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第八十六話 『アステリオス』


 ――復讐するは我にあり。


 眩い光に身を包まれながら、私の頭にその言葉が浮かび上がってきた。この一節は、復讐は神の役割であり、人間は復讐などせずに神の怒りにすべてを任せるという意味である。つまり、罪を赦すも赦さないのもどちらも人間が手を下すべきところになく、すべては神の領域である。罪を赦すか否か、その裁きの権利は私たち人間には与えられていない。すべては神の御手に委ねられるべきである。


 彼女自身――の声を聞いていなかったら、戦争になど絶対に参加していなかったと今でもそう思っている。村を焼かれた怒りは確かにある。村の人たちと同じ涙を流した哀しみが確かにある。けれど、それでも報復のために剣を取ることを拒んできた。例え、相手から傷つけられようとも、報復などせずに穏やかに過ごすこと。感情に流されず、争いをさらに深くしないように。終わらせるために、耐えること。それが、彼女が両親から教えられた生き方だった。実際、――の声が聞こえた後も誤魔化すように何度も踏み止まった。


 聖書には確かにそのような教えがある。それなのに、人々が戦争など愚かな行為を繰り返すのだろう。その理由は、信仰ではない別の動機。現実。それが人々の信仰をすべて飲み込んでいく。権力、富、名誉、恐れ、誤解、それが複雑に絡め合い、あるいは単純にぶつかり合い、やがて戦争という悲劇が生まれてしまう。人は不完全で、過ちを犯す。感情や欲望に流されやすい弱い存在だ。それでも、信仰が語られ続けるのは……人が何度間違ったとしても、立ち返るための道標として信仰が必要だからだ。


 彼女が血に濡れた戦場の中であっても、あの狂気の坩堝に飲まれずにいられたのは、彼女の心に常に信仰があったから。どれほどの絶望に囲まれても、命の危機に瀕しようとも、彼女の目は曇らなかった。身に着けた白銀の鎧も相まって、彼女の姿は戦場に咲く一凛の花のようだと誰もが口々に言った。だって、彼女は迷わなかったから。迷わないとはそれだけで周囲の人々に力を与える。自信に満ちた声が、背中が、行動が、すべてが戦場にいる味方全員の道を照らしてくれる。


 清楚。清貧。清廉。清新。清明。清潔。清心。清浄。清純。潔白。潔癖。潔浄。澄浄。高貴。高潔。純粋。純朴。純白。純真。端正。端麗。端厳。端然。素直。素純。素心。高尚。高雅。凛然。凛冽。透徹。透亮。無私。無欲。無心。無垢。聖純。聖潔。聖明。聖女。乙女。


 そのどれもが、彼女の生き方を言い表すようだと戦場を共にした味方(とも)たちは口々にそう言ってくれた。彼らの言葉を聞くたびに、私の胸の奥は秘かに温かくなるのを感じていた。誇りだった。誇りに思っていた。彼らの隣に立てて、共に戦えたことが、何よりも誇りだった。


 生前の私がした行いが正しかったかどうか、間違えたのか。それを知る方法は私にはない。神様はもう何も答えてくれなかった。ただひとつ言えるのは……生前の私は自分が信じた道を、自分が知る方法で、自分なりの方法で、状況が許す限りのことをしただけだ。今と何も変わっていない。それが正しかったかどうかは、神が決めること。けれど、あのときの私は確かに全力で生きていた。ジン君にも話したように、後悔はない。火刑に処され、身を焼かれる壮絶な痛みを味わいながらも、あのときの私は何一つとして後悔はなかった。それだけは胸を張って言える。


 後悔が生まれたのは、死後。つまり、この世界に来てからしばらくしてのことだった。時間が経てば経つほど、思考を振り返れば振り返るほど、生前の私とはまるで別人のもののように遠ざかっていた。誇りだったはずの記憶が、少しづつ色を変え、おぼろげなものになっている。


 私が私ではなくなっていくような感覚。覚悟がゆっくりと解けていくのを感じる。むしろ、解けていくならまだ良かったかもしれない。本当に恐ろしいのは、忘れてしまうことだった。胸に刻んだ覚悟を、私を導いてくれた”あの声”を、戦場を共に駆けた味方(とも)の顔を、母の手料理の味を、頭を撫でてくれた父の大きな手を、教えを、信仰を、希望を、愛を、そして、かつての私自身が成そうとしたことを、少しずつ忘れていくのがとても恐ろしいのです。忘れたくないのに、忘れてしまう。忘れてはいけないのに、薄れていく。私がどれだけ必死に手を伸ばしても、大切なものだと思っていても、記憶という器からすり抜けてしまうばかりです。


 そして何よりも……何も変えられなかったくせに、幸せな日々を享受している自分自身が許せなかった。あの無力感(いたみ)を、あの背信を、忘れて、新たな仲間に囲まれて楽しそうに笑っている自分が、この世界で最も許せないことだったのです。私の信仰を、希望を、愛を、すべてを踏み躙ったこの世界の存在よりも、許せないのです。


 あのときの私は、生前の私の行いは正しかったのだろうか。セピア色に色褪せていく記憶をたどり、生前の自身の行いを振り返っていくうちに……こんな私にも一つだけ後悔が生まれたました。いえ、思い出したといった方が正しいかもしれませんね。ジン君の前では口にしませんでしたけど、実は一つだけ後悔があるんです。私には、罪と後悔が一つずつあるんです。


 ――私の罪は、神を疑ってしまったこと。


 ――そして、私の後悔は……父を、母を、家族を悲しませてしまったこと。


 私が『使命を果たすためにこの村を出なければなりません』と伝えた日のこと。必死な形相で止めてくれた母のことを今でも覚えている。心配そうな目で、強く反対した父を今でも思い出せる。私はそれでも意固地になって、家を飛び出すように村を出ていった。こっそりと、誰にも気づかれないように家を飛び出した。その後悔が、胸の奥で静かに疼き続けている。最後に交わした言葉すらも思い出せない私は、きっと親不孝者だったのでしょう。使命感に突き動かされて、家族に真意を告げないまま旅立った。必ず帰ると約束したのに、約束は守れなかった。守ろうとしたのに、守れなかった。そして、両親とはそれっきり顔も合わせることすらなく、私は命を落とした。例え、自身の選択が間違いであっても、それを正解に変える力がなかったから私は死んでしまった。最後まで、貫く力がなかったから……


