第3日-朝
女の前には、大きな丸い鏡がある。
姿見よりは幾らか小さいものの、本来ならば立てて備えるべきだろう鏡は、謎めいた女の前に横たわり、神秘的な光をゆらゆらと放っている。
周りを少し丈のある黄金細工で囲まれている鏡の上には、澄んだ水がなみなみと注がれていた。
ウスラヒの指先が鏡に触れるたびに、水が揺れて屈折した光が発せられる。
これが、女が悪魔または女神と呼ばれる所以の一つ。
この女は『水鏡』の操り手だった。
帝国キリングシークの『破魔の剣』、既に滅びた国である神伽にあった筈の『鎮魂の玉』、そして領土を持たない流浪の民であり、同時に戦士の集団であるグレンダの『水鏡』。
神器と呼ばれるそれらにまつわる逸話は枚挙にいとまがないが、そのうちの2つについては事実として存在していることをイトは知っている。
「…森だね」
ウスラヒが呟いた。
過去・現在・未来。ウスラヒは、水鏡にそれを視る。
救われた者は女を神と崇め、絶望をもたらされた者は悪魔を見るのだろう。
「森をお行き」
今回のことに関して、詳しいことは何一つ話していない。
にも関わらず、ウスラヒは既に全てを承知しているようだ。
きっと、イトの知らない真実をも、知っているのだろう。
尋ねれば、ウスラヒは教える。だが、イトは尋ねない。その真実はイトには必要のないものだ。
「…少々遠回りになるけど…町はお勧めしないよ」
はなからそのつもりだったイトにとって、ウスラヒの言葉は頷くだけのものだった。
「それから、できればもう一日はここにいた方が良いね」
それは、不本意だ。
イトの心を知るウスラヒが続ける。
「今夜は雷雨だよ」
それでは、森を行くのは無理だろう。
雨。闇。雷の一瞬の光は、何の救いにもないらない。
今夜は、さぞかし魔獣達が騒がしい一夜となるに違いない。
一人ならば、むしろ狩り日和とうそぶくこともできようが、アオイを連れてでは無謀以外のなにものでもない。
「そうでなくても、ここのところ、魔獣達がおかしいんだ。まあ、そんなことは、あんたの方が承知だろうが」
ウスラヒの言うとおり、おかしなことが広がりつつある。
昨年の夏、初めて徒党を組んで横行する魔獣達を見た。
群れることなど知らない筈の生き物だ。テリトリー意識が強く、すれ違えば殺し合うだけだった連中が、巨大な魔獣を中心に集団で村や町に出没したのだ。
既に、その魔獣は軍神の手で葬られている。だが、同じような魔獣群の報告は後を絶たないし、イトも目にしている。
そして、それだけではないのだ。
イトのように、常に魔獣と対峙している者達の多くが気が付いている。
魔獣達が変わりつつある。どこが、とはっきりは言えない。
それでも、奴らは、何かに変化しようとしている。
「例の魔獣の件…あんたも調べてるんだろう?」
徒党を組む魔獣達については、ありとあらゆる者達によって議論が交わされていると聞いている。
ウスラヒは水鏡の操り手であると同時に、優秀な使い魔でもある。
そして、彼女は誰よりもこの世界が平和になることを祈り願っている者の一人だ。
この異様な状況を静観している筈はない。
「軍神が珍しくここに来て、詳しい話をしていったからね…視ない訳にはいかないさ。でも」
ウスラヒが険しい表情を浮かべる。
常に謎めいた笑みを浮かべる女らしくもなかった。
「分からないんだ」
ウスラヒの言葉には苦々しさが込められている。
この世の中には、分からないことの方が多いとイトは承知している。
だが、ウスラヒにとっては、分からないことの方が少ないのだろうか。
全てを掌握しているかのように常に悠然と構える女が、イトの前で辛そうに眉を寄せた。そんな顔は初めて見た気がする。
「ウスラヒ?」
普通ではない。そう感じて、声をかけるとはっとしたように表情を消した。
そして、微笑む。
「もう一晩、留まりな。良いね?」
イトは頷いた。
キリングシークからは急げとは言われていない。
