許せない罪もある
爛れた皮膚は、汗をかけない。フィアナの背は、皮膚としての機能を大部分失っている。
それでも、背中に冷や汗が伝ったような気がした。
緊張を顔に出さないように、そっと息を逃がす。
生命の林檎を渡されたカトルは、何も言わずにそれを見つめていた。
「何をしているの、カトル様。ほら、食べさせて」
「……あぁ」
イルサナに促されて、カトルはイルサナの口元に林檎を持っていく。
果たして、言い伝えは本当なのか。
──だが今は、他に手はない。ウルスラの言葉を信じ、それを頼るしかできない。
カトルを、救いたい。呪いの支配から。苦痛から。
カトルはフィアナのため、苦痛に耐える道を選んだ。
(私は、カトル様のことを何も知らない。あなたをもっと知りたい。あなたが何を考えているのか、どのように生きてきたのか。もっと、一緒に生きたい)
ユリシアスに心を傾けた自分が、そんなことを望んではいけない。
だがカトルの真実を知ってしまえば、心はカトルを思うばかりだ。
静かな図書室で、カトルへ何枚も手紙を書いた。
そうして手紙を書ける相手がいることが、幸せだと感じた。
カトルならばきっと微笑んで「ありがとう、フィア、嬉しい」と言って、受け取ってくれるとフィアナは信じていた。
信頼していた。短い期間しか一緒にいることはできなかったが、それでもフィアナはカトルに信頼と愛情を抱いていた。
フィアナはスカートの下にナイフを隠し持っている。
ユリシアスがイルサナを討つと言っていたが、それは自分の役割だと感じる。
カトルを深く傷つけた。そしてフィアナも傷つけられた。
──聖レストラールは罪を許せと言う。
だが、許せないものもある。許してはいけないものもある。
フィアナは許してはいけなかったのだ。母を傷つけた父のことも。そしてカトルを傷つけたイルサナのことも。
イルサナは、カトルを傷つけハギリやナギサを傷つけ、そしてウルスラも傷つけた。
イルサナを討ち、カトルを救う。
ユリシアスは誰かの役にたたなければ生きてはいけないのかと言っていた。
そんなことはないとフィアナは思う。ユリシアスの言葉に救われたことは確かだ。
でも──フィアナは、カトルの役に立ちたい。カトルを救いたい。
自分の命など捨てても。
救いたいと、願っている。
それは愛であり、正義感であり、義憤である。
──自分の命の使い道は、自分で決めたい。
しゃくりと、イルサナが林檎を囓った。
喉が動き、ごくりと飲み込む。イルサナは頬を上気させた。うっとりと微笑み「おいしい」と呟く。
「カトル様も、ほら、食べて。食べなさい。口を開けて」
「イルサナ、それを、俺に命じるな」
「黙って。永遠の愛を誓うのよ。ほら、食べなさい。食べて!」
カトルは林檎を口にするのを、拒否した。
嫌悪に眉をよせて、首をふる。
だがイルサナに命じられると、ぴたりと抵抗をやめた。
イルサナはカトルに馬乗りになり、その口に林檎を押し込む。
「噛んで。食べなさい。美味しいわ。すごく気分がいいの。ふふ、あはは!」
あきらかに、酩酊している。たった一口食べただけだというのに。
フィアナが食べたときにはあのような異変は起らなかった。
生命の林檎には──魔性の者を酔わせる効果があるのだろう。
林檎を咀嚼し飲み込んだカトルは、苦しげに額に手を当てた。頬が上気し、瞳が潤む。
その体から、その背からぬるりと何かが首をもたげる。
それは、黒い大蛇だ。大蛇はその鎌首を呻くように左右にふった。
「なに……なにこれ、なにかしたの?」
「──ユリシアス様は、蛇を!」
「フィアナ!」
「獲物を仕留めることを、あなたが教えてくださいました」
ユリシアスに狩りを教わった。
ナイフも弓も、使えることができるようになっている。
イルサナを仕留めるのは自分の役割。カトルも、そしてリリアンもユリシアスも戦うことができるのに、自分だけ、安全な場所で見ていることなどしたくない。
ユリシアスが剣を抜く。フィアナもスカートの下の足のベルトに刺していた短剣を抜いた。
片目を覆っていた包帯をおしあげて両目を開く。ぱっと明るくなった視界に、楽しそうに笑っているイルサナの姿が飛び込んでくる。
「イルサナ、私はあなたを──許さない」
「フィアナ……どうして……何かしたの、何か、したの、何もできない、ろくに話せもしない木偶の分際で!」
フィアナはイルサナに向かい駆ける。
イルサナはソファに転がっていた細身の剣を抜くと、フィアナの短剣を受けた。
だが、その手が滑る。酩酊のせいで、力が入らないようだ。
「呪ってやったわ、お前は呪われた! レイブス、殺して! フィアナを殺して!」
イルサナはわめくが、フィアナに呪いの効果は現れない。
イルサナは情けなく、ソファの上に姿勢を崩して転がった。もがく手が、ソファを滑る。酒瓶に足を取られて、ずるっと滑り強かに背を打って床に倒れた。
フィアナは短剣をイルサナの心臓の上にふりあげる。心の中で、聖レストラールに、そして母に祈りをささげた。
今から人を、殺す。
以前の自分とは、変わってしまうかもしれない。以前の自分には戻れないかもしれない。
でも、大切な人を守るため、救うために。
どうしても。今ここで、イルサナを討たなくては。
「──イルサナ。私は呪われていない。あなたは私のスカーフを邪神に食べさせたのでしょう。でもあれは、私のものではない。私のお母様のものを、その亡骸から私が勝手に奪った」
奪ったのだ。母から譲渡されたわけではない。
それはフィアナが勝手に母の亡骸から引き剥がしたものだった。
だからそれは母のものであり、フィアナのものではないのだ。
イルサナはそれを知らなかったのだろう。当然だ。カトルにさえ、そこまでのことは話していなかった。
「なに……それ、なにそれ、おかしいじゃない、おかしい……殺して、カトルを殺して、レイブス! 私を殺せば、カトルが死ぬわ!」
「その前に、あなたの命を奪う」
「いや、やめて! ねぇ、私、お腹に赤ちゃんがいるの。カトル様との子よ!? あなたは、赤子も殺すの!?」
一瞬、切っ先が揺らいだ。
──腹の子には、罪がない。
イルサナを殺せば、まだそこまで育ちきっていない赤子は、死ぬだろう。