第八十七話 『魔剣』
それから、誰からともなく動きが生まれた。レインちゃんはそっとアリアさんの横にしゃがみ込み、眠る少年――いや、アステリオスの顔を覗き込む。アステリオス。その名が与えられてから、少年の存在が肯定されたように感じられた。『ミノタウロス』という過去の影を脱ぎ捨て、彼は今、ここに『誰か』としている。彼が犯した罪、人を殺したは決して消えないし、消えさせるつもりもない。
というか、忘れることができない。ミノタウロスの巨大な拳が今の脳の奥底に恐怖として刻み込まれている。心に傷ができた。トラウマだ。だがそれでも、理性なき獣としてではなく、理性を持つ人の子として、彼が犯した罪に向き合っていくならば、それはきっと意味があることだ。死んでいった彼らも、少しは報われるはずだ。
「いやー、目出度いですね」
ヒビキは手を軽く叩きながら、いつもの調子で少年に祝福を告げた。ヒビキなりのやり方で、アステリオスを受け入れたという合図なのだろう。踊るように彼はくるりと踵を返すと、羽織を翻して振り向いた。胡散臭い笑顔を顔いっぱいに貼り付けながら、にやりと笑う。
「彼はこれから『ミノタウロス』ではなく、『アステリオス』として、新しい人生を歩み始めるんですから。過去は消すことはできないけれど、それでも前に進むことはできる。だからこそ、ボクたちも立ち止まってはいられません。さぁ、賛辞を送るのはほどほどにして――では、早速行きましょうか?」
「あら? どこへ」
リーネが小首を傾げながら、きょとんとした顔でそう問い返す。彼女の声にはほんの少しだけの期待の色が混じっていた。するとヒビキは、得意げに人差し指を立て、まるで秘密を打ち明けるような声で言った。
「迷宮を攻略した後にすることなんて、一つだけしかないじゃないですか? お宝探しですよ」
皆の視線が自然と前方へと向かう。階段が見えた。ヒビキが指で指し示した先には、苔むした石の階段が、闇の奥へと続いていた。そこはまだ誰の足跡もない。迷宮の未知の領域が広がっている。何かに呼ばれているかのようで、ドキドキとする。だが意外なことに、乗り気だったリーネが表情を曇らせ、難色を示した。
「確かに、それは迷宮を最初に踏破した者の特権かもしれないけど。でも……ちょっとだけ我慢してくれないかしら? ワープ現象ではぐれた子たちの捜索にあなたの足がとーっても必要なの。それに、シュテンやヘルガの怪我のことも放っておけないし、アステリオスのことをウルージにも報告しておきたいわ。だから、私としてはできるだけ早く人喰い迷宮からの脱出を目指したいのだけど……」
リーネの説得にヒビキは肩を竦めてみせた。その真っ黒な瞳には、どこか納得したような光が宿っている。安心していい。冗談を飛ばしながらも、彼はちゃんと空気を読んでいるし、引くべき時はちゃんと引く。それが、ヒビキという男だった。だが同時に、最後に余計な爆弾を落とすのも彼という男なのでもある。彼はいつもの胡散臭い笑みではなく、どこか悪戯っぽい笑みを湛えながら、ぽつりと呟いた。
「それなら、仕方がありませんね。では帰り道に少しだけ、寄り道をしてもいいでしょうか? お時間は取らせません。五分もかかりません。たぶん。道草を食うというよりも、道の端っこに咲いている花を摘むくらいの感覚です」
「え、もう見つけていたの! なら、それを早くいいなさいよ!」
リーネが目を見開き、思わず声を上げた。燃えるような真っ赤な瞳をさらに輝きを増す。彼女の中にある抑えきれない好奇心が、今にも暴れ出しそうだった。その反応に、シュテンとヘルガが同時に呆れたように溜息を吐いた。『またか……』というような、諦めと慣れが入り混じった表情で。その間にいたレインちゃんが『まあまあ、いいじゃないですか』と二人を宥めるように、または気を遣うように、ふわりと笑っていた。諸悪の根源であるヒビキは、どこ吹く風といった顔で肩を竦める。まるで『先に言ったら面白くないでしょう?』とでも言いたげに、口元だけに能面のようだった。そんな彼に、レインちゃんがぽつりと問いかける。
「えっと、ちなみにそれはどこにあるんでしょうか?」
レインちゃんは首を傾げながら、遠慮がちにそう尋ねる。彼女の声は優しかったけれど、ほんの少しだけ探るような響きがあった。要するに、彼女も疑っているのだ。するとヒビキは、獲物が仕掛けていた餌に食いついたとばかりに、にんまりとした表情になった。目を細め、わざとらしく胸に手を当て、傷ついたふりをしてみせる。
「おやおや、珍しいですね。まさかボクを疑っているのですか?」
ヒビキの芝居がかった下手な仕草に、レインちゃんは思わず目をぱちくりとさせた。まさか自分の言葉が火種になるとは思っていなかったのだろう。彼女の頬がほんのりと赤く染まり、慌てて手をぶんぶんと振って否定する。
「いえいえ、私はそんなこと――」
「アンタが、ウサンクサイから聞いてんでしょ? ねぇ、レイン!」
だが、彼女のその言葉を遮るように、ヘルガが食い気味に割って入った。腕を組んだまま不機嫌そうにヒビキのことを睨みつける。視線が鋭く、まるでナイフのように突き刺さる。だが、驚いたのはヒビキではなく、むしろフォローを入れようとしていたレインちゃんの方だった。味方かと思っていた相手に背中から撃たれたような気分だろう。顔色を赤青と点滅させるように変えながら、困ったように二人の顔を交互に見つめる。
「ふふ、安全してください。お宝が隠してある場所は、ちゃんと帰り道の途中にありますよ。ボクが保証します。隠し場所は拍子抜けするくらい単純で、古びていて……見た限りでは、誰の手も入っていない様子でした。それに結局、この人喰い迷宮って名前のわりに、罠らしい罠は見当たりませんでしたしね。……恐らく、大丈夫でしょう!」
「やっぱり怪しいじゃない……」
ヘルガはぼそりと呟いた。警戒心を露わにしたまま彼女はヒビキに噛みつき続ける。もはや、噛み千切るような勢いだ。だが、ヒビキはまったく動じない。むしろ、彼女の反応すら楽しめているようだった。いや、もしかすると……彼はただ、ミノタウロスの首を斬れなかったストレスをこうして誰かにぶつけて発散したいだけなのかもしれない。結局、何もできていなかったからな。わざと場を引っ掻き回して、混乱させて、俺たちの困った顔を見て楽しもうとしているのだ。その証拠に、ふと視線を横に向け、にやりと笑う。ヒビキの視線の先にいたのは、俺だった。
