罪と林檎
◇
ユリシアスの腕が、直接素肌に触れている。
これがはじめてではない。火傷の治療の時にも、触られた。
だが、それはあくまでも治療だった。
今は明確な意志を持って、背中に長い指が触れ、フィアナの体は引き寄せられてユリシアスの体と重なるようにくっついている。
──カトルのことを、どうしても思いだしてしまう。
どんな風に、抱きしめてくれたのか。その体温や、力強さを。
消えない。消えてくれない。
同時に、ユリシアスへの信頼がある。これは、恋なのだろうか。
新しい恋は、けれどもう終わっている。ユリシアスには、リリアンがいる。
それでも求めそうになってしまった心の弱さを、フィアナは叱咤した。
カトルに捨てられた寂しさを、ユリシアスで埋めてはいけない。
──何か、どこかに違和感がある。カトルはユリシアスの名こそ出さなかったが「友人のためにもリリアンを自由にしたい」と言っていた。
それはユリシアスの想いを知っていたからだ。
そしてそんな友人であるユリシアスに、フィアナを押しつけるというのは、カトルがいくらフィアナからイルサナに心変わりをしたとしても、どこか、おかしい。
カトルは──そんな人ではなかった。フィアナへの愛を失ったとしても、人格まで変わるとは思えない。
「ユリシ……っ、ん……っ」
疑問を口にしようとすると、まるで呼吸を奪うように唇が重なった。
強引に、けれど、慎重に。
ユリシアスの片手はフィアナの腰を引き寄せ、それから、もう片方の手は逃がさないというようにフィアナの首から後頭部を包むようにして固定している。
大きな手でがっちりと掴まれて、フィアナは身動きが取れずに重なる唇を受け入れた。
「ん……ぅ……っ、ゆ、ぁ……っ、ん……っ」
上背のある逞しい体に覆い被さるように、体も声も呼吸さえも奪われるように、更にきつく抱きしめられる。
身じろぐと、水面が波立つ。清らかな水の中で体を重ねていると、互いの境界まで曖昧になってしまうような気がした。
何度か角度を変えては触れる唇は、あまりにも、神経質すぎるぐらいに優しく丁寧にフィアナに触れる。
体を拘束するように抱きしめる腕の力強さとそれは真逆で、ユリシアスの情熱と気遣いを多分に孕んだものだった。
「ん……ぁ……」
フィアナの唇の狭間を、長い舌が撫でる。何度も撫でられると、広範囲にわたる火傷のために感覚の鈍い背中がそわりとした。
思わず甘い声を漏らしてしまう。ユリシアスにも聞えているのだろう。
更に大胆に舌先がフィアナの口腔の中にそっと触れた。
(ユリシアス様と、口づけをしている……なにもかも、間違っているのに)
彼はカトルではない。そして自分は、リリアンではないのに。
カトルの記憶が、浮かんでは消えていく。何度も、口づけを交わした。
明け方まで熱を与えられて、朝になっても起きることのできないフィアナを撫でると、政務に向かう前にカトルは必ず「すぐに戻る。フィア、君と離れるのは辛い」と言って、触れるだけの口づけをした。
口づけの仕方がカトルとは違う。丁寧に口腔内を舐られて、フィアナはユリシアスの水に濡れたせいで体にへばりついた服を引っ張る。
傷を舐め合うように触れあうことは、罪深いと感じる。
フィアナの心にはずっとカトルがいる。だが、ユリシアスに惹かれているのも事実だ。
同時に二人の男性について考えてしまう自分の不誠実さに、フィアナは悲しくなる。
それなのに、体は熱い。水の中にいるはずなのに。触れあう肌が、粘膜が、焼けるように。
「……フィアナ。……嫌、か」
長い口づけから解放されて薄く目を開くと、ユリシアスの何か言いたげな、そして苦悩の色を浮かべた瞳と視線が絡み合う。
「嫌では、ない、です。求めたのは、私、ですから……」
「違う。私は、無理矢理あなたに触れた。……あなたが欲しい、フィアナ。あの方はあなたを捨てた。いらないと私に下げ渡した。あなたの心にはまだ陛下がいるのだろう。だが、私は……」
「ユリシアス様、私は……カトル様と永遠を誓いました。生命の林檎の木の下で。……それなのに、私は。捨てられた悲しさで、孤独を埋めるようにあなたを求めてしまいました。私は、身勝手です。ごめんなさい、ユリシアス様」
「あなたが謝る必要はない。……フィアナ。生命の林檎だな。あなたの心から……陛下を、追い出したい。忘れさせたい」
ユリシアスはフィアナを抱きあげて、湖から出る。
フィアナの服を無造作に拾いあげると、それをフィアナの体に被せた。
それから、家の傍の生命の林檎の木の下までやってくる。
大樹には、赤々とした林檎の実がいくつも実っている。
フィアナは極力それを、視界に入れないようにしていた。
それは、カトルとの大切な思い出の樹木だからだ。
ユリシアスはフィアナの体を降ろすと、大樹に押しつけるようにしながら覆い被さった。
視界が、ユリシアスの白い肌や濡れた服、艶やかな黒髪や、冷たい氷のような瞳で埋め尽くされる。
唇が、首筋に触れる。
このまま流されていいのかと、フィアナは自問自答する。
疑問があったはずだ。それを尋ねないままに、こんな風に、ユリシアスに甘えていいのだろうか。
それにユリシアスは──その瞳には、まるで傷ついたような苦しげな色がある。
ただ、愛情に満ちているというだけではない。
何かから逃げるような、何かを思い悩むような。
「ユリシアス様、待って……お願い、です」
「待たない。……待ちたく、ない。耐えるのは、もう、十分だ」
「……ここでは、駄目、です」
「陛下を思い出すからか」
「……林檎は、カトル様と」
「では、私と共に食べてくれるか、フィアナ。私があなたの、永遠になろう」
「どう、して……お願いです、ユリシアス様。教えて、ください」
フィアナは、ユリシアスの手の内から体をねじって逃げようとした。
怖くはない。嫌というわけでもない。
ただ、ここでは──どうしても。
カトルとの記憶を冒涜しているようで、苦しい。
それに、疑問を抱えたまま流されるのは、嫌だ。
いつも、流されてきた。
実家では、家族たちから言われたとおりに大人しく命令をきいていた。
城でフィアナを貶めるようにして意地悪をしたり悪口を言う者たちに、フィアナは従った。
立場が、身分が、と。
そればかりを考えていた。だから、何もできなかった。
だから──。
「あなたは、リリアン様を愛していらっしゃるのでしょう、ユリシアス様」
尋ねなければ。
ユリシアスは、優しい嘘をついているだけかもしれない。夫としての、義務を果たすために。