ユリシアスは、つるぎである
◇
カトルが寵姫を娶った。
それは、ずいぶんと唐突なことだった。
エスタニア王国王太子カトルは、少し変わっていた。幼い頃から武芸に秀で、野山を駆けることを好んだ。共も連れず一人で狩りや鍛錬に出かけてしまう。
そして──氷の民の血筋の混じるユリシアスを、嫌がらなかった。
ユリシアスの母は、氷の民だ。今からおおよそ二十五年前、氷の民の平定戦が起った。
それは氷の民が住む凍てついた大地でのみ産出される鉱物を巡っての争いだった。
氷の民は、雪と氷に覆われた凍てついた大地の鉱山に、穴を掘って街を築いて暮らしている。
採掘できる氷花石は冷気を帯びていて、水を凍らせたり作物を保存したりするのに役立った。
氷の民はその石を神からの贈り物だとして、大切にしていた。
だが、王国民にはその信仰は理解できない。王国にとって氷の民の住む土地も、自国の土地である。
異民族が勝手に住みついているだけだと、彼らは考えていた。
そのため、氷花石を勝手に採掘した。そのことについて何度も諍いが起っていた。争いは不毛だとして、氷の民が採掘したものを買い取ることで和睦が結ばれた。
だが、王国はそれを安く買いたたいた。度重なる値下げ交渉に、氷の民はならば売らないという方針を提示して──どちらも引かず、武力で決着をつけることに、結局はなってしまった。
その時、聖騎士団を率いて氷の民の土地に訪れたのが、ユリシアスの父。
今は亡き、ガルウェイン公爵だ。
ユリシアスの母は、氷の民の中でも巫女と呼ばれる存在だった。
氷の民の神は、石の魚である。それは凍り付いた湖の水底をひそやかに揺蕩うものだ。
石の魚が大地をつくった。そして、氷花石のような鉱物を我らに与えてくれる。我らが寒さや餓えに強く、堅牢な体を持つのは、我らが皆、石の魚の子だからだ。
そう考えられていた。
氷の民が死ぬと、その体は氷神湖と呼ばれる凍った湖へと沈められる。
石の魚は遺体を飲み込む。そして、石の魚に還ることができる。
死者は石の魚の中で穏やかな眠りにつくのだ。
だから──氷の民は、死者と対話ができると信じていた。石の魚に祈りの踊りと歌で呼びかけて、死者の声を聞くのが巫女の役割だった。
そんな母を──氷の民を武力で降したあとに、父は攫った。
ユリシアスの母は美しい女だった。そして、王国の民は異民族を同じ人間だとは考えていない。
氷の民は王国民とは言語さえ違う。王国民は氷の民の言葉を理解しない。一部の氷の民が王国民の言語を理解して、意思疎通を図り商売をしていた。
そのため、言葉の通じないただただ美しい母を、父は攫い、愛玩動物のように愛でた。
そして──生まれたのがユリシアスだった。
その時、父には正妻とその子供がいた。正妻はユリシアスの母とユリシアスを嫌悪し憎み、果ては毒殺をしようとした。
ずっと大人しくしていた母は──ユリシアスを守るために、はじめて氷の民としての力を使った。
例えば海の民が、海中でも呼吸ができるように。
氷の民は己の体を堅牢な鉱物へと、変化させることができる。氷のような石、まさしく氷花石のように。
母は腕を鋭い刃に変えて、ただただユリシアスを守りたいという一心で、正妻とその子供を殺めた。
そして──心優しい母は自責の念に堪えきれず心を病んで、海辺の館に閉じ込められることになった。
罪を犯せば、石の魚に還ることができない。巫女であった母はそう信じていた。
だが、実際その通りだったのかもしれない。凍てつく大地で巫女をしていたとき、母には死者の声が届いていたというのだから。
ほどなくして、母は自害した。ユリシアスは遺体も見ていない。死んだと、知らされただけだった。