 私は、贖罪をしなければらいけない。両親に嘘を吐いてしまった罪を。神を疑ってしまった罪を。裏切り者である私は、それらの罪を償わなければならないのです。業火の炎にこの身を焼かれてもなお、償いきれない私の罪を、それでも償おうとしなければならない。いつまでも救いを待つばかりの私ではいられない。


 贖罪とは、罰ではない。

 贖罪とは、罪を受け入れることではない。

 贖罪とは、自分自身と向き合うこと。

 贖罪とは、痛みを抱えて、なお歩くこと。

 贖罪とは、過去を抱えたまま、未来へと進む勇気のこと。

 贖罪とは、再生の旅である。


 だから、過去を否定するという自傷行為からは贖罪は始まらない。


 再生の旅とは、ここまで歩んできた自分を足跡をたどりながら、『ここまで来たんだ』と確かめるような途方もないほど長い行為の先にあるもの。人は決して完璧ではない。一人では生きていられない。人は不完全で、過ちを犯す。感情や欲望に流されやすい弱い存在だ。だから、必要なのは……間違いを認めること。過去の痛みを受け止めること。そして、もう一度やり直そうとすること。心の奥底から変わりたいと願うことでしか、もう一度誰かとつながりを求めることでしか、罪を償えない。


 君も、そうなのですか?

 

 君の声を聞いて、私と似たものを感じたのです。もう一度やり直したい、変わりたいという強い想いを胸の奥に抱えているのだと。あなたもまた、他者との繋がりを求めている者の一人だと。


 贖罪とは、繋ぎ直すこと。


 だから、だから……



 ――神よ、彼の者の罪をお赦しださい。




 ※ ※ ※ ※ ※ ※




 網膜を焼くような眩い光に全身を包まれたせいで、私たちは咄嗟に身を低く構えたまま動けずにいた。光はただ明るいだけではない。この光は、感覚を狂わせてくる。何も見えない。何も聞こえない。閉鎖空間特有の黴臭さや水臭さなども感じない。五感が奪われる。剥ぎ取られていく。肌を撫でるような柔らかな熱と肺を圧迫するような圧力が同時に押し寄せ、迷宮全体の空気が震えている。


 目を閉じているはずなのに、痛いと感じるほどの光が瞼を容易に貫通してくる。暗闇に逃げ込もうとしても、逃げ場はどこにもなかった。影すら残さないほどの勢いで、光は一瞬にして膨張した。あの感覚だ。人喰い迷宮のどこかに瞬間的に移動させられる――ワープ現象が起こる。


 視界は白一色に塗りつぶされて、上下の感覚すらも曖昧になってきた。誰かが金属を擦っているかのような耳鳴りが遠くで響いた。呼吸の仕方さえ忘れそうになるほどの光。私たちはただミノタウロスから発せられた光が収まるのを待つしかできなかった。それ以外にできることなど、何一つなかった。


 視界が真っ白に埋め尽くされた。


 視界が真っ白に埋め尽くされた。


 視界が真っ白に埋め尽くされた。


 視界が真っ白に埋め尽くされた。


 視界が真っ白に埋め尽くされた。


 視界が真っ白に埋め尽くされた。


 視界が真っ白に埋め尽くされた。


 視界が真っ白に埋め尽くされて――

 

 しかし、不思議なことは何も起こらなかった。


 何度も迷宮内のどこかにランダムで放り投げられてきたから感覚的に分かる。身体が覚えている。あの独特の浮遊感。地面がふっと消え、胃の中が裏返るような落下感。それらが、今回は訪れなかった。先程までの異変が嘘だったかのように、何も起こらなかった。それどころか――人喰い迷宮が悲鳴を上げていた。この迷宮の内部に流れていた魔力の奔流が、乱れ、軋み、止まり、そして、ぷつりと途切れた。まるで巨大な生き物の心臓が最後の鼓動を打ち、深く沈黙したかのようだった。この人喰い迷宮は、たった今、死んだのだ。


「……ッ」


 喉から漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。外部からの情報が徐々に知覚できるようになると、背後にいたはずの仲間たちの気配、衣擦れの音、そして声がする位置がどれも変わっていないことに気が付いた。だから私は、今回はワープ現象が起こらなかったのだとすぐに理解できた。イレギュラーだ。つまり、私たちの作戦が上手くいって、何かが変わったということだろうか。期待と不安が入り混じったようなざわめきが胸の内側で静かに広がっていく。


「アリア? あなた大丈夫なの?」


 ミノタウロスの近くにいたアリアの身を案じるように、私は袖で目を擦りながら、声を投げかけた。眩い光の残滓がまだ視界にちらつき、迷宮の輪郭が揺れて見える。白い残光が網膜を焼き尽くし、人間の視界を完全に奪っていった。ほとんど真っ暗だった。それでも、目を凝らして正面をじっと見つめる。やがて、揺らぐ光の向こう側にアリアの背中がじんわりと浮かび上がってきた。彼女がそこにいることを一先ず確かめることができた。そして、近くにミノタウロスの巨大な影はない。その事実が確認できたことで、私の中で張り詰めていた緊張の糸がわずかに緩んだことが自分でも分かった。


「どうやら無事みたいね。ミノタウロスの姿が跡形もなく消えてるし……迷宮のどこかにワープしたのかしら? もしかしてアリアの呪具が何か作用したのかと思ったけど――って、ちょっと待って。その子は?」


 アリアの背中で見えなかったが、近寄っていくと、彼女が何かを抱きかかえているのが分かった。それは、裸の少年だった。白銀の鎧に包まれた彼女の腕の中にすっぽりと収まっていた、まだ幼さが残る裸の少年の可愛らしい寝顔があまりにも、この凶悪な人喰い迷宮には場違い過ぎて、不釣り合いで、思考が一瞬止まりそうになった。


