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夏ホラー第五弾『ビルマの日本兵』

作者: カトラス

 湿った土と腐葉土の匂いが鼻孔を刺す。息を吸うたびに湿気が喉にまとわりつき、胸の奥まで重く湿る。暗いジャングルの中、俺は片足を引きずるようにして進んでいた。木の根に足を取られるたび、転びそうになる。足元では何かがぬるりと動き、落ち葉の下で小さな生き物が逃げていく感触があった。


 昼間なのに、空は厚い葉の天井に覆われて光を失い、地面はほとんど闇だ。葉の隙間から落ちるわずかな光が苔むした倒木にまだら模様を描き、その緑色は湿気でしっとりと光っている。耳を澄ますと、チチチ……ジジジ……と虫の声が絶え間なく押し寄せ、羽音が顔の周りをかすめるたびに頬に汗が貼り付いた。


 ときおり、遠くでぱきりと枝の折れる音が響く。その瞬間、背中に氷を押し当てられたような感覚に襲われる。誰かが後ろに立っている……そんな錯覚が、息を詰まらせた。振り返っても、そこには鬱蒼とした木々と揺れる影しかない。


 汗は首筋をつたって背中を流れ、シャツは肌にべったりと貼り付き、動くたびに冷たく気持ち悪い。喉はからからで、舌は唇に貼り付き、呼吸のたびに空気の湿気が余計に喉を締めつけた。葉をちぎって噛んでも、苦みと青臭さだけが広がり、渇きは一滴も癒えない。


 ふと、足元にぬるりとした感触が走る。視線を落とすと、黒く細長いヒルが靴下に吸い付いていた。血を吸って膨らむ胴体がぞわりと蠢き、慌てて振り払ったが、別の影が足首に絡みつく。吐き気が込み上げ、涙がにじむ。


 ふらふらになった俺は、ついに膝から崩れ落ちた。湿った土の匂いがさらに濃くなり、顔に泥と落ち葉が貼り付く。視界は滲み、目を閉じればそのまま二度と起き上がれない気がした。遠くでカラスに似た甲高い鳴き声が響き、森全体が生き物の呼吸で脈打っているように思えた。ここは人間よりも虫や獣の方がはるかに多い世界だ。俺は、異国の森に完全に取り残された。


 ――誰か、助けてくれ。心の中で叫んだが、声は空気に溶けるだけで、誰にも届かない。


 そのときだった。ぽたり、と水の落ちる音が耳に触れた。最初は幻聴かと思った。しかし、耳を澄ますと確かに水音は繰り返され、土の匂いに混じってかすかな冷気が頬を撫でた。


 必死に顔を上げ、音のする方角を見定める。這うようにして一歩、また一歩と進む。膝と肘に湿った土がまとわりつき、虫が這う感触に全身が総毛立つ。それでも止まれなかった。


 生きたい。喉の渇きと恐怖が、その思いだけを濃くした。



 高校を卒業しても、俺にはしたいことも将来の夢もなかった。親からは「何か資格くらい取れ」と言われ、仕方なく誰でも入れるような専門学校に進んだ。けれど、授業に身が入るわけもなく、朝は寝坊し、夜はだらだらスマホとゲーム。気づけば日々は、惰性で流れていた。


 そんなある日、ふと立ち寄ったパチンコ店のネオンに吸い寄せられた。冷房の効いた店内はタバコと油の匂いが混ざり、耳をつんざく電子音が鳴り響く。何の気なしに座ったスマスロットに千円札を入れ、ボタンを押す。カラン、とコインが落ち、画面が光った。


 ――大当たり。


 驚く間もなく、メダルは増え続け、気づけば一日で十万円近くの大金が手元にあった。人生で初めて、簡単に金を手にした。その夜の帰り道、胸の奥で何かが熱く疼いていた。これで俺も何とかなる、そう思った。


 それが、俺の人生を狂わせるきっかけだった。


 次の日から俺は、店に通い詰めた。メダルが増えたり消えたりするたび、心臓が踊るように高鳴った。やがて負けが続き、財布は空になり、気づけば消費者金融のカードを作っていた。最初は一社だけ。だが、借りた金は一瞬で消え、二社、三社……最終的には五社から借り、借金は百万円近くに膨らんだ。


