3.お姉さんとお風呂
「……で、本当に住むの?ここに」
リリスは半ば呆れたように、魔王城の広すぎる寝室を見回していた。
壁は漆黒の大理石、天井にはシャンデリア。ベッドは…まさかのキングサイズが一つだけ。
「ふふ……。陽斗くんと私が使うベッドよ。他のふたりは、どこか空いてる部屋にどうぞ?」
「なっ……っ、なに勝手に決めてんのよ!!」
「は、破廉恥です……っ!!」
ぐっと拳を握りしめるリリス。顔を真っ赤にするアリシア。
そんなふたりを見て、天音さんは、くすくすと笑っていた。
「こんなことで動揺してしまうなんてお子様ね?さあ、陽斗くん?さっそくお風呂に入りましょうか?」
「……おいおい、天音さん。からかわないでくれよ」
「ふふ、からかってないわ。むしろ本気。……ねえ、陽斗くん」
そう言って、彼女は俺のすぐ隣に来た。
その豊かな胸が、腕に押し当てられる感触が、あまりにやわらかくてーー。
「ちょ、ちょっと離れてくれませんか……!?」
「どうして?昔はもっとくっついてたじゃない?」
耳元で囁かれて、体温が一気に上がる。
「はあ、もう見てられないわ!!行くわよ、アリシア!」
「は、はい………っ!」
呆れたリリスとアリシアは、別の部屋へ行ってしまった。
おいおい、この状況助けてくれよ。
「さて、邪魔者はいなくなったし…お風呂にいきましょうか?私を倒す方法を見つけるんでしょう?」
「そ、そうですけど……。」
「……見つかるかもしれないわよ?ほら、服の下に、何か隠されてるかもしれないし…ね?」
俺は昔から、天音さんには逆らえない。
「………わかりました。一緒に入りましょう。」
「ふふっ…。素直な子は好きよ?」
☆
ここは魔王城の浴室――とは思えないほど、幻想的で広大な空間だった。
床は濃紺の石が敷き詰められ、湯船はまるで小さな湖のよう。湯気がたちこめる中、金色の灯りが水面に反射して、まるで夢の中にいるような錯覚を覚える。
「驚いた? 異世界って、たまには悪くないでしょ?」
そう言いながら、バスタオル1枚だけを纏った天音さんが艶やかに微笑んでいた。
「さぁ、さっさと入って。私のこと、倒すために観察するんでしょう?……この体の隅々まで。」
わざとらしく胸元を見せてくる。こっちの鼓動が跳ね上がる。
「……俺は真面目に、話を……」
「照れてるの?可愛いわね。とりあえず、身体、洗ってあげようか?それともーー私の身体、洗いたい?」
「どっちもダメに決まってるじゃないですか!!」
「だーめ、どっちか。そしたら…昔みたいに、背中流してあげましょうか?」
「………っ背中だけですよ。」
やっぱり俺は、天音さんに弱い。
☆
「ふふ……だいぶ筋肉ついたのね。特訓の成果、ってやつ?」
指先が、ぬるりと背中をなぞってくる。爪の先がかすかに触れて、ぞくりとした。
「ほら、力抜いて。硬くなってるわよ?」
「し、仕方ないじゃないですか……こんな状況……!」
「状況?ただ、昔みたいに背中流してるだけよ?」
背後で、天音さんがくすっと笑う。その息遣いが、耳に近くて――
「はい、おしまい。じゃあ次は陽斗くんが私の背中流して?」
「は、話と違うじゃないですか!!」
俺がそう叫ぶと、天音さんはわざとらしく小首を傾げて、
「え? 背中だけって約束だったでしょ? ほら、私も洗ってって意味よ?」
「そ、そんな言い方ずるいですよ……!」
「じゃあ、洗ってくれないの?昔はお風呂でいつも、お姉ちゃんの背中流すー!って張り切ってたのに」
「それは小学生の頃の話でしょ!!」
「ふふっ……あの頃の陽斗くん、可愛かったなあ。一生懸命、背中流してくれたわよね?お姉ちゃんの背中を流すのは僕のお仕事だ!って…。」
顔を手で覆いたくなる。過去の自分、勘弁してくれ。
「で?背中は流してくれるのかしら?」
「……わかりましたよ。やりますよ。背中だけですからねっ!」
「ふふ。お手柔らかに、お願いね」
そう言って、天音さんは湯船の縁に背を向けて座る。
長い髪を片方にまとめて、うなじがあらわになる。湯気で上気した白い肌が、妙に色っぽくて、喉が乾く。
「……じゃ、失礼します」
手に取ったタオルに石鹸を泡立てて、そっと天音さんの背に触れた。
「なんだか、緊張してるみたいね?」
「……そりゃしますよ!」
その後、少しの沈黙の後、天音さんは囁いた。
「ねぇ、陽斗くん。魔王って、孤独なものなのよ」
「……え?」
「私が、こうして誰かと楽しくおしゃべりするなんて、この世界に来てから初めてよ。」
ぽつりと、湯気の中に溶けるようにこぼされたその声には、ほんの少しの寂しさが混じっていた。
「あなたが来てくれて、嬉しかったの。たとえ勇者でも、たとえ倒される運命でも。」
「……天音さん……。」
「でも今日は、運命の話なんてやめましょう?ね。もう少しだけ、あの頃みたいに――私の陽斗くんでいて?」
そう言って振り向いた天音さんは、ほんの少し、潤んだ瞳で俺を見ていた。
「……っ」
ドクン、と胸が鳴る。
俺の手は、まだ彼女の背中に触れたまま。
でも次に動くのは、きっと心のほうだ。
…そう直感した。
「……わかりました。今日は、俺が背中を流します。徹底的に、綺麗にしますからね」
「ふふ……優しいのね、陽斗くん」
そしてふたりの間には、温かなお湯よりももっと柔らかな、
心の距離を縮める沈黙が流れていた。