#2
ビルの窓から見えるせわしない都会と言うものに、心底嫌気と恨みと、卵の砕けた殻ほどの期待を混ぜつつ、秋津島泉は自ら成長を促してきたはずの、社会に対する完全な理想にくじけそうになっていた。重圧と言うのが息をするなら、その呼吸音は低く大きく彼女の体の中で響くようだった。
その気持ちはは蓄積によるものと、今日、この瞬間に来たものでもあった。理由は明白だ。互いに殺し合いの歴史を持つ相手が、来訪してくるからである。
彼女はいら立ちを抑えつつ、スマートウォッチを見る。午後12時37分。念のため悠久の時を刻み続ける、経年を色濃く残す茶色いグランドファザークロックも見た。当然、同時刻を示す。結果は分かってはいるが、花柄の赤い壁掛け時計も見た。タイムトラベルは当たり前に、成立していない。自らの諦めの悪さをかき消すように、一気に2リットルのコーヒーを飲んだ。アシスタントAIの「明らかに飲み過ぎです」という可愛げのない警告を無視し、大きなため息をついた。
ちょうど彼女が歯磨きを終えた頃、ドアを叩く音がした。
「ノックは3回。6秒以内に」
「ルールは覚えない主義だ」
「死んででも体に刻み込みなさい、ジオール・シェイファー」
その男は痩せ過ぎず太り過ぎず、青と白のチェック柄のバケットハットを被り、紺色の燕尾服を着ていた。ティラノサウルスの頭蓋骨を模した持ち手の付いた杖を持っている。一見物腰柔らかそうなその風貌や体格にそぐわない、圧倒的に黒い邪悪な何かを隠し持つ気配を抑えきれてはいなかった。
「会長、申し訳ありません。急な予定変更……」
ジオールの後ろから現れた女性は、一瞬泉の右腕につけているブレスレットを見て、表情が全停止した。しかしすぐに動き出すと、自らの役目を全うした。
「……になり、このような形に。クリューゲル氏とウィレス氏には確認済みです」
「ありがとう、藍さん。今日は莉生に全て任せるから」
泉は一礼して部屋から出ていく藍を、睨みつけるようにずっと見つめていた。
「相変わらず忠犬を見つけるのが得意だな、ミズ秋津島」
まどろっこしいその煽りに彼女は思わず、ジオールの首を粉々にしてやろうかと思った。もちろん彼女の理性は正常である。しかし目の前の男は、そのブレーキをいとも簡単に揺さぶってくるのだ。
「要件を言いなさい。哀れでピエロなキザ似非紳士さん」
敢えて翻訳アプリを介さずに生の英語でそう言った。あからさまに不機嫌な顔を保っていたジオールも、大きく舌打ちをし、怒りのこもった足音を立てて泉に詰め寄った。
「これでも優しさには自信があってね!」
ジオールは机を叩いた。だが、その程度の見え透いた虚勢で動じる秋津島泉ではなかった。憐れみを僅かに含んだ、彼女の鋭い双眸がジオールの顔をブレることなく見つめていた。
「……ネプチューンプロジェクトを嗅ぎつけたんでしょ?」
「地球は私の庭だ。あんたもそうだろう?情報の隠匿は不可能だ」
「だからせめて、情報の伝達速度を遅くしてるんだけどね」
その瞬間、ジオールは訝ったように眉をひそめ、机からゆっくりと手を離した。何秒か髭を触りながら考え込む表情をした。そして頭を少しだけ横に振ると、再び机に手を置いた。
「ようやくストレスの原因の謎が解けたよ。全く、相変わらず性格の悪いことをする」
「それで?まさか資金援助?レクス・タリオニスからでも……」
泉はジオールの人物評を冷たく無視し、話を進めた。
「たまには慈善活動だ」
今度は泉が訝しんだ。「慈善」などという言葉を初めて使ったのではないかというくらい、この男とは縁遠い言葉。それが泉の、いや世間一般の彼に対するイメージだろう。そしてそれは実際に、間違っていない。他人に苦痛やトラウマを与えることはあっても、慈しむ心を解放することなどない。
「だとしても、各国政府や組織、企業に同意を得ないと無理。死なない死刑囚にスポンサーが付くとでも?」
「卑しいほど人望の厚いあんただ。期待している」
抗議をする泉をしり目に、ジオールは部屋を後にしようとした。しかし出る寸前で振り向き、死神のような笑顔で泉の方を向いた。
「言い忘れていたが、美白は元気だ」
「勝手に細胞を世界中に拡散させられた気持ちが分かるの?」
「分からないから買った」
「そんなのが親とはね」
「秋津島莉生も大差ないだろう」