「ミノタウロスです」


「――え?」


 すると、アリアが私の意識を呼び止めるように声を投げてきた。彼女の声は震えていなかった。その断言するような答えが、迷宮の冷たい空気に落ちる。私は反射的に息を呑み、戸惑いの声を上げてしまった。彼女の腕の中で眠るように目を閉じている少年と、つい先ほどまで暴れ回っていた怪物の姿が、どうしても頭の中で結びつかないからだ。それでもアリアは、優しい視線を胸中の少年に落としたまま言葉を続けた。


「彼が……ミノタウロスです」


 状況を理解させようとする響きを持ったその一言に、迷宮の空気は摩訶不思議なモノへと変わっていく。気付けば、全員の視線がアリアの腕の中の少年へと吸い寄せられていた。私はアリアの呪具によって生み出された予想外の状況を前に呆然とこれからについて想いを馳せることしかできなかった。そのとき右腕に装着していた黄金の腕輪がキラリと光を放ったのが分かった。迷宮の薄暗い光が反射しただけなのか、それとも別の意味を持つ輝きなのかは分からない。ただ一つ確かなのは信じがたい現実が、じんわりと形を持ち始めているということだった。


 自分で蒔いた種が思いもよらない方向へと転がり、知らない芽を生やしたような感覚。未知の植物を前にしたときのような、興奮と驚きと不安が胸の中でゆっくりと混ざり合っていく。奇妙な方向へと転がり始めたサイコロがどんな未来を示すのか――その答えは、まだ彼女には分からなかった。





 ※ ※ ※ ※ ※  ※ ※ ※ ※ ※ ※





「この子が……ミノタウロス?」


 疑問が滲み出したような声音で、いつの間にか俺はそう呟いていた。俺がヒビキの肩を借りながらゆっくりとリーネたちの後を追い、すべてが終わっていた。ロバーツさんたちは怪我こそ負っていたが命に別状はなく無事だったし、あの光に飲まれたのにもかかわらずワープ現象が起こらなかった。それに加えて、ミノタウロスが子供の姿を変わったと説明された。もう頭は容量オーバーだった。端的に言えば、訳が分からない。


 俺はゆっくりと視線を下げて、全員から囲まれるようにアリアさんに凭れ掛かっている子供を観察する。褐色の肌をした少年だ。背丈は俺の三分の二ほどだろうか。栄養が不足しているみたいで、腕も足も小枝のように細く、力一杯に握り締めれば折れてしまいそうなほど華奢だ。肋骨が浮き出ている。汚れた灰色の髪の毛はボサボサで、不揃いに伸びた毛先が頬にかかっている。その灰色の髪の隙間から覗く寝顔は、驚くほど穏やかで、健やかで無防備だった。醜悪なミノタウロスの面影など微塵も感じられない。


 こんな小さな子供が、あのミノタウロスなのだろうか。つい先ほどまで俺たちを……俺のことを巨大な拳で叩き殺そうとした、あの怪物が目の前の少年だと説明されても理解が追い付かない。だけど、目の前の現実は否応なくそこにあった。今はヒビキがいつも着ている羽衣を上から布団のように上からかけられているが、その背中には小さな尻尾のような突起があった。さらに、灰色の髪の隙間からは角のようなものが生えているのが見える。そして、目の下――正確には、目と耳の間あたりの皮膚に、うっすらとして痕のようなものがある。一本の線のような跡だ。四ツ目のミノタウロスの名残が、そこには消えずに残っている。


 面影は、確かにある。あるにはあるかもしれないが……ミノタウロスと言われても納得できない。それだけで納得できるほど、俺の心は柔軟ではなかった。死の恐怖で縮こまった俺の心は、そんな冗談一つ受け入れることはできない。すると、そんな俺の混乱を断ち切るように、ハイレッディンさんが口を開いた。


「で、どうする? この子供(ガキ)の首を刎ねちまうか?」


 ハイレッディンさんの低く乾いた声が場を裂いた瞬間、空気が一段と重く沈んだ。というか、声のトーンが自然過ぎて、彼が何を言っているのか理解するのが遅れた。そして、理解するのと同時に寝ている子供の首を刎ねるイメージをしてしまって、ゾッとするような寒気が背筋に走った。ぎょっとした表情で思わず彼の方を見ると、彼は居心地が悪そうに顔を顰めていた。


「ハイレッディン、さすがに――」


「チっ。分かってんよ。だけどよ、しゃあねぇだろうが。またいつ『怪物(こいつ)』がミノタウロスになるか分かんねぇんだからよ!」


 空気を読めといいたげなシュテンの静止の声を振り切って、彼は容赦なく最悪の可能性を口にした。少年の寝息とは対照的に、彼の投げかけた問は現実的で、とても残酷な選択だった。しかし、避けては通れないものでもある。俺も心のどこかで薄々感じていた不安。アリアさんの『呪具』の影響で弱っているだけで、またいつ凶悪なミノタウロスの姿に変貌するのか分かったものじゃない。その理屈は分かる。分かるけど、子供の姿になったミノタウロスを殺せるかは別問題だ。なのに、平然と言ってのけるのは色々な意味でスゴイと思う。いや、スゴイというより怖い。


「それに、オレは副船長としても『こいつ』に殺されたうちの乗組員(ガキ)どもの仇を取らねぇとならねぇ。これはメンツの問題だ。身なりがずいぶんと小さくなっちまったが、それはそれでありがてぇことだ。……献花代わりに真っ赤な血の花を咲かせてやる。それで、あいつらもそれで多少なりとも報われるだろうよ」


 ハイレッディンさんが懐からおもむろに取り出した片手斧の刃が鈍色の光を反射させる。獲物の血を欲しているかのように怪しく光る。そして彼は、すべての感情が抜け落ちてしまったかのような冷たく、鋭く、温度のない表情でミノタウロスを――褐色の少年に向かって一歩前に踏み出した。その歩みを止めたのは、リーネだった。


