新しい生活
フィアナはユリシアスの馬に乗せられた。
黒い瞳をした、黒毛馬だ。
見送る者は誰もいない静かな出立だった。
城が、離れていく。二ヶ月と少し暮らした場所だったが、最後まで慣れなかった。
カトルが居ない城はいつでも寒々しく、愛を失ってからは余計に、場違いな場所のように感じられていた。
ドレスを着たフィアナの体は、ユリシアスから渡されたローブで包まれている。
目深にフードをかぶり、顔を見られないようにしていた。
王に捨てられたフィアナを多くの者に見られるのは、外聞が悪いのだろう。
フィアナを乗せてユリシアスは街を抜ける。王都の大門から出ると、丘の向こう側にそびえる立派な生命の林檎の木が目に映り、フィアナはうつむいた。
あの場所にはカトルとの思い出が、多く残っている。
僅かな吐き気を感じて、フィアナは眉を寄せる。失ったものへの悲しみが、そして、ユリシアスへの罪悪感がフィアナの首を見えない手で締め続けていた。
「……王都から離れろとの、命令です。不自由をおかけしますが、ここから向かって西にある海辺の街に向かいます。小さなものですが、ガルウェイン家の別宅がありますので」
「もうしわけありません。……よろしくおねがいいたします」
カトルは──フィアナが傍にいることが不愉快なのだと感じた。
もしかしたら、背の火傷も、カトルの気をひきたいがための自傷だと思われているのかもしれない。
愛情は無関心へと変わり、そして嫌悪へと変わった。
イルサナと愛し合っているカトルにとって、フィアナなどは邪魔でしかない。
フィアナのせいで王都を離れなくてはいけなくなったユリシアスが不憫だった。
彼はフィアナよりも少し年上に見える。カトルと同じぐらいか、それよりももう少し年上か。
なんにせよ、立場のある立派な人だ。
こうして馬を駆ることができるのだから、怪我の具合もそう悪くはないのだろう。
療養を口実に、王都から遠ざけられた。フィアナという荷物を押しつけられたせいだ。
せめて──彼に迷惑をかけないようにしなくては。
本当は誰にも迷惑をかけないように、一人で逃げ出すべきだと感じていた。
けれど、馬から強引に降りることもできず、フィアナは大人しくユリシアスの腕の中で馬に揺られていた。
西の街までは、馬にして半日。
半日駆けるだけで、その景色はまるで違うものに変わっていた。
高台から、どこまでも広がる海が見える。それは、フィアナの知る川や湖よりもずっと大きい。
城の中は目眩がするほど広くて寒々しさを感じたが、海は、それとは違う。
巨大なものに対する畏怖と同時に、心が晴れやかになるような、すがすがしさがあった。
「ここは、港町リドル。森と海のある、小さな街です。古くから、ガルウェイン家の者たちが療養や静養に使用していました。今は誰も使用していないので、屋敷は古びているかと思いますが」
「ユリシアス様、私を……ここに一人で、置いていって構いません。あなたは、王都にお帰りになってください」
「何故ですか? あなたにとって私の存在は、迷惑なものでしかないのは理解していますが」
「……そうではありません。ユリシアス様の負担になりたくないのです。私は、一人でも大丈夫ですから」
「そのようなことを、あなたは気にする必要はありません」
ユリシアスはフィアナを連れて街の外れに向かう。
海にそそいでいる川にかかる橋を渡り、しばらく進むと森がある。森を背にして古びた二階建ての館がある。
貴族の邸宅にしては、小さなものだ。木製の柵は摩耗しており、屋敷の壁には星形の葉をした蔓植物が蔓延っている。
雑草の中に井戸があり、煮炊き用のかまども井戸の傍にある。
そして、その館の傍には、立派な生命の林檎の木があり、赤々とした実を実らせていた。
「……ここにも、生命の林檎が」
「先に、林檎があり、家を建てたようですね」
「そうなのですね……」
あまり、見たいものではなかった。どうしても、カトルのことを思いだしてしまう。
甘い熱も。吐息も。声も。
もう、二度と──フィアナには与えられないものだ。
家の前で、ユリシアスと共に馬からおりる。
フィアナは馬の艶やかな体を撫でて、顔を撫でた。大人しくなすがままになっている馬の首に手を回して抱きついて「ありがとうございます」と礼を言った。
「……あなたは、馬がお好きなのですか」
「……はい。もうしわけありません、つい、触りたくなってしまって」
「いえ。しばらく共に暮らします」
「私が、お世話をしてもいいですか?」
「王妃様にそのようなことは」
「私はもう、王妃ではありません。……私は、今の私がなんなのか、私にもわかりません。……王は私に、あなたの療養の世話を命じました。ですから、私のことは使用人とでも思っていてください」
それは、自分を貶めるために口にしたわけではなかった。
フィアナにとっては、使用人である自分でいたほうが、心が楽だったのだ。
王妃ではなく、そして、ユリシアスの妻でもない。
ただ彼の、療養の手伝いをするためにここにいるのだと考えると、心を占める罪悪感が少し軽くなった。
「……馬の名は、シャルデア。黒い炎という意味です」
「シャルデア。……よろしくお願いします、シャルデア」
フィアナはシャルデアを見あげて微笑んだ。
馬のあたたかさが、何も言わない聡明な黒い瞳が、フィアナの心を軽くしてくれる。
久々に、微笑むことができた気がした。