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第6日

夜が明けるには、もう少し時間が必要なようだった。

いくらの明かりもない道を、イトの足は迷いなく進んでいく。

イトのマントが作り出す、夜よりなお深い闇の中、アオイは今しがた見た地獄に怯えて震えた。

イトの剣が築いた光景なのに。

イトから漂う血の香りが、なお、それを近付けるのに。

それでもイトから離れたいとは、ほんの少しも思わなかった。

「イト」

ようやくか細い声が出る。

「イト」

イトは何も答えなかった。

ギュッとイトの首に腕を回し、許される限り身を寄せる。

イトの腕が、それを助けるようにアオイを引き上げる。

それだけで、良かった。

イトの規則正しい歩みが奏でる心地良いリズム。

どう払おうとも消え失せない、凄惨な光景。

その狭間で、アオイは意識を失った。


不意にマントが外された。

限りなく眠りに近い、しかしながら決して心穏やかとは言えない混沌した中を漂っていたアオイの感覚に、突如の解放が与えられる。

重苦しい匂いは木々の青さに。

闇は、目覚めはじめた僅かな光に。

イトの息遣いは、水のせせらぎに。

先ほどまでの世界とはまるで違う明るさに、アオイはむしろイトの胸に顔を伏せてそれを避けた。

少しの間を置いてから、そっと顔を上げる。

そこは既に森の中だった。

ぐるりと木々に囲まれている。緑の合間を、弱々しい朝日が照らしている。

目の前には、川の流れ。

イトはアオイをそっと降ろした。

アオイを見ることも声をかけることもなく、川に歩み寄り水の中に足を進めていく。

アオイはその背中を、ただ見つめた。

光に下に晒された銀の髪、浅黒い肌…それが、血に染まっている。

色濃い衣は彩りを飲み込んでいたが、それにもおびただしい紅が染み込んでいるのだろう。

イトは衣を身につけたまま、腰あたりまで水に浸かった。

更にすべてを清めるように、頭まですっかりと水の中に埋め尽くす。

静かな動作は、川の流れに大きな波紋は描かない。だが、夜明けの光を迎え始めた水に、イトが浴びた返り血が流れ出たのをアオイの視線は見逃さなかった。

しかし、それも一瞬。

川は、すぐさまそれを飲み込み、何事もなかったかのように流れていく。

「イト」

数秒の後、水からゆっくりと現れた男を呼んだ。

「忘れることが増えたな」

イトは背を向けたまま。

まだ、そんなことを言うの?

忘れろと?

あの光景を。

水鏡というものを。

そして…貴方を?

アオイは手に持っていたイトのマントを手放すと走り出した。

衣が濡れるのも構わず、川へと踏み込む。

穏やかにも見えた流れに、足を取られそうになりながらもイトへと辿り着き、向けられたままの背中にしがみついた。

「貴方が殺したのは、私のせいなのでしょう?」

いつから、私はこんなに多くの問いかけを覚えたのだろう。

この男といると、アオイの中は常に疑問でいっぱいだ。

だが、そのアオイの問いへの、イトの返事はない。

アオイはさらに尋ねた。

「貴方が殺したのは…誰?」

無理なのだ。

何も聞かず、ただ微笑むことなど、もはやできない。

少し前なら。

イトに出会う前なら、何も聞かなかった。

望まれるまま、忘れて。

微笑んだかもしれない。

でも無理だ。

天使などではいられない。

だって。

私は知りたい。

貴方を知りたい。

「イト…あの人たちは…どうして私を?」

イトは振り返らない。

それでも、「…さあな」と答えがある。

知らないのか。

答えたくないのか。

アオイはさらに問うことはしなかった。

それは、どうしても知りたいことではない。

それは、イトが知らないというなら、答えないならそれでいい。

「…私、どうすればいいの?」

ようやく尋ねたいことが分かった。

ようやく、それを口にすることができた。

「俺の役目は、あんたをキリングシークに連れて行くことだ」

背中越しの答えに首を振った。

違うの。

イト、違う。

「その先のことは俺には関係のないことだ」

イトは言って、胸に回されていたアオイの手を外す。そして、手を引いて陸へと歩き始めた。

引かれるままについていきながら、アオイは己の手首を掴む男の指を見る。

昨夜、その指が触れたのだ。

衣越しではなく、直接の肌に。

少しも嫌ではなかった。

むしろ、離れた時の心細さだけが、アオイを苛む。

どうすればいい?

問いの真意は伝わらない。

伝えると言うのは、どうしてこんなに難しいの?

だが、届けなければいけない。

この胸にあるものを。

「イト」

アオイはイトの手に自身の手を重ねた。

「どうすればいいの?」

どうすれば、イトに側にいられるの?

イトに触れて欲しい。

イトに触れたい。

アオイは、イトが…欲しかった。

人も物も、こんな風に欲したことなどない。

だから、どうすれば手に入るのかなんて分からない。

「…お願い、私を拒まないで」

川を出て、離れる大きな手のひらを、頼りない華奢な指で追いすがる。

必死の思いで。

それしか、できない。

「拒む?」

ようやく、イトが振り返る。

感情の読みにくい面に、それでも不審。

「私の微笑みはいらないと言ったの」

それは、私を拒否する言葉?

「天使はいらないって言ったわ」

それは、私を否定する言葉?