ガルウェイン家の子は、ユリシアスしか残らなかった。
父はユリシアスが氷の民の子であることを隠していた。正妻の子として、王に届け出をしていた。
ユリシアスの片顔は仮面で隠されて、血筋のことは口にするなと家の者たちに命じた。
ユリシアスにも「けして知られてはならない」と、何度も言った。
そんな父も、心労が祟ったのか、それとも天罰がくだったのか、ユリシアスが二十歳になるまえに死んだ。
カトルに仮面の下の素顔を知られてしまったのは、ユリシアスが彼の護衛をしていたときのこと。
ユリシアスが十五歳、カトルが十二歳の時だ。
その時、カトルは「ユリシアス、巨大な猪が畑を荒らしていると聞いた。狩りに行くぞ」と命じて、ユリシアスだけを連れて猪狩りに向かっていた。
まだ幼いというのに、馬を乗りこなし、弓も槍も剣も得意なカトルは、皆に天賦の才があると言われていた。
それでも驕らず、誰にでも公平に明るく振る舞うカトルを、ユリシアスは主として尊敬していた。
ただ一つ。少し、無謀なところを覗いては。
勇敢すぎるというのも問題だ。その勇敢さのせいでいつか足元をすくわれなければいいがと、ユリシアスは思っていた。
秘密を抱えていることや、幼い頃の寂しい境遇のせいか、ユリシアスはどちらかというと慎重な男に育っていた。カトルと自分は真逆だ。その笑顔を見ていると、眩しいと感じずにはいられなかった。
「くそ……猪め。手こずらせてくれたな。ユリシアス、無事か」
張った罠をことごとく壊されて、三日ほど、山の中を追い回し、カトルは猪を狩った。
死闘の末、何本もの矢や槍をその体に全て突き刺して、猪は倒れた。
その猪の上に座り込んだカトルは、息を切らしながら座り込んでいるユリシアスに明るく声をかける。
「お前、仮面が」
猪に体当たりさえて、草むらの中に弾き飛ばされた時だろう。
ユリシアスの仮面は外れてしまい、地面に落ちて割れていた。
「……っ」
ユリシアスは青ざめて、片顔を手で押さえる。
知られてはならないと言われたのに。氷の民の血が流れていると知られれば、今の立場を失う。
何もかもを、失ってしまう。
「それは、氷の民の証だな。なんだ、ガルウェイン公は。不義を働いていたのか。聖騎士団長も、氷の民の美しさには勝てなかったのだな」
あっさりそう言って、カトルは何でもないように明るく笑った。
「殿下、私は……」
「お前はそれを気にしているのだろう。誰にも言わない。俺とお前だけの秘密だ」
「……ありがたく、存じます」
「人には秘密の一つや二つあるものだ。それにしても、この猪だが、食うか? でかすぎて不味そうだな。城の者たちは肉を狩り捌き食うことを、残酷だと言う。それは異民族たちがすることだと。馬鹿げていると思わないか? 食卓に並ぶ肉は誰かが狩り、捌いたものだろう。特に女どもがうるさい。まったく、嫌になる」
ぶつぶつ文句を言いながら立ちあがると、カトルはユリシアスの元にやってくる。
そして、剣に巻いていた布をほどくと、ユリシアスの顔に巻いた。
「これで見られない。仮面の予備を持っていたほうがいいぞ。お前の皮膚は丈夫だろうが、仮面は砕けるものだからな」
それからだ。
ユリシアスは、カトルに忠誠を誓っている。それは何が起ろうとも、変わらない忠誠だ。
だから、どこぞの伯爵令嬢をカトルが嫁に迎えたと聞いた時も、驚きはしたが、疑問を口にしたりはしなかった。
カトルの大切なものならば、それは自分にとっても大切なものだ。
自分の役割は、カトルとその大切なものを守ることだと。
ユリシアス・ガルウェインはカトルの剣である。
そう、信じていた。