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第4日

昨日の雨が嘘のように晴れ渡った空だった。

今日も、アオイはその美しさに気が付くことができた。

それだけではない。

水分を多分に含んで、瑞々しさを増した木々の幹や葉。生きていることを謳歌すような、ひときわ高々と響き渡る鳥のさえずり。

森の中のそこかしこに散りばめられた激しい雨の名残と、それを越えてなお力強く生きるものの存在をも気が付き、それらはアオイの心の奥深くに何かを訴えてくる。

ぬかるんで歩きにくい大地さえが苦痛ではない。

それは、キリングシークに向かうことをどういう訳か嬉しく思えないアオイを励まし、歩き続ける力を与えてくれている。

だが、それらも目の前の男の様子を見ると、色を褪せてしまうのだ。

今朝からイトがおかしい気がする。

何も言わない…元より饒舌な男ではないとは思う。

視線を合わせようとしない…これは、昨日の昼間からか。

「イト」

夕刻を過ぎ、あたりが暗くなった頃。

ようやく一つの考えに至ったアオイは、野営の準備をする男のマントをツンと引っ張った。

イトは振り返り、フードを外した。

まだ、なんとかお互いの表情が見て取れる明るさがある中、大きな傷のある顔が、無言で見下ろしてくる。

「…怒ってるの?」

問う。

考えた。

どうやら今までは、微笑めば大抵のことは済ませることができていたようだ。

興味のある話もない話も。尋ねない疑問の答えも。

アオイが何を口にすることはなくとも、微笑めば対面する人間は何かと語りかけてきた。

だが、この男が相手ではそれは望めない。

アオイ自らが動かなければ。

だから、考えた。

こんな風に他人の心内を考えたことなどない。

一生懸命に考えて考えて、辿りついた答えを口にする。

「…私、あの人達に見られてはいけなかったのね?」

イトは少し眉を寄せた。

それは、アオイの言葉が正解だったのか否なのか。

「ごめんなさい」

分からないが、謝る。

あの部屋から出るなと言われたのに出てしまって。

あの人たちに姿を見せてしまって。

「…怒ってない」

少しの間をおいて、イトは答えた。

アオイのフードを外して、今日初めて視線を合わせてくれる。

一つしかないのに…その瞳は、アオイの二つの瞳を難なく捕えて離さない。

「少し考えてただけだ」

ホッとする。

自然に体から力が抜けた。

「良かった」

イトがアオイから視線を外す。

その態度に、言われた言葉を思い出し、己が無意識に浮かべていたらしい笑みを消した。

イトは、いらないと言ったのだった。

アオイの笑みをいらないと。

再び、イトが今夜の寝床の準備を始める。

アオイは邪魔しないように、少し離れたところでそれを眺めることしかできない。

微笑みさえも拒否されてしまった自分は…本当に何もできない。

やがて、準備を終えたイトは、懐からサシャを出し火を起こした。3日前と同じような光景だったが、火を点けた後の小さな獣の行動は全く違った。

サシャは、アオイを見つけると小さく鳴いて、イトの足元をすり抜けた。

タタタっとアオイに駆け寄ると、ぴょんと跳ねて胸元へと飛び込んできたのだ。

驚きながらも温かい毛玉を受け止めてから、慌ててイトを見る。

イトはそれを呆れたように眺めて「…抱いてろ」

言うと火から少し離れて腰を下ろした。

サシャを抱いたまま、アオイはイトの傍らに座った。

「…貴方は、使い魔なの?」

聞きたいことはたくさんあるように思えたが、何をどう疑問にすれば良いのか分からない。

だから、一番簡単な質問を口にしてみた。

膝にいるサシャの頭を撫でながら「この子はいつもそこにいるの?」と、イトの胸を指す。

人に何かを問う時、皆、こんな不安を抱くのだろうか。

答えてくれるのか、という不安を。

「こいつはいつも一緒にいるな」

イトは、答えてくれる。

サシャの顎下を、節のゴツゴツとした指先が撫でる。

それを嬉しそうにサシャは受け入れ、もっと撫でてくれというようにアオイの膝上でごろりと腹を見せた。

「この子…姉様が連れていた子にとても似てるわ」

イトの大きな手のひらが、サシャの腹を優しく撫でるのを見つめながら、思い出したことを口にする。

二つ年上の姉のサクラは、いつも小さな従者を連れていた。

サクラについて回るその存在は人懐こく、アオイにもよくじゃれついてきたものだ。サクラがいなくなってしまったのと共にあの子も姿を消したのだが、今、どこにいるのだろうか。

「軍神の妃?…あの妃、使い魔なのか」

イトが意外だというように、呟いた。

姉を知っているという口調に、アオイは身を乗り出した。

「姉様に会ったの?いつ?」

アオイがサクラに会ったのは、雪が降り積もる真冬のこと。アオイの17歳の誕生日のことだった。

たやすく会うこともままならない身分となってしまった姉は、それでも変わらない笑顔でアオイを抱きしめてくれた。

今度、会えるのは多分秋。

一番上の姉キキョウの婚礼の時だろうと、誰かが言っていた。

「最後に会ったのは…1カ月くらい前か」

イトの答えに、単純な羨望を覚える。

アオイは、もう何か月もサクラに会っていない。キキョウも優しい。でも、サクラの側にいると感じることができる春の日差しのような優しさは、他の誰にもないものだ。

時折、アオイは無性にサクラに会いたくなる時がある。

「お元気だった?…殿下は、なかなか姉様の里帰りをお許し下さらないんですって」

「…軍神の寵愛ぶりが知れるな」

イトの答えは耳に入らなかった。

だって。

「…貴方…笑うのね」

アオイはイトの笑顔を見つめながら、呟いていた。

いつも憮然とした表情しか見せないから。

こんな風に、笑うのだ。片目を細め、唇の端を上げて。

「面白けりゃ、笑うだろ」

そうなのだろう。

「あんたも笑ってるよ」

いつの間にか、消し去ることなどできなくなっていた微笑み。

イトは視線を逸らさなかった。アオイを見ている。

「…面白いもの」

言うと、イトはまた小さく笑った。

イトとの会話は楽しい。

だから、笑う。

これで、良いのだ。

これで。

「…今、私、とても楽しいわ」

だから、笑っている。

アオイが言うと、イトは笑みを深めた。

心臓が、トクンと跳ね上がる。

アオイはイトの衣を握った。

男が許すのは、これだけか?

問えば、答えてくれるように。

アオイが求めれば、もう少し与えてくれるのだろうか。

アオイは自身が望むまま、イトの胸へと滑り込んだ。

「…おい」

聞き慣れた呆れた声。

だが、それ以上何も言わなかった。アオイの背中に腕が回されて、ただ抱いてくれる。

サシャがイトとアオイの間で満足げに丸くなって目を閉じた。

アオイもまた、まぶたを伏せた。

何かがアオイの中で、変わりつつある。

まだ、それははっきりと形をなしてはいないけれど。

でも、確実に少しずつ。

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