◆番外編 リリアンとのお茶会
あの騒乱から──おおよそ半年経った。
世間ではイルサナや森の民の起こした、王国史に残る騒動を『黒蛇の魔女の騒乱』と呼ぶようになった。
表向きには、カトルはイルサナの呪術によって正気を失っていたということにされた。
正気のまま、フィアナのためにイルサナに従っていたというのは、美談になる可能性もあるものの、そのような王で大丈夫なのかという不安を同時に煽るものだからだ。
有力貴族たちを説得し彼らを納得させても尚、カトルは玉座に戻りたがらなかった。
「何故、フィアを傷つけた者たちのために努力を続ける必要がある? 俺は何を言われても構わん。妾腹だろうがなんだろうが、どうでもいい。だが……フィアを嘲り、傷つけ、馬鹿にするような貴族どもがいる国のために働く気はない」
「それは、私にも原因がありました。私は確かに、文字も読めず、自分の意見も言えず、王妃として自分が相応しいなんて少しも思えませんでした。でも今はカトル様の隣にいるために、努力をしたいのです」
もう一度頑張ってみませんか、今度は二人で──と説得を続けて、カトルは玉座に戻った。
ただし、政務の時にも、それ以外の時間もフィアナが傍にいるという条件付きで。
フィアナはその提案を歓迎した。カトルを一人にするのは不安だったし、彼の仕事が手伝えることは嬉しかった。
幸いにして──怪我の後遺症が残るのは、利き腕ではないほうの左手だった。
だから文字を書くことはできるので、手紙を書いたり意見書の返事を書いたりと、手伝えることは多くあった。
──フィアナの左腕は、肩より上にあがらない。
深く剣で刺された時に、神経が傷ついてしまったのだろう。
左手の感覚は右手よりは鈍い。火傷の上から切られた背中は、感覚に乏しい。
「今は少し、不自由だというのに。それでもあの時、イルサナを刺せたのですから、不思議です」
「気力だけで動かしていたのでしょうね。死を覚悟した時人は、思わぬ力が出るものだわ。あなたは自分の命を賭けてでもカトルを救いたいと言っていた。その通りになったのね、フィアナ」
大神殿の奥のリリアンのための庭には、噴水があり、小川がある。小川には艶やかな魚が泳いでいる。
花壇には色とりどりの薔薇が咲き乱れ、その中心にあるガゼボに二人で並んで座っていた。
月に二回、フィアナはリリアンと会う日を作っている。
互いに多忙な身の上だが、リリアンからたまには気を抜く時間が必要だということで、誘いがあったのだ。
ありがたくフィアナは誘いを受けて、大神殿の奥でリリアンとの時間を過ごしている。
カトルはこのときだけは、フィアナがカトルの元を離れることを許してくれていた。
フィアナにもたまには息抜きが必要である、私と二人きりでお茶会することさえ許せないのか、そんなに私が信用できないのか──と、リリアンが怒ったからだ。
カトルが許したというよりは、リリアンのお陰でフィアナはカトルの元を離れる時間をつくることにふんぎりがついたと言ってもいい。
カトルはフィアナがいなくてもおそらく大丈夫だろう。けれど、心配だったのだ。
カトルは以前とは少し、違う。光り輝くような強さにはやや影がさし、人の体温を恐れ、他者を忌避し、夜は、よくうなされている。
表向きはなんでもないような顔をしているが、心の傷はフィアナが身に受けた傷よりもずっと深い。
「カトルの呼びかけが、あなたを生かした。それから、カトルがあなたに林檎を食べさせたのだったわね。黄泉とつながる林檎が、あなたをこちらに留めたのね。それは、奇跡というものだわ」
「どうして、それを……?」
「ユリシアスに聞いたのよ。あぁ、ユリシアスのことは気にしなくていいわ。あの人は、手に入らないものを追いかけるのが好きなのよ」
「リリアン様は、その……」
「知っているわよ。ユリシアスが私を好きだったこと、ユリシアスのせいで私の恋人が死んだこと。カトルは秘密にしているけれど、噂好きな人間なんて私の周囲に腐るほどいるもの」
あっさりとリリアンはそれを口にした。
フィアナは何も言えずに、口を噤む。リリアンの失った恋人への彼女の想いが、フィアナにはよくわかる。
──フィアナもきっと、カトルを失えば同じように、彼への愛を抱えて一生を過ごすだろう。
