#1
もし神の領域があるなら、神と人との境界を埋めようとする意思が存在するのか。それが人だけに許された特権だと言うのであれば、名前を与えなければならないだろう。あるいは「祈り」というライフラインを人の文明に復活させなければならない。絶えず歪みの中で生かされることを生命というのであれば、神はその歪みを正しく認識し創造し破壊し、そしてあらゆる概念と物質を内包した超然の存在でなければならない。真理と言う棺の中に何を詰めるかで、その真理自体の価値が決まる。神とは常にその墓守でなければならないのだ。
どこまでも澱みのない暗黒の中で、同じ顔をした2人の女性と1柱の神が向かい合っていた。神の姿は一定ではなく、金色の毛色の犬、痺れた禿頭の青い老人、平面的な黒い妊婦、踊り狂うピンク色のスマートフォン、赤い血が滲んだ午前3時の校舎、白金色に輝く双頭のティラノサウルスなど、次々に変身していく。
「私たちが貴方の力を阻害しているとでも言うの?」
短髪の女性があからさまに苛立ちを抑えないトーンで、この暗黒よりも冷たく言葉を刺した。
「それは内なる者らの宿命ではない」
その声は全方位から湧き出るように現れ、2人の耳に沈んでいく。しかもその声は年齢、性別はバラバラで言語すらも統一されていない。悍ましく禍々しい音の集合体であった。
「貴様らの影響力など、所詮はこのマルチヴァース単位にしか及ぼせない。私たちはオムニヴァースに影響する」
髪の長い方が、最後の方をわざとらしくゆっくりとした口調で、そう言い放った。もう一人の方はそれに対して一瞬だけ、彼女の方を睨むように目をやっただけでコミュニケーション拒否を貫いた。
「とにかく私は貴方に干渉する気はない。あくまで貴方が同じスタンスであることが、必要な条件だけど」
「我はアザトース。おまえたちの『知』を求む」
「それは良いけど、ヨグ=ソトースに頼めば。そもそもどこに行ったの?」
「我は万物の王。故に子らに乞うことはなし」
「そういうことなら。魔王、私はあなたを見捨てられない」
彼女は手を伸ばしたが、それを言葉で制止しようとする者は、彼女のすぐ背後にいた。まるで大きな鬣を逆立てた獅子のように。
「それが『秋津島泉』の総意であると言われるのは、癪に障る。そいつのような偽善的慈善家ばかりだから、世界は嘔吐し続けるのだ。なぁ、ヨグ=ソトース?」
その瞬間、虹色の球体が出現した。それは物理法則を無視した動きで人型に変形し、シャワーのように降り注いできた銀河の渦がその中央の溝に吸い込まれ、やがて真に人の姿を成した。
「私はただ、あらゆる時空と空間と繋がり、君たちを監視しているだけ。しかし必要ならば、責務を果たさなければならない」
「神に責任を取らせ、義務を奢るのは、人の特権だ。私はその女ほど、子守りの忍耐は無いからな」
「私は偉大なる王のために出来ることを成すだけだ」
長髪の秋津島泉は一瞬、アザトースをひびだらけにしてヨグ=ソトースを大鷲のような目つきで見つめた。
「雄大で荘厳なる神々が家族遊びか。反吐が出る」
時間はわずかに逆行し、元に戻った。
「そこまでにして。争ってどうするの。まったく……」
諦めというよりも、自身の不文律を躊躇なく破ってしまうほど深く引き伸ばされた苛立ちの顔で、短髪の秋津島泉は頭を小さく横に振った。
「だったら、戦闘と講義を同時にやらせろ。ヨグ=ソトース、そのぐらいの神性は出せ」
「私もかの魔王も、争いは望むはずも無い」
「ヨグ=ソトースの言葉が理であろう」
「じゃあ、さっそく始めましょう。渾沌の魔王さん。2000億年の旅はちょっと疲れるから」
ニューヨークの新国際連合本部では、世界中のリーダーたちがその演説を聞いていた。
「我々は今、変革の時にあります。遥か太陽系外の友人たちと手を取り、これまでにない平和を打ち立てる必要があると考えます。我々人類は絶滅の危機を乗り越え進化し、今再び栄華の時代を取り戻しました。進みましょう。広大な暗黒の大海を。望みましょう。大いなる希望の大地を」
シェルパ・ホークの声は1秒にも満たない間、大会議室の空間そのものを漂い続け、雷光よりも瞬間的に散って行った。それがまるでスターターとなったように、会場の者たちは総立ちとなり万雷の拍手で満たされたその場はさながら、歴史に名を刻む女王の誕生を祝うようでもあった。
シェルパは何度「ありがとう」と言ったか、10回を過ぎたころから数えるのをやめた。彼女は会場を後にするまで笑顔を絶やすことは無く、その花道を歩き切った。
その夜、オーゴホテルニューヨーク南店内にあるレストランの個室にて、シェルパは敷島菊水を待っていた。緊張のためかいつもよりも水を飲み、尿意との戦いを抑えるべく能力を使って体内の水分を必要以上にコントロールしていた。
「失礼いたします」
ノックの後、低く重厚な男の声が聞こえてきた。何百年も聞き続けている古い友人の声に間違いなく、シェルパの緊張はわずかに安心に転じた。
「どうぞ」
菊水は一礼し、鮮やかな金色の帯を構える黒い着物を少し直し、シェルパに向か合うように座った。
「ホーク大統領、素晴らしい演説でした。UXニュースですらも褒めてましたよ」
「メディアの評価に興味はありません。民衆のための政治家ですから」
菊水はそれに対してただ頷くだけで、高級赤ワインを一口飲んだだけだった。
「しかし実際問題、彼らの居住区はどうお考えで」
「月面にグラント調査隊の基地が残っているはずです」
「あれは有毒ガスの巣窟です。それにフェローシャスの群れがまだいるかもしれませんし」
「でしたら、泉さんにお願いできますか?あの方なら容易いでしょう」
「構いませんが、今は生体アバターの状態です。それより私は、海上都市を作ることを提案したい」
「ネプチューンプロジェクトの再開ですか?なるほど。それは思いつかなかった。ポーター代表にも協力を要請しましょう」
菊水は大きな牛ステーキを平らげ丁寧に口元を拭き、一切の音を立てずにナイフとフォークを置いた。そしてシェルパに一礼をし、彼女もそれに応え一礼した。柔和な笑顔でそれらの組み立て作業は行われていたが、菊水は刹那にその笑顔を岩石のごとき表情に変えた。
「ところで」
彼は2秒ほど目を閉じると開き、同じ言葉を繰り返す。
「ところで、今宵はあのことでお呼びになったのでしょう」
シェルパはどうにか菊水の眼力を受け止め、冷静になるよう己の全精神に細胞に命じた。
「ええ。我が国の同志のオーガーたちを集めて準備を整えているところです。長くてもあと3か月ほどで」
シェルパは赤ワインを流し込むように飲んだ。もはや味の優劣に浸る余裕はない。120年前、婚約破棄の憂き体験を思い出す緊張が再びこみ上げてきたが、何とか強引に殴り倒した。
「つきましてはあなたと泉さんにも、参加いただきたい」
ゆっくりと差し出した右手に、どういうリアクションがあるのか。それは1秒にも満たずに答えが出た。
「無論、そのつもりです。世界の同志たちもきっと賛同するでしょう」
両者は光あふれる笑顔で、力強い握手を交わした。
「ようこそ。『シークレット・ガーディアンズ』へ」