想い人
羞恥に耐えながら背の傷を見てもらい、薬を塗り包帯を巻き直してもらい、数週間。
包帯を外せるまで、フィアナの傷は癒えた。
痛みがなくなると家の細々としたことをやりはじめていたので、ベッドから抜け出すのはもっと早かった。
だが、ユリシアスは重労働をフィアナにさせるのを嫌がり、シャルデアの世話はしばらくさせてもらえなかった。
包帯も外すことができたためにもういいだろうと、フィアナはシャルデアの元に向かう。
このところのフィアナは、自分の進退を決めかねていた。
ユリシアスの怪我が癒えたら出て行こうと思っていたのだが、それもできずじまいだ。
王家にも貴族にもかかわらずに生きるべきだと感じていたのに、ユリシアスの優しさに触れるたびに、決心が鈍ってしまう。
兎や鹿を狩る姿を眺めたり、共に湖で釣りをしたり。
海岸を散歩したり、二人で静かに本を読んだり──そんな日常を、愛しく思ってしまう。
そう感じる度に、カトルへの愛情が偽物だったような気がしてしまう。
永遠を誓うほど、愛していたはずなのに。
だがそれはもう、失われてしまったものだ。失くしたものを想い嘆くよりも、前を見て進むべきだと考えはじめていた。
馬屋に近づくと、中に人の気配を感じた。
ユリシアスがシャルデアを撫でている。声をかけようとしたが、その前にユリシアスの声が聞えて、フィアナは足を止めた。
「──どうしたらいい、シャルデア。……私は、不誠実か?」
いけないと思ったが、思わず耳をそばだててしまう。
気づかれないように慎重に、静かに馬屋の入り口に背をはりつけるようにして、姿を隠した。
「私は、リリアンを愛している。それに。……だが、このままでは」
リリアンという名に、背筋に冷たいものが走った。
フィアナは音を立てないようにそろりと、その場を離れる。
馬屋からだいぶ離れたところまで辿り着くと、森に向かって歩き出した。
(リリアン様とは……聖教会の、聖女様……)
聖騎士団が忠誠を誓うのは、王と、そして聖レストラールである。
聖レストラールを神とした国教聖レストラール教の、教団本部である聖教会は王都にある。
その聖教会の教主を務めているのが、ファルミナ大神官家。
リリアンとは、今の教主。
ファルミナ代神官家の長子が教主を務めることになっており、女性の場合は聖女、男性の場合は大司教と呼ばれる。
リリアンはレストラールに身を捧げている。生涯独身を貫き、神に祈る立場である。
そういったことを、フィアナは城で習っていた。
リリアンとは一度、挨拶をしたことがある。カトルに連れられて、聖教会に祈りにいったときだ。
穏やかで、優しげで、美しい人だった。
──ユリシアスは、リリアンを想っている。
だがそれは叶わぬ恋だ。なぜなら、リリアンには自由がない。結婚は許されていない。恋愛も、御法度だ。
カトルはそれを、『神の従僕』と呼び、嫌っていた。
「いつか、解放してやりたいものだな。俺の友のためにも」
「ご友人の、ために?」
「あぁ。道ならぬ恋をしている者がいる。まぁ、友の他にもリリアンに惚れている者はおおい。博愛というのか? 皆に優しいからな、あれは。とはいえ、本人は……レストラールだけを愛しているのだという。つれない女だ」
「リリアン様には、想い人はいないのでしょうか」
「いた。だが、もう、その相手は死んだ。だからリリアンは、失われた想い人に祈りを捧げながら、その記憶と共に死ぬつもりなのだろう」
リリアンは、ある騎士を愛していたそうだ。
けれどその騎士は、従軍中に死んだ。炎の部族との小競り合いの最中に、矢に胸を貫かれたのだという。
それからリリアンは、粛々と聖女の役目を果たしている。
フィアナにはそれは、悲しい話のようにも聞えたし、切なく苦しい、けれど情熱的な恋物語のようにも聞こえた。
(……ユリシアス様は、リリアン様を愛している)
その事実は、フィアナの心にするりと入ってきた。
それはそうだ。ユリシアスはフィアナよりもずっと大人だ。生きてきた時間が違う。
誰かを愛したこともあるだろう。当然、愛する人もいただろう。
(でも、どうしてカトル様は、想い人がいると知りながら、私を……?)
ユリシアスの想いがかなわないものだと知っていたからか。
それとも、想い人がいるユリシアスならば、フィアナを愛することがないと知っていたからか。
気づけば、駆けだしていた。湖の前に辿り着くと、フィアナは足を止める。
水面を覗き込む。湖に映った自分の顔に、フィアナを見据えるカトルの嫌悪に満ちた顔が重なった。
(そこまで、私を憎んで……嫌っていらっしゃったの……?)
カトルへの思慕は、悲しみに埋め尽くされる。
ユリシアスへの淡い気持ちは、罪悪感へと変わっていく。
心が、乱れる。散り散りになって、砕けてしまいそうだ。やはり、ここにいてはいけない。
足音が聞えて、フィアナはびくりと震えた。
今の顔を、ユリシアスに見られたくない。きっと、泣きそうな顔をしている。
ユリシアスならばすぐに気づくだろう。何があったと尋ねられたら、フィアナはきっと、理由をこたえてしまう。
フィアナは急いで服を脱いだ。
湖の中に、足を踏み出す。足がつくぎりぎりまで深く体を沈めると、その清廉な冷たさに、心の乱れが僅かばかり落ち着いていく気がした。
「……フィアナ、探した。何をしている?」
「ユリシアス様……泳ぎたく、なってしまって」
「……海に入りたくなったように?」
「はい」
「では、私も共に泳ぐべきか」
「だ、駄目です。今は、服を……」
脱いでしまった。フィアナが裸体だとわかれば、ユリシアスはすぐに立ち去ってくれるだろうと思ったからだ。
だが、ユリシアスは立ち去る気配がない。
背中に視線を感じて、フィアナは自分の体を両手で隠しながら、身をすくめた。