リリアンの繊細な指先が、フィアナの細い指や、薄く柔い手のひらを揉む。
少しずつ、感覚が戻ってくるようだった。聖女様に癒してもらうなど、ありがたいことだと感じる。
二人きりになると、リリアンは時々フィアナの手に触れた。痛みはないか、辛いところはないかと尋ねてくれる。
リリアンのおかげで、以前よりも痺れや残る鈍痛が、ひいているような気がした。
「ユリシアスを憎むつもりはないわ。別に……嫌ってもいない。でも、好きになったりはしない。私の心は、ただ一人に捧げている。全ての愛に、愛情をかえすことなどできない。そんなことをしていたら、聖女の私は、体も心もいくつあっても足りなくなってしまうもの」
「確かにリリアン様を慕う方々は多くいますから」
「そうなのよ」
「……カトル様の真実を知らなかった時、私はユリシアス様に惹かれました。でも、それは……ただ、優しくしていただいたから。カトル様に捨てられたと思い込み、傷ついていたから。あの気持ちは、恋ではなく、依存だったのではないかと感じています」
カトルへの想いや疑念を捨てきれず、あの時ユリシアスに尋ねていなければ、きっとフィアナは流されていただろう。
そして今は、心が砕けそうなほどの罪悪感の中に沈んでいたはずだ。
カトルの真実を知ってからは、ユリシアスへの想いは複雑なものに変わっている。
嫌いにはなれない。だが、男性として愛や恋を感じることができるかといえば、それは難しい。
カトルは──未だ、気にしている。そして、フィアナの感情を疑っている。
愛しているのはあなただけだと伝えるのが、フィアナの役割だろう。
「恋と依存の境目は、難しいわね。傷つき疲れ果てた心には、優しさが沁みる。まぁ、私はユリシアスが優しいとは思わないけれど」
「優しいところも、あります」
「もっと優しい男は、この世の中には山のようにいるわ。たとえば私のヨセフ。それから、カトルも……優しい人よ。あの子は、昔から本当に優しい子だった」
「カトル様が優しい方だというのは、よくわかります」
「そうでしょう? ユリシアスは甘えているのね。カトルの優しさに。それから、私にも。そして、あなたにもね」
「……甘えているのでしょうか」
「そうに決まっているわ。そうじゃなければ、主君を裏切った男が平気な顔で未だ騎士団長をしているわけがないでしょう?」
「裏切ったわけでは……」
「少なくとも私はそう思っている。……あぁ、恨んでいるから私。だからユリシアスを悪く言うの。そういう癖があるのよ。でも、フィアナにだけよ。人の目があるとき、私は立派な聖女様でいなくてはいけないもの」
冗談めかして言って、リリアンは笑った。
ユリシアスはリリアンやヨセフに罪悪感をずっと抱いている。
そしてカトルに対しても、同じように。
ユリシアスは苦しみ続ける道を選んだ。
聖騎士団長を続けてカトルの剣であり続けることが彼の贖罪なのだろうと、フィアナは思っている。
「リリアン様、今日もありがとうございました。リリアン様と話をしていると、心が落ち着きます」
「私もよ、フィアナ。あなたにしか話せないことが、私にはたくさんあるわ。今度、ヨセフとの思い出も話していい? 誰にも話したことがないの。だって、秘密の恋だったから」
「もちろんです。聞かせてください」
「嬉しいわ。今日も、祈っていくの?」
「はい。そうさせていただけると、ありがたく思います」
夕方までリリアンと時間を過ごして、フィアナは礼拝堂に向かう。
聖レストラールの像の前にフィアナは膝をついた。
両手を合わせて、祈りをささげる。
「聖レストラール様の名の元に、あなたの罪を許します」
リリアンがフィアナだけに祝福を与えてくれる。とても贅沢で、特別な時間だ。
フィアナはこのとき、亡くした母や、そして己の手にかけたイルサナを思う。
イルサナの腹には、子はいなかった。
カトルが腹を割いて調べたのだと、あとから聞いた。そこまでするほどに、カトルはイルサナを憎んでいたのだろう。
イルサナはカトルの子を欲しがるほどに、カトルを愛していたはずだ。
もちろんフィアナは彼女を許していない。カトルを傷つけたことには怒りを感じる。
けれど──その感情を想うと、哀しかった。




