決意と混濁
カトルは手紙を長い間見つめていた。
文字を習いはじめてから、フィアナは何枚もカトルに手紙を書いてくれていたのだろう。
失敗しては書いての繰り返しで。
一番新しい手紙を見つけて、カトルは何度も読み返した。
それは今までの短い文章とは違う。
カトルが森の民の制圧に向かっている間に書いたのだろう。
もしかしたら、帰還したときに渡そうとしてくれていたのかもしれない。
『カトル様、出立されてからひと月、経とうとしています。どうかご無事でと願うことしかできない私を、お許しください。カトル様がご不在のお城は、私には広すぎて、とても寂しく思います。また一緒に、お出かけをしたいです。白い馬に、乗せていただいて、とても楽しかったです』
「フィア……俺も、楽しかった。約束をしたことを、俺は果たせていない。一つも」
『あなたに、会いたい。ここにいても、私は役に立たないと思うことばかりです。でも、私を救ってくださったあなたのために、少しでも、努力をしたい。多くの本を読んで、勉強をして、カトル様にご迷惑をかけないように。カトル様と一緒に、いられるように』
「俺の傍に、いてくれるだけで十分だ。君がここにいてくれるだけで、微笑んでくれるだけで、それだけで……そのままの君でいい。何も思い悩む必要など、なかったのに」
『あなたが、好きです。いつの間にか私は、あなたでいっぱいです。あなたと出会う前の私には、もう、戻れないほどに。カトル様、私と出会ってくださって、ありがとうございます』
長い時間をかけて、一文字一文字を書いたのだろう。
丁寧で几帳面な文字が、紙の上に並んでいる。
こんなに綺麗な文字を見たことがないというほどに。間違えないように、慎重に、思いやりと愛に満ちた言葉が綴られている。
「フィア、俺は……君を、愛している。誰にも奪われたくない。誰にも、奪わせない」
誰のための、人生なのか。
カトルは、誰からも何も奪いたいと願ったことなど一度もない。母の命も、義兄の立場も、奪いたいと思ったことはなかった。
だが、カトルの存在が、勝手に奪う。勝手に、誰かを不幸にする。
その罰が、フィアナを奪われることなのか。
そんなこと、認められない。許せない。受け入れられるはずがない。
このままずるずる、徒に時間を浪費するのか。フィアナをユリシアスに任せてから、数週間。
イルサナのわがままを、カトルは全て叶えてきた。
森の民を城に呼びたいといえば二つ返事で了承していた。文句を言う貴族は黙らせた。
異民族を妻にすることや、森の民を重職に就かせることに隠れて異をとなえているものもいたが、そういうものたちは中央から排除した。
まるで、傾国の美姫に心を奪われた暗愚のように。
フィアナを守るための糸口さえ、みつからない。そもそも、イルサナはカトルにベッタリとへばりついていて、自由な時間さえ、取ることもできなかった。
これ以上は、耐えられない。もう限界だ。足りないのは、覚悟。
──自分の命を削り取ってでも、誰かを守るという決意だ。
「カトル様、こんなところにいたのね! 探したわ」
図書室の入り口から、耳障りな声がする。
贅を尽くしたドレスをこれみよがしに着て、全身を宝石で飾ったイルサナがカトルの元へとやってくる。
「ゲームの途中で、いなくなってしまうんだもの。体調が悪いのかしら、大丈夫?」
「……あぁ。大丈夫だ。これ以上ないぐらいに、頭ははっきりと、冴えている」
「そうなの、よかった! ねぇ、カトル様、街に行きましょう? 街には楽しいものがたくさんあるって聞いたわ。私、海が見たい。森には海がなかったもの」
まるで、虫の羽音のようだ。
頭の中を、うるさく飛び回る。
「あぁ、それから、お父様がね、カトル様に神殿に我らが神の石像を立てるように言っていたわ。カトル様、私の言うことならなんでもきいてくれるわよね」
囀るイルサナを、カトルは一瞥した。
イルサナはカトルの傍までやってくると、机の上に広げてある手紙を覗き込む。
そして、一瞬にして顔色を変えた。
天真爛漫な少女の顔から、嫉妬に歪んだ女の顔に。
「これは……どういうことなの? あぁ、そっか、そうよね。あの女が、残していったのね。全く、未練がましいわよね。カトル様も迷惑よね、だってあなたには私がいるもの」
当然のように手を伸ばして、イルサナは手紙を握り潰そうとする。
カトルはイルサナの手首を掴んだ。
「どうしたの、カトル様。まさか、反抗するの? 私を愛しているのよね、何度も愛しているって言ってくれたわ。私以外はいらないって言ったわよね。そんな手紙なんていらないわよね」
「……イルサナ。手紙に触れるな」
「歯向かうの? 私の──犬のくせに」
ぎりっと、心臓が痛む。カトルは護身用の短剣を抜いた。この距離なら、間に合うはずだ。
「いいの、死ぬわよ。フィアナが、死ぬわ。距離が離れているから大丈夫だなどと思わないことね。森の民の呪いは、どんなに遠く離れていても届くのよ。無駄な抵抗はやめて。あなたが私の従順な夫でいてくれれば、全てうまくいくの」
「……俺は、貴様の犬ではない」
「犬だわ。跪きなさい」
「イルサナ、俺を舐めるな。フィアナに呪いが届く前に、貴様の首を切る」
「……やめて! 離して!」
カトルはイルサナを拘束した。所詮は、か弱い女だ。弓も剣も扱うというが、カトルに敵うものではない。
素早く短剣をイルサナの首にあてる。心臓に激痛がはしる。
いつの間にか現れた巨大な蛇が、カトルを威嚇するようにシュウシュウと声をあげていた。
「無駄だ、イルサナ。俺が死ぬ前に、お前を殺す。俺の心臓が止まる前に、お前の首を刎ねる。フィアナには、手出しをさせない」
それに、と、カトルは続ける。
「人質は殺してしまえば、人質としての利用価値などなくなる。貴様はフィアナを殺せない。フィアナを殺せば、貴様の命は俺に奪われる。どのみち、結果は同じだ」
「嫌、やめて! ひどいわ、離して! 助けて! 殺して、フィアナを、ころし──」
はじめから、こうしていればよかった。
カトルはイルサナの首にあてた短剣を、思い切りひいた。
──ひいた、つもりだった。
イルサナが、首から血を流しながら倒れる。
──倒れたような、気がした。
笑みを浮かべるカトルの目の前で、黒い蛇が真っ赤な口をひらいて、音にならない咆哮をあげた。
その横にはイルサナの姿がある。
彼女は黒い蛇にもたれて、涙を流している。
「うらぎりもの」
冷たい声とともに、カトルの体に黒い蛇がまとわりつく。
強引に、眠りの淵に落ちるように。
意識が、濁る。
──瞼の裏に、微笑み合うフィアナとユリシアスの姿が浮かんだ。




