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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

連作コスモス

世の中に絶えて桜の無かりせば

作者: 糸冬すいか

 いろいろな形の恋愛を許せる方、推奨。

 一番に愛している人は春の様に暖かく、優しく甘えさせてくれる。全てに等しく可愛らしい、可憐で美しい高嶺の花。


 一番に愛されたい人とそれがイコールでないとすれば……私は異常だろうか。

 認めたくないとしても、私はきっと彼が――。


 ***


「あ……佐倉」

「今名前呼ぼうとしただろてめぇ……で、何?」

すまん、と困り顔で頭を掻き、彼は口ごもった。失態の後には言いづらい事なのだろうか、往々にして彼は控えめなのだが。

 ため息をつき、彼を見上げる。表情と語調を和らげ、口を開いた。

「何?」

「その……こ、今度の日曜……あの……」

 吃る姿、赤い顔、視線は右往左往して困り顔。ここまでくれば何を言おうとしているか予想がつく。

 さてどうしようか。一応は向こうの顔を立てて言うのを待つか、それとも先手を打つか。

 打ってしまえば、彼はまたしゅんとなって、壁は依然としてあり溝は深く横たわるのだろう。これ以上彼と距離が縮めば、私の気持ちはどうなるのだろうか。

 私が愛するのは、一人だけ。

 私が愛しているのは、彼女一人だけ。

 その気持ちが落ち着き、彼女をいつか忘れるときが来るのだろう……とは、冷静な頭では思うのだ。

 でも、それは“いつか”であって“今”ではない。今すぐに彼女を諦め、彼女への想いを忘れられるものではない。

 というわけで。

「あ、あのっ、よければ…」

「日曜だね、良いよ。今度はどこ? 映画館?」

 くしゃっ、と紙の潰れる音がした。……映画館のチケットだろう。全く、予想を裏切らない男だ。

 にやりと口端をあげて見上げると、彼は情けない顔でそろそろとチケットをとりだした。受けとってタイトルを見ると、何度かCMで観た覚えがある。たしか、ベタベタな恋愛モノだ。

 ……思わずチケットを握り潰しそうになった。

「えっと……私、恋愛モノ嫌いって言わなかったっけ?」

「……でも、嫌だからで逃げてちゃダメだろ? たまにはこういうのも良いじゃんか」

 義務的に見る映画の何が良いのだろうか。だが言い返す事なく、ため息をつく。

 彼は正しい。いつだって、彼は正しくあろうとしている。何が正しさなのか、は人によって様々だろうけれど、少なくとも私からするととても正しいのだ。

 この提案も、皮肉でも嫌がらせでも当てつけでも何でもなく、素直に自分が良いと思うモノを勧めたに過ぎないのだろう。まるで道徳の教科書のような奴なのだ。

 全く、正しい。

 むかつくほどに。

「…わかったよ、観る。時間は何時?」

「えっと、十一時頃。終わった後、一緒に昼食べればちょうど良いから」

「ん、了解」

 事務的だが、いつもの事だ。積極的に外出する人間ではないため、店や映画館について話されても分からない。

 軽く当日の予定をまとめて、携帯にメモする。ぱたん、と閉じると、彼が固まったまま突っ立っていた。

 ……立ち去るタイミングを逃して動けなくなったのだろうか。

 携帯の時計表示を一瞥すると、昼放課の残り時間はあと僅かだった。次の数学は移動だ。(クラスを成績で半分に分けるのである。ちなみに私は上位クラスだ)

