フィアナの処遇
部屋に戻り扉を閉じる。閉じた扉に背を押しつけるようにしながら、フィアナはずるずると座り込んだ。
「カトル様……」
カトルの剣には──フィアナの渡したスカーフは、巻き付いていなかった。
捨てられてしまったのかもしれない。
フィアナが、カトルに捨てられるように。
堪えていた涙がぽたぽたと落ちて、ドレスを汚した。
母と、同じだ。母も父に捨てられた。
母が嫁いできてからしばらくは、父の愛は母に注がれていた。だが、父は母に飽きたのだ。
より綺麗な女を求めた。自分好みの女を求めた。
カトルも──同じ。
「人の心は、うつろう。私はそれを、わかっていたのに……」
──それでも信じたかったのだ。
イルサナが城にやってきてから、波がひくように、フィアナの傍から人がいなくなった。
新たにイルサナのための部屋が整えられて、侍女たちはイルサナの世話をするようになった。
いつもフィアナの傍にいてくれた者たちも、イルサナの傍に侍るようになった。
カトルも、フィアナの元に訪れることはなくなってしまった。
一ヶ月前の出立の日の会話を最後に、カトルと言葉を交わす機会も失われてしまった。
フィアナは一日中部屋にいることのほうが多かった。
一日一度、食事が運ばれてくる。不機嫌な顔をした侍女が運んで来て、テーブルに置いていく。
銀のクロッシュを外すと、そこには小さな野菜の欠片や、カビたパンが入っている。
「すみません。これは……」
「文字も書けない不出来な王妃様のお言葉は、私どもは理解ができません。田舎の農民の酷い訛りがあるものですから。お食事が足りないというのですか? ろくに部屋から出ないのですから、食べてばかりいたら肥えるばかりですよ。これで十分かと」
フィアナが侍女に尋ねると、侍女は冷たい声でそう言った。
皆、そう思っていたのかもしれない。
確かにフィアナは何もできない不出来な王妃だった。
カトルの元に来てからようやくマナーを覚え、文字を覚えたばかりだ。
王妃とは何をすればいいのかさえ、よくわかっていない。カトルが不在の時も、なにもできなかった。
「そうですね。申し訳ありません」
部屋から出ると、フィアナの姿を見ながら侍女たちが集まって、くすくすと忍び笑いを漏らした。
食事も、衣服も満足に与えられなくなったフィアナを「役立たず」「いる意味がない」「頭のできがわるいのだから、王妃なんて無理だったのよ」と小馬鹿にしている声が聞えてくる。
──そんなことは、慣れていた。
アルメリア家でのあつかいのほうがよほど酷かったからだ。
フィアナは顔をあげて、堂々と回廊を歩き図書室に向かう。部屋の中で読む本がなくなってしまったので、新しく本を借りたかった。
陰口も、笑い声も、それから汚れた服も空腹も、フィアナを傷つけることはなかった。
ただ、カトルの愛情を失ってしまったことが、虚しかった。
図書室で日が暮れるまで本を読み、部屋に戻る。
中庭ではイルサナを中心として侍女たちの笑い声が聞える。
カトルがどれほど情熱的か、どれほど愛してくれるのかを、無邪気に語っている声が聞えるときだけは、耳をふさぎたくなった。
「……あら。フィアナ、まだいたのね」
イルサナが城に来てから数週間。フィアナが本を抱えて部屋に戻ろうとしていると、侍女たちを引き連れたイルサナが廊下の向こう側からやってきた。
フィアナは礼をして一歩避けた。
本来は正妃であるフィアナは避ける必要などないのだが、今の立場でイルサナに立ち向かっても仕方ないことをフィアナはよくわかっていた。
カトルの愛が得られないのに、努力をする意味を、フィアナは見失っていた。
王妃になりたいわけではなかった。権力が欲しいわけでもなかった。
美しいドレスも、宝石も、豪華な食事も、フィアナにとってはあってもなくてもいいものだったのだ。
ただ──カトルに愛してもらい、そしてフィアナも愛を返せればそれで。
──それだけで、よかった。
「来る日も来る日も本ばかり読んでいると聞いたわ。まるで、本の虫ね。死紙虫と言うのだったかしら」
フィアナは、言い返さなかった。
ただイルサナの興味がフィアナから消えるのを、静かに待った。
静かに待っていれば──暴力も酷い言葉も、フィアナの元から去って行くことをよく知っていた。
「ごめんなさいね、フィアナ。カトル様はあなたよりも私が好きなんですって。私のほうが綺麗で、私のほうが頭がよくて、私のほうがずっといいといつも言ってくれるわ」
「……」
「ねぇ、フィアナは言葉を話せないのかしら。あなた、ちょっとお湯を持ってきて。よく湧いているお湯がいいわ」
嫌な予感がしてフィアナが逃げようとすると、侍女たちがフィアナを取り囲んだ。
イルサナに命じられた侍女が、銀のポットに湧いた湯を持ってすぐに戻ってくる。
「顔は可哀想だもの。背中にしてあげましょう。ほら、背中。わかるでしょう? 大丈夫よ、少し熱いだけだもの。言葉が話せるのなら、悲鳴をあげるでしょう?」
「お願いです、おやめください……」
「何か言ったかしら。聞えなかったわ。ねぇ、皆、聞えないでしょう?」
侍女たちに押さえつけられて、フィアナの背に湯がかけられた。
銀の細い口から流れ落ちた熱湯は、フィアナの背中をつたいおちる。
熱さというよりも激痛が走り、フィアナは喉の奥で噛み殺した悲鳴をあげた。
「きゃあああっ、大変だわ! フィアナ、大丈夫!? まさか手を滑らせて、自分で湯を被ってしまうなんて!」
悲鳴をあげ、涙をこぼしながらうずくまるフィアナの前で、イルサナが大声をあげた。
騒ぎをききつけた者たちがやってきて、フィアナはすぐに医務室へとつれていかれた。
侍女たちやイルサナが、フィアナは自分で怪我をしたのだと言い張る。
典医は疑問を口にすることもなく彼女たちの説明に納得し、「まったく、これだから頭の足りない女は困る」と言いながら、迷惑そうにフィアナの治療をした。
ベッドに寝かされたフィアナは、膏薬を塗り込められている間、痛みと寒気で話すことも動くこともできなかった。
「フィア……」
──痛みに朦朧とする意識の中で、カトルの声を聞いたような気がした。