と教官の仮面【葛藤編】

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11.ヤキモチは筋肉より重い

 ヴァルキュリア・トレーニングアカデミーの午後は、一日の中で最も熱を帯びる。重しが触れ合う金属音、床を叩く足音、そして人々の荒い呼吸。そのすべてが混ざり合い、独特の「重奏」を作り出している。ナツメは受付の端で、予約表を確認しながらも、視線は磁石に引き寄せられるようにホールの中心部へと向かっていた。そこには、巨大なパワーラックの前で、一人の女性会員にスクワットの指導を行うグレンの姿がある。


「膝が内側に入っている。親指の付け根でしっかり床を捉えろ」


 グレンの声は、騒がしいホールの中でも驚くほど明瞭に響く。彼は女性の背後に回り、正しいフォームへ導くために、彼女の腰の外側にそっと両手を添えた。


 ――あ。


 ナツメの胸の奥で、鉛を飲み込んだような、重く、鈍い感覚が広がった。理性では理解している。あれは「シルフィード教官」としての正しい業務だ。腰の安定を確認し、怪我を防ぐための補助。自分だって、男性会員の背中や腕に触れて指導することもある。この場所では、筋肉と骨格の対話こそがすべてであり、性別など二の次のはずだ。けれど。


(私には、あんなふうに自然に触れないのに)


 昨日のフォーム確認の時、彼はあんなに頑なに「線引き」を強調し、ナツメに触れる指先さえ事務的に徹していた。なのに、今はどうだ。その会員女性が「重いです〜!」と笑いながら上体を揺らすと、グレンはわずかに口角を上げ、柔らかい表情を見せた。


 ナツメの知らない、グレン。自分にだけ向けられると思っていた「特別」な空気。それが、仕事という大義名分の下で、いとも簡単に他者に分け与えられているのを見て、心が激しくささくれた。




「ナツメ、どうしたの?  鏡と睨めっこして」


 アイナの声で、ナツメは弾かれたように我に返った。


「あ……いえ、なんでもありません。次の会員さん、入ります」

「そう?  なんだか、スクワット100回やった後みたいな顔してるわよ」


 アイナの冗談を笑い飛ばす余裕もなかった。ナツメは逃げるように、担当する会員の元へと向かった。けれど、一度乱れた心の「軸」は、そう簡単には戻らない。


「……はい、次はランジです。足を大きく前に」


 声を出す。いつも通り、明るく、正確に。そう努めているつもりなのに、視線は勝手にグレンの方へと流れてしまう。彼が女性会員のバーベルを預かる。その時、ふっと指先が触れ合う。女性がまた楽しそうに何かを言い、グレンが頷く。


(集中、しなきゃ……)


「ナツメ先生?  ここから、どうすればいいですか?」


 会員の声に、ナツメはハッとした。


「あ、すみません。……もう少し、腰を落として」

「えっ……でも、さっきはこの高さでいいって……」

「バランス、崩れてます!」


 自分でも驚くほど、鋭い声が出た。会員がびくりと肩を揺らす。その戸惑った顔を見て、ナツメは血の気が引くのを感じた。


「……申し訳ありません。もう一度、やり直しましょう」


 取り繕おうとすればするほど、胸の奥のざわつきは増していく。


 ───ヤキモチ。


 そんな醜い感情を、この神聖なトレーニングホールに持ち込んでいる自分が、情けなくて仕方がなかった。




「ナツメ」


 セッションの合間、背後から投げかけられた鋼のような声。振り返ると、そこにはいつもの冷徹な表情に戻ったグレンが立っていた。


「……グレン、先輩」

「少しいいか」


 有無を言わせぬ気配で、二人は人気のないストレージエリアへと移動した。グレンは腕を組み、高い位置からナツメを見下ろした。その瞳は、先ほどの女性会員に向けていたものとは対極にある、厳しい「教官」のものだった。


「今日の指導は、何だ。指示が雑だ。会員が混乱している」

「……すみません」

「謝るな。理由を言え」


 ナツメは唇を噛んだ。


(言えるわけがない。「あなたが他の女の人と楽しそうにしていたから、頭が真っ白になりました」なんて……!)