 アルバイトも始めたが、稼ぎは利息の支払いで消えた。働いても働いても、借金は減らない。部屋は散らかり放題で、昼夜逆転。スマホの画面だけが、俺の世界だった。


 そんなとき、SNSに流れてきた一本の広告が目に入った。


 ――「海外高額バイト!日当10万可能!日払いOK!」


 光る文字と、笑顔のモデル写真。頭が痺れるような感覚に包まれた。日当十万。たった一日で、借金が消えるかもしれない。俺は迷うことなく、応募ボタンを押していた。


 一か月も働けば借金も全部返済できて、またスロットで遊べる。そんな甘い皮算用で、俺は生きていた。 パスポートは高校の時の修学旅行で台湾に行ったから、すでに持っていた。だから応募も迷いはなかった。気が付けば俺は、バンコクのスワンナプーム国際空港に立っていた。


 入国審査を抜けた先で、俺の名前を掲げた日に焼けた若い日本人が立っていた。「さぁ、こっちに車を用意してるから」 言われるままにその男についていき、バンに乗り込んだ瞬間だった。


 冷たい金属の感触が、こめかみに押し当てられる。 ピストルだ。息が止まり、心臓が耳の奥で爆発するように鳴った。 目隠しの代わりにパスポートを取り上げられ、低い声が囁く。「逃げたら、殺す」


 バンは窓を黒いカーテンで覆われ、行き先も分からないままガタガタと揺れた。 着いた先は、ジャングルに囲まれた荒れた建物だった。 そこが俺の“職場”となった。


 仕事はただ一つ。 与えられた携帯電話とマニュアルに従って、一日中、詐欺の電話をかけること。 偽の警察官になったり、行政職員になったり、時には弁護士を名乗ったり。 日本の老人たちを騙す言葉を、口に出すたびに、胃の奥が冷たくなる。


 もちろん、報酬なんて一円も払われない。 出されるのは生き延びるための食事だけ。 夜は硬い床の上に転がるだけで、蚊の羽音と遠くの犬の吠える声で眠れない。


 ――この生活が、いつまで続くんだろう。


 考えるだけで、胸の奥が重く沈んだ。 絶望しか、なかった。


 逃げるにはどうしたらいいのか――そればかりを、毎日考えていた。受話器を握る手は汗で滑り、耳にあてた先からは、震える老人たちの声が流れ込んでくる。嘘を重ねるたび、胃の奥が冷たくなった。けれど手を止めれば、次に銃口が向くのは俺だ。だから指は、震えながらもボタンを押し続けるしかない。


 日本人のかけ子は、ここでは特別扱いらしかった。日本語を話せることは、それだけで武器になるらしい。だから俺と、もう一人の先輩だけは個室。とはいえ、四畳半ほどのコンクリート打ちっぱなしの部屋だ。壁は湿気で黒ずみ、カビの匂いが鼻を刺す。夜になると、床を這う虫の音が耳の奥でカリカリと響き、眠れやしない。


 一方で、中国人やタイ人のかけ子たちは十人近くが一部屋に詰め込まれているという。廊下に立つと、扉の隙間から漂う汗と飯のにおい、押し殺したすすり泣きが伝わってくる。まるで獣舎のようだった。


 夜、薄暗い蛍光灯の下、先輩と小声で話すのが唯一の心の支えだった。「ここを仕切ってるの、中国人マフィアらしいぞ」「……場所は、ミャンマーだとよ。タイの隣だってさ」


 先輩の顔は青白く、目の下には濃い隈ができている。囁き合う言葉が、闇の中で重く沈んだ。


「外に川があるらしい。渡ればタイだけど……」「見張りがいるんだろ? 逃げたら撃たれるって話だ」


 想像するだけで背筋が冷えた。川の黒い水面と、月明かりに光る銃口が脳裏に浮かぶ。


 情報を集めれば集めるほど、希望は削られていった。マフィアたちはミャンマーの軍事政権に金を払い、この拠点を丸ごと守らせているらしい。昼も夜も銃を持った男たちが巡回し、逃亡者は容赦なく撃ち殺される。


