第5日
胸がざわつく。
どうして?
これは何?
これは、不安というもの。
少し前なら、意識することのなかったもの。
なのに、今は。
不安、不安、不安。
それ一色の世界。
アオイは飛び起きた。
降り注ぐのは朝日。明るい、何一つ蔭りのない世界。
周りを見回す。
ここがどこでもいい。
今がいつでも構わない。
ただ一つ、男がいない。
それだけ。
それだけで、指先が冷たくなってくるようだ。
寒い筈もないのに、体を覆うように掛けられている布地を引き寄せる。
大きなグレーのマントはいない男のもの。
これがここにあるということは、戻ってくるということなのだろう。
名を呼ぼうとして、少しだけ待ってみる。その間にも、不安がじわじわと大きくなっていく。
だめ。
無理。
耐えられない。
どうして、あの男がいないだけで、こんなに不安になるのだろう。
「…イト?」
小さな声は、どこにいる男にも届く筈がない。
だが、思いがけなく返事があった。
「チッ」というそれは、ひょっこりとマントの中から顔を出した。サシャ。イトの遣い魔。
胸元へと寄ってくる体を撫でれば少しは気持ちも落ち着くが、それでも渦巻くものは消え失せはしない。
「イトはどこにいるのかしら」
サシャに言うともなく呟くと、思いのほか良い反応が返ってきた。
ぴょんとアオイの胸元から飛び跳ねて大地へと足をついたサシャは、アオイを呼ぶように再度小さく鳴いた。
「サシャ?」
イトのマントを抱きしめたまま、寝起きで重い体を、魔獣に促されるようになんとか立ち上がる。サシャは、途端に勢いよく走り出した。
「え、サシャ!?」
走り出した小さな子を追う。
サシャは、アオイを導くかのように、時折スピードを緩めたり、立ち止まったりしながら迷いなく進んでいく。
とは言え、アオイの足元は覚束ない。しかも、アオイの体の大きさまでを気にかけてくれる筈もないサシャは、背の低い木々や草花が生い茂る中をちょろちょろと器用に走っていく。
結果、アオイは葉に塗れながら走る羽目になった。
そして。
「イト!」
視界が開けると同時に、見つけた男の名を呼ぶ。
呼んだは良かったが、そのまま固まる。
なぜなら。
まるで、自分とは別の生き物のような裸体が、そこにあったからだ。
肌の色の違いはもちろんだが、それは些細な違いに過ぎない。
幾度と寄せた体が、自身より大きいことも分かっていた。
だが、これほど違うものなのか。
広い肩、厚い胸、それから太い腕。
アオイの知る自分自身の体が、どこもかしこもなだらかで柔らかい線を描いているのに対し、男の体は時に一筋に鋭く、時に複雑な流線で、その身を作り上げていた。
そして、その体の至る場所には、顔にあるのと同じような傷跡が無数と思えるほどに刻まれている。
なんて。
素直な感嘆を抱きながら、それをどう表現すれば良いのか。
荒々しく。
痛ましく。
そして、美しい?
「…おい」
イトが水浴びをしている、という事実に気がついたのは、いつもの呆れたような声をかけられてからだった。
「ごめんなさい」
慌てて、イトに背を向ける。
顔が熱くなり、鼓動が早まる。
「別に、俺は見られても構わねえけど」
水音がする。
「あんたは見ても楽しくないだろう?」
隣に気配を感じて視線を向けると、布地を羽織っただけのイトがいる。
濡れたままの体を気にすることもなく、衣装を身に付けていく男を見ていられる筈もなくて、視線を逸らした。
やがて、着替えを終えたイトは、アオイの手元にいるサシャの額を指で弾き「もう少しまともな道案内をしろ」と呟いた。
サシャは不満げにプイッとイトから顔を背け、アオイの胸元に丸まる。
イトは肩を竦め、アオイを見下ろした。
不意に指先が、頭に触れる。
「こいつに、連れまわされたな」
言いながら見せた指先には、小さな葉っぱ。
「あんまり寝起きは良くないみたいだったから、大丈夫かと思ったんだが…」
葉が指から離れて落ちる。
「置き去りにして悪かったな」
謝られるとは思わなかった。
アオイはびっくりして、イトを見上げた。
イトは、再び手を上げてアオイの髪についているらしい葉や小枝を取り除いていく。
世話を人に任せることには慣れている。
しかし、どうしてか、今はとても恥ずかしい。イトの顔を見ていることはできなくて、俯きつつ視線を湖へと流した。
先程まで、イトが水浴びをしていた場所は朝日を受けて光を弾いている。残像のように浮かぶそれを振り払いつつ、キラキラと揺れる水面を見ていると、アオイの中にウスラヒの元での不思議な体験が甦る。
「イト」
湖を見つめながら、名を呼ぶ。
「私、イトを見たわ」
あれは、何だったのだろう。
「ウスラヒに言われて…鏡を見たの。あれは…」
イトの手が止まる。
湖からイトへ視線を戻せば、目の前の男はじっと森を見ている。
昨日、歩きながら見せた顔とも、また少し違う。
あの時、イトは怒っているのではないと、考えているのだと言った。
今の顔は?