「ごめん、そろそろ移動しなきゃ」

「え、あ……そっか、佐倉は数学得意だもんな」

「そんなに得意でもないよ」

 言いながら筆記用具をまとめ、ノートと教科書を手に教室を出る。振り返ると、彼は片手を軽く上げてひらひらと振った。苦笑を返し、手を振る代わりに言葉を返す。

「じゃ、また後でね、平松」

「あ、あぁ、佐倉」

 ぎこちなく熱のない、淡々とした関係――それが私たちの恋愛だった


 ***


 最初に明記しなかったことにより多少の誤解があるかもしれない。が、別に叙述トリックでもなんでもない。私は女で、平松は男だ。そこには矛盾の無い恋人関係がある。

 ただおかしいのは――私が、女の子を好きになってしまった事だ。

 最初は仲の良い友達だった。次に、気の置けない親友となった。そしていつの間にか――私は彼女をどうしようもなく好きになってしまっていたのだ。

 別に元からレズビアンというわけではないし、他の女の子に対しては何も感じない。男性と付き合って別れた事もあるけれど、別にそれは尾を引く事ではなかった。恋愛に尻込みしていたのは確かだが、彼女だけは特別だった。可愛らしく、美しく、愛おしい。

 冷静に見れば、彼女は然程美人でも可愛くもない、普通の女の子だ。性別を違えてまで恋に落ちるようなものではない。分かっていながら、私は彼女に惹かれていた。

 感情に名前を付けてしまえば、もう逃げられなかった。彼女と顔を合わせる度に、頬は紅潮した。言葉を交わそうとする度、声が上ずりそうになるのを抑えるのに必死だった。傍に居るだけで、鼓動が高鳴っているのが伝わらない事を願った。

 大好きな人が一番傍に居て、楽しく語らい時を過ごす。そこには必要性なんてない。ただ彼女と話すだけ、それだけのこの上ない幸せ。

 それは、地獄のように幸せな毎日だった。

 永遠に口にする事のない想い。

 永劫に叶えられる事のない想い。

 彼女にこの想いを伝えたところで、不幸にしかならないのだ。口に出してしまえば、私たちは掛け替えのない親友を失うことになる。そしてこの想いを拒絶されてもされなくても、私の心は張り裂けてしまう。

 彼女がこの想いを受け入れたとしても――それはきっと、愛ではなく同情だから。

 友情と信頼の上に成り立った好意にすぎないのに、無理をして私を愛そうとする姿が眼に浮かぶ。それは彼女を不幸にする。私も彼女も傷つく。そこに幸せな道はない。

 それならば、この地獄のように幸せな時が少しでも長く続く事を祈るだけだ。誰かが彼女を愛し、彼女が誰かに心を許して、私の心が諦めるまで。そのいつかまで。

 そう思っていた。

 ……そう、思っていたんだけどなぁ。

 ため息を紛らわせて、シャーペンをくるくると回す。白紙はすでに埋まり、xとyの答えは導き出されていた。公式に当てはめるだけなので、すぐに終わる。数学ははっきりしていて好きだ。

 予想外の因子の登場で、私の筋書きは崩れた。予想などしようもない、まさか私の方が告白されるなど。

 平松匡弘ひらまつまさひろ、同じクラスの男子。教科選択などのクラスが同じで、良く話したりもしていた。だが、良い男友達という認識でしかなく、いきなり告白されて驚いた。

 ……否、一週間以上前から予測はしていた。

 見ているこっちが可哀そうに思えてくるほど、わかりやすいのだ。話していれば視線は右往左往し、話題は脈絡もなく飛ぶ。彼氏の有無を確認するようにそろそろと話しかけてきたり、呼びだしたと思えば「また今度」と先延ばしにしたり。

 自惚れたくはなかったが、流石に目をそらせるものではない。告白された瞬間、私は思わず「遅ッ!」と内心ツッコミしてしまったほどだ。

 後から聞いたところ、彼は気付かれていると思っていなかったらしい。馬鹿だ、と本気で思った。

 残念だけれど、と前置きして、私はその場で断った。とてもじゃないが彼女を想うのに手いっぱいで、彼と付き合おうとは思えなかった。彼女を愛している心で彼と付き合ったところで、彼の気持ちに失礼でしかない。