むしろ、アオイに無理をさせないこと。確実に安全な方法を取って、くれぐれも無理はしてくれるなと、重ねて書かれていた。
ならば、『水鏡』の操り手の言うとおり、ここに止まるべきなのだろう。
アオイは中庭にいた。
夏の日差しを避け、木陰に敷き物を広げて座っている。手元には何かしらの本が広げられていた。
ここの侍女は腕が良い。
主とはまったく違う容姿のアオイの装いは、その可憐な華やかさを一層際立てるものとなっていた。
昨日は憔悴しきった姿で薄暗い森を歩いていたとは到底思えない。どこにも、蔭りはないその姿は、明るい穏やかさに満ちている。
イトには、まるで縁のない一種の宗教画をも思わせる光景だった。
あまりに遠い存在の筈の娘は、イトに気がつき顔を上げた。
「イト」
この娘に名を呼ばれるたびに感じるのは違和感だった。そして、見つめてくる瞳に、居心地の悪さを感じる。
アオイは、あまりにも、まっすぐにイトを見つめるから。
この美しい娘に、己はどう映っているのだろう。
左の面に走る大きな傷痕。異民族を象徴するような容姿。
明らかな異分子であるイトを、こんな風に無遠慮とも言える、だが、侮蔑や嫌悪が微塵もないまっさらな瞳で見つめる者は少ない。
「もう一晩、ここに留まる」
アオイは頷いた。
そして、問いかけはない。
この娘は己の境遇をどこまで理解しているのかのだろうか。
イトの方としても、様々なことが推測の域を超えない。
だから、イトからは何も話さない。イト自身が知っていることや、分かっていることを話すことは、何ら支障はないが、聞かれもしないことを語るほど、イトは饒舌ではない。
結局、二人の間にあるのは、イトの口に出さない決心と、アオイが黙ってついてくるという事実だけだ。
「今日はゆっくり休めばいい」
どうやら、今回もアオイは何も問うことはないらしい。
ならばここにいることはないと立ち去ろうとする。
と、衣が引っ張られた。
もう何度目になるか知れない、馴染みを覚えつつある感覚に振り返る。
「…おい?」
アオイが、イトの衣の裾を掴んでいた。
「貴方はなんなの?」
唐突な問いかけ。
それでも、ようやく、それが出てきたかという思いもある。
「俺は狩人だ」
答えながら、アオイの求めているものはこれではないだろうと、先を続ける。
「あんたのことは軍神からキリングシークに届けるように命じられている」
アオイはイトの衣を握ったまま、何かを考えるように…何も考えていないようにイトを見つめる。何か言いかけるように、淡く紅をひいた唇が揺れた。
己の根気強さに驚きながら、イトは待った。
アオイの次の言葉を。
だが、結局、アオイはそれを見失ったようだ。黙り込んでしまった娘は、しかし、イトの衣を離すことなく、また、視線もイトに注いだまま。
恐ろしく澄んだ瞳に飲み込まれる幻想が頭を過ぎった。
このまま、見つめられたら。
見つめられたら、どうなるのか?
その時、「チッ」と小さな声がして、イトの懐から魔獣が顔を出した。
アオイから視線を外すタイミング得た安堵など、素知らぬ風に「サシャ、大人しくしてろ」
小さな連れを柔らかく叱責する。めげないサシャは、もう一度小さな鳴き声を上げながら、アオイの膝へと飛び降りた。
それに、少し驚く。
サシャのようなタイプの魔獣は、比較的手懐けやすい。とはいえ、やすやすと誰彼にと懐く訳でもない。
サシャはアオイの膝の上に座ると、愛撫をねだってフワフワのタテガミを華奢な手の平に押し付けた。
アオイが…微笑んだ。
今さっき、なんとか視線を逸らしたばかりにも関わらず、再び視線はアオイに捕われる。
アオイは笑みを浮かべながら、甘える魔獣の頭から背中を優しく撫でる。
これまでイトが見てきた笑みとは明らかに違うそれ。
天使?
否、人。女。
生きている生身の娘の温かな感情に満ちた微笑み。
動けない。
既に、アオイの手はイトの衣を離している。
なのに、その微笑みがイトをその場に釘付けた。
なんて…これがアオイの本来の笑みなのか?