「おやおや、なかなか信じてもらえませんね。オオカミ少年だったロバーツでさえ、今じゃ立派な船長としてあれほど皆から頼りにされているのに。どうしてボクはこうも信用がないのでしょう。やっぱり、ボクの日頃の言動のせいなのですかね? ……まあ、いいです。ですが、ジン君はもう気付いているはずですよね?」
「……ぁ、ああ!」
突然、名前を呼ばれた俺は思わず背筋を伸ばし、反射的に返事をしてしまった。生返事だ。声だけは自信ありげに出したが、内心はまるで違った。というか、何に気付いているかだなんて、正直なところよく分かっていなかった。だけど、今さら『分かっていない』とは言えなかった。訂正できない。だって言えば、負ける気がした。ヒビキは俺の反応に満足したようだ。俺から目線を逸らして、全員の顔を見渡す。下駄の歯が石畳を軽く打ち、乾いた音を鳴らす。羽織の裾がふわりと踊り、彼の背中がどこか嬉々として大きくなったような気がした。
「これで、許可をくれますか? 船長?」
「で、でも……」
リーネはまだ迷っているみたいだ。視線はヒビキではなく、そっと座り込むシュテンへと向けられている。彼の額にはまだ汗が滲み、呼吸も少し浅い。この場で一番の重傷者、シュテンを心配しているようだ。傷ついた仲間がいる、その事実が彼女の判断を鈍らせているみたいだ。しかし、彼女の中で、理性と好奇心がせめぎ合っているのが見て取れた。海賊としての本能が、目の前にある『お宝』の気配に反応しているみたいだ。血が騒いでいる――という表現が、ここまでぴったりな瞬間もそうない。そんな彼女の様子を見ていたシュテンが、ぼりぼりと角の周囲を掻くと、小さく舌打ちをした。そして――
「……十分だけだぞ」
その一言は、まるで許可証のように迷宮内に響いた。短く、ぶっきらぼうだったが、助け舟を出すようにシュテンはリーネに許可を出した。
「ええ!」
リーネはぱっと顔を上げ、花が咲いたような満面の笑みを浮かべる。まるで宝の地図を手に入れた子供のように輝いている。華やいだ。真っ赤な瞳がさらにきらきらと光輝いていた。ずっと思っていたことだが、シュテンの身体は思っていたよりも頑丈で、そして思っていたよりもリーネに甘い。態度が甘い。鬼っていう種族はツンデレしかいないのかと疑うほどに。
「では、行きましょうか!」
ヒビキは軽やかに手をひらひらと振りながら、くるりと下駄の音を響かせた。リーネは腰のサーベルを軽く叩きながら、足取りも軽くヒビキの後を追う。高揚感という名の煙が、好奇心という名の炎が、彼女の中で燃え上がっている。
「ええ、ヒビキが見つけた『お宝』の在りかに案内してちょうだい! 古代ドワーフの遺跡に隠している『お宝』ってことはきっと相当面白いものを隠しているってことよね! まったく、あなたはそういうところは本当に抜け目ないんだから……でも、嫌いじゃないわよ! 海賊としてお宝はすべて頂戴しないとね!」
「……相変わらずの、貧乏性だな」
「ちょっと、ヒビキ。先に言っておくけど、ワタシとリーネがいるから寄り道したらすぐに分かるから! だから、変なところに行ってもムダだから。嘘だったら、ただじゃおかないわ!」
ヘルガはぴょんと一歩前に出て、ヒビキに向かって綺麗な指をぴしっと突きつける。彼女の言葉を受けたヒビキは『はいはい』と軽く手を振るように応じた。本当に、何か確信があるみたいだ。
「よいしょっと!」
リーネは腰のサーベルの位置をずらすと、アステリオスを優しく背負った。白銀の鎧に身を包んだアリアさんでは少年を背負うのが難しいと判断したのだろう。アステリオスの身体はまだぐったりとしていて、目覚める気配はない。アリアさんは彼のそんな様子を見つめながら、どこか不安げな表情を浮かべていた。出遅れて、取り残された俺は、同じく遅れたレインちゃんと目を合わせる。彼女はにこりとはにかむように微笑むと、すっと俺の隣に並んだ。
「じゃあ、俺たちも行こうか?」
俺がそう声をかけるとレインちゃんはこくりと小さく頷いた。ふと彼女の姿に目をやると、出血や打撲などの外傷は見当たらなかったが、彼女がいつも着ている萌え袖気味の濃色のチャイナドレスは、ミノタウロスとの激しい戦闘を経て、ところどころ破れ、ほつれていた。ボロボロになっている。裂けた布地の隙間からは、彼女の健康的で若い肌がちらりと覗くことができ、俺は目のやり場にとても困ってしまった。慌てて目を逸らしながら、咳払いでごまかす。
「はい。ところで……ヒビキさんがどこに行こうとしているのか、お兄さんは知っているんですよね? あ、もちろん、別に疑っているわけじゃなくてですね……でも、よければこっそりと先に教えてもらえませんか?」
「……つ、着いたらわかるよ」
彼女の問いに俺はそう答えるしかなかった。俺はこれ以上詮索されないように、視線を前方に向けて少し早足で歩き始めた。俺の反応に、彼女のくすっと小さく笑ったようだ。その笑い声は、どこかくすぐったくて、やけに耳の奥に残った。風に揺れる鈴のように、俺の心に触れてくる。いや、こんなことを考えている場合じゃない。俺は気を取り直すように、深く息を吸い込んだ。記憶を辿る。ゆっくりと、慎重に、俺はこれまでの出来事を思い出していた。
ヒビキは何を企んでいる。何を隠しているんだ。彼はまるで、俺にだけは『もう気付いている』みたいなことを言っていた。けれど、それが何なのか俺にはまだ見えていない。ミノタウロスとの対面時、呼び起こされた本能からの死の恐怖に、俺の頭は自分で考えている以上に消耗している。父がよく『過去を思い出すのにも体力を使うんだ』と言っていたが、自分の身体が限界が近づいてようやく意味が実感できた。あれって、こういうことだったのか。魔力も、体力も、どちらもほとんど残っていない身体では頭も働きが鈍くなる。
だけど、先程も言ったように、今さら『どこに行くのか?』なんて聞けない。聞くわけにはいかない。さすがに、それはカッコ悪い。あの場で自信満々に返事を返してしまった時点で、俺の運命はもう決まっていた。あんなことをしてしまった手前、もう引き返せない。だから俺は、仲間たちの背中を目指して、人喰い迷宮の奥へ、来た道を引き返すために足を進めた。というか、本当に、ヒビキは何処へ向かっているんだよ? 思わせぶりなことばっかり言われても困るから、俺にだけは事前にこっそりと教えてくれよ!