 それでも彼は諦めなかった。好きな人がいる、という事も知っていた。むしろその上で告白してきたらしい。せめて、その人が誰かを教えてほしい、と。

 譬え叶わないと分かっていても、諦める理由を欲しがるのは当然に思えた。私もまたそうなのだから。諦める理由を探しているのだから。

 応援する心づもりのようだったが、そんなものいらないと切り捨てた。私の恋は叶わなくて良いのだから。だが、彼は食い下がった。まっすぐな表情で、本気で私を心配して。諦めなくて、諦めなくて、腹が立った。私は。

 私は諦めているのに。

 私は彼女を諦めているのに、彼は。

「五月蠅い五月蠅い五月蠅いぃッ!私はっ、女の子が好きなのレズなんだよ男に興味ないからさっさと諦めろっ!」

 多少誇張はしたが嘘は言っていない。彼も諦めるだろう。それどころか、気持ち悪いと幻滅して、話す事もなくなるかもしれない。万が一にでも彼女に伝わらないように、釘をさしておかなきゃ、と思い口を開こうとし

「……じゃあ、待ってる」

 開いた口が塞がらなかった。


 ***


 こうして私たちは付き合う事になった。

 さっぱり諦めない彼に折れた、とでも言おうか。最終兵器を叩きつけてもピンピンしているのだからどうしようもない。とりあえず私が好きになれるかどうかは分からない、と前置きした上でだったが、それでも彼には十分のようだった。

 付き合い始めれば彼女の事を忘れ、諦められるかもしれない、という打算も、もちろんあったが。

 そうこうしているうちに一月が過ぎ、半年が経ち――一年が経過しようとしている。意外と長く続く物だ。

 そして現在。

 はっきり言おう。

 映画は私の中でメガヒットを記録した。

 あれほどつまらないと予想された映画だったが、ベタな設定を活かして意外な展開に持って行ったのに引き込まれた。オチの付け方も大団円で終わらせないのがまた味がある。ロミジュリ的恋愛かとも思ったが、実はそれぞれに素っ頓狂な思惑があったりとまた面白い。伏線の張り方も小気味よかった。

 とりあえず平松に感謝しつつ謝っておいた。平松としては、「もう少し恋愛に目を向けろよ」らしいが、喜劇なのだから仕方がない。

 映画館近くのハンバーガーショップで、先程の映画のパンフレットをめくる。シェークを啜りつつポテトをつまみ、もぐもぐと口をせわしなく動かした。

「……なぁ、佐倉」

「ん?」

 一時中断。顔をあげて平松を見ると、呆れたような顔で見られていた。内心首を傾げ、口の中の物を飲み込んでから聞く。

「何? 私のダブルバーガーはあげないよ」

「いや、ダブルバーガーはいいんだが……お前、ほんっとに化けるな」

「化けるとは失礼な」

 ストローをくわえながら頬を膨らませてみせると、平松は微妙に頬を緩ませた。ぎゅむ、と私の頭を抑えるように撫でて苦笑する。横目でガラスに映った姿を伺うと、小さい子をあやしているように見える。

「そうやってるといつも通りだけどな……ッ!?」

ムカついたので、テーブルの下で見当をつけて足を蹴った。平松の痛がり様から、当たったのは臑だろう。命名、弁慶の泣き所蹴り。

 元々私は子供扱いされるのが嫌いなのだ。背が低いので、頭を撫でられるのも嫌いだ。なんだか背が伸びなくなりそうではないか。

ちなみに、平松にはすでにその旨は告げてある。何回やっても懲りずに撫でるので、こうなったらもはや互いに意地だ。

 机の上で両手を握りしめて痛みに堪える平松に、とりあえず聞いてみた。

「で、化けるって何が?」

「あ? ほら、服とか髪型とか……化粧もしてるのか? とにかく学校と全然違うじゃないか」

「……………」

 彼の言わんとする事は分かるが、それを化けると言うセンスが信じられない。一応、これでも気を使っているのだ。恋人でありデートなのだから、お洒落を少しばかりするのも当然だと思う。