 この国境の闇の中で、俺は生きながら土に埋められている気分だった。 呼吸をするたび、胸の奥が重く沈み、喉の奥に絶望の味が広がった。


 ここで拉致監禁されて、どれだけの月日が過ぎたのかもう分からなかった。壁の汚れも天井の染みも目に焼き付き、昼と夜の区別すら曖昧だった。世界は、呼び出し音と老人のか細い声だけでできていた。脱出の夢は、いつしか諦めに変わり、心の奥で静かに腐り始めていた。


 その日も、俺は受話器を握りしめていた。口に出す言葉は詐欺マニュアルの台詞で、心は空っぽだ。そんなとき、突然、広い作業場にけたたましい警報が鳴り響いた。耳を裂くような非常サイレン。胸が跳ね、手の中の受話器が震える。見張りの男が罵声を飛ばしながら走り去り、部屋の中に一瞬だけ静寂が落ちた。


「……今なら、チャンスかもしれない」 同じ日本人のかけ子が、青ざめた顔で囁く。俺は無意識に頷き、息を殺して扉の方を見つめた。


 直後、外から乾いた銃声が響く。バンッ、バンッ。壁を震わせる衝撃と、腹の底まで響く振動。恐怖が現実に変わり、全身の血が凍る感覚がした。


「逃げる準備、しておけ……」 先輩のかけ子はそう言い、扉をそっと開ける。廊下の影に身を潜め、しばらくして戻ってきた彼は、荒い息を吐いた。


「外で……タイの国防軍と、この拠点のミャンマー軍が撃ち合ってる! 今なら……今なら逃げられる!」


 心臓が破裂しそうだった。俺たちは目を合わせ、無言で頷くと部屋を飛び出した。


 廊下を抜けた瞬間、世界が変わった。昼間なのに煙と砂埃で空は茶色く霞み、銃声が四方八方から飛んでくる。自動小銃の連射音が耳を打ち、どこかで誰かが悲鳴を上げた。火薬と土埃の匂いが混じり、肺の奥が焼けるように熱い。


「走れ……止まったら死ぬぞ!」 先輩の叫びが背中を押す。俺たちは無我夢中で走った。心臓が爆発しそうで、息は喉で途切れ、足は鉛のように重い。それでも止まれなかった。


 川の方へ向かうと、戦闘はさらに激しさを増していた。対岸から銃口の閃光が瞬き、川面に波紋が広がる。弾丸が水を跳ね、冷たい飛沫が頬を打つ。


「だめだ、こっちは無理だ! ジャングルに行くぞ!」 先輩が叫ぶ。俺たちは反対側の森に飛び込んだ。葉をかき分け、枝が顔や腕を引っかく。背後では銃声が途切れず、爆発音まで混じる。心臓が耳の奥でドクドクと鳴り、世界がその音しかないように感じた。


 そのとき、乾いた音が一際大きく響いた。


「ぐっ……!」


 振り返ると、先輩が膝をつき、地面にうずくまっていた。肩口が赤く染まり、苦痛に歪んだ顔で俺を見上げる。


「逃げろ……! お前だけでも……!」


 迷う暇はなかった。恐怖と生存本能が背中を突き飛ばし、俺はジャングルの奥へ駆け込んだ。枝が頬を裂き、泥と血の匂いが鼻に満ちる。背後では銃声と悲鳴が混じり合い、地獄の合奏のように森にこだました。



 思えば、あの地獄の施設でさえ、従順にしていれば三食は保証されていた。だが、ここには食事も水もない。人の気配もなく、あるのは得体の知れない獣の遠吠えと、耳障りな虫の羽音だけ。太い蔓が蛇のように絡みつき、どこかで鳥の甲高い声が響く。弱肉強食の世界で、武器を持たない人間など最下層にすぎないと痛感した。


 サバイバルの知識など皆無の俺にとって、この場所は生き地獄そのものだった。地面に落ちた枝は湿り気を含んで火も起こせず、葉をちぎって口に入れても、舌の上に広がるのは渋みと苦味だけ。ときおり訪れる猛烈なスコールの雨が唯一の救いだった。葉にたまった水をすくって口に含むと、冷たい水分が喉を潤したが、すぐに唇がヒリヒリと焼けるように痛んだ。毒のある成分かもしれないと、飲み下した後に恐怖が込み上げる。