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
先を進むヒビキたちを見失いように、俺はその背中を追いかけるようにして歩いていた。人喰い迷宮を奥へ、ただひたすらに足を運ぶ。カランコロンと下駄を音が、鬱陶しいほど規則的に前方から響いてくる。
それに混じって、地面を擦るような鈍い足音が聞こえてきた。自分の靴が出している音だと気付いたのは、少し遅れてからだ。身体が疲れているせいで、両足が思うように上がらなくなっていた。全身が鉛のように重く沈んでいて、歩くたびに地面に引きずられるような感覚がある。
見覚えがあるようで、ないような場所を、延々と歩き続けている。同じような石壁、同じような分かれ道、同じような空気の悪さ、たまにあるアクセントは階段程度だ。会話で意識を逸らすのも、もう限界だった。どれだけ歩いたのか、もう分からない。俺は意を決してヒビキに『おい、いつになったらつくんだ?』と聞こうと思ったが、すぐに止めた。一気に視界が開いたからだ。
広い空間に出た。バカみたいに広い。楕円形の空間だ。がらんとして何もない空間だ。天井は高く、教会や礼拝堂のような静謐な雰囲気がある。石畳が敷き詰められた床の奥には、翼を広げたグリフォンの置物とそれに跨る大きな人型の石像が置いてある。そして、その石像を拝めるかのように迷宮の床と同じ材質でできた椅子のようなものが、列を成して並ばせてあった。ここは――
「あー、なるほど。ヒビキの目的地って『祭壇』のことかよ」
思わず声が漏れた。俺の声が、静かり返ったこの空間にぽつりと落ちて、迷宮の石壁に吸い込まれていく。誰も聞こえていない。誰も気づかない。そう思っていたのに、ヘルガが気付いた。いや、気付いてしまった。波風がなかったこの厳かな空間に波紋が広がる。ちょっとだけ尖がった耳をピクピクと反応させ、聞きつけてきたヘルガが、今度は俺に噛みついてきた。
「ちょっと、ジンも知らなかったの!」
「あー、うん。ごめん。本当は何も知らなかったんだ」
俺が正直にそう白状すると、ヘルガは「……信じらんないッ!」と叫び、そっぽを向いた。唇を尖らせる。裏切られたとでも言いたげな表情だ。俺もすぐにもう一度謝ろうとしたのだが――ふいに、首元に冷たい風を感じた。まただ。俺は誘導されるように、ゆっくりと天井を見上げてみた。そこにはやはり壮大な天井画があった。宗教画。天井を絵画が一ミリの隙間もなく装飾されている。壁画は不気味なタッチで、やっぱり俺は苦手だった。神々しさと不気味さが同居する人喰い迷宮、古代ドワーフたちの壁画は、まるで生きているかのようにこちらを見下ろしてくる。色彩は重たく、筆致は荒々しいのに精巧だ。見る者の心をざわめかせ、凍らせる。何かに見られているような、そんな感覚。ぞくりと背筋が震える。
「……」
言葉が出なかった。ただ、圧倒されるように見上げるしかなかった。すると、ふと天窓のように開いた天井の穴に、ほんのわずかに見えた空の色が目に入った。空の色。ヒビキと二人で見た時とは違う。そこから見えていた青色よりも深い藍色の空は、いつの間にか薄明色、曙色へと変わろうとしているところだった。夜明けが近い。俺がぼんやりとそんなことを考えていると、ヒビキがガツガツと先に進んでいくのを視界の端に捉えた。
そして、そのまま石畳が敷き詰められた床の奥には、翼を広げたグリフォンの置物とそれに跨る大きな人型の石像が鎮座している場所まで、容赦なく斬り進んでいく。古代ドワーフの遺骨を無造作に通り過ぎた。石像の元へ、まっすぐと。彼の足取りは一切緩まない。ヒビキは一度、深く、ゆっくりと眺めた場所なだけあって、もうさほど興味がないみたいだ。だが、リーネたちは違った。ヒビキと俺、そしてアリアさん以外のメンバーはここに初めて足を踏み入れたのだ。皆一様に驚いた様子で、天井を、壁を、空を、石像を――まるで夢の中にでも迷い込んだように、感動したような瞳で見渡している。
リーネは目を輝かせながら、天井を見上げていた。彼女の燃えるような真っ赤な瞳に映るのは、ただの絵ではなく、歴史……いや、物語そのものだったのかもしれない。遠い昔の記憶を見ているかのような、そんな眼差しだった。彼女の唇が、ぽつりと動いた。
「……へぇー、スゴイじゃない!」
リーネの声は、驚きと興奮が入り混じった素直な感嘆だった。彼女の心がどれだけ動かされたのか、はっきりと表れていた。彼女の声に、ヘルガもはっと我に返ったようだった。空間の荘厳さに気圧されていたヘルガは正気を取り戻したように顔を顰め、ヒビキに向かって悪態を吐く。
「ねぇ、これのどこがお宝だっていうのよ! まさか、この景色が宝だなんてつまらないことを言わないわよね? 確かにす、スゴイことは百歩、いえ百万歩譲って認めてあげてもいいわ。でも、これを見せるためだけの寄り道なら一週間くらい不機嫌になるわよ?」
「おー、それは怖いですね。ですが、焦りは禁物です。ボクが目指していたのは『祭壇』であって『祭壇』ではないのです。見た目に惑わされてはいけませんよ? ここにあるのは、入口です。ほら、こちらをご覧ください」
俺たちは顔を見合わせるように近づきながら、ヒビキの指し示す先へと視線を向けた。さらに、近づく。すると、そこには――何もなかった。いや、一見、何もないように思えた。ただの床の石畳の一角。だが、よく目を凝らしてみると、そこには少しだけ、わずかに凹んだ部分があった。溝。翼を広げたグリフォンの置物とそれに跨る大きな人型の石像が鎮座している場所のすぐ脇に、細く、浅く、しかし明らかに人工的な溝が走っていた。
最初にヒビキに連れられてこの『祭壇』に足を踏み入れたとき、俺は気が付かなかった。それはまるで、何かを”隠す”ために用意されたかのような形状だった。装飾とも、排水用のものとも違う。俺の目には留まらなかったはずの存在が、今になってじわじわと不気味な存在感を放ち始めていた。
「これは……隠し部屋でしょうか?」
レインちゃんが思わず声に出ていたといった様子でそう呟くと、ヒビキは肩越しにちらりとこちらを見て、口元を緩めた。
「はい。ずっと気になっていたんですよね。先程までは、古代ドワーフの遺跡が生きていたので開けることができなかったのですが――ほら、この通り。今なら力尽くでこのお宝への入口を開けることができる。……どうやら、ジン君は気付いていなかったみたいですが」
「――うッ」
レインちゃんの悪意のない一言から連鎖したように、不意に前方から飛んできた声が、胸に刺さった。突然、心臓を刺されたような鋭い刃。返す刀で俺が斬られた。思わず息が詰まり、喉がひゅっと鳴った。だが、言い返す言葉なんて見つからず、俺はただ苦笑いを浮かべるしかなかった。
