国王からの手紙
青年を助けたことを、フィアナは誰にも言わなかった。
もとより、アルメリア伯爵家にはフィアナの話し相手など誰もいない。
フィアナの心を慰めるのは、屋根裏部屋に時折訪れてくれる小鳥たちや猫や、リスたちぐらいのものだった。
動物たちといるときだけ、フィアナの心は安らいだ。
「あの人は、誰だったのだろう」
人の美醜は、よくわからない。だがきっと、どちらかというと綺麗な顔をしていたのだろう。
綺麗な顔をしていても、怖い人もいる。
フィアナの義母アルサンディアや、腹違いの妹イシュタニス。
そして父、セルジオ・アルメリア。
顔立ちも身なりもいいのに、皆、おそろしい。
母も綺麗な人だった。だが、フィアナが思い出せる母は、やつれた顔をしていた。
やつれていて、髪も痩せ細り、肌もかさついていた。けれど、それでも綺麗だった。
「フィアナ! どこにいるの!? ドレスのボタンの色が気に入らないのよ! なおしておいてって言ったでしょう……!」
「フィアナ、これっぽっちのブラッドベリーじゃ、ジャムには足りないわ。まったく、役立たず!」
階下で、アルサンディアとイシュタニスが大声をあげている。
背筋を寒々しいものがはしる。彼女たちを怒らせると──折檻をされるのだ。
頬を叩かれるのは、背を蹴られるのは、痛いから嫌だった。
言葉で傷つけられるたび、痛みで傷つけられるたび、自分の中にある大切なものにひびが入り、砕けていくのを感じていた。
「フィアナ、今日は帰りが遅かったわね。何をしていたの? 森でさぼっていたのではないでしょうね」
「まさか、誰かと密会をしていたのではないの、お姉様。そういえば、お姉様が森に行っている間、馬番がいなかったわ」
「まぁ、薄汚い……! まだ十三歳だというのに、穢らわしい」
「私は、何も……ベリーを摘んでいただけで……」
「口答えなど許していないわ!」
屋根裏から出て、廊下で騒いでいるアルサンディアたちの元に行くと、アルサンディアは金切り声をあげながらフィアナの頬を打った。
最近のアルサンディアは、以前よりもずっと苛立っている。
──父の夜遊びが、またはじまったのだ。
元々、女好きの男だったのだろう。子を生み老けたアルサンディアに以前ほど関心を示さなくなり、若い女に手を出していることをフィアナは知っていた。
アルサンディアやイシュタニスたちが不在の時に伯爵家の自室に若い女を連れ込んでいるのだから、知っていて当然だ。
父はその後片付けを、フィアナに命じた。
そういうときの、父から感じる肌にねばりつくような視線のおぞましさを、フィアナはなによりもおそれていた。
フィアナが知っていて、アルサンディアが何も気づいていないはずはない。
アルサンディアは恐れているのだろう。かつて、母が捨てられたように、自分も捨てられるのではないかということを。
「さっさと仕事をなさい! この家に置いてやっているのだから、働きなさい、役立たず!」
「そうよ、お姉様。お母様の言うとおりだわ」
叩かれた衝撃で床に倒れたフィアナを、アルサンディアは先の尖った靴で蹴りつけた。
アルサンディアの隣で、イシュタニスがくすくす笑っている。
フィアナは悲鳴をあげないように、口をつぐんだ。感情を出せば、アルサンディアの憤りを刺激してしまう。
折檻が終わるまで何も言わずに耐えていれば、それは早く終わるのだと、フィアナはこの三年で学習していた。
人は、どのような環境であってもやがて慣れるものだ。
それはフィアナの若さもあったのだろう。そして、母と違って貴族としての優雅な暮らしを知らないということもあったのだろう。
森に入れば食料があり、水浴びをすれば清潔は保てる。
成長するにつれてフィアナは、そういうことを覚えていった。
もちろん母もそれを知っていたはずだ。
だが、侯爵令嬢としての矜持が母にそれを許さなかった。
森の中で裸になり水浴びをしたり、野草や木の実を食べたりすることが、母には耐えられなかったのだろう。体よりも先に心が病んで、そして体が病みついた。
フィアナは、むしろ森や自然を愛していた。
慣れてしまえば、ブラッドベリー摘みも辛いとは思わず、一人で水浴びをしている時は心が晴れやかになった。
気づけば更に四年の月日が経ち、フィアナは十七歳になっていた。