 だから前日から服をえらび髪を整え、普段している眼鏡も外している。学校には色付きリップ程度しかしていかないが、軽く化粧もしてはいる。

 それを、化けると、言いやがるか。

「……なぁ平松」

「な、なんだ? 佐倉」

「天誅」

 本日二度目の弁慶の泣き所蹴りが決まった。


 ***


 さて、ここで私の愛する彼女についての惚気話でもしよう。彼女は私の恋人ではなくあくまで私の片想いなのだから惚気話というのも奇妙かもしれないが、平松にしてみれば「立派な惚気だろ」らしいので惚気なのだろう。

 とにかく彼女―――梅沢陽菜うめさわはるなについては、可愛いというしかない。

 甘い声、ぷにぷにの柔らかい頬、さらりと流れる艶やかな髪。手足はしなやかで細く、身体は華奢で私よりも小柄だ。笑顔は花が咲くようで、彼女のいる場所は空気が暖かくなる。

 本当に、春のように。

 その春に心を解かされて、私は惚れ込んでしまった。今では大分落ち着いてきたのだが、それでも彼女の細かな仕草にその度に惚れ直すのだ。見る者の目を奪い、会う人の心を奪うと言っても良いだろう。

 もちろん、本当にそうであれば、私はあっさりと諦められるのだが。いかんせん、彼女は子供っぽい。幼いというよりも、男女関係に無頓着なのだ。彼女は男も女も平等に仲良くなる。仲良くしたいと思っている。

 だから彼女は、とても優しい。

 けれどそれは、見方を変えれば八方美人と言われても仕方のないことだ。事実、彼女は優柔不断であり、八方美人である。それを彼女は自覚している。自分は人に良い顔ばかり見せる、嫌な人間だと、そう思っている。

 だから私は、彼女が好きなんだと思う。

 優しさと易しさ。その違い。安易に自己を肯定するより、否定しながらも生きる人間の方がずっと魅力的だ。

 それでもいつか諦めようと思っている身としては、少々困る性格ではある。男女関係に無頓着で、優柔不断な八方美人で、おまけに自己否定。いつまでもそんな状態では、彼女は誰の想いも受け取らないのではないだろうか。

 彼女自身にその気がなければ、誰かに想いを寄せられても断ってしまうかもしれない。彼女は優しいから、それは誰かに嫌われないためという理由でも、好きでなくとも受け入れるかもしれない。

 が、そんな状態は彼女が幸せとは思えない。彼女は、断ると言う事をはなから諦めている節があるのだから。恋愛が、恋し恋され愛し愛される事が幸福であるとまでは言わないが、好きでもない人に無理して寄り添うのは、幸福であると言えるのであろうか。

 彼女の幸せについて、私が判断していいものではないだろうけど。

 というか、私はその状態にあって別に不幸と言うわけではないのだけれど。

 とにかく、私は私の為に(つまり彼女を諦める為に)彼女に自発的に恋をしてほしい。あわよくばそのまま結ばれて誰かと付き合ってほしい。

 よく考えれば自ら恋敵を製作するようなものだが、他にどうしようもないのだから仕方ない。平松はやたらと心配してくるが、覚悟は元よりしてある。

 決して、叶うことなき初恋。

 愛して、語ることなき恋心。

 その程度の覚悟もせずに、彼女への愛を自覚などしない。認知したその瞬間から、悲哀にして悲愛に終わるのはわかっている。そうでなければ、さっさと伝えて心を壊しているだろう。ふられる為に――否定されて、楽になるために。

 本当に、我ながら酷い初恋をしたものだと思う。最初から相手の意志も自分の意志にもかかわらず、結果はどう転んでも最悪と決まっているのだ。

 それでも相変わらず心の底から彼女が好きというのだから――全く、恋とはどうしようもない。


 ***


 背中に回された腕に力が入り、ぐっと身体がしなる。軽く踵が浮いて、余計に背中に体重がかかった。無理な体勢で上を向いているので首が痛い。

 頬にかかる熱い息、唇に押し付けられる熱、潰れそうな程に強く抱きしめられて。身体の奥が熱っぽく痺れていく。

 彼は、何を想うのだろう。

 彼は、何を想っているのだろう。

 私を好ましく想い、その想いを口にして。形だけとは言え手に入れて、体だけとは言え手に入れて。

 状況に反して、頭の中は冴え冴えとしていた。澄んで空っぽになっていく。今なら難解な方程式も冷静に解けそうだと、場違いな事も思い浮かんだ。まるで、その状況から現実逃避をするかのように。