今のイトの感情は何?
「…イト?」
アオイは、イトの衣を引いた。
「忘れろ」ポツリと言う。
「忘れる?あの鏡のことを?」
尋ねると、イトはアオイに背を向けた。
一瞬拒否されたのかと思った。
だが、そうではなかった。
「忘れろ。鏡も、ウスラヒも」
それに答える言葉を見つけられないアオイに代わるように、森の中から声が聞こえた。
「…いいえ、忘れられては困ります」
イトから小さな舌打ちが零れた。
現れたのは4人。
1人の男は剣を鞘に納めたまま、イトに深く一礼した。初老に差し掛かった、だが動きにはまるで隙がない男は紛れもない戦士。その男の左右に、イトよりいくつか若そうな男が2人。静かな中央の人物に対するかのように、剣呑な空気を漂わせつつ剣を構える。そして、残る一人は、まだ10歳になるかならぬかに見える子供だった。小さな体には不似合いにも思える剣を、教えられたとおりの型で構えている。
恥じるところはないとばかりに、朝日の下、晒す4人の姿は、イトと同じ血を現していた。
「剣を納めさせろ」
イトは男に命じた。
アオイがイトの衣に、指先で皺を刻む。
ちらりと見やれば、その澄み切った緑の瞳は子供に向けられいた。自分よりも小さな子供が、イトに向かって剣を構えるのを呆然と見ている。
一度として戦に赴いたことのない貴族の娘にしてみれば、驚くべき光景なのだろう。
いたいけな…と人々が思う子供でさえも、グレンダである以上、人に剣を向けることを宿命付けられる。
グレンダが忌み嫌われた理由がここにもあった。
「その娘、我々に頂きたい」
中央の男が、イトに語りかけた。
深い、こんな状況でなければさぞかし心地よいだろうと思わせる声だった。
「随分と鼻が利くな」
イトは自らは剣に手をかけることもなく、静かに返した。
「ウスラヒ様の命ではありません…あの方は貴方を支持しておられる」
ウスラヒの…いや、水鏡の信奉者は、この行動が自らの意思であると告げた。
「イトヨウ様」
そして、イトの真の名に敬称を掲げて呼ぶのか。
「貴方はグレンダを去られた身。水鏡の操り手は不要でございましょう」
確かに、グレンダを捨てたのはイト。
だが、それはグレンダの消滅を意味している。
「グレンダはもうない。水鏡もいずれ消える」
それを分からぬ残党は、こうして、いまだ彷徨い続けているのか。
子供の持つ剣先が、僅かに揺れる。
「貴方は良い。そのように、お一人で生きていける」
男は言いながら剣を抜いた。倣うように、若者と子供が剣を構え直す。
「しかし、同胞の中には…頼るものがなければ生きていけぬ者もおります」
何かの合図があったように、剣の一つがイトへと突き出された。
アオイを背後に庇いながら、それをかわし、しかし自身は剣を抜かない。
「どれだけの連中が、この娘を知っている?」
男に尋ねた。
答えはない。
避けた剣が、再度、イトに振るわれる。
イトは、男の腕を捕らえて、その動きを止めた。
若い男は憎悪さえ感じる激しい視線で、イトを見上げた。
見知った顔だ。名前は…なんだっただろうか。覚えていない。
イトは、男の腕を捻り上げ、己に向けられていた剣を奪った。
一瞬の迷いもなく、それを男の首へと振り落とす。
背後で、アオイの握る衣が大きく揺れたのを感じた。
足元に、倒れこむ体。それから離れることを余儀なくされた頭が、転がり遠ざかる。
死に際の恐怖に引き攣っているであろう表情が見えないことに安堵したのは、己ではなくアオイを思ってだ。
「今なら…見逃してやる」
この者達は、アオイに危害を加える者ではない。
いや、この先のアオイの人生においては、もしかすると途方もなく障害となる者達かもしれない。
