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第1夜

どす黒く広がるのは血の海。異臭を放つのは、無残に食い千切られた屍。毛皮に覆われたいくつもの動かぬ個体は、今しがた己の剣で狩ったばかりの魔獣達だった。

か細い月の光に浮かび上がる、男にとっての見慣れた光景。

人々が地獄絵図だと語る日常の中に、しかしながら今は異質な存在が一点。

光を放っているかのように見える『それ』は、ただ静かに座っていた。


魔獣に突き立てた剣を、無造作に引き抜きながら、イトは『それ』を眺めた。

少女か娘か。

いずれにしろ若い女だ。

身動き一つしない。

一瞬、既にこと切れているのかと思った。

しかし、僅かに上下する胸元に、『それ』がまだ命のある存在であると知る。

厄介事に首を突っ込んだ。

そう思わずにはいられなかった。

間もなく、ここには屍の匂いを嗅ぎ付けた魔獣や獣が集まってくる。

ここに、『それ』を捨て置けば、数時間と生き長らえることなく、この光景のごく自然な一部になりえるだろう。

正気を失っているならば、それも良いかもしれない。

「おい」

イトは声をかけた。

俯いていた『それ』が、反応してゆっくりと顔を上げる。

状況を一瞬にして忘れさせる『それ』は----天使。

神などハナから信じていないイトでさえ、不覚にもそう思った。

僅かな月明かりの元でも、『それ』は輝くばかりに美しかった。

乱れていても煌めきを失わない金の髪。陶磁器のような…否、それより、なお、なめらかな白い肌。あらゆる芸術家が、どんなに腕を競うとも、これ以上の作品を生み出すことはできないだろうと、そう思わせる端麗で、優美な目鼻立ち。

そして、何よりも。

『それ』は人外の者であるように。

『それ』こそが、この惨状の主であるかのように。

優雅に艶やかに微笑んだのだ。

イトに向かって。

背筋がゾクリとするほどの美しさで。

「あんた、正気か?」

思わず尋ねると、『それ』は再び俯いた。

「…分からない」

呟く声は、イトが知るどの女よりも透き通っていた。

「名前は?」

尋ねた。

知るためではなく、正気を確認するために。

「アオイ・オードル」

確かな答えに、正気を知る。

しかしながら、どこかで聞いた名と、そして、天使を彷彿とさせる姿に、思い至ったことが事実ならば、厄介事を抱え込む覚悟をせざるを得ないだろうと重い問いを口にする。

「キリングシークの軍神妃の妹か?」

彼女は、少しの間をおいて頷いた。

ならば、まさか捨てて行く訳にもいかない。

つい零れたのはため息だ。

キリングシークの『漆黒の軍神』。かの男はイトが自らの意思で跪く唯一の存在だ。

その寵妃の妹を捨てていくことは、いくら無法者を自覚するイトでもできない。

「立て…ここから離れるんだ」

座り込んだまま、彼女はイトを見上げた。

付いて来るか来ないかは、彼女次第。付いて来ないなら、それまでだ。

己の姿かたちが、貴族の子女の信頼を勝ち得るものでないことを、イトは重々承知している。

イトは判断を彼女に委ねた。

見下ろすイトの目の前で、彼女は立ちあがる意思を見せた。

身じろぎ、膝をつき、しかし、それが崩れる。

その途端、彼女の瞳から涙が溢れ出た。

それが、イトに天使の幻影を振り払わせた。

「…立てないの」

訴えてくる姿も、美しくはあったが人外ではない。

イトは、アオイの腕を掴んだ。

がくがくと震えている。右手にある剣よりも、恐怖で硬直しているアオイの体の方が硬いように感じられるほどに。

先ほどの微笑みと裏腹に、アオイは恐怖に支配されているのだ。

ならば、これは人。

どんなに天使のように美しかろうとも、かろうじて正気を保っているだけの普通の人間だ。

イトは、屈むとアオイを担ぎ上げた。

普通の人であることを認めたのは、つい先ほどのことなのに。

腕や肩に感じる体は、羽があるのではないかと疑うほど軽かった。



アオイを担いだまま、かなりの距離を歩き続けた。

今夜中に森を出ることは無理だとしても、あの惨状からはできるだけ離れておくべきだ。

イトに大人しく抱かれている体は、最初こそガクガクと震えていたが、時間が経つにつれ少しずつ強張りを解いていった。徐々に柔らかさを取り戻していく体を下ろして歩かせようかとも思ったが、縋るように首に回された腕がそれを躊躇わせ、結局イトはアオイを抱いたまま歩いた。

