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第7日

陽が昇る。

歩きだす。

森を抜ける。

見えてきたのは、一度として訪れたことのない荘厳な屋敷。

少しの懐かしさもない。

僅かな安堵もない。

だが、それが一変する。

「アオイ!」

聞き覚えのある声。

堅牢な門の外まで駆け出して、アオイへと近づいてくる姿。

「…姉様」

呟いて。

自らの声で、それが姉だと気がつく。

アオイもまた駆け出す。

目の前にある、アオイを拒むかのように振り向かない広い背を通り越して。

アオイよりもいくらか小柄な姿を求めて走った。

「姉様!」

手を伸ばし抱きつけば、同じような強い腕が抱き返してくれる。

戻ってきた。

正確に言えば、ここはオードルの屋敷ではないから、戻ってきたとは違うかもしれない。

でも、この数日間触れ合っていた男ではない…サクラの温もりに日常に戻ってきたのだという実感が急に膨れ上がる。

「アオイ」

柔らかな姉の声。

それは安堵をこそもたらして然るべきだ。

「無事で良かった」

温かな体温はアオイを包んで癒してくれる筈なのに。

いや、もちろん、体の力を抜いて姉に縋ることで得るこの安堵感はアオイを満たす。

だが、同時に訪れる不安。

確実に近付く決別の時。

姉から身を離し振り返れば、少し離れたところで、隻眼の男がひざまずき頭を垂れている。

そして、サクラの背後には、数えるほどしか顔をあわせたことのない軍神と呼ばれる義兄がいた。

「イト様…妹を助けて下さってありがとうございます」

サクラがイトに声をかける。

イトは頭を上げたが、立ち上がらなかった。

「面倒をかけたな」

カイの言葉にもイトは何も言わず、ただ、もう一度、頭を下げただけだった。



目の前の3人の男に、イトは全てを語る覚悟を決めていた。

隠しおおせる筈もない。

イトを知る騎士がいる。イトヨウを知る策士がいる。

そして、イトがひざまずく軍神がいる。

だから、知り得る全て…いや、二つを除いて。

アオイの想いと己の想い。

その二つを除いた全て。

今回のアオイ・オードルを取り巻く一件のきっかけが、彼女を手に入れたいが故のウスラヒの謀であること。

アオイ・オードルが水鏡の操り手としての資格を持ち得ること。

そして、アオイを欲するグレンダの残党が存在すること。

「ウスラヒのことは不問にせざるを得ないでしょう」

タキがカイに確認するように視線を送る。

カイはそれに頷いた。

「それにしても、アオイ様が水鏡を…ですか」

続いた呟きには、イトが応える。

「…どれだけの連中が、それを知っているかは分からねえ」

どれだけのグレンダが、今だ生き様を求めて彷徨っているのか。

イトが殺した男の一人…イトヨウを戦士に育て上げた男が語ったように、頼るものがなくては生きていけぬグレンダは確かに存在する。

イトヨウはそれを分かっていて、グレンダを切り捨てた。

グレンダは滅びの一族。水鏡はウスラヒが最後の操り手。

生きることを望むならば、ここを去れ。

生きることのできぬ者は、ここで果てろ。

そう、言い放った。

「天使を攫いに来るか?」

シキが尋ねてくる。

グレンダの名を捨てきれない者達にとって、水鏡は何にも代え難い。

ツバクロやセキランのように、イトヨウの言葉を解し、グレンダを捨てて生き抜く道を選んだ者も少なくはないが、ただ、水鏡の跡目が出現したとなると、話は別になってくるだろう。