それでも、できれば、命までは奪いたくない。
それでは、グレンダを滅ぼす旗手となった意味がない。
だが、イトの言葉は届かなかった。
もう1人の若い男が、剣を振り上げながら向かってくる。
イトは血を滴らせた剣で、それを受けた。
衝撃に血が弾かれて、イトに降りかかる。
「引けません」
反対側から、語る男の剣が突き出されるのを、その腕を掴んで捕える。イトを振り払おうとするのを、強く引き寄せて目の前の男の胸へと導いた。
同胞の剣に背までを貫かれた二人目の犠牲者は、呻きとも悲鳴ともとれる声を漏らして膝をついた。イトに向けられていた剣は、僅かにイトを掠ることもなく大地に転がる。
ドサリという音が、人が骸と化したことを知らせる。
イトの眼は、既にその男を見ていない。イトが見ていたのは、唯一名を知る男。
同胞の胸に剣を奪われた男は、静かな瞳でイトを見つめていた。
この男の名は知っている。
だが、もう必要ない。
なぜなら、呼ぶことは二度とないから。
自由を得た剣で、イトはその男の首筋を切り裂いた。
鮮血が舞い上がる。
全て、一瞬の出来事。ほんの一瞬で、静かで穏やかだった森に地獄が出現した。
「…相変わらず…お強い」
初老の男は消えそうな、そしてどこか恍惚とした声で呟いた。
仰向けに倒れた男を見下ろし、イトはもう一度尋ねた。
「他に娘を知る奴は?」
男は今度は答えた。
「おりません…少なくとも私は誰にも」
頷きながら、イトは最後の一人に視線を向けた。
「あんたの孫か?」
答えはなかった。
イトも期待はしていなかった。
最後の一人。子供は、ガクガクと震えながら、既に構えてさえいられない剣に、しがみつくようにしてなんとか立っている。
イトは剣の血を払い、子供へと踏み出した。
「イト!」
アオイが背中にしがみつく。
振り返けなかった。
どんな瞳で、自分を見ているか知りたくなかった。
「あの子を…?」
その先の忌まわしい言葉を綴ることはできないようだった。
「イト」
何を願うのか。
天使は、殺戮者に何を諭すのか。
「イト」
アオイはただイトにしがみついて、縋るだけだった。
イトは、子供を見つめた。
ほんの1日前、この子供と同じ年頃の子を救った。今は、その命を絶つのか。
「…人を斬ったことがあるか?」
尋ねた。
子供は首を横に振る。
「獣を斬ったことは?」
同じ返事。
イトは、今しがた散った命の傍らに跪いた。
そして、横たわる遺体に剣を向ける。
「イト?」
イトは、3つの遺体の耳を裂いた。まだ、そこからは真新しい血が滴り出る。
「…グレンダは生まれてすぐに耳に証を埋め込む…知っているか?」
子供は三度、首を振った。
グレンダの容姿を持つ子供。だが、人を殺めたことも、獣を狩ったことも、失われた者の送り方も知らないと答える。
それは、何を意味しているのだろうか。
イトの手が血の中から拾い上げたのは、紫の石が埋め込まれた金細工だった。
「まともな死に方なんてできねえから…死んだことだけが待つ者に知れれば良い」
イトは剣を置いて、子供に近付いた。身を強張らせる子に「手を出せ」と命じる。
剣から離れた小さな手のひらの上に、まだ温もりの残るそれらを乗せた。3つの耳飾は、すべて形が違っている。見る者が見れば、これらの主が分かる筈だった。
「お前の耳はきれいなままだな」
子供の耳には、飾りどころか傷一つなかった。
それが、誰かの望みだったのだと思いたい。
遺言代わりの宝石などいらない生き方を誰かが望んだと。
「…貴方は…ないのですね」
子供の応答にイトは眉を上げた。
青ざめて震えながら、必死に隻眼を捕える。
気丈な…それは、女児であることに、イトは気がついた。
