揺れ動く心
ずぶ濡れのフィアナを抱きあげて、ユリシアスは帰路についた。
両手が塞がってしまったために、フィアナが荷物や彼女の靴を抱えてくれている。
彼女は申し訳なさそうにしていたが、ユリシアスにとって小柄なフィアナを運ぶことはさして負担にはならなかった。
カトルの恐ろしいほどに真剣な声音が、頭に響く。
『忘れるな。フィアは、俺のものだ』
──わかっている。ただの、気の迷いだ。
フィアナは、ユリシアスが耳にしていた噂とはまるで違う。
素朴で、健気で、穏やかで──異民族を厭わない、器の広い人だ。
(どこが、高慢だ。その中身は野生の猿、などと。どの口が、言えたものか)
ユリシアスにとっては他者の不幸を喜び嗤い、それを肴に酒を飲むような貴族たちのほうがよほど、野生の獣と同等だ。
(私も、同類か。フィアナのことを何も知らず、噂通りの女だと思い込んでいた。カトル様には相応しくない、その命が奪われることなどどうでもいいと、思っていた)
カトルに言われたからということもある。だが、ユリシアスはフィアナに対して他の貴族たちと同様に懐疑的だった。
カトルにはもっと相応しい人がいる。フィアナはカトルの心を乱す。
もしかしたら──カトルのために、フィアナの死すら、心のどこかで望んでいたのかもしれない。
だから、冷たく接した。不機嫌を隠すこともなかった。
せいぜい怯えろと思い、出自も、晒した。
「……フィアナ。寒くはないか」
「大丈夫です。ごめんなさい、ユリシアス様。濡れて、しまって。家に帰ったらすぐに、湯浴みの支度をしますね」
「あなたが先に湯浴みをしろ。私は、少なくともあなたよりは頑丈だ」
「私も丈夫、なのですよ。病気もほとんどしたことが、ありませんし。私は水浴びだけで、十分です」
「水浴び……?」
「はい。小川の先に、湖がありますでしょう。ユリシアス様が湯浴みをしている間に、私も水浴びをすませてしまいますね」
にこやかに何でもないことのように、フィアナは言う。
胸が潰れそうな気持ちになる。
──彼女と関われば、彼女と話せば、その優しさも聡明さもすぐにわかる。
一体今まで、どのような暮らしをしていたのだろう。
カトルはきっとそれを知っていたからこそ、誰の目にも触れさせないように彼女を守っていたのだ。
フィアナには、そしてカトルにも時間が必要だった。その時間は、イルサナの手によって奪われてしまった。
「フィアナ。自分を貶める必要はない。あなたは、使用人ではない。私の妻として、自由にふるまっていい」
「……ありがとうございます。ユリシアス様は……優しい方ですね」
瞳を潤ませながら、感謝の気持ちを伝えてくれるフィアナの姿を見ていると、罪悪感で息が詰まるようだった。
礼を言われるような、優しい男ではない。
それは自分自身が、一番、痛いほどよく理解していた。
館に戻りフィアナを降ろす。
荷物を受け取りテーブルに置くと、背後でどさりと、何かが倒れる音がした。
ユリシアスが振り向くと、フィアナが入り口から数歩進んだところで座り込んでいた。
「フィアナ?」
「な……んでも、ありません」
「そうは見えない。どうした」
「本当に、大丈夫です。お気になさらず。今、湯浴みの支度を……」
「フィアナ……!」
ふらふらしながら立ち上がろうとして、フィアナは再びずるりと姿勢を崩す。
床に倒れ込みそうになった彼女に手を差し伸べる。
抱き上げたフィアナの体は、火がついてしまったかのように、熱かった。
頬が真っ赤に染まっている。それなのに肌は青ざめている。
ふっくらとした可憐な唇から、はぁはぁと浅く早く息を吐き出していた。
「熱があるのか」
「……違います、これは、違うのです。ごめんなさい、ユリシアス様、降ろしてください……」
「もう、喋るな。目を閉じていろ」
ユリシアスはフィアナを二階の寝室に運んだ。
彼女は遠慮がちに一番小さい部屋を使用していた。鍵付きのその部屋は、母が閉じ込められていた部屋だとユリシアスは気づいていた。
ユリシアスはフィアナを、自分が使用している主寝室に連れていく。
ベッドに寝かせると、一瞬ためらったが、濡れて体に張り付く衣服を脱がせた。
フィアナは朦朧としながら、くたりと体から力を抜いている。深く目を閉じて、息をついている。
白い素肌が露わになる。少し迷ったが、濡れたままではいけないと思い下着も外した。
嫋やかな二つの膨らみから目をそらす。
こんな時でも──獣欲を感じてしまう自分の体が恨めしかった。
「これは……何故、黙っていた」
海水に濡れたせいかと思い体をふこうとするが、その前に、その背中にある大きな傷に気づく。
それは、まるで蝶の羽根のようにフィアナの背に広がっている。
赤く腫れあがり、痛々しく爛れている。
治療もせずに放置されたか、悪質な治療により悪化をした、火傷の跡に見えた。
「あぁ……そうか、だから」
だから、陛下は──。
と、呟きかけた言葉を、ユリシアスは飲み込んだ。
遠ざけただけでは守れないと、カトルは苦渋の表情で口にしていた。
考えなくてもわかる。これは、イルサナの手によって傷つけられたのだ。
だからカトルは、ユリシアスにフィアナを任せた。
カトルが火傷について口にしなかったのは、イルサナを刺激しないためか、それともユリシアスへの嫉妬心か、その両方だったのか。
「フィアナ……」
ユリシアスの瞳は、もう痛まない。だが、フィアナの傷は彼女を苛んでいたはずだ。
それなのに、苦痛を口に出さず、表情にすら出さなかった。
痛みに強いのは、けして美徳ではない。
長年騎士団に身を置いているユリシアスは、そう考えていた。
それは──自分を蔑ろにする行為だ。
「待っていろ。すぐに、薬を持ってくる」
薬草を塗るべきは、自分ではなくフィアナだった。それなのに、彼女はユリシアスの治療を優先した。
死にたいのかと、思う。
だが、死ぬ気はないと笑っていた。
あの笑顔に嘘はなかった。
ユリシアスは裸体のフィアナにシーツをかけて部屋を出る。
ただ、苦しかった。彼女を苦しめてしまった自分自身にも、そして、カトルと彼女の幸せを奪ったイルサナという異民族の女にも、怒りが湧いた。