「……祷音も入れなさい、せめて。それにあなただって──」
「シュロハスは大事な家族だ」
わざとらしく「大事な家族」の部分を強調して、ゆっくりと喋った。そんなジオールに愛想を尽かした泉は、早く出て行けとでも言うように、彼に背を向け再び窓の外に広がる景色に目をやった。しかし後方からドアを開け閉めする音が聞こえなかったので振り返ると、ドアは無く、その位置の床には泥が広がっていた。
ジオールは暗い廊下を通り、とても適法とは思えない建付けの古く錆びたドアを開けた。正確に言えば、半ば蹴り飛ばす形だ。
中には男女6人。それぞれ思い思いに、暇を潰しているようだった。それに目をくれず、群れのボスライオンが如く、その部屋に似つかわしくないほどの高級ソファに堂々と腰を下ろした。
「どうだったの、父さん?」
モバイルゲームを操作しながら、皺だらけの薄手ジャケットとジーンズを着た女が聞いた。態度からは答えを求めている感じはしない。その他の者たちもそこまで集中してはいなかった。
「あの女の悪い癖だ。はっきりと答えを言わない。それにお前の名前を出したら、キレたしな」
彼は両脚を広げ、両腕は背もたれに預け、首は脱力し天井を向いていた。まるで魔術のように彼が着ている服装は光の粒子状となり黒いスウェットへと変わった。
「あたしだってあのババアはムカつくよ。いつも邪魔してくるし。で、どうするの?」
来栖美白は、一旦遊びを中断し、父親の方を向いた。
「勝手にやればいい。お前の方はどうなんだ?来栖家の遺産は取れそうか?」
「うん、多分ね。ったく、60年も掛かると思わなかったよ」
「お前はまだ、サピの感覚だな」
相当に怒りを溜めていたのか、再び彼女はゲームの世界へと帰り、画面を強めにタップしていた。
「私の資産を頼ればよかったのに」
ちょうど美白の隣に座っていた大柄な女が口を挟んできた。彼女は中世ヨーロッパの王族のように、優雅で威風堂々とした佇まいで、紅茶を嗜んでいた。
「アメリカ政府がしゃしゃり出るだろう。エイブラムス元大統領」
「ホークなら大した女じゃない」
「巌菊水もな」
個人的な敵意を噛み殺しながら、2人は陰鬱な共感を震わせた。
多少やる気を取り戻したジオールは、ヴァノリナ・エイブラムスとチェスを楽しんでいた。しかしヴァノリナの圧倒的すぎる実力を前に、取り戻しつつあった気力はむしろマイナスになった。フェリックス・セルスタンが読書を中断し、静かに観戦する中、ヴァノリナが大げさにチェックメイトをしようとしたその時、突然床に海水が広がった。
最初は小さな穴だったが、そこから空間が広がりやがて人が現れた。その人物はジオールたちの状況を一切考えず足音を急がせジオールを目指した。だが、徐平放、ブラート・ボンテボック、パレア・リンドウォールの3人がその行く手を塞いだ。彼らは一様に腕を組み、まるで難攻不落の要塞のように、侵入者を脅していた。だが、侵入者の方も引く気は毛頭無く、全くの躊躇を廃して剣を抜き目の前の壁に突きつける。
「相手は選べ。死ぬぞ」
「ボスに何の用で?」
その中ではリーダー格のブラートが、重低音を響かせた。
「あの話だろう?だから本当だと言っている」
汚い床を満たす海水段々と上がっていきジオールとなり、完全に姿を取り戻した彼は、侵入者の肩を軽く数回叩いた。その服装は燕尾服に戻っていた。
「地上の奴らは狂ったのか?」
「だから宇宙移民を受け入れる。とは言え、ノスト。君も戦争は嫌だろう?」
「陛下も臣民も、そこまでは望んでいない。だが──」
「安心しろ。私は顔が広い。だがもしもの時は……」
「君たちが裁きを下せ。そうなれば、私の責任だ。私はそれを受け入れよう」
怒りで満ちていたノストの顔は、徐々に平静を取り戻していった。そして「陛下にそう進言する」と言って、例の穴を再び空間に空け、去って行った。先例に従い、再び床に海水が入ってきたが、それを気にする者はその場にいなかった。
「……ある意味、政治家の才覚があるのかもね」
きっちりとキングを討ち取っていたヴァノリナは、いつにも増して抑揚なく呟いた。
「こんなに早く向こうから食いついてくれて。幸運だった。久々に教会でも行くか」
ジオールは再びソファに頼った。今度は寝そべり、誰に向けるでもなく薄ら笑いを形成し、天井を見つめていた。