だが、アオイはイトの視線に気がつくと、スッとその表情を消した。
そして、俯いてサシャの頭を撫で続ける。
硬直していた体の力をそっと抜きながら、笑みを消し去った娘を眺めていると、アオイはチラリとイトを見て、「笑ってはいけないのでしょう?」
呟くように尋ねてきた。
イトは空を眺めた。
ウスラヒは雨が降ると言っていたが、今は雲などほとんどない青空を眺めながら、記憶を辿る。
そんなことを言っただろうか。
笑うな、と?
そして、自分自身の言った言葉を思い出す。
「違うな」
言いながら、アオイの前に屈みこんだ。
「笑うなとは言ってない。笑わなくていい、と言ったんだ」
アオイの視線が再びイトに向けられる。
イトの言葉を反芻するような間が空き、「それは…意味が違うの?」
首を傾げて尋ねてくる。
アオイにとっては、どちらも言われたことのない言葉なのだろう。
その違いさえ分からないほどに、彼女は微笑むことを求められてきたのか。
「あんたはどうして微笑むんだ?」
イトは逆に尋ねた。
こんな問答は不要な筈だった。
アオイがどのような思いを抱いて微笑もうが、イトには関係のない話だ。
「おかしいからか?楽しいからか?」
だが、言葉が続いて出てくる。
アオイは、ただイトを見上げるようにして凝視しながら、言葉を聞いている。
「それが、あんたの役目だから?」
震えながら、それでも微笑もうとする娘が言った言葉。
アオイは、頷きはしなかった。
「私が微笑むと…皆が幸せになるんですって…」
その口調に誇りや驕りはない。
ただ、現実にそう言われ、だから微笑む、と。その事実を淡々と告げるだけのものだった。
「それで良いなら、そうやって微笑んでいれば良い。確かに、あんたは天使みたいにきれいだよ。あんたの笑み一つで救われる連中は、幾らでもいるだろうさ」
微笑みだけではなく。
イトのような男でさえも、まっすぐに見つめることのできる真っ白さが。
多くの人々に天使の存在を信じさせるだろう。
そして、時に人はそういうものが必要なのかもしれない。
「…それで良かったの」
アオイは呟いた。
自然に零れ落ちた微笑み。
無自覚に浮かぶだけの微笑み。
今はどちらでもない。人形でももう少し人間らしいと思わせる無表情。
「でも、貴方は笑わなくていいと言うもの」
アオイの視線に戸惑いを見た気がした。
「あんたが笑いたくなさそうだったからそう言っただけだ…あんたが、それで良いなら、余計なことを言ったな」
立ちあがろうとすると、アオイの手がイトの腕のあたりの布を掴んで止める。
「私…笑いたくなさそうだった?」
どうだろうか。
そう見えただけかもしれない。
先ほどの戸惑いの表情も、あの時の無理やり作ったような笑顔も。
「俺の言うことなんざ、無礼者の戯言と捨てておけ。あんたが無事にキリングシークに到着すれば、もう顔を会わすこともない男だ」
アオイの手が動く。
腕から胸元へ。
ギュッと握りしめてくる。
握られたのは衣なのに。
心臓をわしづかみされたように、息苦しさを覚える。
それは、明らかに傷ついたような顔のアオイのせいか。
あまりにはっきりとした表情だった。
何がアオイにその表情をさせたのかは、分からなかった。
だが、これ以上、ここにいない方が良いと判断する。
早く、離れろ。
でなければ。
なのに、アオイの手がイトを引きとめる。
「あんたは天使の顔して微笑んでいれば良い」
己が起こしそうな行動を留めるがために、出した言葉は思いがけず冷たい声で響いた。
止めておけ、と思うのに口が動く。
「ただ…俺は天使なんていらないから」
そう、いらない。
救う神も、堕とす悪魔もいないと知ったあの日から。
「だから、あんたの微笑みも…俺はいらない」
イトの言葉をアオイはただ聞いていた。
微笑みはない。
だが、イトを見つめる瞳は、相変わらず澄み切っていて。
そして、イトの衣を握る指先は、真っ白になるほど力が込められていた。