いつものように裏庭でシーツを干していたフィアナを、父が執務室に呼びつけた。
「フィアナ! お前に国王陛下からの手紙が来た!」
「……お父様、私に手紙、とは」
「一体どういうことだ!? 陛下がお前を嫁に欲しいと言っている! お前は何をした!? そもそもお前のことを陛下に紹介したことなど一度もない。社交界にも連れていくなとアルサンディアが大騒ぎして面倒だから、その通りにしていたというのに……!」
この日は、久々に王都からアルサンディアも帰ってきていた。
アルサンディアは顔を悪鬼のように歪めながら
「何故、フィアナが!? イシュタニスと結婚を望むのならよろこんで受け入れるというのに! あり得ない、許せないわ!」
と、髪をかきむしりながら叫び続けた。
その有様は、傍で見ていたフィアナが命の危機を感じるほどだった。
今すぐに花瓶を掴んで、フィアナを殴りかねない剣幕のアルサンディアを、セルジオが使用人に命じておさえつけた。
「ともかく、お前を国王陛下の元につれていく。いいか、フィアナ。上手くやれ。お前が国母となれば、伯爵家は安泰だ」
「……私は、とても、そんな役割は」
「余計な口答えをするな!」
父に叱責されて、フィアナは口を噤む。
伯爵家の令嬢ではあるものの、フィアナは一度も伯爵令嬢らしい教育など受けたことはない。
国王陛下との結婚など、できるはずがない。
──それがどんなものなのかさえ、考えることもできないのに。
フィアナはただの使用人だ。血筋がどうであれ、使用人として生きてきた。
何かの間違いだ。
月日は、フィアナを置き去りにして勝手に流れていく。
髪や体を清められ、整えられたフィアナは、真新しいドレスに着替えさせられて、馬車に乗せられた。
セルジオは、どうしても共に行きたいというアルサンディアとイシュタニスを連れて、フィアナとともに登城をした。
そこで待っていたのは、どこかで見たことのある青年だった。
目が覚めるような金の髪に、翡翠色の瞳をした、美しい男だ。
「フィアナ。会いたかった」
フィアナの顔を見るなり、出迎えに来た青年が駆け寄ってくる。
肩には獣の毛皮のマントがかけられている。逞しい体に、飾りの多い衣服を纏っている。
「国王陛下、この度は……」
「国王陛下! あなたが見初めたのは、イシュタニスの間違いではないですか? フィアナと年齢は同じですし、背格好も似ています。私たちはフィアナを一度も家から出したことがありません。この子は少し、問題があるものですから」
挨拶をしようとしたセルジオの言葉を遮り、アルサンディアが言う。
若き国王は彼らをちらりと見て、それから再び視線をフィアナに戻した。
「俺が見初めたのはフィアナだ。そちらの、イシュタニスなどは知らんな。アルメリア殿、フィアナを我が伴侶に迎えることに相違はないな?」
「もちろんです、陛下。ですが、フィアナには妻の言うように、問題がありまして」
「問題とはなんだ?」
「……頭があまりよくないのです。礼儀作法も覚えられず、言葉もまともに話せません」
「なんだ、そんなことか。些細なことだな。それに、言葉は話せる。そうだろう、フィアナ」
「……話すことは、できます」
礼儀作法はわからない。文字も、まともに読めない。
頭が悪いと言われてしまえば、きっとそうなのだろう。
不安に揺れるフィニアの瞳を覗き込んで、国王は快活な笑みを浮かべた。
「俺は、カトル・エスタニア。四年前、君に救われた。覚えているか?」
「……あの時の」
川で倒れていた青年だ。どうりで見たことがあるはずだ。
──まさか、彼が国王だとは。
「どういうこと……!?」
「お姉様、どうして……ずるいじゃないですか、こんなのって、ない……!」
「アルメリア殿。俺はフィアナを妻に迎える。アルメリア伯爵家には相応の支度金を送ろう。それから、アルメリア殿の隣にいる女は、使用人だと聞く。その娘には庶民の血が流れている。何故俺に会い、言葉を交わせると思った?」
「もうしわけありません、陛下!」
「フィアナは今日から俺と共に暮らす。これ以上の話がないのならば、お前たちは帰っていい」
冷たい声でカトルに告げられ、セルジオは真っ青になりながら礼をして、アルサンディアたちを連れて逃げるように帰って行った。