「待ちなさい。せっかく『捕獲』したのにあなたに殺されたら意味がないじゃない。アリアの『呪具』で無力化できている以上、今の彼は脅威ではないわ。それに、ここまでして生け捕りにしたのは、ただの気まぐれじゃないのよ。だから、このまま連れて帰らせてもらうわ」


「……連れて帰るって。何を花畑みたいなことを言ってんだ? いつ、そいつがミノタウロスに戻るのかも分かんねぇんだぞ? ここで、確実に仕留めた方がいいだろ?」


 リーネとハイレッディンさんの視線がぶつかり合う。火中の栗である少年は、そんな空気など知らないと言わんばかりに静かに胸を上下させて安らかに眠っている。ハイレッディンさんには、少年の寝息すらも気に食わないようで斧を握る手に力を込めて、殺意が込められた鋭い目でリーネのことを見る。


「あなたの言い分は理解しているわ。でも、だからといっても今すぐ殺すという選択肢が最善だとは限らないでしょう? 私は当初の目的通り『彼』のことを古代ドワーフの遺跡の遺物として黄泉の国に連れて帰るつもりよ」


「……連れて帰るって、船でか?」


 ハイレッディンさんの肩がわずかに震えている。歯を音を立てながら食いしばっている。その怒気は眼前の少年ではなく、もっと別の……彼が奪った仲間たちの命への、仲間たちへの悔しさに向けられているように思えた。怒りに耐えるように彼は鼻息を荒くしながら冷静に言葉を続ける。


「船の上で、そこの子供(ガキ)がミノタウロスになっちまったらどうするんだよ? 一緒に仲良く海の藻屑になる気か? それに、これは陸地でも同じことだ。黄泉の国で、街中で、こいつがミノタウロスになったらどうするんだ? この迷宮でうちの乗組員(ぶか)どもにしたように大暴れすんのか? あっという間に、死体の山ができあがちっまうだろうな。大丈夫なんて軽く言うが……お前が寝てる間に、飯を食ってる間に、クソをしている間に、こいつが本性を剥き出しにして暴れ始めるかもしれねぇんだぞ? こいつがもし街中で暴走したら死人が山ほど出る……そんな爆弾を船に積む気か? だから、ドワーフどもは人喰い迷宮にこいつは閉じ込めたんじゃねぇのか。その辺を、お前はどう考えてんだ?」


 ハイレッディンさんの声は荒いが、そこには筋の通ったものが確かにあった。怒りを心の奥底に潜めたまま、冷静に、刃物のように鋭く彼女に言い返す。俺は正直、彼の言い分に頷きたくなった。正しいと思う。子供を殺すのは人間としてどうかとは思うけど、それがあのミノタウロスの中身だと言われたら話は別だ。隣人があんな化け物だって知っていて生活なんてできない。怖い。だけど――


「彼が目を覚ました後のことは、すべて私たちが責任を取るわ」


 リーネはハイレッディンさんに向かって、強く宣言するようにそう言い放った。


「様子を見るために、彼には一年間、海上で生活してもらうつもりよ。もちろん、うちの海賊船でね。これで万が一被害が出ても私の船一隻で済むわ。あれだけの重量を持つ生物が、海を泳いで逃げれるとは到底思えないもの。私に首を絞められて、苦しんでいたということは酸素は必要ってことでしょう? それに、海の上なら周囲に一般人はいないわ。ミノタウロスになったとしても溺れて死ぬだけよ。被害は最小限に抑えられるわ。そして一年間、ミノタウロスにならなかったら……あるいは、彼が自分の意志でミノタウロスになれるのなら、そのときようやく陸地に上げるわ。街を歩くときも、私かヒビキが彼の付き添う。何かあっても即座に対処できるようにね。生活は安全のために、私の屋敷の地下室で暮らしてもらうことになるでしょうけど……これだと、ヒビキにも負担がかかってしまうわね」


 リーネはそこで小さく息をつき、ヒビキの表情を伺うように覗き見る。


「……ボクは構いませんよ。船長の命令なら」


「そう、ありがとね。私の言うことは甘いかもしれないし、ヘンリーに色々と工面してもらわないと実現は厳しいかもしれないけど……でも、それでも恐怖のまま無闇に殺すよりは、よほど建設的だと思わない?」


「――ああッ、そうだな。ヘンリーのヤツは脳味噌まで商人だからな。損得感情でしか物事を見れねぇ。殺された仲間を想っても、得が勝るなら笑顔でこの怪物(ガキ)とも接せられるだろうよ。魔素研だったか? あの傍迷惑な馬鹿どもも欲しがるだろうなー。だがよ、こいつは人を食い殺した化け物なんだぞ? そんな根性のねぇヤツを連れ帰ってどうすんだよ!」


「それは違うわよ、ハイレッディン。彼は一度も人は食べてないもの」


「……はぁ?」


 ハイレッディンさんはリーネの言葉を受けると、予想外の角度からぶん殴られたように顔を歪めた。怒りが一瞬だけ引っ込み、代わりに理解不能という文字がその瞳に浮かぶ。俺も何を言っているかすぐには分からなかった。きっと今も、彼と同じように間抜けに固まった表情をしているに違いない。


「思い返してみなさいよ。ミノタウロスは散々、私たちに向かって拳を振るってきたけど……そもそも人間を食べてるなら、迷宮内に死体が残ってるわけがないじゃない」


 リーネは少し得意げに胸を張ってそう言った。ハイレッディンさんの赤い眉がぴくりと動き、怒りの炎が一瞬だけ揺らぐ。盲点だった。確かに、ミノタウロスが人を食っているなら迷宮に死体が残っているのはおかしい。それに、俺たちのことを襲ってきたときはミノタウロスは虫を潰すように拳を振り下ろしていた。捕まえるでもなく、容赦なく叩き潰してきたのだ。俺は恐怖に囚われて、当たり前のことを見落としていたのかもしれない。いや、待て。だが、それでも――彼が、ミノタウロスが人の命を奪ったという事実は変わらない。そのことに気付いていた彼は怒りに任せて言葉の刃を振るった。


「おい、だからって! 何の関係もねぇじゃねぇか! いや、そうか。お前のところはまだ誰も死んでねぇみたいだからな。殺されたヤツらのことを軽く見てるからそんなことを――」