水鏡への憧憬は、グレンダの終焉を悟った者さえも駆り立てるかもしれない。

「可能性は否定できねえな」

イトは正直に答えた。

知れれば、攫いに来る連中はいるだろう。

「…グレンダの残党か…厄介なんだよな」

昨日と変わらぬ飄々とした態度でシキは呟く。

「何せ…腕が立つ。できれば敵に回したくないんだが…」

そして、何か言いたげにイトに視線を寄こした。

その視線の意味を考えることも問うこともなく。

傍らのタキを見やる。

「良いのですか?」

タキは無表情のような笑みでイトに問いかけた。

「何がだ?」

策士の問いにイトは慎重に答えた。

語らぬと決めたことを、語らぬために。

「グレンダの頭領として、水鏡の操り手を手中に納めなくとも?」

イトは吐き捨てるように笑った。

今更、何を言うのか。

「グレンダはもうねえよ」

そうだ。

もうない。

流浪の民。戦士の集団。

それは、戦場の作り上げた陰の一族。

道義もなく。正義もなく。

ただ、剣で殺戮を繰り返すことだけで存在を誇示する忌まわしい一族。

帝国キリングシークによって築かれつつある未だかつてない平穏な時代は、戦場でしか生きられない一族の存在を拒否するだろう。

ウスラヒが一族の終焉を予見する前から、イトヨウはそれを感じていた。

己らが滅びゆくであろうこと。

人々は平和な日々に残像のように残る戦場の穢れを、嘲り、呪い、迫害するだろうことを。

そして、それは確かに訪れた。

ウスラヒの予言のとおり。イトヨウの予想通り。

多くの眷属が、意味なく処刑された。女も子供も。

謂れのない咎で。

ただ、グレンダというそれだけで。

だから、イトは従う者達に告げたのだ。

生きたいならば、グレンダを捨てろ。

大地に根付くも良し。

大海に出るも良し。

そして、剣で生きるのも良いだろう。

ただ、グレンダを捨てろ。グレンダを忘れろ。

そして、自らはキリングシークの軍神に忠誠を誓った。

グレンダの頭領。忌まわしい一族を束ねる、平穏の時の中でもっとも忌み嫌われる存在の一つは、軍神に剣を捧げることで、自らグレンダを捨てたことを宣言したのだ。

「戦乱の象徴を滅ぼさしてやっただろう?」

あの時も、こうして3人を目の前にしていた。

グレンダを滅ぼさせてやる。

キリングシークに屈したと。

殺戮の象徴であるイトヨウの剣は、今この時から、軍神のためだけに振るおう。

だから、散ったグレンダを追うな。

いずれ滅する一族と、捨て置け。

そう望んだ。

「そうでしたね」

イトヨウに対峙し、グレンダの庇護を約束した策士は頷いた。

「私としては、水鏡は少々惜しい気がしますが」

策士らしいもの言いだ。

「じゃあ、攫えよ。ウスラヒのところに連れて行きゃいい」

イトは言った。

それも、一つの選択肢だろう。

アオイの今後は、多分キリングシークが定めるのだ。

だが。

「貴方に殺されるのは御免ですよ」

タキはそう呟いて微笑んだ。

ちらりとシキを見れば、騎士は軽く肩を竦めてみせただけだ。

「俺の仕事はここに連れて来るまでだ。違ったか?…あとのことは知らねえよ」

タキは頷かなかった。

シキは何も言わない。

そして、軍神は彩りの違う静かな双眸で、ただ、イトの隻眼を見ていた。



すぐに発つというイトを、止める者がいる筈もない。

早々に部屋を出ると、3人の男は見送るつもりか付いて来た。

どうとも言わずに、イトは彼らに導かれるように一つの部屋の前を通りかかる。

最初に足を止めたのは、シキの筈。そう思いたい。

部屋にはサクラと、そしてアオイがいた。

ウスラヒの元で、身なりを整えたアオイも美しかった。

だが、手慣れた者の手により清められ、極端に華美ではないにしろ身分相応に着飾ったアオイは、紛れもなく貴族の令嬢であり、天使と呼ばれるに相応しい美しさを誇っている。

会いたがっていた姉の傍らで微笑むそれも、決して上辺だけのものではない。

ここで、ああして微笑むことができるではないか。

大丈夫だ。

すぐに忘れられる。

この数日の出来事は、すぐに華やかな日々に埋もれていくだろう。

「…声もかけず…か?」

歩きだせば、訳知り顔で騎士が尋ねてくる。

声をかける理由などないだろう。

アオイを中心とした今回のことに、どんな思惑が紛れ込んでいたとしても。