「……体調管理の不足です。以後、気をつけます」


 沈黙が流れる。グレンは、ナツメの嘘を見抜くように、その顔をじっと見つめた。やがて、彼は重苦しい溜息をつき、一歩、ナツメに近づいた。


「ナツメ。以前も言ったはずだ。感情を仕事に持ち込むな」


 その声は低く、そして冷たい。


「それがプロだ。……俺と、お前がどういう関係であろうと、このホールの床に足を置いた瞬間から、お前はトレーナーでなければならない」


 突き放すような言葉に、ナツメは泣き出しそうなのを必死で堪えた。


「……はい。その通りです」

「分かればいい。持ち場に戻れ」


 グレンはそれだけ言うと、一瞥もくれずに立ち去った。残されたナツメは、拳をぎゅっと握りしめる。


 プロ。正論だ。あまりにも、正しい。けれど、その正しさが、今のナツメにはどんな高重量のダンベルよりも重く、心にのしかかった。




 夕方、ホールに会員の姿がまばらになった頃。ナツメは誰もいない女子ロッカーのベンチで、一人座り込んでいた。


「私、最低だ……」


 タオルで顔を覆い、独り言が漏れる。嫉妬して、仕事をおろそかにして、彼に叱られて。


「恋人」になったからといって、すべてが上手くいくわけじゃない。むしろ、近くなったからこそ、今まで見えなかった「差」や「壁」が、より鮮明に自分を苦しめる。パタン、とロッカーの扉が開く音がした。


「……ナツメ」


 顔を上げると、そこにグレンがいた。男子ロッカーとの仕切りがあるはずだが、ここは関係者以外立ち入り禁止の時間帯だ。


「……グレン、先輩」


 グレンは、少し迷うような素振りを見せた後、ナツメの隣に腰掛けた。重みでベンチがわずかに沈む。彼の体温が、すぐ横から伝わってくる。


「……さっきは、言い過ぎたかもしれない」


 珍しく、彼の声に迷いがあった。


「……いえ、言われたことはすべて事実ですから」

「……だが」


 グレンは視線を正面の壁に向けたまま、不器用に言葉を継いだ。


「……俺は、誰にでも同じだ。教官として、会員に接する態度は一定でなければならない」


 ナツメは、胸がズキリと痛むのを感じた。


(同じ……なのね。やっぱり)


「……はい。わかっています」

「違う」


 グレンが、初めてナツメの方を向いた。その瞳には、先ほどの冷徹さはなかった。代わりに、戸惑いと、不器用な情愛が混じり合っている。


「……誰にでも同じ態度で接しなければ、お前への『特別』を隠し通せなくなるからだ」

「……え?」

「他の会員に触れる時、私は心の中で、筋肉の構造だけを数えている。そうしなければ……隣でお前が誰かを指導している気配だけで、俺は指導の手を止めて、お前を連れ出したくなる」


 グレンは大きな手で顔を覆い、低く唸った。


「……プロとして、情けない。ヤキモチを焼いているのは、俺の方だ」




 予想もしなかった告白に、ナツメは呆然とした。あの、完璧だと思っていたグレンが、自分と同じように醜い嫉妬に、そして「プロ意識」との葛藤に苦しんでいたなんて。


「……グレン、さん」

「……これ以上、私を甘えさせるな。仕事ができなくなる」


 そう言いながらも、グレンはナツメの肩を抱き寄せ、その大きな胸の中に彼女を閉じ込めた。抱きしめられる強さに、彼の心の乱れが伝わってくる。


「……ヤキモチって、筋肉みたいに鍛えれば消えるものだと思ってました」


 ナツメは、彼の胸板に顔を埋めたまま呟いた。


「いや、無理だ」


 グレンはナツメの頭を優しく撫でる。


「これは、鍛えれば鍛えるほど……想いが強くなればなるほど、重くなる一方だ」


 その重さは、苦しいけれど、どこか誇らしくもあった。自分だけが苦しんでいるわけじゃない。この強靭な男もまた、自分という存在に振り回され、必死に「正しさ」を保とうとしている。


「……明日も、ヤキモチ焼いちゃうかもしれません」

「……その時は、また叱る。そして、こうして二人きりの時に、埋め合わせをする」


 グレンはそう言うと、ナツメの額に深く、長いキスをした。

 恋人であり、後輩であり、ライバルでもある。二人の関係は、まだ「│バルクアップ《増量》」の途中だ。


 痛みを知り、重さを知り、それでもなお、お互いへの想いを積み重ねていく。ナツメは、グレンの背中に手を回し、その確かな質量を感じた。


 ヤキモチは、確かに筋肉より重い。けれど、それを一緒に背負ってくれる人がいるなら、この重ささえも、愛おしい勲章に思えた。


 ヴァルキュリア・トレーニングアカデミーに夜が訪れる。二人の鼓動は、静かなホールに、これまでで一番深く、重く響いていた。

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