カトルの混迷
◇
世界が、揺れ動いて見える。
胃から酸っぱいものがせりあがってくる感覚に、カトルは城の冷たい石壁に手をついて耐えた。
白い肌は青ざめており、精悍で活力に満ちた顔立ちは精彩を欠いていた。
(フィア……すまない。フィア、会いたい。イルサナめ……殺してやる、必ず)
フィアナの焼けただれた背が、苦しげに深く閉じられた瞼が、額に浮かぶ玉のような冷や汗が思い出されて、カトルは口を片手で抑えた。
イルサナを連れ帰りフィアナを遠ざけると、今までフィアナを丁重に扱っていた侍女たちがイルサナに侍りだした。カトルが命じたわけではない。カトルの愛や関心が彼女にうつったのだと、城の者たちはすぐに気づいたのだ。
鼻がきき、権力に阿ることを是としている者たちは、イルサナを大切に扱いだした。
フィアナは部屋にいるか、図書室にいるか、どちらかのようだった。
日に日に窶れていき、薄汚れていったが、カトルにとってはそれでも愛しいフィアナであることに変わりはなかった。
(ドブの匂いがする。腐っている。どいつもこいつも、昔から……変わらない)
記憶の蓋を無理矢理こじあけられたように、幼い頃の記憶が想起される。
カトルは昔のことを思い出したりは、今まであまりしなかった。
忘れながら生きていた。ユリシアスは昔のことばかり考えるような性格をしていたが、カトルはそれを「考えすぎ」だと言って笑っていた。
だが──今は、過去に自身が深く沈んでいくようだ。
それはフィアナが、カトルの母に似ているからだ。
強引に、王の妾にされた。多額の借金を抱えて娼館で働いていた母は、逆らうことも逃げ出すこともできなかった。
城での暮らしは悲惨なもので、母を憎む国王と母を恨む王妃、そして権力に阿る者たちによって、娼館にいたときよりも質素な生活を強いられていた。
カトルが物心ついたときにはすでに塔から身を投げていたので、これは侍女たちから聞き出したことだ。
母はどんな女だったのかと。彼女たちは口をそろえて「お可哀想な方でした」と言う。
だが、母を可哀想な身の上に追いやっていたのは、侍女たちの罪でもあるのだと、フィアナの現状を見て思い知った。
命じられなくても──弱い立場のものを、まるで死肉をつつく禿鷲のようにいたぶるのだ。
カトルも、孤独だった。母をなくし、父に憎まれ、兄には嫌われていた。
群がるのは、権力を得たいものたちばかり。
どうでもいいと、自分に言い聞かせていた。実際、どうでもよかった。
己の生さえ、どこか達観し傍観するように、生きていた。
(フィア……会いたい、フィア、君だけが、俺に生きる希望を与えてくれる)
はじめて、人間になったような気がした。はじめて、愛を知った。
人を愛するという意味を、知ることができたのに。
フィアナがあれほどの火傷をおったのは、カトルのせいだろう。彼女を欲した。愛してしまった。
そのことに浮かれて、浮き足だって、散漫になっていた。
だから、森の民などに情けをかけた。和睦など結ばずに、滅ぼしてしまうべきだった。
あの時、共に酒など飲まなければ。呼び出しに、応じなければ。
剣を預けなければ。
こんなことには、ならなかったのに。
イルサナは今、貴族たちと共に酒を飲み、カードゲームに興じている。
まるで子供のような無邪気さで、何にでも興味を示した。
森の民の暮らす集落にはないものばかりだといって。
ユリシアスにフィアナを任せて城から遠ざけてから、イルサナは更に傍若無人に振る舞うようになっていた。
目の上の瘤がなくなって、嬉しいのだろう。
もしくは、カトルが本気で自分を愛しているのだと、思い込みはじめたのかもしれない。
それぐらい、カトルの演技は完璧だった。
いつも怒りと憎悪と嫌悪で臓腑を焦がしていたが、それを表に出すようなことはしなかった。
──演技には、慣れていた。
兄の前では、従順な弟のふりを。嫌われていることに気づかないように、明るく振る舞っていた。
父の前でも、快活な息子のふりを。死ねと思われていることを気づかないように、笑顔を絶やさないようにしていた。
イルサナの前でも、よき夫のふりを。愛しているのは君だけだと、甘ったるい言葉を囁いた。
それは、フィアナを守るためだったのに。
もう、フィアナはここにはいない。
(二度とフィアナに会わない。そうすれば……フィアナの命は無事だ)
ユリシアスはリリアンに思慕を抱いている。そしてカトルはユリシアスを信頼している。
──だが、フィアナと共にいて、彼女に惹かれないことなど、あるだろうか。
心根が腐った貴族ばかりを見ているユリシアスが、健気で純朴で心優しいフィアナに──。
「……っ」
想像するだけで、脳が焼けつく。
褥の中での愛らしいフィアナの顔を、震える睫を、ふっくらとした唇を、朱に染まる肌を。
もし、ユリシアスが──そう思うだけで、苛立ちに、視界が霞む。
カトルは図書室に向かった。一人になりたかった。
少しでも、フィアナの面影を辿りたかった。
しんと静まった図書室には、蔵書が日焼けをしないようにつくられている小さな小窓から帯状の光が差し込んでいる。
埃の粒子が輝く中を進み、フィアナがよく座っていた勉強用の机に辿り着く。
本を読みながら、知らない単語を紙に書き写していた。
フィアナは優秀で、本来ならば子供の頃から何年もかけて覚える文字を、たったひと月で書けるようになっていた。
勉強机の引き出しを開く。そこには、紙束が入っている。
紙束の奥に、手紙と思しきものが何枚も重ねられていた。
カトルはそれをとりだして、机に並べる。
『……か、とる、さま。い……る、あり……』
『かと……い、あ……ます』
それは、フィアナの文字だった。子供の落書きのような、拙い文字からはじまっている。
徐々に、形を為していく。スペルが間違っている箇所もあるが、文章になっていっている。
『カトル様、いつ、ありがと、ます』
『カトル様、いつもありがとう、ございます』
『あなたを、好きになりたい』
『あなたが好き』
『私はあなたの役に立ちたい』
『カトル様、あなたに会えて、よかったです』
何度も練習したのだろう。同じ言葉が並んでいる。
カトルはその文字を震える指先で撫でる。
いつの間にか、涙が頬を滴り落ちていた。