イトにしてみれば、それは一つの厄介事だった。

アオイにしてみれば一つの災難だった。

そして、それはもう終わったのだ。

それで良いだろう。

もう二度と顔を合わせることもない筈だ。

「おい、イト」

シキに名を呼ばれ、その理由を知りながら、イトは足を止めなかった。

だが

「イト」

呼ぶ声が変わる。

この数日ですっかり聞き慣れたそれを無視することはできそうにない。

イトは、諦めて立ち止り、振り返った。

男たちの背後に、アオイが立っている。

カイと双子の側近が、イトの脇をすり抜けていき、アオイがイトに歩み寄る。

振り返ったことに、すぐさま後悔した。

近くで見るアオイはなおさら美しい娘だった。

あの緑の瞳は変わらずまっすぐにイトを見つめている。

少しの翳りもない、そして、イトの側にいたいと願った時の熱を含んだまま。

「…本当に忘れた方がいいの?」

アオイが尋ねる。

イトは、迷わずに答えた。

「忘れろ」

全部。

全部、忘れてしまえ。

「本当に忘れていいの?」

言葉が変わる。

イトは隻眼でアオイを見つめた。

「ああ…全部、忘れていい」

そして、穏やかな眠りを。

光に満ちた日々を。

願わくば…せめて、イトのことが悪夢にならねば良い。

「イト」

アオイは俯いた。

迷うように指先が揺れ、それはアオイ自身の胸元で握り締められる。

イトはアオイに背を向けた。

あの指がイトの衣を握っていたら、どうなっていただろうか。

「置いてくのか」

少し先で立ち止っていたシキが呟いた。

「…何が言いたいのか分からねえよ」

シキはイトではなく、その背後に視線を向けている。

アオイを見ているのか。

娘はどんな表情で、イトを見送っているのか。

イトは振り返れなかった。

振り返ったら、どうなるか分からない。

「報酬はお望みのまま…と申し上げませんでしたか?」

シキより少し先にいる片割れが言った。

「差し上げますよ。天使でも操り手でも…貴方のお望みのままに」

イトは舌打ちをして、隻眼でシキを見やった。

「…俺じゃない…お前らが分かり易いんだ」

シキはため息をついて、そう告げた。

それは本当なのだろう。

語らぬと決めたことは、言葉にならずとも晒されるほどに。

溢れて零れる。

それでも。

「いらねえよ。…俺には天使も操り手も必要ない」

そう言う以外にないだろう。

「ただの娘だ」

唐突に今まで無言だったカイがそう言う。

「だから、男が一人救われる」

タキの横に立つ背の高い男にイトは首を振った。

「…天使ですよ…だから、俺ごときが手に入れる訳にはいかない」

イトの側では、アオイはいずれ笑みを失う。

明るい場所を求めて、涙にくれる日が来る。

「…サクラが泣くな」

中庭に向かう階段を降りながら、ふとカイが上を見る。

寵妃とその妹の姿は既に見えはしないだろうに。

「…でしょうね…で、貴方は不機嫌になる訳だ」

シキが呟く。

イトは眉を寄せた。

「…俺がどんな生き物か…よくご存じでしょう?」

銀の髪、浅黒い肌はグレンダの証。

傷に塞がれた片目は、グレンダを滅亡に導いた最期の頭領の標。

イトにまとわりつくものは、常に闇を纏う。

「…お前は優秀な狩人で…俺はお前を信頼している。それで十分だ」

カイの言葉はまっすぐに。

アオイの瞳と同じくらいに。

それに幾らも救われながら、それでも日が暮れかかった外に足を踏み出して、イトは知らずほっと息をついた。

結局、光の下では生きていけぬ身だと改めて知る。

「軍神にそう言って頂けて…光栄ですよ」

イトは言って、マントをはおった。



「アオイ」

ハタハタとアオイの瞳から、雫が零れ落ちる。

「姉様」

助けて。

イトがいない。

それだけだ。

たかだか、6日。

そんな短い時間を共に過ごしただけの男が、側にいない。

何故。

どうして、こんなに苦しい。

「…アオイ…」

サクラはアオイを抱きしめた。

妹はこんな泣き方をする娘ではなかった。

美しいが、どこか幻のような現実味のない…天使だった。

常に謎めいた笑みを浮かべ。

周りの喧騒など知らぬげに、そこに佇む。

そんな娘だった。

なのに、今、サクラに縋って泣く娘は、なんて確かな存在なのか。

変えたのは、あの隻眼の狩人?

アオイは、あの人を求めて泣いているの?

