忘却は救いとなるのか
──口に出すと、次から次へと疑問が湧いてくる。
フィアナは今まで、文字を書くことができなかった。文字を読むこともできなかった。
文字を習い本を読むようになると、以前よりも思考のまとまりがつくようになった気がした。
だが、自分の気持ちや考えを口に出すよりも前に、フィアナから色んなものが奪われてしまった。
栄養不足と火傷は思考を鈍らせて、悲しみに明け暮れるだけの心は、助けばかりを求めていた。
それでは、いけない。求めては失って傷ついて、その繰り返しばかりの人生など。
──フィアナを守って亡くなった、賢く強かった母にとても顔向けができない。
「ユリシアス様は、リリアン様の名を呟いていました。立ち聞きするきはなかったのです。申し訳ありません。……だから、私は。あなたに惹かれている私は、勝手に傷つきました」
「そうか。聞かれていたのか」
ユリシアスは自分のシャツを脱ぐとフィアナにかける。
どちらにしろ濡れてはいるが、肌を隠せたことに安心して、フィアナはシャツの前をひっぱって合わせた。
そんなフィアナの腰を、ユリシアスは抱き寄せる。
身じろぎその胸を押したが、力強い腕はまるで鳥籠のように、フィアナを閉じ込めた。
「……フィアナ。私は確かに、リリアン様を愛していた。淡い憧れが、愛に変わった。だが、触れてはいけないと諦めていた。私はリリアン様の恋人を死なせた、罪人だからだ」
ユリシアスは片目を伏せる。その声音には深い悔恨があった。
「リリアン様の恋人は、私の部下だった。戦場で私が判断を違えて、死にかけた私を守り命を落とした。故意ではなかった。だが……故意のような、ものだった」
そこでなにがあったのか、詳しいことまでは聞かなくていい。
フィアナは首を振った。それから、そろりと彼の背に手を回す。
「話したくないことを、口にさせてしまいました。申し訳ありません」
「そんなことはない。……あなたと暮らす中で、私もあなたに惹かれていった。あなたを……愛してしまった。リリアン様のことを忘れてしまえるぐらいに、今はあなたが欲しい」
──信じていいのだろうか。
今、彼が見ているのはリリアンではなくフィアナだと。
果たして自分は、ユリシアスを見ることができているのだろうか。カトルのことばかり、思いだしてしまうのに。
「……私は、あなたの情にすがって、それを思い出に生きていこうと。最後に触れていただいて、あなたの元から逃げようと、考えていました」
「そんなことはしなくていい。……フィアナ、あなたが王や貴族をおそろしいと感じるのなら、私もあなたと共にどこか遠くに行こう。カトル様やイルサナには二度と、関わらないように」
「ユリシアス様……カトル様はあなたを、友人だとおっしゃいました。名前こそ出しませんでしたが、友人だと……信頼を込めておっしゃっていました」
立場を捨てるなど、してはいけない。
カトルは彼を信頼している。彼はガルウェイン公爵であり、聖騎士団長であり、カトルの友人。
それなのにフィアナのために簡単に、身分を捨てるなどと言う。
まるで──何かから、逃げるように。
「今はその名を聞きたくない。陛下はあなたを捨てた。あなたを捨てて、心変わりをした。……あなたは、陛下のせいで大怪我をした。一歩間違えたら、死ぬところだった」
「それは……違います。ユリシアス様。……カトル様はどうして、私をあなたに下賜されたのでしょうか。あなたはどうして、私と共にここに留まっているのでしょうか。イルサナ様は何故、カトル様に愛されているはずなのに、私を傷つける必要があったのでしょうか。カトル様は……」
「……フィアナ、落ち着け」
「カトル様は……変わって、しまわれたのでしょうか。わからないのです。人の心はうつろうと、私は知っています。でも私は……私に永遠を誓ってくださったカトル様が、別人のようになられたとは、思えない。だから、ずっと……私の心の中から、カトル様は消えて、くださらない」
堰を切ったように、言葉が唇からこぼれた。
今まで何も言えなかった分、尋ねることができなかった分。
「あなたに惹かれました。でも……私の心には、疑問ばかりがあります。あなたの優しさに溺れたいと、思いました。流されてしまいたいと、望みました。……けれど、私は」
「カトル様を愛しているのか?」
「……カトル様は私を助けてくださった方です。たくさんの愛を、くださいました。今は……辛くて、苦しくて。だから、期待をしてしまうのです。もしかしたら……何かの間違いだったのではないかと。でも、同時に……ユリシアス様のことを……私は……」
「フィアナ……カトル様のことなど、忘れろ。どうか私に、あなたをくれないか。他の誰でもない、私はあなたに傍にいてほしい。あなただけだ。……私が素顔を見せることができたのは。共にいて、苦しくないのは。あなただけなんだ。フィアナ……愛している」
まるで助けを求めるように、ユリシアスは言う。
──何もかもを、忘れるべきなのか。
まるで、夢の中に落ちていくように。
ユリシアスと二人だけの生活には確かに安らぎがある。ユリシアスに心を明け渡してしまえば、きっと、幸せになれる。
「ユリシアス様……」
「フィアナ……どうか、私だけを見てくれ」
頬に手が触れる。顔が近づく。唇が重なりそうになる。
腰を撫でる手に、フィアナは切なく眉をよせた。
本当に、これでいいのか。
本当に──?
その時、不意に蹄鉄が大地を蹴る音が響いた。
視線を向けると、鐙をつけていない白馬が一頭、こちらに駆けてくるのが見えた。