「俺の言ったことなんかは…」

言いかけた言葉を遮る。

「貴方がいらないなら微笑みたくない。貴方がいらないなら…天使なんてなりたくないの」

うまく伝えられているかなんて分からない。

でも、言わなければ、カケラも届かない。

「どうすれば…貴方は私を拒否しないでくれるの?」

イトの隻眼が、アオイを見下ろす。

一つの瞳に浮かぶ感情が何なのか。アオイには分からない。

ただ、アオイは目を逸らさなかった。まっすぐに見つめる。

「あんたは今普通じゃない」

やがて、イトは言った。

聞き分けのない子供を、諭す大人の声音だった。

「元の生活に戻れば、何もかも忘れる」

本当に?

戻れるの?

貴方は戻れるの?

私は。

そして、アオイは告げる。

「戻れないわ」

私は、戻れない。

だって、知ってしまった。

貴方という存在を。

私という存在を。

「無理だもの。どんなに望まれても…もう、笑えないもの」

天使ではいられない。

何も問わず、何も語らず。

ただ、そこで望まれるままに笑みを浮かべる。

そんな空虚な無邪気さは、もうアオイにはない。

「イト…私は貴方の側にいたいの」

イトのせいだ。

地獄から、アオイを救った男。

地獄をアオイに見せる男。

天使などいらないと否定し、上辺の笑みを拒否する。

たとえそれがイトの本意ではなかったとしても。

アオイを天上から引きずり落として、現実をつき付けたのはイトだ。

「…アオイ」

イトが名を呼ぶ。

一体、何度目かというくらいに滅多に呼ばれないそれに、甘美さを覚えることもなく身が竦んだ。

「あんたを攫わせたのはウスラヒだ」

イトの声は、まるで感情がなかった。

見つめる先の表情も、また無。

「…ウスラヒがあんたを手に入れるために…男を操った」

何を言っているのか分からない。

分かるのは、一つ。

「…何故?」

それを尋ねる。

「あんたが水鏡の操り手だからだ」

イトは答えた。

だが、アオイは首を振った。

「違うの」

そんなこと、いくら聞かされてもアオイの中に流れ込まない。

アオイの瞳に映るイトの表情だけが、アオイの思考を網羅する。

「どうして…貴方が、そんな顔をするの?」

無の底にある苦悶。

痛みを押し殺すような。

悔恨に圧し掛かられているように。

「水鏡を遺したのは俺だ」

だから。

「あれが今ウスラヒの元にあることを赦したのは…俺だ」

それが、貴方を苦しめるの?

「今、ここにあんたがいるのは、俺が水鏡を遺したからだ」

それが、貴方を傷つけるの?

「こんなことさえなければ…あんたは、天使でいられたのにな」

アオイは首を振った。

そんなことは、今や僅かな望みでもない。

それでも。

ふと視線が落ちる。

「…私が貴方の側にいたいと願うのは…貴方を苦しめるの?」

気がついたのは、そういうこと。

前ならば気がつかずに見過ごしたことに気づく自身を、どう受け止めれば良いのか分からない。

そして、気がついたからと言ってどうすれば良いのかも知らない。

「アオイ…違う」

武骨な指がアオイの頬に触れた。

「あんたが今口にしていることが、いずれあんたを苦しめる」

アオイは口を閉ざした。

「…俺は…あんたを苦しめたくない」

首を振るう。

違う。イト、違うの。

だけど、ようやく動き始めたばかりのアオイの言葉や想いは拙くて。

まだ、イトに伝えきれていない気がした。

まだ、言わなくてはいけないことがある気がした。

でも。

もう、何も話せない。

なぜなら。

イトの隻眼がひどく痛々しいから。

アオイが何かを言うたびに、その紫の瞳が沈んでいくから。

だから、もう何も言えなかった。



天使は眠ったようだ。

言葉を覚え始めた子供のように紡がれた数々の問い掛け。

それに残酷な答えを与えたのはイト。

そして、アオイは口を閉ざした。

微笑むこともなく、ただ、黙々と歩く姿は出会ったばかりアオイのようだった。

ほんの数日だ。

この数日で、アオイは変わった。

変えたのはイトだろうか。

否、変えたのはこの異様な状況。イトはその一つに過ぎない。

それが、アオイを変え、その変化に戸惑うアオイは目の前の男に縋っただけだ。

今はイトを求めていても、いずれそれは消えて後悔だけが残るだろう。

その時になって。

縋る腕が拒む腕に変わった時に、あっさりと離してやれるだろうか。

イトは眠るアオイの頬に指を触れる。

滑らかな質感が、硬い皮膚を刺激する。

欲しているのは。

側に、と望んでいるのは。

むしろ、イトの方だ。

己に誤魔化しを許さずに告げるなら、イトはアオイが欲しかった。

アオイよりも明らかな想いの所在。

アオイよりもあからさまな欲望の存在。

イトはアオイよりも、よほど自身の中にあるものを理解している。

イトはアオイを手に入れたかった。

美しい娘。

姿かたちではない。

イトをまっすぐに見つめる瞳。

どんなにイトが血に塗れても、なお揺るがない緑の彩り。

それが、何よりも欲しいと。

静かに。

だが、激しく。

いっそ、手に入れてしまおうかと思わぬことはない。

抱いて、堕とすところまで堕として。

だが、頬に触れた指は、それ以上は動かない。

できる筈もない。

この娘は、イトが手に入れて良い存在ではない。

だから、自らに言い聞かす。

これは天使。

ほんの一時、イトの懐に迷い込んだだけの天上人。

明日には、元のあるべき場所に戻る者。

そして。

イトには、魔獣を狩るばかりの日々が戻るのだ。

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