 彼に求められた時、私は決して拒絶をしない。私には拒絶できる権利がない。私は彼を想っている訳ではないが、彼は私を想っており、私たちは恋人同士なのだから、こうすることも不思議なことではないと思う。

 彼に対して、頭が上がらない。私に一途な想いを向ける彼に対して、私の良心は耐えられないのだ。愛など無く、ただ利用し寄り添っている自分が、醜く忌まわしい。

 汚い、自分に、吐き気がする。

 腕に力を入れ、彼の胸を押す。彼は少し迷ったようだったが、間を開けて唇を離した。ようやく、私の踵が地面に降りる。強張っていた身体が緩み、首の痛みがじん、と残る。

 腕は解かれなかった。背中に回された腕はそのままで、彼は無言で私を見下ろす。私と彼では、二十センチは身長差があるのだ。別に彼は背が特別高い訳ではないが。

 ……もちろん、私が特別低いわけでもないと釈明させて頂く。

「なぁ、佐倉」

 上からの低い声。彼女のように甘くない。硬く大きな身体。彼女のように可愛くはない。無骨で粗雑な手。彼女のように繊細ではない。

 彼女とは違う。ぜんぜん違う。

 なのに。

「……梅沢と、何かあったのか?」

 妙なところで、気付く。

 私は彼の腕に包まれたまま、頭を持たれさせて――俯き顔を合わせない。唇を少し湿らせて、ゆっくりと答えた。

「何かって、何?」

「なんか……わかんねぇけど。でも、何かなきゃこんな風にしないだろ」

 こんな風に。彼の言わんとする事は、この状況そのものだろう。私は彼を拒まない。つまり、キスされている間はほぼされるがままであり、自分からは決して求めないのだ。私の方から中止を願い出たり、こんな風に抱きしめられて大人しくしているなんてない。

「……関係ない」

「ある。……ありたいんだ。俺はお前と関わりたい」

 希望、願望、切望。

 彼はどこまでもまっすぐだ。私が気になったその動機も、私を好きになったその理由も、私に向き合って言ったあの言葉も。純粋な訳ではない。完全に、定規で引いたように真っ直ぐに生きられない事は分かっている。それでも曲がったりくねったりしながらであっても、真っ直ぐ生きようとする。その心は真っ直ぐなのだと思う。

 だからこれは、ほんの戯言。口の端から零れた、戯言だ。

「陽菜が、ね。ある……ある人の事をね、かっこいいねって言ったんだ」

 いつものようなお喋り。二人だけの時間。その中で、彼女が零した言葉。

 それは、恋愛的な意味を孕んではいなかったと思う。彼女はただその人の外見を、あるいは内面を、はたまた何か行動を、かっこいいと表現したにすぎないのだろう。

 それだけ、なんだろう。

「なのに、私……凄く、嫌、だった。その人の事をかっこいいって言った事にじゃない。私と話しているときに、他の人の事を考えていたのが、嫌だった」

 嫉妬、だった。

 顔も名前も知らない人への。地獄のように幸福な時間を邪魔されたことへの怒り。そして、その程度の事にいらつき、腹立たしく思い、心を波立たせた自分に対する嫌悪。どうしようもない、彼女に対する支配欲。