そんな俺の様子など気にも留めず、ヒビキは胡散臭い笑みを貼り付けたまま、溝の端に手をかけた。指先で石畳みの切れ目をなぞるように確かめると、掴む。そして、ヒビキは隠し扉を力任せに、ぐっと押し開けた。重々しい音が祭壇全体に響き渡った。石が擦れ合う鈍い音とともに、床の一部がゆっくりと持ち上げられ、やがてぽっかりと口を開けた。階段だ。螺旋状に下へと続く階段がその姿を現した。まるで地の底へと誘うように、冷たい空気が立ち昇った。
肌を撫でる、冷たい風。まるで見えない手に引きずり込まれるような得体の知れない期待感が、俺の背筋を駆け上がる。雷のような甘い衝撃が、胸の奥を打った。何故、ここまで胸を躍らせるのだろうか。この先に何があるのかも知らないのに、心が高鳴って仕方がなかった。ちらりと周囲を見渡すと、それは俺だけではないことが分かった。この瞬間だけは、誰もが同じ気持ちみたいだ。
「ワクワクさせるじゃないの。灯りは、火は危険かもしれないし……ヘルガ、任せてもいいかしら?」
「……命令しないでよね」
ヘルガはむすっとした顔で答えたが、その手にはすでに魔法で生み出された光の球が浮かんでいた。彼女の魔力によって生み出された光球は、ふわりと宙に浮かび、まるで意志を持つかのように階段の先へと滑り込んでいく。光が照らし出したのは、苔むして、少しの振動で崩落してもおかしくないような石の壁と、果ての見えないほど深く、遠い、闇の底だった。
「ふふ、素直じゃないですね」
アリアさんが微笑むとヘルガはぷいっと顔を背けた。彼女の頬が好奇心という名の興奮により、ほんのりと赤く染まっていたのを俺は見逃さなかった。だが、ここで浮かれてばかりもいられない。気を引き締めなければならない。胸の奥に広がる高揚感を、俺はそっと押しとどめた。だって、好奇心は俺たちに災いを招く可能性があるのだから。災いを招く呼び水になり得るのだ。というか、この先に待ち受けているのが宝である保証だなんて、どこにもないのだ。
「……ワタシが先に行くわ」
ヘルガが短く、はっきりと意思を告げた。そして、誰かが声を発するよりも早く、彼女の右足は闇に続く階段へと踏んだ。魔法の光を器用に操り、慎重に、しかし堂々とした足取りで、一歩ずつ階段を下りていく。俺たちも、それに続いた。一瞬だけ目を合わせ、互いに頷き合う。それだけで、意思の疎通は十分だった。俺たちもすぐにそれに続いた。言葉を発することなく、自然と列を作り、一人ずつ、間隔を開けて階段を下りていく。狭い。とても狭い。肩をすぼめなければ通れないほどの幅。シュテンやヒビキのように体格のいい二人は苦労するだろう。鎧や装備が壁に当たって、かすかな音を立てる。
「…………」
足元は湿っていて、ところどころ苔が生えていた。踏み外せば、皆を巻き込んでどこまでも滑り落ちそうだった。だから、俺たちはでこぼことした石の壁に手を添えながら、一歩ずつ、一歩ずつ、着実に降りていった。石の壁は氷のように冷たく、触れるたびに体温を奪っていく。時折、どこからか水滴が落ちる音が響いた。ぽつん、ぽつん、と規則性のないその音が、やけに神経を刺激する。水音が聞こえるたびに、警戒心の強い誰かの足がぴたりと止まり、息を呑む気配が伝わってきた。
どれほど降りただろうか。いや、実際にはまだ一分、二分ほどしか経っていない。制服の両肩が石壁にこすれるたびに、鬱陶しさが加速する。閉塞感、窮屈間、そしてじわじわと忍び寄る息苦しさ。このまま闇の中を、階段を永遠と下り続けるのではないかという錯覚を覚えた。だが、やがて、先頭を行くヘルガの足音が完全に止まる。その直後、彼女の魔法で生み出した光がふわりと広がった。
――また、少しだけ広い空間に出た。
階段の終わりが、ようやく見えたのだ。俺はほっと息を吐きながら、慎重に最後の段を踏みしめ、足元を確かめるようにして彼女がいる空間へと無遠慮に足を踏み入れた。天井は高く、思った以上に広がりのある物々しい空間だった。壁には何も書いていない。『アストゥロ』や『祭壇』のような不気味で、禍々しい壁画でびっしりと埋め尽くされているわけではない。あまりにも静かで、何もなくて、逆に耳鳴りがするほどだった。空気はさらに冷たくて、湿っていて、どこか鉄のような饐えた臭いが鼻をかすめた。古く、乾いた雑巾のような嫌な臭いが漂っている。
「……うお。酷い、臭いだな」
シュテンが鼻を摘まんだ。彼の大きな背中には今、ミノタウロス……いや、アステリオスがいる。魔力が尽きてしまったリーネは体調が万全ではなく、途中でアリアさんが、そして最後には見かねたシュテンが彼を背負った。というか、怪我をしているくせに少年一人を軽々と背負えるタフさがやはり凄まじい。真似したくても、真似できない。彼の背中は温かいのか、少年の寝息はさきほどよりも安定しているように思えた。俺はそんなことを考えながら、シュテンを尻目に、地下室の奥へとさらに足を進めた。
「ここは、何だ?」
「……この匂いは、アルコールでしょうか?」
「もしかたら、この地下は『氷室』だったのかもしれないわね」
思わず漏れた俺の声に、アリアさんがすぐに応じた。彼女は鼻をひくつかせるように、周囲を見渡している。確かに、意識を集中させれば、ツンと鼻の奥を刺すようなアルコール特有の刺激臭があった。発酵したような奇妙な臭いだ。シュテンがよく飲んでる度数の高い酒を腐らせたような臭いだ。この空間はリーネが考察したように、自然の冷気を利用して酒か何かを保存するために造られたのかもしれない。それなら、空気の冷たさにも納得がいく。
ヘルガの光が届く範囲が広がるにつれ、空間の隅に積まれたものが見えてきた。劣化した木製の樽が、いくつも転がっていた。そのいくつかは崩れかけ、黒ずんだ液体が床に染みを作っている。中には、蓋が外れ、中身が干からびて空になったものもあった。その傍らには、粘土板のようなものが散乱していた。割れたもの、欠けたもの、まだ形を保っているもの――まさか、嫌いな絵がこんな風に大切に保存されているなんて思わなかった。
俺は思わずしゃがみ込み、欠けた粘土板をひとつ手に取った。ざらりとした感触。表面には、アストゥロや祭壇で見たのと似たような不気味な絵が刻まれていた。見る者の心を不安にさせ、ざわつかせる。その絵をじっと見つめていると、背筋に冷たいものが走った。
――ばしゃん、と。
突如、背後の方から、脆い何かを強い力で破壊した音が響いた。水が張った器が叩き割られたような、湿った破壊音。反射的だった。俺たちは反射的に顔を上げて、音のした方へと視線を向ける。すると、そこには少年を背負ったままのシュテンが立っていた。彼は無言で、樽の一つを拳で叩き割っていた。細かな木片が四方に飛び散り、内部に残っていた液体がばしゃりと勢い良く飛び出す。彼は保存状態の良い樽を殴り壊し、中身の酒を試飲するように手を差し入れ、掬い、口元へと運ぶ。ごきゅり、と口から酒が流し込まれ、喉が鳴る音が響いた。
