海辺の町
フィアナが顔を出すと、シャルデアがすぐに顔をあげた。
「おはよう、シャルデア」
美しい黒馬は、ぱたりを尻尾を揺らした。
カトルの馬は白かった。その名を、フィアナは尋ねなかった。
こうして世話をすることもできなかった。撫でることも、抱きしめることもフィアナの立場では難しかったのだ。
きっと、カトルに頼めば撫でさせてくれただろう。
だが──それはいけないことだと、フィアナは自分を律していた。
「ふふ、あなたは綺麗ね。とても、綺麗。シャルデア、新しい水とご飯をあげましょうね。少し待っていて」
藁を掃除して、新しいものをつむ。水と飼葉を追加して、ブラシで体を擦る。
あたたかい。生きている。シャルデアに触れていると、そう感じた。
「シャルデア、お世話をさせてくれて、ありがとう。あなたと一緒にいると、とても安心できる」
大きな体に自分の体を寄せて、頬をつけた。シャルデアはじっとしていた。
「また来るわね」
シャルデアの世話を終えると、フィアナは水汲みを始める。水がめをいっぱいにして、それから、家の側の小川で顔と手を洗った。
ブラッドベリーの棘でついた傷は、すっかり治っている。
朝の光と、小鳥の囀り、澄んだ空気が心地いい。城の中にいるよりもずっと、心が晴れやかだった。
屋外にあるかまどに火を入れて、鍋とブラッドベリーと砂糖を持ってきてジャムを煮はじめる。
火の番をしながら、フィアナは小麦粉と卵とミルクを混ぜて、パンケーキを焼いた。
珈琲豆を煮出して、珈琲を淹れる。ジャムの甘い香り、パンケーキの香ばしい香り、そして珈琲の深みのあるいい香りが庭に漂った。
「……とても、いい場所だわ」
住むなら、こういう家がいい。街から少し離れていて、森があって川がある。
晴れた日には庭で料理をして、畑を作り野菜を植えて、花を植えて。
静かな暮らしがいい。一人きりでも構わない。
誰かに心を乱されない、生きているのか死んでいるのかさえわからなくなるような、淡々とした毎日がいい。
「ユリシアス様、おはようございます。お早いのですね」
「……動かなくては、体が鈍る。あなたも、早い」
「早起きだけが、取り柄です」
ユリシアスが館から出てきた。寝起きなのだろう。やや声がぼんやりしている。
彼はシャツを脱ぐと、椅子にかける。木製の模造刀を振るたびに、ヒュンヒュンと風を切る音がした。
筋肉の隆起した背から、フィアナは視線を逸らす。少し、恥ずかしくなってしまった。
男性の上裸など、カトルのもの以外は見たことがない。
カトルも立派な体つきをしていたが、ユリシアスも同じぐらい逞しい。
パンケーキを皿に乗せて、ブラッドベリーのジャムをかける。
すっかり準備が終わると、ユリシアスもちょうど、鍛錬を終えたところだった。
「ユリシアス様、汗を」
「……あぁ。ありがとう」
布を渡す。ユリシアスはそれで、額や首を拭った。
体には、青い部分はない。
氷の民の血が交る証は、顔にだけでてしまったのだろうか。
「いえ。もしよければ、朝食を召し上がりますか? 今日は、天気がいいので、外でいかがでしょうか」
「ありがたく、いただこう」
庭のテーブルに二人で座る。フィアナはそわそわしながら、じっとユリシアスの顔を見つめた。
「なんだ?」
「あ、あの……珈琲に、お砂糖を入れてもいいでしょうか。ミルクも、入れたいのですが」
「好きにすればいい。私の許可が必要か?」
「すみません。贅沢、なので。なんだか、申し訳ない気がして」
「その程度のことが、贅沢?」
「……贅沢、です。お砂糖は高級品ですし、ミルクも」
「昨日も言ったが、私の財はあなたのものだ。好きなように振るまい、好きなように使えばいい。あなたに不自由をさせたいわけではない」
「もうしわけありません……あ、これは、違いますよね。謝罪ではなく、感謝を伝えるべきでした。ありがとうございます、ユリシアス様」
フィアナは、角砂糖を二つ、珈琲に入れる。ミルクもたっぷり入れる。
混ざっていく白と濃い茶色の液体を眺めて、口元を綻ばせた。
祈りの後に、パンケーキを口にする。ジャムも、パンケーキも上手に焼けている。
バターも、少し使わせてもらった。贅沢だと、感じる。
「フィアナ。シャルデアの世話、感謝する」
「いえ……むしろ私のほうが、ありがとうございます。シャルデアに触らせていただけるのが、嬉しいのです」
「そうか」
「はい」
「…… 何か、足りないものはないか。あれば、買ってくる」
ユリシアスに尋ねられたので、フィアナは顔をあげた。
「わがままを、言ってもいいでしょうか」
「あぁ」
「一緒に、行ってはいけませんか? ご迷惑じゃ、なければ」
「……構わない」
フィアナは思わず、微笑んでいた。