「……あなたの仲間が殺されたことを軽くみているわけじゃないわよ」


「なら、どうしてそんな戯けたことが言えるんだ! 人を喰わねぇからって、人を襲わねぇわけじゃねぇだろ! むしろ、喰わないのならコイツがしたことは目的のねぇ殺人だっ! 人を襲わない保障なんてどこにもねぇ。もしお前の言う通りにコイツを連れ帰って人を襲ったらどうする? 次に人を襲ったら、てめぇはどう責任を取るつもりだぁ!」


 ハイレッディンさんの拳は震え、斧を握る手は白くなるほど力が入っていた。しかし、リーネは一歩も退かずに彼の怒りを真っ正面から受け止める。火花を散らすような睨み合いの末、彼女は「そうね、なら……」とゆっくりと少年の方へと視線を向けながら、小さく呟くように言葉を続ける。そして、そして――


「なら、彼が次に『ミノタウロス』として、目的もなく人を殺めたら……そのときは私が船長を辞めて責任を取るっていうのはどうかしら?」


 迷宮を裂くように落とされた爆弾発言によって、場の空気が凍りついた。誰も、まさか彼女の口からそんな言葉が出て来るとは思わなかったからだ。予想外だった。いや、予想外どころではない。心のどこかであり得ないとすら思っていた。だって、彼女が船長を止めるなんて……冗談でも言うはずがない。言うわけがない。だから、夢にも思わなかった発言が彼女の口から出て、いつものらりくらりとした態度のヒビキですら目を丸くしている。真っ正面にいるハイレッディンさんなんかは鳩が豆鉄砲を食ったような表情で固まったままだ。それほどの衝撃だった。


「船に乗せる。乗組員になる。つまり、彼を正式な仲間にするってことよね。ただでさえ、すべての責任を取るって大口を叩いちゃったんだもの。最低でも船長を辞めるぐらいの覚悟を見せないとね。重みがないでしょう? あ、私が船長を降りたら、私の後を継ぐ物好きはいないと思うから……だから、そのときはヘンリーに頼んで、私の商売相手をすべてハイレッディン、あなたの船……ウルージに回してもらうから。ちゃんと利はあるわよ?」


「……いや、待て、待て、待て、待てッ!」


 リーネは軽く肩を竦めながらそんなことを言ってきた。冗談交じりの口調なのに、言葉の芯が鋼のように固い。目がガチだ。ハイレッディンさんが慌てて声を上げるぐらいにはガチだった。彼女が本気で言っていると理解して、目に見えるほど動揺している。


「それとも彼が死んだら、私も命を――」


「リーネル!」


 シュテンが鋭い声で彼女のセリフを遮った。彼の低く掠れた声には、明確な怒りと焦燥が滲んでいた。真剣だ。真剣だった。琥珀色の瞳が鋭く光、それが彼の真剣さを物語っている。初めて見る彼の目に、思わず身体が恐怖で跳ね上がる。自分に向けられているわけではないと分かっていてもだ。リーネも彼に言われて、我に返ったようだ。小さく息を吐き、肩を落とした。


「……それはダメみたいね。ごめんなさい、シュテン。だけど、私一人が船長を辞めるだけで、奪われた命に釣り合いが取るなんて思えないし。でも、ハイレッディンを納得させるぐらいの覚悟を、あなたの言葉を借りるなら根性を見せないといけないか。だからこそ、一番大事なものを差し出すことしかできないわ。これが、私のやり方よ。それで……どう?」


「どうって……何でそこまで言い切れるんだ? どうしてそこまでこの怪物(ガキ)のことを、ミノタウロスを信じられる?」


 ハイレッディンさんの問いには、もはや怒りの感情などなかった。怒りの熱は既に冷め、代わりに残ったのは、彼女が何故そこまで少年を庇うのか、その理由が理解できないという戸惑いが強く出ている。リーネは彼の問いに、ふっと穏やかで温かな笑みを浮かべて少年の方へと視線に向ける。いや、その笑みは少年に向けられたものではなく、別の誰かに……アリアさんに向けられたものだった。


「この子のことを信じてるんじゃないわ。私は、アリアのことを信じてるのよ」


 リーネはアリアさんに視線を向けたまま、そっと問いかける。いや、問いかけというよりも確認だった。彼女の一言はとても優しくて、逆に彼女の心の奥底にある決意の重さを感じさせる。場の空気が、皆の視線が、自然とアリアさんへと集まっていく。


「アリア、その子は大丈夫なのよね?」


「……はい。大丈夫だと思います。私の『呪具』は魔力を吸い上げ、常に一定の効果を発揮しています。だからこれを身に着けている限り、彼はもう『ミノタウロス』にはなれません」


 アリアさん声はいつもよりも少しだけ強く、確かな芯のあるものだった。彼女は眠っている少年の灰色の髪に手を伸ばす。小さな角を避けるように、指先で優しく撫でる。少年の細い首に巻かれた銀製のロザリオが、迷宮の闇を照らす温かな光を反射して静かに存在を主張している。その様子を見たハイレッディンさんは、苛立ちを隠す気もなく、真っ赤に染めた髪を掻き毟った。彼の仕草には怒りというよりも、理解できない二人への苛立ちが積もり積もって態度に溢れ出してしまったようだった。


「……分かってんのか? お前は今、てめぇの勝手で乗組員(なかま)の命を無駄な危険に晒してるんだぞ? 少なくとも兄貴ならこんな判断は下さねぇ。今のお前は、その判断は……船長、失格なんじゃねぇのかぁ?」


「……そうね」


 リーネは静かに目を伏せた。それほどハイレッディンさんが躊躇うように放った言葉は鋭く、深く、彼女の胸を貫いたようだ。頭では分かっていたとは思うが、実際に言葉にされて彼女はショックを受けたようだった。想像以上に堪えている。それでも、彼女はすぐに立ち直った。強がるように、だけど確かに顔を上げた。それを見たハイレッディンさんが忌々し気に顔を逸らす。そして、ロバーツさんへとその矛先を向けた。