「……これは……ビール、みたいだな」
シュテンは無表情のまま、そう呟いた。彼の手はまるで井戸水でも汲み上げるように淡々と動き続ける。ごきゅり、ごきゅり、と太い喉に酒を流し込んだ。彼の動きは、まるで本能のままにただ酒を求めているかのようだった。喉が鳴る音は、今度はやけに大きく耳に残った。端的に言ってしまえば、かなりうるさい。
「ちょっと、何よ。いきなりデカい音を立てないでくれる! 驚いちゃったじゃない!」
「シュテン、今すぐにぺっ、ってしなさい。ぺっ、よ。お腹壊したらどうするの! それより、勝手に壊したらダメじゃない! 後できちんとこの遺跡を調査するんだから!」
ヘルガとリーネが同時に声を上げた。ヘルガは苛立ちを露わにし、リーネは眉をひそめて、まるで母親のような口調でたしなめる。彼女のその姿が妙に板についていて、思わず吹き出しそうになった。自分の身体から緊張感が霧散していくのが、はっきりと分かった。
「うるせぇよ、過保護な母親みてぇなこといってんじゃねぇ。つーか、古代ドワーフでも酒造りは現代の方が上手いんだな。なんか、ガッカリだ」
自分で勝手に飲んでおいて、なんという酷い言い草だろう。だが、そう言いつつも彼の手は止まらない。三度、樽の中で眠っていた酒を飲みほした。この鬼は、もう酒ならなんでもいいみたいだ。古代ドワーフたちに同情する。ある種、丹精を込めて仕込んだであろう秘蔵の酒をよりにもよってシュテンに飲まれるだなんて……古代ドワーフたちも報われないな。
死んでも死にきれない。彼らの無念が今にも遺跡の壁から滲み出してきそうだ。というか、勝手なことをするんじゃない。いきなり大きな音で、寿命が縮むかと思ったわ。そんなやりとりをしている最中、反対側から明るい声が響いてきた。
「リーネ、こっちに来てください!」
いつもよりもテンションが高いレインちゃんの声が耳に届いた。どうやらヒビキと一緒に何かを発見したらしい。声には驚きと興奮が混ざっていて、ただの発見では済まなそうな気配があった。シュテンは相変わらず酒に夢中で、一歩も動こうとしない。彼は、もう酒にしか興味がないみたいだ。だから俺たちは、シュテンから目を離して、自然と足がそちらに向かった。
「珍しいわね。レインが大声を出すだなんて。一体、何を見つけ――えっ! これって!」
リーネが声のする方へと駆け寄ると同時に、目を見開いた。その表情がただ事ではないことを物語っている。宝箱。彼女たちは、まるで宝箱のような木箱を覗き込んでいた。銅か何か金属で固く施錠がされていた痕跡があるが、それは真っ二つに斬られていた。切断面は驚くほど滑らかで、ハサミか何かで紙を裂いたかのようだった。俺は容疑者筆頭のヒビキに目を向ける。こいつら、破壊行為に容赦がない。というか、文化財を破壊するなよ。俺は心の中で呟きながら、深い溜息を吐いた。だからドワーフたちと無駄に揉めているんじゃないのか、と。
そのとき、俺の視界の端で何かがきらりと光った。俺はリーネの肩越しに身を乗り出し、箱の中身を覗き込む。リーネが腕につけていた黄金の腕輪とまったく同じ色の光を捉えた。箱の中から漏れ出したのは、輝き。黄金の輝き。俺は心の奥底にある巨大な欲望を刺激された。絶景だった。目の前の光景が、現実のものとは思えなかった。理解ができない。理解が追いつかない。頭が必死に、目の前の光景に相応しい単語を検索している。検索し。検索し。検索し。そして――
「金だぁ!」
「金ねっ!」
口を開いたのはリーネと同時だった。俺たちは、ただその輝きに見惚れていた。欲望を先に口走る。箱の中にあったのは、ぎっしりと敷き詰められた黄金だった。金でできた延べ棒が整然と並んでいた。一つひとつが片手では持てないほどの大きさだ。まるで祝福の呪文のように、金の肌に刻まれたそれらは、光を受けて怪しく輝く。
「……こ、これだけあれば、しばらく」
リーネの鼻息を荒げていた。目をギラギラと輝かせている。実はリーネは意外とは倹約家、吝嗇家……いや、言葉を選ばずに言うと守銭奴。かなりケチだ。カネに関しては一切の妥協は許さない。どれだけケチというと落ちていた銅貨を見つけては、まるで宝物でも拾ったかのように目を輝かせるぐらいだ。
夏のある日、彼女がやけに忙しそうに帳簿を広げていたのを思い出す。何をしているのかと尋ねると『年末の決済に向けた準備よ』と、真顔で答えられた。航海から帰ってこれるのは、夏と冬のほんの短い期間だけ。それ以外の時期、海賊である彼女は海の上で暮らしている。
いつも人が足りないと嘆いていた。だが、だからといって人を雇う素振りは見せない。むしろ『人件費は敵よ。できるところは一人でしないと!』と一蹴して、仲間内でやりくりしようとする始末だ。人も金も集まり始めて軌道に乗ってしばらく経つから、いい加減『税理士を雇え』と口煩く言われているのに。結局、アリアさんに手伝ってもらっていた。報酬は『おやつと感謝の気持ち』だそうだ。それでアリアさんは納得して手伝っているのだから、またスゴイ。
そんな彼女が今、目の前にある金の山を前にして理性を保てるはずがなかった。箱の前で明らかに挙動不審になっていた。金の延べ棒を持ち上げては、重さを確かめるように手の中で転がし、そして元の位置にそっと戻す。そんな不思議な動作を何度も、何度も繰り返していた。「海賊と言えば、金の延べ棒よね。あー、でも」とぶつぶつ呟きながら。まあ、それは無理もない。この地下空間にあるのは、たった一つの箱ではなかった。リーネの周囲には同じような箱が少なくとも、五つ以上ある。すべてが同じように封がされ、同じように黄金の香りを放っていた。金銀財宝、宝の山だ。
正直、俺だって興奮している。冷静ではいられない。テンションがぶち上がる。本物の金の延べ棒なんて、現世では絶対にお目にかかれない代物だ。一箱でもあれば、一生遊んで暮らせるだろう。いや、遊ばなくてもいい。小さな家を買って、静かな場所で本を読んで、雨音を聞きながら暮らすのも悪くはない。持ってみたい。触ってみたい。俺も、人並み以上に興味がある。もしかしたらリーネに負けず劣らず、目の奥が怪しい輝きを放っていたかもしれない。
だけど、今はそれよりも気になることがあった。壁際に立ち、腕を組み、こちらを不機嫌そうに見ていたヘルガの存在だ。彼女はアステリオスをちらちらと盗み見ながら、唇を尖らせている。明らかに何かを言いたげな表情を浮かべている。
「さっきからやけに不機嫌だな……何があったんだよ?」
俺が声をかけるとヘルガがぴくりと肩を揺らした。けれど、すぐには答えてくれない。視線はこちらに向いたが、口を真一文字に結んでいる。拗ねるように彼女のほんのちょっぴり尖った耳がぴくぴくと揺れている。だから、こちらから踏み込むことにした。