 体は泥と汗にまみれ、脚は鉛のように重く、視界はぐらぐらと揺れる。耳の奥では心臓の鼓動がやけに大きく響き、遠くで聞いたこともない鳥の鳴き声が不気味にこだまする。足を止めれば、そのまま地面に沈んでいきそうだった。


 ――あぁ、俺は、このままここで野垂れ死ぬのか。


 胸の奥を絶望が締め付ける。木々の間から差すわずかな光が、まるで墓穴に落ちる前の最後の陽光のように、滲んで見えた。


 泥にまみれ、足を引きずりながらジャングルの奥をさまよっていたそのときだった。背後で、かすかに土を踏む音がした。湿った落ち葉を押しつぶす、ぺちゃりとした生々しい音。


 ――追っ手か?


 胸がひゅっと縮み、心臓が喉にせり上がる。捕まれば、もう生きては戻れないかもしれない。だが、このまま逃げ続けても、飢えと渇きで死ぬだけかもしれない……。投降するのも一つの手か、と頭の片隅で思いながら、俺は近くの大木の陰に身を潜め、息を殺した。


 やがて、視界に入ってきたのは――ぼろぼろの軍服を着た日本兵の姿だった。肩や胸の階級章、古びた鉄製のヘルメット、腰にぶら下がる錆びた水筒と革の装具……ドラマや映画で見たままの旧日本軍の兵士の姿だと、瞬間的に分かった。そして同時に、直感した。これはこの世のものではない、と。


 肩は泥に汚れ、青白い顔には生気がなく、虚ろな目をしている。足を引きずる者、片腕を失った者、頭に包帯を巻いた者……彼らは列をなすこともなく、無言のままジャングルの中を進んでいた。


 心臓が、どくん、と跳ねた。あれは、間違いなく日本人だ。だが、なぜここに……? 生きているのか、死んでいるのか、それすら分からない。汗が背中を伝い、手のひらは泥と混じった冷たい汗で濡れていた。


 そのとき、不意に背後に気配を感じた。空気がひやりと冷たくなり、首筋に氷を押し当てられたような感覚に襲われる。ゆっくりと振り向くと――そこに、口から血を流した青白い顔の日本兵が立っていた。


 その目は焦点が合わず、口がだらりと開いたまま血を垂らしている。距離はほとんどなく、視界の上いっぱいにその顔が迫ってくる。腐葉土と鉄のような血の匂いが鼻を突き、足がすくんだ。


「う、うわあああああ……!」


 全身を恐怖が貫いた。喉が焼けるように乾き、声は勝手に漏れ出ていた。


  青白い顔の旧日本兵を目にした瞬間、俺の頭の中に、突然映像が流れ込んできた。まるでその兵士が直接見せているかのような、生々しい光景だった。


 暗いジャングルの中、泥だらけの兵士たちが列をなして進んでいる。肩に担いだ銃は錆び、足取りは重く、誰もが疲れ切った顔をしている。空腹で頬はこけ、唇は乾いて割れ、目の奥には光がなかった。歩く者の隣では、力尽きて倒れた兵士がそのまま動かない。数人が近寄るが、もう起き上がらせようともしない。雨に打たれ、やがて列はまた前へ進んでいく。


 映像の中で、声なき説明が頭に響いた。敵は、インドを植民地支配しているイギリス帝国軍と、その支配下にあるインド帝国軍。日本軍はビルマを解放し、次なる目標はインドの植民地解放だった。ビルマの人々も、一部は彼らを助けてくれた。だが、その善意をもってしても、作戦そのものは無謀だった。大本営は補給の現実を無視し、兵士たちは餓えと病に追い詰められ、死地を歩かされていた。


 銃声もほとんどなく、代わりに耳を満たすのはジャングルの虫の声と、遠くで雷のように響くスコールの音だけ。倒れた兵士の周りには、飢えたハエと湿気が漂っていた。銃弾ではなく、飢えと熱帯の病が命を奪っていく戦場。


 ――これが……この人たちが辿った末路……。


 俺は歴史に疎い現代人だ。インパール作戦という言葉を、ニュースやネットで聞いた程度だった。だが、この兵士の頭から流れ込む映像で、どれだけ悲惨な状況だったのか、体の芯まで理解してしまった。