 ロバーツさんは、ミノタウロスとの戦闘でボロボロになった上半身を外気に晒したまま、石壁に凭れ掛かっていた。痛ましい。全身を赤く彩る血のせいで、今にも倒れそうな状態だった。しかし、当の本人は眼帯が蒸れてしまったのか、さっきから何度も位置を気にしている。ミノタウロスとの戦闘を、死線をくぐり抜けたとは思えないほど、彼はにあっけらかんとしていた。彼の態度がさらにハイレッディンさんの神経を逆撫でしたのだろう。彼の眉間には深い皺が刻まれて、さらに不満を募らせているのが見て取れた。


「おいっ、ロバーツ。お前はどうする? お前のところの部下(ガキ)も殺られてんじゃねぇのか? それでも……怪物(こいつ)を赦すのかよ?」


「まあ、赦すことはできねぇけどな……罪を憎んで人を憎まずってやつかもな。人を殺した罪を帳消しになんてする気はねぇし、それをしたら死んだヤツらも浮かばれねぇ。でもよ、もともと古代ドワーフの遺跡なんて、死ぬ覚悟で足を踏み入れるような場所だ。誰に文句を言えるような場所でもねぇし、稼げる代わりに何が起きても自己責任ってのがこういう仕事の常識だろ? それに、見方を変えれば……オレたちがこいつの迷宮(いえ)に忍び込んだ不法侵入者で、あっちが家主だ。こっちが土足で上がり込み、勝手に騒いで、勝手にやられた。法的には、正当防衛ってやつかもな。ある意味じゃあ……被害者はこっちじゃなくて、あっちかもしれねぇな。まあ世の中、白と黒だけじゃあ割り切れねぇこともたくさんあるってこったな」


 ハイレッディンさんの問いにロバーツさんは少しだけ目を細めてから、口元に苦笑を浮かべた。どこか達観したような笑みだ。だからハイレッディンさんも興味をそそられたのだろう。獣の姿から人間の姿に戻ったばかりで喋りにくいのか、顎の骨をゴキゴキと鳴らしているロバーツさんに向けてさらに質問を投げかける。


「……お前ら、やけにこいつの肩を持つな?」


「そうか? まあでもよ、単純に……こんなガキを殺すのは、目覚めが悪りぃよ。ガキは未来なんだからな。未来ってのは、大切にしなきゃならねぇんだ。オマエもウルージもよく知ってるだろ?」


 ロバーツさんは『そうだろ?』と同意を求めるように角張った顎をしゃくった。ハイレッディンさんは、目を細め、しばし沈黙した後「嫌なことを思い出した」と舌打ちをし、髭を整えるように指先を軽く滑らせる。それは彼の手癖のように見えたが、頭に浮かぶ郷愁を無理やり振り払うみたいだと俺は思った。


「……安全だと思うか?」


「ァ? それはさすがのオレも保証できねぇよ。けど、こいつの臭いはミノタウロスとは似ても似つかねぇ。こいつからは血の臭いがしない。見た目通り、ただの子供(ガキ)だ。これも全部、野生の勘だけどな」


「……そうかよぉ」


 ロバーツさんは黙り込んだ。そして、激しい怒りを露わにしていたのが嘘だったかのように低く、疲れたような小さな声で呟いた。すべてが演技だったんじゃないかと思うほど、もうそこには先ほどまでの彼の姿はなかった。ハイレッディンさんは太い首の骨を一度鳴らす。そして、ゆっくりと背中を向けた。薄暗い迷宮の奥へと歩き去ろうとしてた。どうやら一人で、迷宮の出口を目指すつもりのようだ。


「……見逃してくれるの?」


「勘違いすんなよ。俺は、そいつのガキがしたことを一生赦すことはない。ただな……もうメンドクセサくなっちまった。このままこの怪物(ガキ)を殺しても、死んだ奴らが生き返るわけじゃねぇからな。なら利用した方が……だから、あとはヘンリーのバカに任せる。俺はバカだからな。アイツは口が上手いし、こういう面倒なことをまとめるのが得意だ。だったら、頭を使うことが苦手な俺が頑張るよりも、得意なヤツに任せた方が、マシなはずだ」


「ありがとう、ハイレッディン。あ、それと……」


「――チッ、分かってるよ。言われなくたってな。厚かましいにも程があるが……この怪物(ガキ)の件は秘密にしておけってこったろ? どうせ混乱の元だからな! あんなもんが人間の面して歩いているだなんて知られたら、血迷ったヤツがでてきてもおかしくねぇ。ただよ、俺だって見たことを見なかったことにはできねぇ性分なんだ。だから、兄貴にだけは伝えさせてもらうぞ。この件を揉み消させねぇためにも、俺が見たすべてを兄貴からヘンリーに手紙で伝えてもらう。アイツは根性がねぇが筋は通す。俺は根性がねぇヤツは嫌いだが、筋を通す奴は嫌いじゃねぇ。だから、お前もそれでいいなッ!」


「ええ、分かったわ。もし、ウルージ以外に『あの子供は誰だ?』と聞かれたら、近くを通りかかった商人の子供が悪戯心でこの人喰い迷宮に足を踏み入れていたと答えてちょうだい。私たちが無関係な子供を偶然見つけて保護したと。さすがに怪しいかもしれないけど、口裏は合わせた方がいいでしょう? このことは今、私だけしか知らないんだから」


「……」


 ハイレッディンさんはもう何も言わず、不愉快そうに鼻を鳴らした。足を止めずにリーネの問いにすべて答えた彼は、もう振り返ることなく歩き始めた。黒いマントを翻す。壁に手を突きながら、ゆっくりと迷宮を進んでいく。そのとき、彼の背中に滲む血の跡が目に入った。流血はしていないみたいだが、逞しい広背筋の一部が青黒く腫れあがっていた。打撲。どうやら戦闘中に背中を打たれていたらしい。痛むのか、無意識にその部分を押さえながら歩いていた。


 彼の全身からどこか投げやりな疲労感がうかがえる。突然、ガクリと膝を折りそうなほど今の彼は不安定だ。それを横目で見ていたロバーツさんが、ゆっくりと冷たい石壁から身体を離し、立ち上がった。