「どうしたいの?」

サクラの問いに、アオイははっとした。

どうしたいのか?

それは分かっている。

側にいたい。

イトの側にいたい。

イトに触れて、触れられて。

当たり前のように笑っていたい。

「どうするの?」

姉のそれは、初めての問いだった。

どうすればいいのか。

辿り着いた問いに、イトのくれた答えは。

忘れろ。

全て、忘れろ。

それだけだった。

だけど。

「…アオイ。貴方は…どうするの?」

サクラの声にアオイは顔を上げた。

どうするの?

私は。

イトの側にいるの。

イトに触れるの。

忘れられない。

忘れない。

なかったことになんて、ならない。

だから。

「イト」

アオイはサクラの腕をすり抜けた。

イトは言った。

アオイの言葉を、アオイが後悔すると。

それでも、いい。

今、こんなにイトが欲しいのに。

来るかも分からない未来に怯えて、否定するなんて。

アオイはバルコニーに向かった。

男は既に旅立ったのか。

まだ、間に合うのか。


「イト!」


サクラは、天使が堕ちるのを見た。

アオイは、バルコニーの手すりを乗り越えると、向こう側へと飛び降りた。


「…っな…」

イトは驚きながらも、腕を伸ばした。

そこに、アオイが落ちてくる。

「あんた、何してんだ!?」

怒鳴る男の首に抱きつく。

「イトの側にいたいの」

いつか、この言葉を後悔したとしても。

「イトが欲しいの」

この言葉が重荷になったとしても。

「私は貴方が好き」

それでも、今、アオイは自ら選ぶ。

イトという隻眼の男を。

「…お願い…私を置いていかないで」

自ら男の伏せられたままの瞼に口付けた。

「私…貴方といきたいの」

行きたい。

生きたい。

否、貴方と行くの。生きるの。

それは、もう決めた。

「もう、決めたの」

イトはアオイを見つめた。

そして、アオイを抱く腕に力を込めた。

「…報酬は望むまま…でしたね?」

イトはカイに問うた。

カイの頷きを確認してから、アオイが降ってきた上を見上げれば、軍神の寵妃が見下ろしている。

「お前の妹は無茶をする」

カイが言う。

サクラは微笑んだ。

「そちらの方のせいだもの。お小言なら、そちらの方にお願いします」

言うなり、サクラは部屋に入ってしまう。

「置いていっても、連れていっても…どちらにせよ、泣くのか」

カイは呟きながらイトの横を通り過ぎる。

そのまま、屋敷へと戻っていった。

「…姉様」

アオイの小さな声がイトの耳に届いた。だが、イトに回した手は緩まない。

「では失礼致します…アオイ様もお元気で」

タキが軽く一礼してカイに続く。

残ったシキはイトの肩をポンと叩いた。

「…助かった…グレンダの残党の相手はせずに済みそうだな」

イトは小さく笑いを零した。

「自分本位だな」

言えば、シキはにやりと笑った。

「俺はお前みたいに聖人君子じゃない」

言われたことのない言葉に、イトは眉を寄せる。

それはイトとは全く対照的な言葉ではないか?

シキは笑みの中で、瞳だけに本気を浮かべた。

「グレンダの頭領は自己犠牲が過ぎる。欲しいものがあるなら、手に入れろ。俺たちみたいなのはいつ明日が来なくなるか分からないんだ」

そうして、イトの腕の中のアオイに、貴公子然とした優雅な微笑みを浮かべて話しかける。

「…アオイ殿に私からの貢物です。裏手に翼竜を一頭準備しておきました。どうぞお連れ下さい」

シキはアオイを天使と呼ばなかった。

それに気がつきながら、イトは己を見るアオイに、頷いて見せる。

アオイはシキに向かって「ありがとうございます」と微笑んで礼を述べた。

柔らかな、極上の笑み。

シキは一瞬驚いたように目を見張り、そして、少々決まり悪げにイトに視線を当てた。

「じゃあな…今度、会うときは魔獣が一緒だろうな」

そう言ってもう一度イトの肩を叩き、カイやタキが行った道を辿り始める。

「生きていれば…そうなるだろうな」

そうれだけ言って、イトもまた歩き出した。

腕の中に自ら堕ちてきた天使を抱いたまま。

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