 脳裏に響くのは、風と雨の音、そして沈黙。歩きながら力尽き、そのまま密林に飲まれていく兵士たち。骨と破れた軍服だけが残され、やがて苔に覆われる無名の亡骸。


 映像が途切れたとき、背筋に冷たい汗が伝った。 ――あぁ、俺はいま、その亡霊たちが歩いた道を、同じように歩いているんだ。


 恐怖と戦慄が胸の奥で渦巻き、足は地面に縫い付けられたように動かなかった。


 青白い顔の日本兵は、何も言わずに手をわずかに動かした。まるで「ついてこい」と無言で促すようだった。気づけば、俺の足は勝手に動いていた。恐怖で固まったはずの体が、何かに引かれるように亡霊の隊列へと加わっていく。


 前を行く兵士の背中は泥と血にまみれ、服は破れて所々から骨がのぞいている。列はゆっくりと密林を進むが、誰一人として声を発さない。俺はその中に混じり、足を引きずるように歩き出した。


 ふと、前の兵士の肩に手が触れた。……透けている。指先には何の感触もない。ぞっとして手を引っ込めた瞬間、背筋を冷たいものが駆け抜けた。やはり、この者たちはこの地で命を落とした亡霊なのだ。


 ジャングルの奥深く、湿った空気と腐葉土の匂いに包まれながら進むうちに、ふと頭に過った。――もはや自分も死んだのかもしれない。生きている感覚が遠く、足は鉛のように重いのに、体は霧の中を漂うように軽い。


 そのとき、頭の中に走馬灯のように映像が流れ始めた。パチンコ店のネオン、スマスロットの大当たりの画面、千円札を入れる自分の手。借金で鳴るスマホの着信音。散らかった部屋、カップ麺の空き容器、昼夜逆転の生活。夢も目標もなく、自堕落な日々を送っていた自分の姿が、次々と浮かんでは消えていく。


 列は無言で進む。濃い緑の闇に包まれたジャングルを、俺は亡霊たちに導かれながら歩き続けた。遠くで鳥の鳴き声が木霊し、湿った風が頬をなでる。だがもう、ここが生者の世界なのかすら分からなかった。


 日本兵の隊列に加わって、どれくらい歩いただろうか。時間の感覚はとうに失われ、太陽の位置すら見えないジャングルの中で、ただ湿った土を踏みしめる音だけが世界のすべてだった。


 相変わらず頭の中では、まるでこの兵隊たちに怒られているかのような映像が繰り返されていた。パチンコに通い、借金を重ね、夢も目標もなく自堕落に過ごしてきた自分。さらに詐欺組織に騙され、拉致され、かけ子として働かされていた日々。兵士たちが無言で「バカ者」と叱責しているように思え、胸の奥が焼けるように熱くなった。


 ――あぁ、しかし喉がからからだ。死んでも喉は渇くのか。


 そんなことを思いながら歩いていると、遠くから水のせせらぐ音が聞こえてきた。耳を疑い、必死に音のする方角に目を凝らす。ほどなくして、ジャングルの中に細い小川が現れた。光を反射して揺れる水面が、天国の入り口のように見えた。


 俺は夢中で膝をつき、両手ですくった水を口に運んだ。冷たく清らかな水が喉を駆け抜け、命が蘇るような感覚に全身が震えた。泥と汗と絶望に覆われていた体が、一瞬だけ生者に戻るようだった。


 そのとき、ふと視線を上げると、小川の対岸に日焼けした現地の人影が立っていた。彼は目を見開き、俺と、その後ろにずらりと並ぶ日本兵たちを見て、何かを叫んだ。


 直後、茂みの奥から仲間らしき人々が次々に現れた。皆が口々に叫び、指をさしながらこちらに向かって何かを叫んでいる。ジャングルの静寂は破れ、水の音と叫び声が混じり合って渦巻いていた。


 ――一体、どうなるんだ……。


 小川の水で喉を潤しながら、俺は震える指先で顔をぬぐい、対岸を見た。日焼けした現地人たちは、さっきまで叫んでいたのをやめ、ゆっくりと横一列に整列した。そして、こちらに向かって腕を上げ、静かに敬礼した。