「外から流れ込んでくる空気の臭いと迷宮で迷ってヤツの臭いが分かるオレがいねぇと。この後の、救出作業は難航するだろ? それに、他所の(いえ)の話に首を突っ込むのはダセェからな。部外者はとっとと消えるとしようぜ。……ほら、ボーっとしてねぇでいくぞ。アセビ」


「ちょっ、髪触んなし! うちはヒビキともっと一緒に居たいしッ!」


 ロバーツさんの大きな手に小さな頭を掴まれたアセビは、ギャアギャアと文句は垂れつつも、本気で抵抗する様子はなかった。むしろ、彼女は進んでロバーツさんの大きな背中に手を回し、まるで杖のように怪我をしている彼の歩みを支えていた。彼も心を許しているようで、小さな少女に身を預けている。武骨な彼が少女の小さな手に支えられて歩く姿は、どこか不思議な温かさを帯びていた。


 ツンデレ鬼娘——という言葉が自然と頭に浮かんできたが、それを口に出すと絶対に後でめんどくさいことになると過去の経験から学習した俺は二人の姿を黙って見送った。ハイレッディンさんの後を追うように、二人も迷宮の奥へと姿を消した。コツ、コツ、と足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。


「……フゥー、久しぶりに緊張したわ。今の交渉に点数をつけるなら、四十点ってところかしら? シュテンはどう思う?」


「ああ、そうだな。エドワードがいたら『ガキの我儘』と言うだろうし、ヘンリーのヤツがいたら『二流の商人の交渉』と言うだろうな。ちなみに、オレなら『大馬鹿野郎』と言っていたぜぇ? まあ、交渉じゃなくて、おねだりなら百点だったかもなぁ?」


「あら、今日はいつもよりも意地悪なことを言うのね。……ひょっとして、まだ怒ってる?」


「たりめぇだぁ! 二度と自分の命を粗末にするようなことを言うんじゃねぇ!」


 シュテンはリーネに一歩詰め寄ると、太い指をグリグリと彼女の額に押し付けた。彼なりの不器用な愛情表現みたいだ。だが、彼女はもう説教を聞きたくないのか、両手で耳を物理的に押さえて必死に抵抗している。


「分かってるわよ、分かってるってば! もう二度と言わないから、止めてよ。跡が残っちゃうじゃない!」


 リーネはシュテンから距離を取ると額を押さえながら、むくれたようにそう言った。すると――


「……いいのでしょうか?」


 アリアさんの声は小さかったが、確かに届いた。静かに俯きいていたアリアさんは、眠る少年の顔を見つめていた。それは誰かに答えを求めるというより、自分自身に問いかけているようだった。リーネは彼女の声を聞くと、肩を竦めて、少しだけ笑ってみせた。


「さぁ? でも、私もそっちの方がいいって思っちゃったから、決して勝算の高くない賭けに乗ったのよ。結果、上手くいったからよかったじゃない。終わり良ければ総て良しっていうしね。それとも、全部なかったことにする? ハイレッディンの言う通りにすれば、まだ間に合うかもしれないわよ? 今からでもその子を――」


「それは、嫌です」


 アリアさんの声は、先程よりもはっきりとしていた。揺るぎがない。その一言には明確で、端的で、揺るぎがない意志が込められていた。彼女はまるで我が子を守る母親のようにぎゅっと意識がない少年の身体を抱き寄せた。だけど、表情は違う。彼女の表情は戸惑っていた。自分でも何をしているのか分かっていないみたいだ。行動と表情がちぐはぐだった。乖離している。


 リーネはそんな彼女の内なる戸惑いを察すると同時に、ふっと微笑み、彼女の細い方にそっと手を置いた。見つめ合う。彼女の手はまるで魔法のように温かく、警戒したアリアさんの心を一瞬のうちに絆してしまった。


「なら、それがあなたの心が導き出した答えでしょう? いいじゃない、偶には我儘を言ったって。何度でも言うけど、私はアリアの我儘を聞きたいし、弱音を吐いている姿を見たいわよ。私は強くあろうとするアリアも好きだけど、全部我慢する必要なんてないんだから。私たちが何のために一緒にいると思ってるの? あなたが私のために無茶をして抱え込むように、私はあなたのためなら喜んで無茶するし、乗っかるわ!」


 そう言うと、リーネはぎゅっとアリアさんの身体を抱きしめた。数秒、数十秒……もう何秒経ったかは分からない。だけど、今の二人にとっては必要なものだったのだろう。アリアさんは普段の彼女はしない行動に驚いたのか目を見開いたが、すぐにリーネの腕の中に身を委ねた。しばらくの間、二人はお互いの鼓動が伝わるほどの距離で、言葉では届かない想いを確かめ合うように、しっかりと抱きしめ合っていた。やがて、そっと二人は離れた。


「……」

「……」


 無言の時間が続く。さっきまで熱く抱擁を交わしていた二人が嘘かのように距離を置いていた。気まずくなったのか、照れてしまったのかは分からないが、二人は視線を迷宮のどこかへと彷徨わせたまま、なかなか目を合わせようとしない。すると、どこからか――パン、と手を打つ音が響いた。その鋭い音に、皆の視線が自然と集まる。そして、どこか楽し気な声が、空気を柔らかく揺らした。


「さてと――では、そろそろ一番大切なことを話し合いましょうか?」


「大切なこと、ですか?」


 その声の主はヒビキだった。彼はいつものように胡散臭い笑みを湛えながら、皆を見渡して、焦らすように回りくどい言い回しで言葉を続ける。彼の問いかけに応じたのは、いつの間にかユキの姿から戻っていたレインちゃんだった。彼女は、小さく首を傾げながら問い返す。それを『待ってました』と言いたげな表情で、ヒビキはにやりと笑い、まるで舞台の主役のように、ひときわ大げさな仕草で一歩前に出た。