「そんなに、アステリオスが気に入らないのか?」
俺が冗談めかしてそう言うと、ヘルガはちらりと眠っているアステリオスを見て、ふいっと視線を逸らした。エルフである彼女には、金の魅力がピンときていないのかもしれない。樽や瓶、粘土板の方が面白いのかもしれない。そんなことを考えていた、そのとき――
「仲が良いですね、二人とも。ボクも仲間に入れてくださいよ」
耳元でふいに声をかけられた。ヒビキの声だ。振り返りと、そこにはいつの間にかヒビキが背後に立っていた。相変わらず気配のなさすぎて、心臓だけでなく肩まで跳ね上がる。
「わぁ! ビックリした。お前、急に耳元で話しかけてくんなよ。大人しく金でも見てろ、金でも」
俺の声は上擦っていた。抗議するような口調で言い返すが、ヒビキは涼しい顔のままだ。まるで意を介した様子もなく、俺の文句に彼は軽口で応対した。
「生憎ですが、ボクは宵越しの金はあまり持ちたくない主義です。それよりも、何の話をしていたのですか?」
「何の話をしていたって、今話しかけたばっかりだよ」
「……不完全燃焼なだけよ」
俺が呆れたように返すとヒビキはくすりと笑った。すると突然、沈黙を守ていたヘルガがぽつりと呟いた。彼女の視線はまだアステリオスの方を向いたままだった。彼女の緑色の瞳には明らかに何かを言いたげな色が宿っていた。不平不満な態度を隠そうともしない。何かの拍子で、今にも爆発してしまいそうな火薬庫。触らぬ神に祟りなし。そう判断した俺は、これ以上彼女を刺激しないように、そっと会話の矛先をヒビキへと移した。
「ヒビキも不完全燃焼だったんじゃないか?」
「何故、そう思うのですか?」
「だって、お前は斬るのが大好きだろ? 今回も、結局ミノタウロスを斬れなかったじゃん。肩透かしを食らったって気分じゃないのか? まあ、ヒュドラのときもそうだったけど……」
そう言いながら、俺はヒビキの顔色を窺った。彼の目は相変わらず細められていて、何を考えているのか読み取りづらい。けれど、今の彼の瞳の奥には、ほんのわずかに揺れる感情の影が見えた気がした。ヒビキはふっと小さく息を吐き、肩の力を抜くようにしてこちらへ向き直った。
「失敬ですよ? まるでボクが何かを斬りたくてしかたがない、どうしようもない異常者みたいじゃないですか?」
「そうだろ、実際?」
「ハハ、バレてしまいましたか」
「すぐにバレるような嘘を吐くなよ。というか、今回ずっと乗り気じゃなかったよな? リーネのミノタウロスを捕獲するって意見にも賛成みたいだったし。変だろ、あのヒビキだぞ? いつもなら、ミノタウロスって聞いた瞬間、『じゃあ、首を落としに行ってきます』とか言って真っ先に突っ込んでいきそうじゃん。ヒビキって、口より先に手が出るタイプだろ?」
「ジン君が普段からボクをどういう目で見ているのかだけは分かりましたが……まあ、事実としてそうなので何も言い返せませんね。でも、今回は……ボクはミノタウロスを殺す気になれなかったんですよ。名を上げる絶好の機会だったのに、手放すなんて。あーあ、迷宮を出た後は美味しいものでも食べないとやっていけませんよ。ジン君、帰ったら一緒に蕎麦でもどうです? 温かいのを、つるっといきましょうよ」
「ご愁傷様、俺はうどん派なんだ。蕎麦は昔、爺ちゃんに連れて行かれすぎて嫌いになった。まあ、それはさておき、なんでだ? なんで今回に限って、そんなに乗り気じゃなかったんだよ? ヒュドラのときは、あんなにノリノリだったくせに。今回は、まるで最初から殺す気がゼロって感じだった。お前ならすぐにでも殺れたはずだろ? それは何でなんだ?」
俺が冗談半分、真面目さ半分でそう問いかけた瞬間、彼の顔から一気にいつもの軽さがすっと抜け落ちた気がした。彼は言葉を選ぶように黙り込み、視線を足元に落とした。珍しい。いつもの彼なら冗談に冗談を重ねて煙に巻こうとするはずだ。それなのに、今の彼は言葉を選んでいる。その事実が、妙に重たく感じられた。
「……あのですね、ジン君」
そして、ヒビキはゆっくりと口を開いた。まるで視線をゆっくりと持ち上げるように。声は穏やかで、焦らすような口調だが、どこか遠くを見つめるような不思議な響きを帯びていた。
「正直に言いますと、ボクは何かを斬ること好きです。特にデカい生物を斬るときは、言いようがないほどの快感を覚えるほどです。それは、否定しませし、できません。ですが、こんなボクにだって斬りたくないものの一つや二つぐらい、あるんですよ? さすがのボクでも……子供は斬りたくないですから」
ヒビキの視線の先にはまだ眠っているアステリオスの姿があった。酒に夢中になったシュテンによって、乱雑に寝かされた少年。死んだように眠る少年の穏やかな寝顔は、痛々しいほど静かだった。冗談のつもりだっただ。彼なら軽く流すと思っていた。だけど彼の中には、俺が思っていた以上に深い感情があったようだ。彼の綺麗な横顔には、懐かしむような、痛みに耐えるような影が差していた。
だが、そのとき。「……くっだらない」と低く、吐き捨てるような声が耳に届いた。ヘルガの声だ。いつもの鈴を転がすような声とは打って変わって、黒い感情を吐き捨てるかのようだった。近くにいた俺とヒビキは驚いた様子で、彼女の方へと振り返る。
ヘルガは自分の口を手で押さえていた。つい、漏れ出してしまったのだろう。だけど、ここは地下の狭い空間。近くにいた俺とヒビキには、彼女の声があまりにもはっきりと聞こえてしまった。誤魔化せない。そう悟ったのか、彼女はゆっくりと手を下ろし、アステリオスのことを……いや、俺のことを鋭く睨んでいた。
「アンタ、殺されかけたんでしょ? 子供だからって、文句の一つぐらいあるでしょ? 吐き出したって誰も責めないわ!」
「殺されかけたって……」
「違うの?」
「……いや、違くはないけど……」
「なら、我慢してないで文句の一つでも言いなさいよ! ムズムズするのよ。アンタがしっみたれた顔で、口を結んて黙ってると。いつも余計な一言しか言ってないんだからいいじゃない! こういうときだけ黙ってないで、はっきり言わないと。殺されかけてるんだから不満は言わないとダメじゃない! アンタにそんな暗い顔をさせたヤツが、何の償いもしないで、仲間になんてなれっこないわ!」
「…………」
ヘルガの真っ直ぐとした目から逃げるように、顔を背ける。俺は何も言わなかった。許せないことは確かにある。いくつもある。目を閉じれば、恨みはいくつも思い出せる。手の中にあった彼の血液を、その熱をしっかりと思い出せる。彼の声が、耳の奥で蘇る。
