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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第15章 触れずとも、確かに隣に【定着編】

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21.輪郭が戻る音


 数日後の朝。太一は、支給されたトレーニングウェアに着替える際、鏡の前でふと自分の身体を見つめた。


「……あれ?」


 腹部。かつてトレーナーとして誇っていたような、彫刻のような溝はまだない。だが───。


(凹凸が……戻ってきている)


 皮膚の下に、薄く、けれど確かに。眠りから覚めた筋肉が、その「輪郭」を主張し始めていた。


「……はは、本当だ」


 思わず、独り言とともに笑みが漏れた。失ったはずの自分の一部が、砂時計の砂が戻るように、一粒ずつ積み上がっていく実感。ジムに向かう足取りは、羽が生えたように軽かった。


「アイナさん」

「ん?  何かしら、今日は随分と顔色が良さそうね」


 太一は、少年のように照れくさそうに切り出した。


「……あの、見てほしいものがあるんです。自分の感覚が合っているかどうか、確かめたくて」

「脱ぐの?」

「え、あ、えっと……はい。その方が分かりやすいかと思って」

「構わないわよ。バイタルデータだけじゃ分からない筋膨隆パンプの確認も必要だわ」 


 あまりにも淡々とした、教官としての返答。逆に太一の方が気圧され、少し動揺しながらシャツを脱いだ。露わになった、肩、胸、そして腹部。まだ全盛期に比べれば細い。


 けれど、そこには病床で見たような「衰え」の色は微塵もなかった。張りがあり、熱を帯びた、“生きた筋肉”の躍動がそこにある。アイナは静かに近づき、一切の私情を排したような鋭い視線を巡らせた。


「……いいわ。想像以上ね」

「本当ですか?」

「ええ。回復が非常に早い。特に腹横筋と広背筋の分離セパレーションが見え始めているわ」


 アイナの指先が、流れるような動作で太一の背中をなぞった。


「ここ。脊柱起立筋の緊張が解け、深層の呼吸筋が正しく使えている証拠よ。私の指導を、身体が完全に咀嚼しているわね」


 指先から伝わる熱に、太一は思わず喉を鳴らした。


「……正直、怖かったんです。ずっと」

「なにが?」

「もう、二度と元の場所には戻れないんじゃないかって。自分という人間が、欠けたまま終わるんじゃないかって」


 アイナは、指先を離すと、その時だけは教官の仮面を脱ぎ、慈しむように表情を緩めた。


「『戻る』んじゃないわ、太一さん」

「?」

「あなたは今、古い自分を脱ぎ捨てて、“新しくなっている”のよ。以前のあなたよりも、もっとしなやかで、もっと強い存在にね」


 その言葉に、太一の胸が激しく熱くなる。


(……この人は。私の筋肉だけじゃなく、魂まで再生させてくれるんだ)


 トレーニングは、ここで一段階上のフェーズへと突入した。


「今日は、メインセットの負荷をさらに上げるわ」

「来ましたね。望むところです」

「覚悟はいいかしら?」

「……はい、お願いします!」


 スクワットラックに、鈍い音を立ててプレートが増設される。


「腹圧を逃がさない。視線は常に前よ。重力に負けないで」


 大きく息を吸い込み、しゃがみ、そして粘り強く立ち上がる。太一の太腿が、ミシミシという音を立てて重圧を跳ね返す。その脚は、確実に、そして逞しく太くなっていた。


「……っ、くうっ!」

「止めない!  呼吸を続けて、酸素を筋肉に送り込んで!」


 5回、6回。限界の向こう側で、細胞が悲鳴を上げ、同時に歓喜する。


「ラスト一回!  押し切って!」


 持ち上げた瞬間、全身の血管に熱い血が奔流となって巡る。


「……っはぁ……っ!」


 バーをラックに戻すと同時に、膝を突く。


「よく耐えたわね。今のセット、フォームは完璧だったわ」


 アイナの声は、ほんの少しだけ、雨上がりの午後のような柔らかさを帯びていた。


(……誰かに褒められるの、こんなに久しぶりだったかな)


 タオルを渡され、水分を促される。


「水分を忘れないで。リカバリーもトレーニングの一部よ」

「はい。……あの、アイナさんは」

「なに?」

「どうして、僕なんかにこんなに真剣になってくれるんですか」


 アイナは、一瞬だけ沈黙した。そして、ジムの窓から差し込む夕光を背に、静かに告げた。


「……あなたが、ここにいる理由を、その瞳の奥にちゃんと持っているからよ。それに応えない理由は、私にはないわ」


 それ以上、彼女は語らなかった。太一は、激しく脈打つ鼓動の中で、胸を締め付けられるような熱を感じていた。


 (……好きだ。この人が、たまらなく好きだ)


 言葉にすれば、この「教官と会員」という聖域が壊れてしまうかもしれない。けれど、確かな情熱が、彼の筋肉の奥底に棲みついていた。




 一方、アイナもまた。自室に戻り、一人で太一のログデータを確認しながら、微笑んでいた。体脂肪率の減少。筋量の増加。驚異的な回復指数。


 (……嬉しいわ。あなたの身体が、こんなにも私に応えてくれることが)


 もはや、そこに「仕事だから」という言い訳を挟む余地はなかった。画面越しの恋が、現実の熱となり、今、二人の世界を静かに塗り替えていく。

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