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インナーマッスルに届け!───鍛えたのは、身体と恋と生き直す勇気だった───  作者: 宮野夏樹
第2章 触れたい本音と教官の仮面【葛藤編】

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10.触れているのに、遠い

 窓外に広がるのは、抜けるような冬の青空だ。ヴァルキュリア・トレーニングアカデミーの広大なホールには、午前中の柔らかな光が斜めに差し込み、磨き上げられた石床に長い影を描いている。


 ナツメは鏡の前で、ルーチンの姿勢チェックを行っていた。耳たぶの付け根、肩の端、骨盤の横、膝、そして外くるぶし。重力に対して垂直な一本の軸。前世の「鬼頭夏夢」だった頃、スマートフォンの画面越しにグレンから何度も指摘されたその「軸」が、今ではナツメの肉体の一部として強固に根付いている。


(重心、よし。腹圧、安定……)


 自分を律する感覚は心地よい。けれど、隣のパワーラックでバーベルのプレートを付け替えているグレンの気配を感じるだけで、その「軸」がわずかに揺らぐ。


「ナツメ」


 不意に投げかけられた低音。


「今日はフォーム確認を重点的に行う。特に│深層筋インナーマッスルの連動だ」

「……はい、先輩」


 ナツメは短く返事をした。心臓の鼓動が、一気に「有酸素運動中」のスピードまで跳ね上がる。フォーム確認。それは、トレーナー同士の技術向上という名目のもと、彼に「触れられる」ことを意味していた。


「マットに仰向けになれ」


 グレンの指示は、いつものように短く、そして拒絶の余地がない。ナツメは言われるまま、マットに背中を預けた。視界には、高い天井の装飾と、覗き込むグレンの顔が広がる。




「膝を立てろ。足裏全体で床を掴むイメージだ」


 グレンがナツメの横に跪く。巨大な山が迫ってくるような圧迫感。彼のタンクトップから覗く上腕二頭筋は、触れずとも熱気を放っている。


「腹圧を最大に入れろ。……よし、そのまま保て」


 グレンの手が、ナツメのお腹の上にそっと置かれた。掌の熱が、ウェア越しにダイレクトに伝わってくる。大きく、分厚い手。その指先が、下腹部のわずかな隆起を探るように、ぐっと深く押し込まれた。


「……っ」


 思わず息が漏れる。


「力みすぎるな。腹直筋じゃない、もっと内側の腹横筋だ。そこを『壁』にする感覚だ」


 グレンの声は驚くほど冷静だ。触れている。ナツメの呼吸に合わせて動く指先。けれど、その手つきには、昨夜の抱擁で見せたような「甘さ」は一滴も混じっていない。まるで、精巧な機械の動作を確認する技師のような、残酷なまでの正確さ。


「次は、その圧を保ったまま右脚を上げろ。骨盤をミリ単位で動かすな」


 ナツメが慎重に脚を浮かせると、わずかに重心が右へ流れた。


「止めろ」


 即座に修正が入る。グレンの手が、今度はナツメの腰の下に差し込まれた。背中とマットの隙間を埋めるように入ってきた、彼の掌。ナツメは背骨で、グレンの手のひらの硬いマメの感触を感じていた。


「腰が浮いている。……私の手を、脊柱で押し潰すつもりで圧をかけろ」


 ――無理だ。頭の中が真っ白になる。


 すぐそこに、恋人がいる。背中の下には、彼の掌がある。それなのに、グレンの瞳に映っているのは「ナツメ」という女性ではなく、ただの「不安定な骨格モデル」であるかのようだった。




「……先輩」


 気づけば、ナツメは震える声で呼びかけていた。


「なんだ」


 グレンは手を差し込んだまま、視線だけをナツメの顔に向けた。その瞳は、凪いだ海のように静かだ。


「このフォーム……」


 ナツメは喉の渇きを感じながら、言葉を絞り出した。


「……恋人として見ると、どうですか。合格ですか?」


 一瞬。ホールを流れる空気が凍りついた。グレンの手が、ナツメの腰の下でわずかに強張る。彼の手のひらから伝わる脈拍が、一瞬だけ速まったのをナツメは見逃さなかった。───けれど。


「……今は、トレーニング中だ」


 グレンは、ゆっくりと手を引き抜いた。その声は、どこまでも低く、平坦だった。


「感情と仕事は別だ。混同すれば、怪我を招く。……集中しろ」

「……はい」


 胸の奥が、氷を飲み込んだように冷たくなった。拒絶されたわけではない。彼は「正しい」ことを言っている。けれど、その「正しさ」こそが、今のナツメにはどんな重荷よりも重く感じられた。


