第3日-夜
夕刻からポタポタと降り出した雨は、陽が完全に落ちる頃には、激しく大地を打ち付けるものへと姿を変えた。
「もうすぐ…雷が来るよ」
夕食を終えて、窓から外を眺めていたアオイに、ウスラヒがそう教えてくれる。
アオイは頷いた。
雷は怖くない。
胸の辺りに振動をもたらす程の轟音も、空を切り裂く光も。
建物の中にいれば、遠くで起こっている現象に過ぎない。
そもそも身近に起こることさえ、現実感を伴わないアオイにとって、雷であろうとも恐怖を感じる筈もない。
「出発しなくて、正解だっただろう?」
イトにウスラヒが尋ねている。
イトが何かを答えようとした時「ウスラヒ様、ツバクロとセキランが参りました」
侍女が客の来訪を告げた。
「…急ぎなのかい?」
できれば帰せと含んだ言葉に、侍女は少し困ったように眉を寄せて答えた。
「ひどく、取り乱しております」
イトは、軽く肩を竦めて「…出発すべきだったかもな」と呟いた。
そして、アオイの腕を掴むと、扉で繋がった隣室へと向かう。
アオイは、イトを見上げた。
イトはアオイを見ない。
昼間に話をしてから、イトはアオイに近付かない。視線を合わせもしない。
それは、雷よりもよほどアオイに不安定な怖れを抱かせた。
「ツバクロとセキランは、あんたを裏切らないよ」
ウスラヒの声を背中で受け止めて、イトは答えた。
「分かってる」
答えながらも、イトはアオイを隣室に押し込んだ。
明かりの燈されていない部屋は暗い。
アオイは、暗い部屋は苦手だった。怖い、と特に感じる訳ではない。
ただ、なんとなくいたい場所ではないだけだ。
アオイのいる場所は、いつも明りが灯されていた。
眠るときでさえ、ほのかな明かりが欠かされたことはない。
せめて月が出ていれば良いのに。
雨の夜にそれを望むことは愚かだったが、部屋はあまりにも暗闇だった。
それでも、傍らにある温かさが、その不安を和らげてくれる。
「…イト」
アオイが名を呼ぶと、イトは静かにというように、アオイの唇を手のひらで覆った。
アオイは従い口を閉じ、そっと、イトの衣の端を掴む。
それだけが、イトがアオイに許していることのような気がするから。
気がつけば、手が伸びている。
笑わなくて良いという男。
天使なんていらないという男。
それは、アオイを拒否する言葉なのだろうか。否定する言葉なのだろうか。
今まで知らなかったたくさんの感情の糸が、アオイの中で絡み合う。
雷は…怖くない。
暗闇も…イトがいれば大丈夫。
イトがいれば。
イトがいないと。
不安で怖くて…潰れそうになる。
どうしてかなんて、分からないけれど。
アオイには分からないことが多すぎるけど。
イトに側にいて欲しいことだけは分かるから。
こうして、彼の端っこを捉えて縋るのだ。
「ウスラヒ様!」
どれほども経たないうちに、人の気配がし切羽詰まった男の声が女主の名を叫んだ。
扉越しにも分かる慌ただしさ。
「モクレンが…子供が帰って来ないのです!」
悲鳴のような声で告げたのは女。
そのまま、女は泣き崩れたようだ。
宥める男の声がする。
扉の向こうから流れてくる不安が、アオイにまとわりついた。イトに身を寄せて、それから逃れる。
「落ち着くんだよ…いったい、どうしたんだい」
ウスラヒの男女に語りかける声が聞こえた。
「私、叱ったのです。モクレンが、剣を振るう真似事をしたので」
女がしゃくりあげるように話す。
ピクリとイトの体が揺れたのを、近くにいるアオイは気がついた。