『…ぃ…ヴッ………だ、誰か……いる、のか? そこに、誰か……』『たす、からない……オレは……はぁ、はッ、もう助からない。……そ、そのぐらい、わかって、る。わかってるから……だから、最後に、話を聞いてくれ!』『オ……レは、オレは……名前は、ッ……クックと、いいます。そう、呼ばれている。……赤髭、ウルージ船長の船……はぁ、船の乗組員だ。家族は千引町に住んでいる。治安の悪い町で、はぁ、生まれたんだ……家族も、そこにい、ゴッ、ゴ……そこで暮らしている。……び、貧乏だった。とても、とても……貧乏だった』『はぁ……ッ、ありが、とう。……あり…ぐぁ、と、う……。元は、料理人として、あの船に乗った。だから、コック、をもじって。クックって、呼ばれてるんだ。……ダチから、がくれた……名なんだ。……家族に贅沢をさせたくて……贅沢を、させたくて……海賊に、なったんだ……やっと、海賊に……なったんだ!』『あ、あの……ミ、ミノタウロス……だ……ここは……はぁ、はぁ、ッ、ミノタウロスを閉じ込める、ための監獄だ。……人を喰ってるのは、迷宮じゃない。ミノタウロスなんだ……そうに、ちがいない』『……あったかい、あったけぇな……まだ傍に、いるのか……いてくれるのか? …………よかった…………それと、それ、と……できれば、できれば、オレの家族に、ダチに…………ありがとうと、そして、ごめんと、そう伝えてくれ、それだけで、いい…………頼んだ、ぞ……』
次に、俺たちのような新入りに前を歩かせていた彼らの姿を思い出す。でも、最後には身を挺してまで俺なんかを助けてくれた、彼らの最期を思い出す。俺は結局、彼らについて何にも知らなかったな。彼らの嫌な面、彼らの持つ一面しか見れていなかった。もっと関わりがあったら、違ったのかな。俺はそんなことを考えながら、突き飛ばされた衝撃と力任せに掴まれた手の痛みを思い出す。
『おーい、カツキ! 何やってんのか知らねぇけど。オマエもこっち来いよ! 何時までそんなガキどもと遊んでんだぁ?』『なら、余計にコッチに来いって。ジンってヤツも連れて来ればいい。ヤモリさんもオマエのことだけは気に入ってるんだ。それにこいつらと話すよりもオレたちと一緒の方がいいって。……当然、優先してくれるよな?』『逃げろ、逃げろ、逃げろ!』『十字路だ! 十字路まで走れ!』『ッ! 何やってんだ、坊主!』『行け!』 『振り返るなよ! 黙って、走れ!』
血に濡れた赤い瞳を。殺気を滲ませたその鋭い眼光を。あの四ツ目を。荒い鼻息を。雄々しい叫びを。左右に大きく湾曲した巨大な角を。人の背丈を優に超えるあの巨体を。黒く硬質な皮膚を。茶色い毛並みを。こちらへと振り下ろすために握られた、岩のような巨大な拳を――俺は、今もはっきりと思い出せる。
「……ッ!」
思わず、全身に力が入った。歯が食いしばるような音が、頭の中で軋むように響いた。呼吸は浅くなり、心臓が早鐘のように撃つ。喉の奥が焼けるように熱かった。自分でも驚いていた。ここまでミノタウロスのことを殺してしまいたいと心の底から思っていたなんて。恨んでいたなんて。自分はもっと優しいのだと、勘違いしていた。自分は殴られても、殴り返すなんてことはしないのだと。傷つけられても、許せるもののだと。そう勘違いしていた。いや、そういう人間でいたかっただけかもしれない。
「……殺されかけたんだ。そりゃ、当然。不満はあるよ」
そして、最後に……アステリオスの方を見た。少年のことをじっと見つめる。少年の寝顔は、いつ見ても穏やかで、人を殺したことなんてまったく知らないようだった。俺はその姿を前に耐えるように黙り込んだ。怒りと恐怖、哀しみとそしてまだ名前のつかない感情も、すべてが胸の奥に渦巻いていた。それらをひとつずつ確かめるように、俺はゆっくりと手を握る。力が入りすぎて、指先が真っ白に染まる。それでも、俺は飲み込んだ。ミノタウロスに対するすべての感情を静かに飲み込んだ。「でも――」と、俺は言葉を選びながらさらに続けた。
「もう飲み込んだ。だから、大丈夫だ。知ってるか? 現世ではな、不満は吐き出すものじゃなくて、飲み込むものなんだよ。だから、もう平気だよ」
それは、強がりだったかもしれない。でも、今の俺にできるせめてもの選択だった。誰かを責めるのではなく、自分の中で折り合いをつける。それが、俺なりのけじめであり処世術でもあった。俺一人が我慢すれば、すべてが上手くいくのだと、場が丸く収まるのだと、経験上知っている。しばらくの沈黙の後、ヘルガは小さく鼻を鳴らした。
「……何それ、つまらないわね」
彼女の声は怒っているようにも、拗ねているようにも聞こえた。彼女は俺から目を逸らすと、ふいっと顔を背け、不機嫌そうに足を鳴らした。まるで『もう知らない』と言っているように目が合うことはなかった。そして、何も言わずにくるりと踵を返すと、リーネたちのいる方へと歩いていった。
「あいつ、今日はやけに機嫌が悪そうだけど……寝不足なのか?」
「おやおや、ジン君も鈍い人ですね? それを、わざとやっているなら、なかなかの恋愛達者かもしれませんが……どうやら、そういうわけではなさそうですね? ひょっとしてジン君は、これまでにも乙女心が分かっていないとか、情緒がないとか、空気が読めないとか、そういうことで怒られた経験がありませんか?」
「……あるけど、関係ないだろ。というか、ヒビキに分かるのかよ? ヘルガが何に怒ってるのか……」
俺が眉をひそめると、ヒビキに肩をすくめ、意味ありげに目を細めた。何かを見抜いているのかもしれない。彼の表情は何も語らず、しかしすべてを知っているかのようだった。彼はそんな奇妙な視線のまま、俺ではなく、遠ざかっていくヘルガの姿をじっと観察していた。
「……自分を森から連れ出してくれたきっかけをくれた人物が、世界の広さを教えてくれたその人が、殺されそうになって腹を立てているのでは?」
「あー、確かにエルフって仲間想いってイメージがあるな。カーリとかホヴズとか見てれば、なんか……こういうのが絆ってヤツかって思う時があるし。そんな感じがする。ヘルガもそういうところ、ちゃんと受け継いでんだな。愛されて育った証拠だ」
「……悪癖でしょうか? 自己肯定感の低さは、そう簡単には治りませんよね」
「はぁ? お前、何を言って……って、もう興味なくなったみたいだし」
ヒビキは急に顎に手を当てて、小声でぼそぼそと呟きながら、くるりと向きを変えた。まるで会話が終わったことを告げるように、のんびりと、飄々とした態度のまますたすたとシュテンの方へと歩いて行く。どうやら、酒を貰いに行くつもりらしい。訳が分からなすぎて、俺がアセビみたいな口調になったし。いや、そっちの方が意味が分からないな。なんなんだ、こいつらは。どいつもこいつも勝手に動きやがって……こいつらの辞書には連帯行動って単語が載っていないのか?
