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黒き蛇



 イルサナの背後から、ずるりと首をもたげるものがある。

 それは──黒い大蛇だ。


 頭はイルサナと同じぐらいの大きさがあり、その胴体はカトルに与えられた客室の扉から抜けて廊下へと続いている。


「蛇……?」

「レイヴスラアル、私の神様。私の──私たちの神様」


 イルサナは、大蛇を撫でる。

 森の民の神は、黒い蛇だということはカトルも知っていた。


 だが、カトルは信じていなかった。

 海の民は海の中でも呼吸ができ、氷の民は体の一部を硬化できる。そして炎の民は、炎をうむことができる。


 海の民も氷の民も炎の民も体に特徴がある。だが、森の民は違う。

 彼らは総じて見目麗しい。男も女も若かりし日で時を止めてしまっているように。白い肌と豊かな髪、長い腕と足を持っている。戦いには向かないような見た目の者たちだ。


 確かによく矢を使い、森の中でも機敏に動ける曲刀を使ってはいたが──炎の部族や氷の部族に比べれば、おそろしいのは奇襲ぐらいで、攻め込んでしまえばカトルと精鋭兵たちの敵ではなかった。


 森の民に危害を加えると、呪いが降りかかると言われているが、それを実際目にしたわけではない。

 呪いなどないだろうと、考えていた。


 しかし目の前にいるのは、異形の化け物だ。

 とても神などとは思えない。


「……化け物を操り、俺を殺すつもりか? 悪いが、殺されてなどやらん!」


 寝台から飛び起きて、カトルは蛇の首を落とそうとした。

 恐怖などはない。ただの黒い蛇だ。化け物であろうが、それがそこにいるかぎりは、殺せる。

 

 大猪を狩るのと同じ。大きさでいえば、大猪のほうがずっと巨大だった。


「動かないで!」


 イルサナが叫ぶ。カトルを威嚇するように、カトルの剣を握った拳を前に突き出した。


「剣は、あなたのもの。そしてスカーフは妻のものと言ったわね。あなたの妻の、持ち物」

「……何をするつもりだ」

「あなたは知らないだろうけれど、物には魂が宿っているの。持ち主の大事なものであるほどに、その繋がりが濃くなる。あなたは妻のスカーフを、妻のように大切に思っている。つまりこれは、本人そのものと言える」


 イルサナが何を言っているのか、カトルには理解できなかった。

 いや、そうではない。

 ──理解はできたが、だからなんだと、眉間に皺を寄せる。


 ともかく、殺すべきだ。不吉な予感がする。森の民との和睦のためカトルはここにいるが、最早そんなことはどうでもいい。

 精霊の愛し子と神そのものを殺し、ここから逃げるべきだと、カトルの野生の勘はすぐにカトルにそれを判断させた。


 長年、獣を狩って過ごしていた勘が、イルサナも黒い大蛇も危険だと告げている。


「御託などどうでもいい。王の居室に化け物を連れ込んだことは、族長の娘だろうと万死に値する罪だ」

「あぁ……素敵。その強さ、その勇猛さ、その美しさ! 私のものになって、私だけのものに!」


 カトルはベッドから飛び降りて、そのままの勢いで大蛇に向かい護身用の短剣で切り込んだ。

 だが──剣が大蛇に届く前に、イルサナが掲げたカトルの剣を、大蛇がひと飲みにした。

 

 ごくんと蛇腹が膨らんで、剣が大蛇に丸呑みにされる。

 その途端に、カトルの心臓がまるで釘でも打ち付けられたかのように痛んだ。


 カトルは胸をおさえて、床に膝をつく。

 剣で切られたり、獣に食いちぎられたことは何度もある。だが、それとは違う痛みだ。

 

 ぎりぎりと、ずきずきと、心臓が痛む。釘を刺されて、鎖で締めあげられるような、激しい苦痛がカトルを苛んだ。

 カトルは胸をかきむしる。シャツを引っ張りはだけた胸に、黒い楔のような紋様が浮かびあがる。


「ぐ……ぁ……っ」

「あなたの剣。そして、あなたの妻……フィアナ、だったかしら。フィアナのスカーフ。レイヴスラアル様が飲み込んだ。あなたの命もフィアナの命も、今は私の手の上にある」

「……ふざけるな、殺す……っ」

「私とレイヴスラアル様は、一心同体。そして、レイヴスラアル様の中に、あなたとフィアナの心臓がある。私を殺せばレイヴスラアル様は死ぬ。逆も同様。そして、私が死ねばあなたも死ぬ。それから、フィアナも死ぬわ」


 ころころと、鈴を転がすように笑いながらイルサナが言う。

 自分が残酷をしているという自覚も、ないようだった。


「何が目的だ……っ」

「言ったでしょう。私はあなたが好き。森の中で私の剣を受けたあなた、格好よかったわ! お父様も言うの。あなたと私が結ばれれば、王国は森の民のものになる。それでいい、それがいいって」