 トレーニングが終わり、ナツメは力なく起き上がる。グレンは一歩距離を取り、いつものように腕を組んで彼女を見下ろした。


「身体の使い方は、確実に向上している。……だが、精神のコントロールがまだ甘い。感情に引っ張られるな。筋肉は、お前の心が揺れれば、即座にそれを反映する」

「……はい。肝に銘じます」


 ナツメは、床を見つめたまま答えた。彼が自分を思って言っているのはわかる。けれど、その言葉のナイフが、昨夜繋ぎ合ったはずの心を、少しずつ削り取っていく。




 昼休憩。ロッカールームのベンチで、ナツメは着替えもせずに座り込んでいた。鏡に映る自分。前世よりずっと引き締まり、健康的になった身体。けれど、中身はまだ、画面の向こうの彼に一喜一憂していた「鬼頭夏夢」のままだ。


「……はぁ」


 重いため息が、無人の部屋に響く。


「ため息つくと、大胸筋が縮こまっちゃうわよ」


 背後から、明るい声がした。アイナだ。彼女は自分のロッカーを開けながら、ちらりとナツメを見た。


「……もう、縮みきってます」

「なにそれ。グレンと何かあった?」


 直球の問いに、ナツメは力なく首を振った。


「何も。……何もなさすぎて、困ってるんです。触れられてるのに、まるで解剖図のチェックをされてるみたいで」


 アイナは隣にドカッと腰を下ろし、豪快に笑った。


「『近いのに遠い』。まさに、シルフィード教官の得意技ね。でもさ、ナツメちゃん」


 アイナが、少しだけ真剣な目になる。


「グレン、あんたのこと見ないように必死なのよ、あれで」

「え……?」

「さっきのフォーム確認だってそう。あいつ、あんたに触れてる間、ずっと奥歯噛み締めてたわよ。見たら、触れたら、自分の中の『教官』が崩れるのが分かってるから。……臆病なのよ、あの巨漢」


 その言葉に、ナツメの胸が熱くなる。臆病。あの、鋼の精神を持つグレンが?


「あいつにとって、あんたは『大切すぎる会員』から『特別すぎる恋人』に昇格しちゃったの。だから、どう扱っていいか分からなくて、とりあえず『教官』っていう鎧をガチガチに着込んでるわけ。……可愛いじゃない」

「……全然、可愛くないです。寂しいです」


 ナツメは膝に顔を埋めた。けれど、アイナの言葉のおかげで、少しだけ心の「軸」が戻ってきた気がした。




 午後。再びホールに戻ると、グレンが一人でバーベルのメンテナンスを行っていた。重いプレートを軽々と扱い、滑車にオイルを差す。その無駄のない動き。ナツメは、迷いを断ち切るように彼に歩み寄った。


「……先輩」

「ああ、ナツメか。午後のセッションの準備は……」

「今日のフォーム確認」


 ナツメは彼の言葉を遮り、一歩、踏み込んだ。


「……ありがとうございました」


 それだけを言って、ナツメは彼を真っ直ぐに見つめた。グレンは、不意を突かれたように目を瞬かせた。手元のオイル差しが、微かに揺れる。


「……仕事だ。礼を言われることではない」

「分かってます。でも、教えてもらった感覚、忘れませんから。……仕事でも、恋人でも。どっちの私も、ちゃんと見ててくださいね」


 そう言い切ると、ナツメは彼が答える前に、くるりと背を向けてトレーニングエリアへと走った。


「……っ」


 背後で、グレンが小さく息を呑む音が聞こえた気がした。

 まだ、触れていても遠い。けれど、今日彼がナツメの腰に当てた掌の熱は、間違いなく「本物」だった。彼が鎧を着込むなら、自分はその鎧ごと愛せるほど、強くなればいい。


(見てて、グレン。……私、もっともっと、あなたを困らせるくらい『いい身体』になってやるんだから)


 ナツメは、心の中で自分に活を入れた。触れているのに届かない距離。それを埋めるのは、言葉ではなく、明日もまた彼に向かって踏み出す「一歩」なのだ。


 ヴァルキュリア・トレーニングアカデミーの長い午後の光が、前向きなナツメの背中を、力強く照らし出していた。

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