「俺には知るべき者がいないからな」
イトの耳には、自身でちぎり取った傷痕があるのみ。
子供は、じっとイトを見つめた。
綺麗な紫の瞳。
あるのは怒りと怯え。
慣れた視線だ。こんな視線に晒されて生きているのだ。
イトは空を見上げ、甲高い指笛を鳴らした。
すぐに、青空の中に黒点が現れる。
「あの鳥が分かるか?」
子供が頷くのを確認して、続ける。
「あれがウスラヒのところに案内する」
はっとしたように、鳥からイトへと視線が戻った。
「…殺さないのですか?」
殺すべきかもしれない。
その方が、この子供も楽かもしれない。
「どうして?」
どうして。
理由が必要か。
「天使が…殺すなと言う」
否定し続ける存在。
だが、今はそれが相応しい気がする。
「生きろ」
どんな未来をもたらすか、今は知る術をもたない天使が、そう望むから。
子供は、アオイを見つめた。
やがて、何か納得したように立ち上がった。
「あれは祖父と叔父です…私は貴方に復讐するかもしれません」
イトは頷いた。
今は、それが生きる理由で良い。
「俺を殺したい連中は幾らでもいる。誰かにやられる前に来い」
生きていれば、その意味も理由も変わる。
今は、イトへの憎悪と復讐心で生きながらえればいい。
イトが指を鳴らすと、旋回していた鳥が動き始める。
子供は剣を鞘にしまい、それを追って走り出した。
茂みの中に紛れる背中を見送り、イトは転がる遺体に視線を移した。
見たいものではない。今更、心が痛んだりはしないが、これらに自らの功績を感じることもない。
それでも、そこに視線を置いたのは、アオイを見ないためだ。
真っすぐにイトを見ていた瞳は、変わっただろうか。
嫌悪、非難、侮蔑、そして恐怖。
あの鮮やかな緑は、そこに何を浮かべているだろうか。
「イト」
名を呼ぶ声に変わりはないように聞こえる。
だが、アオイを見ることはできない。
イトは、いつの間にかアオイの手から滑り落ちていたマントを拾い上げた。
座り込むアオイの横をすり抜けて湖へ近付くと、顔と手のみ血を清らかな水で落とす。衣類に飛び散った血痕は、足掻くだけ無駄だから、マントで覆い隠す。
これが、本当の姿なのだ。
血に塗れた殺戮者。
「イト」
アオイが、また、名を呼ぶ。
その声は、少し震えているようだ。
「ごめんなさい」
意味の分からない詫びに振り返る。
「立てないの」
イトは少し迷い、結局アオイに近付いた。深くフードを被り、完全に己を隠して。
「…ごめんなさい」
小さな体が小刻みに震えている。
イトはアオイを抱き上げようと、ひざまずいた。
と、イトが触れるより先に、アオイの震える腕が伸ばされる。
夢にうなされたあの時のように、イトの首に縋り付く。
その動きにフードが外れ、イトはアオイと視線を合わせた。
息が触れ合うほど近く、アオイはまっすぐにイトを見つめていた。
今にも零れそうな涙を浮かべる瞳には、イトが予想した何一つとしてない。
変わらない澄んだ緑が、イトには理解できない絶対の信頼を湛えている。
「イト」
細い体は、迷いなくイトへと預けられる。
なぜ。
どうして。
こんなに、まっすぐになれるのか。
不意に突き上げた衝動を、渾身の理性と罪悪感で押しとどめた。
この娘は天使。
否定するそれを、あえて肯定することで、自らを戒める。
許される筈がない。
この信頼も。
抱く体の温かさも。
全て、刹那のもの。
あと一つか二つ…朝と夜を越えれば、全て消え失せる。
イトはアオイを抱きあげた。
最初の日には羽の存在を疑うほど軽かった筈の体が、生々しい存在感を誇示していることに気がつきながら、イトはキリングシークへと歩みを進めた。