「…小さな子供のやることだよ。深い意味はないさ」
ウスラヒが言う。
「それでも、俺たちには許されない行為なのです」
女に比べればいくらも落ち着いている男の声。
アオイはイトを見上げた。
暗さに多少慣れてきた目が見たのは、眉間に皺を刻んだイトの表情だった。
険しい顔だった。
アオイは、イトの衣を握る指先に力を込めた。
イトがアオイを見下ろす。ようやく合わしてもらえた視線。
しばらくの間、そうして見つめ合っていた。
アオイの鼓動が少し早まった気がした。
それは、慌ただしく人の行き交う音が止み、やがて不意に訪れた静寂の中で、ひときわ感じられるようだった。
「…森だね」
静けさの中に、ウスラヒのよく響く声。
「森に迷い込んだんだ」
女の嗚咽が大きくなる。
それを聞いたイトが動いた。
アオイの手が衣を握っているのに気がつき、大きな手がそれを外そうとする。
アオイはほとんど無意識に首を振りながら、目の前の胸に身を寄せた。
「…子供が森にいる…あんたは森の暗さを知ってるだろう?」
肩を両手が掴む。責めるものではない。ひどく優しく聞こえる諭す声だった。
それに、促されるように言葉が出てきた。
「森に…行くの?ちゃんと帰ってくる?」
昼間、イトと話した時は何を聞いたら分からなくて、言葉が出てこなかった。
でも、今はスラスラとその不安を表す疑問は口をついた。
「あんたをキリングシークに届けるのが俺の役目だからな」
それもまたアオイの不安を煽る言葉には違いない。
キリングシークに戻ればもう会うこともないと、イトは言ったから。
それは、何故か、アオイの心をひどく乱す。
だけど、今は、イトが戻ってくるという意味を持つ言葉には違いない。
アオイはイトの手が促すのに従って、身を離した。
「あんたは、ここにいろ…出てくるな」
言いながら、己から離したアオイの手にイトが渡したのは、懐から出したサシャだった。
受け取って胸元に抱き寄せると、小さな魔獣はアオイの頬に柔らかな毛に覆われた頭を寄せた。
昼間と変わらない愛らしい仕草。そして、暗闇に救いのような温もり。
だが、微笑めなかった。
イトが離れて行こうとしている今、アオイはどんな表情を浮かべることもできない。
見つめるしかできないアオイに、イトは「…大丈夫だ」
それだけ言って、扉の向こうに姿を消した。
「俺が行こう」
水鏡を覗き込んでいた3人の視線が一斉にイトに向けられる。
「イトヨウ!?」
かつての同胞が捨てた名を呼んだ。
それには何も反応せずに、水鏡の操り手に尋ねる。
「森のどのあたりだ?」
ウスラヒは水鏡に視線を戻した。
「ここから東に1キロぐらい…大きな樅の木の下」
語られる子供の居場所に、イトは舌打ちした。
「この雷の中、木の下にいるのか?」
自殺行為だ。
雨の森は、どこにも救いはない。だが、雷を避ける術くらいはあるだろうに。
イトの言葉に、セキランの嗚咽が大きくなる。
この女も同胞だった。
流浪の民。戦士の集団。そんな言葉で表現されるグレンダの一族は、男も女も生まれおちたその瞬間から、戦士として生きることを余儀なくされる。幼い時から剣を授けられ、己の身を守るためではなく、対峙する者を絶つための術を教え込まれる。
金で雇われて、戦に赴く。何のしがらみもないながら、その時、敵と教えられた者の命を、無情に奪う。
グレンダとはそういう一族だった。
それが、領土を持たない一族の生き方だった。