「国が、欲しいのか。支配を望むのか」

「違うわ! 私はあなたが好きなの! はじめての恋よ。一目惚れなの。叶えたいと思うでしょう? 愛して欲しいと思うでしょう?」

「……誰が、お前など……!」


 イルサナは床に膝をついた。

 そして、愛しげにカトルの頬を撫でる。


 カトルの瞳から休息に光が失われていく。輝く太陽のような意志の強さを宿した光が──消える。

 あまりの苦痛に。死ぬ間際まで与えられるような、痛みに、苦しさに。


「私はあなたを支配できる。あなたは私以外を愛せない。私以外を愛さない。私以外を想ったら、私以外に優しくしたら──フィアナの心臓は止まって死ぬ。あなたは殺さない。だって、大好きだもの」

「……くそ……っ」

「強いのね。心が、強いのね。すごく素敵。気に入ったわ」


 支配などされてたまるかと思う。

 それはカトルが最も嫌うものだ。 

 自分の運命を決めるのは、自分自身だけだ。


「ふざけるな、ふざけるな、ふざ、ける、な……っ、殺す、お前を殺す、必ず、殺す……!」

「フィアナが死ぬわよ?」


 カトルは、きつく拳を握りしめる。正気を保つために、手にしていた短剣で自分の大腿を刺した。

 痛みに我に返り、大腿から短剣を引き抜く。

 大蛇の腹を切り裂いて、剣を取り戻す。


 イルサナの背後にいる大蛇に向けて短剣を振り上げるが、どくん! と、心臓が奇妙に高鳴る。

 再び締め付けられるような痛みを感じ、カトルはずるりと倒れた。

 

 血に塗れた手が、誰かを求めるように伸ばされて、そしてぱたりと落ちた。


 ──それからずっと、夢と、現実の狭間を彷徨っているような感覚が、続いている。


 常に、心臓を誰かに握りしめられているかのようだ。

 呼吸が苦しく、目眩がする。自分の隣にいる女が誰だったのか、よくわからない。

 それは、イルサナ。イルサナを愛している。イルサナだけを──愛さなくては、いけない。


 そう、しないと。フィアナが──。


 イルサナは彼女がそう宣言した通り、カトルがフィアナに愛情を向けた途端にフィアナを殺すのだろう。

 それはカトルにとって、己の死よりもよほど耐えられないことだった。

 だから、フィアナを遠ざけた。彼女の目を見ず、イルサナに心変わりをしたふりをした。


 いつか、イルサナは隙を見せるはずだ。邪神を殺し、フィアナを救わなくては。


 カトルがフィアナを遠ざけるようになると、イルサナの命令もあるのだろうが、今までの不満をぶつけるように誰も彼もがフィアナを邪険に扱いはじめた。

 今までカトルの目があったから、皆、フィアナを尊重していたのだろう。

 

 フィアナの姿が薄汚れていくたび、彼女がやつれていく度に、カトルの胸はイルサナによって与えられる苦痛よりもよほど痛んだ。

 そして同時に、貴族や城の人間たちに対する憎しみと怒りが湧いた。


 ──彼女はこれほど、美しいのに。

 何故誰も、わからないのか。

 これほど、愛しているのに。


 なぜ、自分は彼女を救えないのか。

 そして、ある日とうとう──イルサナは、フィアナに直接危害を加えた。

 その背に、沸騰した湯をかけたのだ。


「フィアナは自分で湯を被ったのよ。きっと、カトル様の気を引きたかったのに違いないわ。あぁ、そうだ。お医者様、森の民は傷の治療に詳しいのよ。そんな薬草、まだ使っているの? 火傷に効くのは、ヒルザの葉」


 その葉は、火傷の治療には使われない。

 それどころか──微弱な毒のある、どこにでも生えている雑草だ。


「そうよね、カトル様?」

「……あぁ」


 心が、砕け散りそうだった。

 悲しみと憎しみと怒りに飲まれて、自分自身が別の何かに変わっていくような気さえした。


(フィア……すまない、フィア。俺のせいだ。全て、俺の……)


 寝台に乗せられて、苦しむフィアナを抱きしめたい。

 いっそ二人で死ねたらいい。


 生まれ変わっても巡り会う約束をした。

 だから二人で死んで、もう一度巡り会って。誰にも邪魔をされない、誰にも苦しめられることのない場所で、愛し合いたい。


 ──だが、生きている。まだ、生きている。


 このままではいけない。

 フィアナをどこかに、隠さなくては。イルサナを刺激しない最善の方法を、考えなくては──。


 カトルは、怪我の療養を続けている友人に頼ることにした。

 詳細は話せない。

 だが、ユリシアスは誠実で真面目な男だ。


 きっと、フィアナを守ってくれるだろう。

 全てを終わらせて、フィアナを迎えに行くことのできる日がくるまで。




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