それはどこまでもひろがる
港の前の市場から海辺をしばらく歩いて行くと、砂浜に出る。
中天にのぼった太陽から降り注ぐ柔らかい陽射しをうけて、白い砂浜が光って見えた。
砂浜には誰も居ない。子供たちが遊んでいそうなものだが、昼時のこの時間は家に帰っているのかもしれない。
さくさくと砂を踏み、フィアナは海に向かう。
荷物を持ったユリシアスが、後ろをゆっくりついてきている。
半分持とうかと申し出たが、断られてしまった。あまり食いさがるのもよくないのだろう。
湖には果てがあったが、海には果てがない。
どこまで広がっているのだろう。どれほど深いのだろう。
もしフィアナが海に沈んでしまったら。海はフィアナ一人を簡単に飲み込んで、なにごともないようにただ白波を立てるのだろう。
触れてみたいと思った。靴を脱ぐと、足を海水にひたしてみる。
春先の海はまだ冷たい。白い足に海水が白い泡をたてながら触れては、引いていく。
足が砂を抉る。こちらにおいでと誘われている気がして、フィアナは足を一歩踏み出した。
冷たい。くすぐったい。気持ちがいい。
波の音と、日の光。風と、それから。
たくさんの生き物の気配がする。
フィアナは空をみあげた。たくしあげていたスカートが、いつの間にか濡れていた。
『大丈夫よ。必ず、お母様があなたを守る。ずっと一緒にいるわ、フィアナ』
『フィア。俺が君を守る。たとえ死が訪れても、永遠に君を愛している。フィア』
母の声が、そしてカトルの声が頭に響いた。
それは、波の音と共に消えていく。
「フィアナ!」
焦ったように名を呼ばれて振り向くと、ユリシアスがざばざばと海の中に入ってくるところだった。
靴も服もそのままで、濡れてしまいますと言おうとしたが、腕を掴まれ抱き寄せられる。
きつく抱きしめられて、背に腕が触れる。痛みに顔をしかめた。
しばらく忘れていたが、背の傷はまだ痛む。
「……っ、ユリシアス様……?」
突然どうしたのだろうと、彼の胸に手を当てて、その顔を見あげた。
怒ったような、それでいて悲しそうな、深刻な色をたたえた瞳と目が合った。
「あ、あの、どうされましたか……?」
「あなたは、死ぬべきではない」
「……え、あ……」
「……フィアナ!」
高波が押し寄せて、足がとられる。ユリシアスに強引に抱き寄せられたせいで、足が浮いた。
そのまま海の中に倒れ込みそうになるフィアナを、ユリシアスの腕が更に強く抱き寄せる。
ユリシアスの体が傾いて、彼を押し倒すようにしてざばりと二人で海の中に倒れ込んだ。
「……わ」
「……っ、無事、か」
「ユリシアス様、大丈夫ですか!?」
「私は、問題ない。フィアナ。死のうなどと、考えるべきではない。あなたは、生きなくては」
海水の中に座り込んで、ユリシアスは片手で体を支えながら、フィアナの頬を撫でた。
濡れた手の冷たい感触に、フィアナは目を細める。
それから──こらえきれなくなって、肩をふるわせて笑った。
「ふふ……」
「フィアナ?」
「ごめんなさい。……あぁ、でも、ふふ……ユリシアス様、ずぶ濡れ、ですね」
「……勘違い、だったか?」
「はい。そんな度胸は、私にはありません」
申し訳ないと思ったが、隙がひとつもなさそうなユリシアスのそのような姿に、フィアナはこみ上げてくる衝動を抑えきれなかった。
「……そうか。……私は、何をしているのか」
「暗い顔をしてばかりいましたから、そう思われても仕方ありませんね。海に来たのははじめてで、つい、触れてみたくなったのです。川や湖に入ったことは多くありますが、海はすごく、広くて」
「ならば、いい。あなたが、海の中に沈んでいくような気がした。……あなたは、案外強い人なのだな」
「そうかもしれません」
強いのだろうか。そう言ってもらえるのは、なんだか嬉しかった。
くすくす笑っているフィアナたちに、飛沫をあげながら波がかかる。ユリシアスはフィアナの体を抱き寄せた。
「わ……っ、ふふ、すごい。海とは、気が抜けないものなのですね」
「……ふ、そうだな」
ずぶ濡れになりながら笑っているフィアナを腕に抱いて、ユリシアスは吐息のような笑い声を漏らした。
「ユリシアス様が笑ってくださるのは、はじめてです」
「……そうだったか」
「はい。……濡れても、美しい方は美しいのですね」
長い黒髪をかきあげるユリシアスの顔を覗き込んで、フィアナは微笑む。
「……美しい。私が?」
「ええ。そう、思います」
「……あなたのほうが、よほど」
「私、ですか? ありがとうございます。私のお母様は美しい人でした。姿形ではなくて、心が。私の憧れです。私も……そうありたいと、願ってはいます」
「あなたは、噂とは、別人だな」
「悪い噂ですね。ええ。知っています。……ユリシアス様、あの、子供たちが」
昼食を終えたのだろうか。子供たちが、砂浜に駆けてきている。
海の中で戯れているように見えるのだろう。フィアナたちの元に来て、「大人なのに、びしょ濡れ!」「一緒に遊ぼう!」と言って、海水をかけてくる。
フィアナは立ち上がると、海水をかけてくる子供たちにやり返した。
浅瀬で追いかけっこをして、小さな体を捕まえると、大きな声で笑った。
黙って見ているユリシアスにも、海水をかける。彼は俄に目を開いて、フィアナの腕を掴むと抱き寄せた。
「……フィアナ。あなたは悪戯が、好きなようだ」
「ええ。そのようです。はじめて知りました。自分のことなのに、なんだか新鮮です」
腕の中に閉じ込められて、フィアナは笑い続ける。
悲しいことがあっても、愛する人を失っても──笑っていていいのだと、思うことができた。