イトも、この二人も。
グレンダに生まれおち、そして、戦士として育て上げられ、かつては、共に戦場を駆け巡ったのだ。
だが、道は分かれた。
イトが、グレンダを捨てた時に。
全てのグレンダは、それぞれの道を選択し、進むしかなくなった。
そして、この二人は剣を捨て、大地に根付いて生きていくことを選んだのだ。
「イトヨウ」
グレンダ特有の響きを持つ名。
「その名前は捨てた」
ツバクロの顔も見ずに言えば、「…そうだったな」と呟きが聞こえる。
「子供は生きているんだな?」
ウスラヒに問う。彼女は頷いた。
「今のところ」
セキランが、更に嗚咽を漏らす。ツバクロの堪え切れない呻きが耳に届く。
母親と父親なのだ。
そして、この二人の子供が存在する。
ならば、子供も、また、純粋なグレンダなのだ。
時が時だったならば、イトが自らの手で戦士に育て上げていただろうか。
イトは、侍女が準備したマントを羽織りながら、泣き続ける女の脇をすり抜けた。
「イト」
ツバクロがついてこようとするのを、視線で制す。
戦士でない者を、剣を捨てた者を伴う気はない。森は…今もまだ戦場だから。
「…生きてることを祈ってろ…俺は、そこにあるものを連れて帰るだけだ」
残酷なことを言っている自覚はある。
だが、それが現実だ。
ツバクロは「分かってる」と答え、「頼む」
深く頭を下げた。
暗い部屋の中で、アオイはサシャを抱きしめながら息を潜めている。
イトがそうしろと言ったから。
窓を打ち付ける雨の音がやけに大きく響く。空に描かれる雷光が、時折、部屋の中に明るさをもたらした。
イトがいない。
それだけで、怖くなかった筈の雷さえ、アオイを追いつめる。
「アオイ、こっちへおいで」
扉の向こうで、ウスラヒが呼んだ。
出ていって良いのだろうか。
イトは、ここにいろと言って出て行った。
「大丈夫だよ、イトは怒らない」
その言葉に勇気づけられて、アオイは部屋を出た。
煌煌と明かりのついた部屋のまぶしさに、一瞬めまいを覚える。
そして、落ち着いた視界の中には、見たことのない男女が一組。男の方は顔をあげてアオイを見たが、女の方は俯いて涙を流し続けている。二人とも、イトと同じ肌と髪の色をしていた。
この部屋では、アオイの方こそが異質な存在だった。
「アオイ、こちらへおいで」
肩を寄せ合うようにしてソファに座る二人の前を通り過ぎ、アオイはウスラヒへと近付いた。
「これを見てごらん」
ウスラヒの前には何か丸いものがあった。
近づいてウスラヒと向かい合うように座り、覗き込む。
水?
水甕にしては浅いが、荘厳な装飾の施された入れ物の中には、ゆらゆらと水が揺れている。
更に覗き込んだ水の底に、己の顔を見つけて、鏡に気がついた。
「…今、見たいものはなんだい?」
不意にウスラヒが尋ねる。
アオイは顔を上げて、ウスラヒを見つめた。
「今?」
ウスラヒが微笑みながら頷く。
「過去か、現在か…それとも未来かい?」
今、見たいもの。
それは「イト」
アオイは答えた。
この嵐のような雨の中、迷いもなく森に出向いた男。
今、見たいものなど、それしかない。
「思い浮かべるんだよ…見たいものを…鏡を見ながら」
唆すような声。
ソファに座っていた男が、身を乗り出したことにアオイは気がつかなった。
言われるまま。
鏡を見つめる。
微笑んでいない自分が、揺れる水の中から見つめ返してくる。
イト。
今、どのあたりにいるのだろう。
歩いている?
走っている?