俺は頭をかきながら、溜息を一つ吐いた。最近、溜息の数が増えている気がする。溜息を吐くと幸せが逃げるなんて迷信を聞いたことがあるが、それが本当なら今の俺はどれほど不幸なんだろう。そんなことを考えながら、身体を休めようとひんやりとした石の壁に背中を預けた。その瞬間――ふと、木製の扉が目に入った。
入口から見て右側、ヒビキとシュテンがいる樽のさらに奥。ボロボロの扉。そこには、ひっそりと人目を避けるように佇むボロボロの扉があった。どうして今の今まで気付かなかったのだろう。この狭い空間の中で、あれだけ目立つのに。だって、微かに光が漏れているのだから。
湿気を吸って歪んだ木材の隙間から、微かに光が漏れていた。まるで木漏れ日のようだ。蛍が放つ光のような淡い光。冷たい地下室の空気の中で、その光は、温かく感じられた。俺は、その光に魅入られてしまった。目を奪われた。視線を逸らせない。まるで何かに招かれているかのように、まるで何かに呼ばれるように、身体が勝手に動き出す。気づけば、足が勝手に動いていた。理屈ではなかった。本能が、あの扉の向こう側へと俺を導こうとしていた。
「……」
言葉を発さぬまま、俺はゆっくりと歩き出した。扉の向こうに何があるのか分からない。だけど、今はただ、俺はその光に引き寄せられるように足が止まらなかった。はしゃいでいるリーネたちを無視して、酒を試飲して感想を述べているヒビキたちを無視して、未だに眠った状態のアステリオスを無視して、俺は扉の前に立つ。
近づいてみると、扉は思っていた以上に古びていた。木材はひび割れ、蝶番が錆びていた。俺はそっとドアノブに手をかけ、ぐっと押してみるた。動かない。びくともしない。今度は試しに引いてみたが、びくともしない。まるで根を張ったかのように、扉は微動だにしなかった。
「なんだよ……開かないのか?」
俺がそう疑問に思った瞬間――突然、扉がこちら側に倒れてきた。錆びついた蝶番が悲鳴のような軋みを上げ、重たい木の板が床に叩きつけられる。バタン、と鈍い轟音を立てて、地下室全体をわずかに揺らした。背中にあいつらの視線を受ける。ひしひしと感じる。だが、俺はそんなことを気にしてはいられなかった。倒れた扉の向こう側から、さらに強くなった光が、俺の全身を照らしていた。遮る扉がなくなったことで、眩い光に目を潰された。
「……ぁ?」
俺は反射的に目を細め、腕で顔を庇う。眩い光が一気に溢れだし、牙を剥き、目の奥を焼くように照らしてきた。しばらくして、徐々に光に目が慣れてきた。眩しさの向こう側に、ぼんやりとした輪郭が浮かび上がってくる。ようやく部屋の中の光景が見えた。その先に広がっていたのは——部屋全体を埋め尽くすほどの魔光石だった。
壁に、天井に、床に――まるで苔のようにびっしりとこびりつき、それらが心臓が脈打つように、淡く緑色の光を放っていた。魔光石の光。それはまるで生きているように、呼吸をするように、ゆっくりと明滅を繰り返していた。だが、俺が本当に目を奪われたのは魔光石にではない。魔光石は、ここに来る前にエルフの里でも、古代ドワーフの遺跡でも見た。何度も見ている。だから、驚きはそれほどなかった。俺が驚いたのは――部屋の中央に鎮座するように一本の剣の方だった。
「これって……」
思わず息を呑んだ。自然と声が漏れていた。深紅の剣。炎が燃えているんじゃないかと錯覚するほど、刀身も柄も、すべてが深紅に染まっていた。炎が剣の形を保っているかのように、ゆらゆらと揺らめいて見える。見る者の心をざわつかせる禍々しさを孕んだ赤だった。その剣は、まるで座に就くかのような威厳を放っていた。石の台座に突き刺さった一本の剣が空気を塗り変えたのだ。剣がこの人喰い迷宮の主であり、すべての中心であると告げているかのような光景だった。
「……『魔剣』」
不意に背後から誰かの声が耳に届いた。俺の肩を追い越すように発せられたその言葉に目を見開く。脳が揺れた。海馬が刺激され、記憶の奥底に沈んでいた何かが強引に引き上げられるような感覚。『魔剣』という言葉が、脳内で何度も反響する。誰かが発した言葉の意味を正確に思い出すために脳が揺らされる。
人喰い迷宮の中にある『祭壇』の裏側。古代ドワーフたちの手によって造られた人喰い迷宮は、ミノタウロスという怪物を閉じ込めるだけに牢獄なのだと思っていた。彼らが、その生涯をかけて築き上げてきた技術の粋を狙う盗人たちを、ミノタウロスを、閉じ込めるために造られた監獄なのだと。だが、違った。それだけではなかった。この人喰い迷宮の地下深く。誰の目にも触れぬように、ただ一本の剣が隠されていた。まるで、長い眠りから目覚める瞬間をずっと待っていたかのように。その一本の剣は存在していた。
この一本の剣のためだけに、この人喰い迷宮が造られたんじゃないか――そんな考えが頭の奥で芽吹き、根を張り始める。それほどの凄味があった。興奮にも似た熱が、皮膚の内側からじわじわと広がっていく。身体が、心が昂ぶるのを感じる。だが、それと同時に、冷たい予感が背筋を這い上がってきた。龍の逆鱗を触れたような、虎の尾を踏んでしまったような、そんな感覚。理屈を通り越して本能が再び告げて来る。いや、忠告してくる。警鐘を鳴らしている。この剣は、火種だ。多くの問題を引き起こす、災厄の火種だ。
それが分かっていても、目を逸らすことが難しかった。剣の方がこちらを見ているような錯覚を覚える。刀身が放つ深紅の輝きは、美しく、迫力があり、そして恐ろしいほどに魅力的だった。まるで太陽に近づくかのような禁忌。その熱に焼かれると理解していても、なお惹かれてしまう。強欲に身を任せて手を伸ばしてしまえば、破滅を招く。まさに終わりの始まり。俺にはそれが、絶対に開けてはならないパンドラの箱のように感じられた。だが、箱の蓋はもうすでにわずかにだが開いていたのかもしれない。




