カトルの帰還
カトルが不在だとしても、フィアナの日々は変わらなかった。
城のものたちも慣れているのだろう。
カトルの代わりに政務は宰相が行い、フィアナが困らないようにと色々と采配をしてくれているようだった。
「私には、何かできることはないでしょうか」
「フィアナ様は穏やかに過ごされていればそれでいいのです。王妃様が不安な顔をしていては、皆が不安になってしまいますから」
「それは、そうかもしれませんね……」
侍女たちは何もしなくていいというが、今までフィアナは誰かの世話をする立場にあった。
仕事がないのはかえって落ち着かず、朝に夕に声をかけてくれるカトルの不在は余計にフィアナの不安感を煽る。
誰の役にも立たないことが、心苦しい。
フィアナを必要としてくれるカトルも、いない。
いつの間にかフィアナの心の大部分は、カトルの存在が占めているようだった。
これではいけないと考え直し、できることをしようと勉強に没頭をした。
学ぶことは楽しい。本に触れることなど今までできなかった。
この国の形も、周辺諸国のことも何も知らなかったぐらいだ。
ページを捲っていると、母が教えてくれた知識が母の声と共に記憶の底から浮き上がってくるようだった。
「森の民……フォリネル族。精霊を信仰しており、彼らの神は黒い蛇の姿をしているという。黒い蛇か……」
フィアナは文字を指で辿る。
数週間の間に、文字はかなり読めるようになっていた。文字が読めるようになると、本を読む楽しさに気づいた。自然と口元がほころぶ。
できる、ということが嬉しかった。
父はフィアナを『頭の出来が悪い』と言っていた。もしかしたら、本当にそうかもしれないと不安だったのだ。
けれど、文字を読むことができる。書くことも、少しずつだができるようになってきていた。
エスタニア王国は、隣国との軋轢もあるが、それ以外にも自国内に幾つかの小部族を抱えている。
それぞの部族がエスタニア王国の土地を自分の土地だと主張しており、争いが絶えない。
森の民以外にも、氷の民や、海の民、炎の民などがいる。
それぞれの部族は、それぞれ信仰する神が違う。
言語が違う場合もあるし、見た目が違う場合もある。
フェルネル族とは、彼ら自身が精霊と呼ばれるほどに美しい姿をしているらしい。
「……カトル様、お会したいです」
戦の状況はどうなのだろうか。フェリネル族が住む西の端にある精霊の森までには、王都から馬でおおよそ五日程度の道のりだ。
春の近いこの季節だから、雪は積もっていないだろうと家庭教師が言っていた。
怪我などしていなければいい。もし、命を落とすようなことがあれば──フィアナはどうやって生きていけばいいのか、わからなくなってしまう。
けれど、不安は口にも表情にも出さないように気をつけていた。
抱えた寂しさは、一人きりの時には呟くことができた。
永遠の愛と、来世での愛。二つの愛情を、カトルは誓ってくれた。
フィアナは、幸せだった。
苦しいことも辛いことも多くあったが、愛される喜びを知り、カトルに甘えることができるようになった今、一人きりになることを想像すると──かつて平気だったものが、今はとても怖い。
「……孤独は、こんなにも、怖いものだったのね」
寂しさも不安も孤独も。フィアナの傍にそれは当たり前にあるものだった。
だが今はそれが、怖い。
もしフィアナに翼があるのならば、今すぐカトルの元に行きたい。もし戦う力があるのなら、カトルを守りたい。
──今は、できることをするしかない。
カトルが出立してから一ヶ月。季節は長い冬を超えて春を迎えていた。
カトルの帰還を告げられて、フィアナは慌てて部屋から出た。
いつもは城の居住空間から外に出ることはないのだが、侍女や護衛の兵たちにお願いをして城の入り口まで出迎えに向かった。
すでに城の者たちが集まっていて、カトルの出迎えのために整然と列をつくっていた。
フィアナの姿に気づいて、皆が礼をして場所をあけてくれる。
フィアナは華やかな鎧を身につけた聖騎士団の騎馬隊を引き連れた、白馬に乗ったカトルの前に駆け寄りたい衝動をおさえてゆっくりと歩いて行くと、スカートを摘まんで深々と礼をした。
白馬がフィアナの前で足を止める。
フィアナに懐いていた白馬は嬉しそうに、立ち止まると地面を蹄鉄でパカリと蹴った。
「フィアナか」
「カトル様、ご無事でなによりでした。ご帰還、嬉しく思います」
「あぁ」
すぐに馬から飛び降りて、カトルはフィアナを抱きしめてくれるものだと勝手に思い込んでいた。
けれどカトルの声は、どことなくよそよそしくフィアナの耳に響いた。
「顔をあげよ、フィアナ」
「はい」
許しを得られたために顔をあげると、カトルは白馬から美しい女性に手を差し伸べて、降ろしていた。
白い肌に、大きなサファイアの瞳。夜の湖に落ちる月の光のような銀の髪。
見たこともないような、美しい女性だ。
年齢は、フィアナと同じぐらいだろうか。精巧な人形のような女性は、カトルと手を繋いで嬉しそうに頬を上気させている。
「フィアナ、紹介しておこう。フェリネル族の族長の娘、イルサナだ。エスタニアとフェリネル族の和睦の証として、今日から我が城で預かることになった」
「……はい」
「カトル様、これがお城なのね! 素敵だわ、すごく大きいのね。フェリネルの里には、こんなお城はなかったわ!」
精巧な人形のような美しいイルサナは、無邪気に笑った。
笑うと顔立ちが幼くなる。まるで踊り子のような肌の露出が多い服も、彼女が着ていると上品に見える。
──どこまでも、美しく愛らしい女性だ。
「ねぇ、案内をして、カトル様! 私、こんなに大きな建物を見たのははじめてなの。すごく楽しみだわ!」
「あぁ。フィアナ、俺はこれからイルサナと共に城を見て回る。お前は好きに過ごしていろ」
フィアナは、何も言えずにただ、礼をした。
喉の奥に氷塊を押し込められたような苦しさが、痛みが、体を苛んだ。
(……私は、もう、いらない)
理解、してしまった。
何も聞かなくても、すぐにカトルとイルサナが親密な関係であることがわかった。
(嫌だ。捨てないで、カトル様。お願い、こんなのは嫌……っ)
頭の中で叫ぶが、それを口に出すことはできない。
情けなく泣くことだけを必死に堪えながら、フィアナは静かに部屋に戻った。