子供を助けるために。
ユラリ、と水が揺れる。
アオイの顔が波に揉まれて消えて…そこに浮かぶのは。
「イト!」
アオイの感情の高ぶりに連動するように、鏡の水が跳ねた。
水面が大きく揺らいで、一瞬浮かんだマントの姿をかき消す。
「落ち着いて…もう一度」
男の姿を思い描く。
多くの兵士がそうであるように、短く切り込まれた髪。今まで知らなかった彩りの肌。盛り上がる筋肉もまた、アオイが知る男達とは全く違う生き物のよう。
左の額から頬にかけて走る傷跡に左の瞳は閉ざされたまま。
残された右の瞳は紫。
細かな部分まで思い出せる男が、水面に映る。
「…見えるんだね?」
アオイは頷いた。
イトは雨が降る森を走っている。
深々とマントを被っているから顔は見えない。だが、アオイにはそれがイトだと分かった。
イトの足取りに迷いはない。
「走ってる」
時折、現れる魔獣を、足を止めることもなく剣でなぎ払いながら。
雨をも斬る勢いの刃は、一太刀で躍動を奪い、動かぬものへと変化を強いる。
そして。
「イト…見つけたわ」
アオイは見えるものを口にした。
ウスラヒの言ったとおり、子供は大木の根本にいた。
「…生きてる」
呟いたそれに、母親が何かを叫んだ。
だが、アオイにはそれは聞こえなかった。
見つめ続ける鏡の中には、子供とイト。そして、その合間に立ちはだかるのは魔獣。
降り注ぐ雨の中で、イトがフードを外した。
アオイの思い描いたとおりの面が雨に晒される。
獣は子供に背を向け、現れた敵に向き合うと、鋭い牙を剥いた。
聞こえない筈の咆哮が聞こえた気がする。
いつかの景色が重なる。
あの時。
イトが剣を構える。
そう、あの時も、彼は剣を抜いて構えた。
飛び掛かる影。
イトは剣を構え、それをあっけないほどの一瞬で断ち切る。
音のない映像は、ひどく淡々と流れていった。
だが、アオイは知っている。
肉と骨が断たれる音。
獣の断末魔の叫び。
そして、この男の強さを。
倒れた獣を跨いで、イトは子供へと近付いた。
聞こえない声が耳元に聞こえる。
「おい」
そう彼は声をかける。
子供は顔を上げた。
あの時の、アオイのように。
恐怖に支配された者に、この男がどれだけ鮮やかに安堵感をもたらすことか。
アオイは子供に語りかけた。
「もう大丈夫」
心配ない。だって、イトがいる。
子供は、現れた大きな男を見上げた。
イトが子供の前にひざまづくと、何かに押されたかのようにその胸元へと転がり込む。
イトはそれを受け止め、何か話しかけた。
ヨク、ガンバッタ。
アオイは、イトの唇がそう動いたのを見逃さなかった。
イトは子供を、自分のマントの中に包み込んだ。そして、立ち上がり、自分自身の姿をフードで隠しながら、踵を返した。
アオイは微笑んだ。
もう、大丈夫。
そこは、とても安全な場所だから。
そこにいれば、何も怖くない。
「もう…大丈夫」
子供の母親は、いつの間にか泣き止んでいた。
フラフラと歩いて、鏡の傍らに座り込む。
「ウスラヒ様」
震える声に名を呼ばれ、ウスラヒはアオイを見つめたまま頷いた。
アオイは、更に水鏡を覗き込んだ。
イトは、足早に来た道を戻って来る。胸元に、大事に大事に子供を抱きしめて。
「大丈夫。イトがちゃんと連れて戻って来るわ」
ここに戻ってくる。
不意に、急激な眠気がアオイを襲った。
イトが帰ってくるのを待ちたいのに。
もう、少し。
思うのに、まぶたが重い。
体が保っていられずに、床に崩れる。
「イト」
アオイは小さくその名を呼んだ。
そして、そのまま気を失うように眠りへと落ちた。
「そうかい」
ウスラヒは微笑んだ。
倒れたアオイを、優しく抱き起こし胸に抱く。
「ウスラヒ様…この方は…」
ツバクロが、妻の傍らに膝をついた。
ウスラヒは、ツバクロを見つめた。
「天使さ」
イトが何度も否定したそれを、いとも簡単に口にする。
「そうだろう?」
ツバクロは頷き、頭を垂れた。
セキランも、また、倣うように頭を下げる。
「そうかい…イトが見えたのかい」
眠る娘に尋ね、恭しくこめかみに唇を触れる。
「あんたは天使だ」
ウスラヒは微笑んだ。
それは美しい、そして、ひどく満足げな笑みだった。