 何が起きているのか理解できず、俺はとっさに振り返った。


 背後に並ぶ日本兵たちも、全員が無言で敬礼を返していた。破れた軍服の袖が、ゆっくりと上がる。泥にまみれた顔は真っ直ぐで、どこか誇りを宿しているように見えた。


 その瞬間、俺の頭の奥で声が響いた。


 ――俺たちは、こんなバカな子孫のために戦ったのではない……。


 胸の奥が鋭くえぐられるようだった。言葉に詰まり、喉が熱くなる。振り返ると、日本兵たちの姿はすでに揺らぎ始めていた。川の風に吹かれる霧のように、輪郭が薄れ、やがてジャングルの緑に溶けるようにして消えていった。


 川のせせらぎと、自分の荒い息だけが残った。俺はしばらくその場に立ち尽くし、何も言えなかった。



 その後、俺は対岸にいたミャンマーの現地の人たちに保護された。泥と汗にまみれた体を支えられ、彼らの小舟で川を渡る。まるで夢の中のような時間だった。そこから数日後、俺はヤンゴンにある日本大使館に引き渡された。


 後に分かったことだが、あの詐欺拠点を急襲したのはタイ警察と中国の部隊だったらしい。国境沿いに作られた拠点は、以前から治外法権のような状態になっていたという。あの場所では、中国人が拉致されて詐欺に使われる被害が相次ぎ、観光客も減少していた。そのため、タイと中国が共同で武装部隊を送り、ミャンマー軍との調整のもと制圧したとのことだった。


 日本に帰国すると、俺は詐欺に関与した罪で逮捕された。逃げ延びても、現実は甘くはなかった。求刑は懲役三年。しかし、五年の執行猶予がついた。


 帰国してから、俺は自分の人生を振り返りながら、歴史を学び直した。なぜ、あの小川で現地の人々が俺たち日本兵の亡霊に向かって敬礼をしたのか――それを知るために。敗戦から遠く離れたこの地で、彼らが見た日本兵とは何者だったのか、そして俺は何を受け取ったのか。その問いが、心にずっと残り続けていた。


 歴史を学ぶにつれて、あの敬礼の意味が、心の奥深くに染みるように分かってきた。


 当時、あの日本兵たちが戦っていたのは、植民地支配に苦しむアジアの国々だった。大東亜共栄圏の名のもとに、日本は欧米列強の支配下にある土地を次々と解放していった。ビルマもその一つで、イギリスの旗が翻っていた町々に、日本軍の進軍は解放の光をもたらしたと言われる。熱帯の空気の中、現地の人々が日本兵に水を差し出す古い写真を、資料館で見たとき、胸の奥がじんと熱くなった。


 戦後、ビルマはミャンマーとなり、長く軍事政権下に置かれた。その礎を築いた軍部の訓練や組織作りを指導したのは、かつての日本兵の生き残りだったとも伝えられている。もちろん、戦後のミャンマーは軍事政権と民主化勢力の内戦に揺れ、全てが正しかったとは言えない。だが、植民地の鎖を断ち切ったことを感謝する人々は確かに存在した。


 ――あの小川で敬礼した現地の人々も、先人から聞かされていたのだろう。命を賭してビルマのために戦った日本兵の話を。


 のちに祖母から聞いた話で、俺は衝撃を受けた。祖母の父、つまり俺のひい爺さんは、ビルマに出兵し、そこで戦死していたのだ。俺があのジャングルで見た亡霊は、まさにその人だったのかもしれない。


 終戦記念日、お盆の墓参りの日。朝の陽射しは柔らかく、蝉の声が遠くで響き、線香の香りが夏の湿った風に乗って漂う。俺は静かに墓前に立ち、手には献花と水を持っていた。墓石は朝露に濡れ、空を映してわずかに光っている。


 ゆっくりと水をかけると、冷たい水が石肌を伝い、しゅるしゅると土に吸い込まれていく。水音を聞きながら、胸の奥から自然に言葉がこぼれた。


「ありがとう、ひい爺さん……これからは、自分なりに恥じない生き方をするよ」


 その瞬間、水をかけた墓石の水面が、風もないのにふわりと揺れた気がした。光が反射して、小さな波紋がきらめく。まるで、「分かった」と応えてくれたように、静かな余韻が胸に広がった。


 【了】

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