適当な場所を見つけ、アオイを下ろす。

離れようとするが、細い指がギュッとイトの衣を握ったままだ。

「…別に置いていきゃしない」

言うが、アオイの指は離れない。

「離れないの」

本人も戸惑っているように言う。

イトは無慈悲に、力でその手を外した。

アオイの手は、イトの衣を握っていた形のままで膝の上に落ち、その視線は、硬直したままの指先をじっと見ている。

イトは立ちあがり、近くに散らばっている枝を集めて積み上げた。

パチンと指先を鳴らすと、小さな獣がイトの懐から顔を出す。

リスに似たそれは、主に呼ばれたのを喜ぶように跳ねながら、先ほどまでアオイがいた肩へと登る。

「遊んでないで、火をつけろ」

命じると、積まれた枝に駆け寄り、息を吹くように口元から小さな炎を出した。

炎が立ち上がったことに満足するかのように小さく鳴いた獣は、イトの肩へと戻ってくる。

「ちゃんと見張ってろよ」

イトが褒めるように獣の鼻先に口付けると、チッと小さな声で鳴いたそれは、一本の木の上に登っていた。獣が登っていった木の根元に、イトは腰を下ろした。

手を伸ばしても届かない程度に離れて、アオイ・オードルがいる。

少女か、娘か。

改めて見てみても、はっきりとは分からない。

分かっていることは、彼女が飛びぬけて美しい容姿を誇り、そして、イトとは本来知りあう筈もない貴族の娘だということだ。

「あんたをどこに届ければ良いんだろうな?」

イトの言葉に、彼女は微笑みかけて、それに失敗した。

止まっていた涙が再び零れる。

「私…分からない」

「…どこに行く途中だった?」

アオイは首を振った。

それも分からない、ということか。

一体、なんなのだ?

この女は、なぜ、こんなとこにいるんだ?

あの魔獣に喰われたのは…既に人であることさえ定かでないほどズタズタだったが、この女の何なのか。ショックを受けてはいるようだが、連れと思われる人間が骸と化したことを嘆いているようではない。

イトはため息をついた。

とりあえず、キリングシークの軍神に報告する以外にないだろう。

「…寝ろ。今、あんたにできるのはそれくらいだ」

言いながら、自身のマントをアオイに放り投げた。

アオイは、しばらくイトを見つめていたが、そのマントを引き寄せて横になった。



眠れないだろう、とは思った。

この状況で眠れるほど、この女が図太いとは思えない。

イトから少し離れたところで、アオイは瞳を伏せてはいるものの、その体は再び震え続けている。

「…怖い…」

アオイは青ざめた顔で囁いた。

恐怖で怯えた顔さえも、美しいのか。

イトは小さくため息をついた。

「…怖くて当たり前だろうが…この状況で笑ってられる方がおかしいんだよ」

彼女は、目を開けてイトをじっと見つめた。

彩りは緑。身が竦むほどきれいな瞳だった。

「…だって…皆が微笑んでなさいって言うの…そうすることが私の役目だと言うの」

なんだ、それは。

イトは呆れた。

とは言え、この美貌ならば、それもありなのだろうか。

この女が微笑むだけで、幸せになる人間はいくらでもいるのだろう。

それこそ、天使のように、微笑み一つで人を導くことができるのかもしれない。

だが、天使ではないのだ。

人としての感情があるだろう。

その感情を押し殺してまで、微笑んで何になるのか。

「微笑む必要なんてない」

イトは言った。

アオイは、意外なことを言われたと言わんばかりに目を見開いた。

「怖がって…震えていりゃいい。そのうち夜が明ける」

続けた言葉に、アオイは素直に頷いた。

体にかけてあったイトの衣を引き寄せて、身を縮める。イトの大きなマントは、彼女の体をすっぽりと包み込んではいたが、その布地の中で、小さな体が恐怖に戦慄いているのが判かった。

「それとも…」

緑の瞳が開かれて、再びイトを見る。

「来るか?」

腕を広げた。

もちろん、本気ではない。

ちょっとふざけただけだった。

誇り高い貴族の娘が、無頼者の戯言にどんな反応を示すのか。

怒るか、恥じるか。

だが、アオイは身を起こしたかと思うと、僅かに戸惑う素振りさえなくイトの腕の中へと滑り込んできた。

「…おい」

硬直しながら、イトは呆れる。

アオイは、ただ、イトの胸元で震えている。

そこには、女として男を誘う素振りの一欠片もない。

暗闇が怖い、と親のベッドに潜り込むただの子供だ。

イトはため息をついた。

今日はいったい、何度ため息をつけば終わるのか。

「しょうがねえか」

乗りかかった船というやつだ。

無事にキリングシークに送り届けてやろうではないか。

軍神に貸しを作っておくのも、悪くはない。

そう思い、木に寄りかかりながら、左手にアオイを抱き、右手に剣を引き寄せた。

アオイはイトに抱かれながら、瞳を伏せた。なんとか眠りにつこうとしているようだ。

こんな時、親ならばどうするのだろう。

両親を知らずに育ったイトには、それが分からなかった。

だから、抱きついてきた体をやんわりと抱きしめた。

欲望のない抱擁など、初めてだ。

しばらくすると震えていた体が落ち着いていき、やがて、その呼吸が穏やかで大きなものに変わった。

「オードルの天使…か」

出会ったばかりの男に、美しい寝顔を晒しながら抱かれて眠る娘は、確かにそう呼ばれるのが相応しいと思わざるを得ないほど美しく。

そして、人とは遠くかけ離れた存在に思えた。

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