 何が、結ばれなくても構わない、だ。

 些細なことで、こんなにも嫉妬する癖に。

 心の底から、醜い。

「……私、醜いよ」

「いーだろ、別に」

「………………………は?」

 間、沈黙、逡巡。見上げた顔に浮かぶのは、いつも通りのとぼけた顔。聴こえた言葉はどうやら幻聴ではないらしい。

「好きな人の事で、嫉妬したりとか、俺は普通だと思うけど。そのくらいで醜いとかいろいろ言わなくても、別に良いだろ」

「でも、私は、あの子とは……」

「好きな人は好きで、いいじゃん。結果がどうなろうとその気持ちまで否定することはない……と、思う」

 ぎゅ、と肩を抱いて、ぎこちなく髪を撫でて。自然と身体が寄り添い、俯いて彼に身体を預ける。頭頂部までは触れてこない。あぁ、頭を撫でると怒るからかな、髪を梳くように、控えめに。それ以上は何も言わずに。

 あぁもう。

 本当に、なんでだろう?

 どうしてあんたは、こういう時だけ


 優しいんだ。


 いつもは正しいばかりの癖に、正しくてつまらない人間の癖に。私の気持ちを全然考えずにずかずか心に踏み込んで来て、私の心を掻き乱していく癖に。

 私が本当に傷つきたいときは、自虐し死にたい気分のときは。自分という存在が嫌で嫌で仕方がない。そんな自分なんていなくなれば良いと思う。そんなときだけ正しさを放り出して――ただ、優しくしてくれて。

 私が彼女を好きな事はわかっているのに。

 私はあんたを傷つけている事も知っているのに。

 卑怯で、酷いのは、私なのに。

 どうして、優しく髪を撫でてくれるんだ。どうして、優しく肩を抱いてくれるんだ。どうして、何も言わないんだ。どうして、私を責めないんだ。

 どうして、ただ傍にいてくれるんだよ。

「どうして、好きでいてくれるの……?」

 か細く漏れる声に、彼は戸惑うように手を止めた。ええとその、と言葉を探すように、まごつく声が聞こえる。見上げると、彼は私を見て顔を赤くした。そして彼は困ったように眉根を寄せて、情けない顔で笑って答えた。

「どうしてって言われても……好きだから、好きでいるんだ」

 好きだから、好きでいる。答えになるような、ならないような。でもそれは、本当はとても難しい事。好きな人を、好きなまま、好きでい続けることは、きっと本当はとても難しい。

 私は諦めたから。好きでい続ける事を、報われぬ想いを抱え続ける事を。言い訳を繰り返して、理想と空想と妄想の未来を夢に見ることも諦めて。私は彼女を諦めた。好きでい続けれないと、一生を彼女の事だけ思い続けれないと、そう思ったから。

 それでも彼は気負いなく、何気なく、そう言い続けるんだろう。好きだから、好きでいる。相手が私であっても、私でなくなっても。

 彼はいつだって、正しいから。

 正しくあろうと、しているから。

 ただその一言で、たったその一言で、私が救われているとも知らずに。

「……匡弘ぉ」

「ん、なんだ、佐倉」

「………………馬鹿」

 そこは、名前を呼ぶところだろうが。


 ***


 一番に愛している人は春の様に暖かく、優しく甘えさせてくれる。全てに等しく可愛らしい、可憐で美しい高嶺の花。決してこの手が届く事はない、伸ばそうとも思わない、近くて遠い人。


 一番に愛されたい人とそれがイコールでないとすれば、愛されたいと愛しているが全くの別物であるのは……私は異常だろうか。

 私が認めたくないとしても、周りから認められないとしても、私はきっと彼が――。


 彼に一番に愛されたいと思うほどには、好きなんだろう。


 タイトルの元となった和歌と訳文を載せておきます。

「世の中に絶えて桜の無かりせば 春の心はのどけからまし」

 訳:世の中に桜というものがなかったなら、春に心乱されることはないだろうに

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[良い点] 素直な気持ち、本音で描かれて居て、気持ちは受け入れられます。 [気になる点] 主人公は、(?_?)なぜ、平木を傷つけたり、利用したり、平気で、人間として、許されない事をするのですか?身分の…
[一言] なんて、なんて、心が暖まる話なんだよ… 何で、こんなに切ないんだよ…。 何で、何で……《泣》
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