「はい。今のボクたちと彼に最も必要なこと、それは名前です。いつまでのこの子だの、少年だのと呼ぶのは味気ないでしょう? ボクたちで彼に名前をつけてあげましょう!」


「はァ? 名前? アナタ、こんなときに何言ってんのよ!」


 ようやく口を開いたヘルガは、不満を隠すことなく、軽いノリで話すヒビキに噛み付いた。腕を組み、眉をひそめながら、ヒビキの言葉に真っ向から反論する。だが、ヒビキはまったく動じる様子もなく、肩を高く張って笑った。


「こんなときだからこそ、ですよ。彼がボクらの仲間になるのなら、名前が必要でしょう? 一番良いのは、名前を知れればいいのですが……まさか『ミノタウロス』と呼ぶわけにはいかないでしょう? 名前って言うのはただの呼び方ではなく。その人を『何者か』として定義し、認めるための大切な印です。ですが、ボクたちはこの少年の名前を知りません。ならば、彼が目を覚ますまでの束の間でもいいですから、こちらで勝手に呼び名を決めてしまいましょう。だって、彼はこれからボクたちの仲間になるんですから」


「いいじゃない! なら、皆で彼の名前を考えましょうか!」


 リーネの明るい一声で、誰もがアリアさんの腕の中で眠る少年に視線を向けた。何も語らない、声も聞いたことがない、けれど確かにここにいる。そんな少年の名前を考えるだなんて難易度が高い。無駄に高い。それに正直、まだ不満はある。許せないこともある。だけど、ヒビキの言うように少年を名前で呼ぶことが彼を迎え入れる第一歩なのかもしれない。だから俺は、静かに不満を飲み込んだ。不満を飲み込んで、流れる雰囲気(くうき)に身を任せる。


「では、言い出しっぺのボクから。牛若丸という名はいかがですか?」


 ヒビキが得意げな顔をして、胸を張って提案した名前は、彼の隣にちょこんとした様子で立っているレインちゃんによって否定された。彼女は控えめに、けれどはっきりと指摘する。


「……いいとは思いますけど、牛って単語がつかない方がいいんじゃないですか? ほら、ミノタウロスを想像しやすいですし。念には念を入れて」


「……そうですね」


 顎に手を当てて、少しだけ真面目な顔になる。その表情にはほんのわずかに反省の色が浮かんでいた。いつもは反省の素振りすら見せないくせに、こんなときに限って素直に引き下がるのは何なんだよ。すると、どすん。と鈍い音を立てて石畳の上に腰を下ろしたシュテンがヒビキに続くように、彼はぼそりとした声で口を開いた。


「牛、ウシ……カウ……カウボーイとかどうだ?」


「親父ギャグかよ。というか、牛から離れろって」


 思わずツッコミを入れてしまった。それが気に障ったようだ。シュテンは肩を竦めながら、こちらをじっと見上げてくる。


「……なんだよ、否定するならお前が代わりにこいつの名前を考えてみせろよぉ? 文句を言うなら代案を出せよ、代案を」


「ぇ……ミ、ミルクとか?」


 自分でも言ってから後悔した。その場にいた全員が、微妙な表情でこちらを見ているのが分かった。沈黙が突き刺さる。痛い。その空気を破ったのは、不満そうな顔をしているシュテンのぼそっとした一言だった。シュテンがぼそっと呟くように放たれた言葉の刃に、すかさずヒビキが反応する。


「なぁ、オレとジン。どっちが酷いと思う?」

 

「うーん、五十歩百歩、団栗の背比べ、目糞鼻糞を笑う……他には腐れ柿が熟れ柿を笑うなんて表現もありますよね?」


「つまり、どっちも微妙ということね」


 リーネがくすっとした笑い声を最後に、皆で黙り込み、思案の海へと沈んでいく。恥をかきたくないのか、真剣に考えているのか、誰も口を開こうとしない。近くから唸るような声が聞こえてきたが、無視して考える仕草だけをする。というか、俺が頑張って考えたんだから次は他の誰かが発表してくれ。そんな気持ちのまま考える素振りだけを続けていると。そのとき「ぁ!」と小さな声が耳に届いた。


 リーネの声だ。振り返ると、リーネが何かを思いついたように……いや、何かを見つけたように目を輝かせていた。彼女の視線は彼女がいつの間にか身に着けていた黄金の腕輪に注がれている。リーネはそっと腕輪に触れ、指先でなぞるように何度も撫でる。そこに刻まれた何かを確かめるように。彼女は一頻り腕輪の裏側を触り終えると同時に、ふいに彼女の唇を動いた。


「――アステリオス」


 迷宮の空気に溶けるような小声だったが、彼女の声は全員の耳に確かに届いた。まるで眠りの中にいる少年の魂に、そっと優しく触れるように。彼女が口にした名前は何故か異様なまでにしっくりときた。


「アステリオス、アステリオスですか。いいですね。どこかで聞いたことがありますが……どこででしたっけ?」


「……知るかよ。ちなみに由来とかあるのか?」


 ヒビキが褒めて、シュテンが尋ねる。レインちゃんは感心したように目を細めているし。アリアさんは満足そうにうなずいていた。ヘルガのやつは何だかちょっとだけ不満そうだ。いや、そもそもあまり興味がなさそうだった。俺はというと、自分が今どんな顔をしているのか分からなかった。鏡でもあったら楽に確認できるんだけど……たぶん、微妙な顔をしているんだろうな。そんな中でリーネは豊かな胸を張り、自信満々にシュテンの問いに答えた。


「ないわッ! だって、ここに書いてあるのを読み上げただけだもの!」


「……自慢気に言うことなの、それ?」


 自信満々なリーネを前にして、隣に立っていたヘルガが呆れたようにツッコミを入れる。リーネらしい、飾らない正直さが、ふっと場の空気を和ました。俺も自然と笑みを浮かべ、肩の力を抜いていた。まだ迷宮の中にいるのに、皆といたら緊張感が生まれない。迷宮に入る前、やっぱり心のどこかで皆が死んだんじゃないかって不安だったんだな。死ぬわけがないと分かっていても、あの空気が、沈黙が、怖かった。でも今、こうして皆が笑ってる。その事実を前にして、胸の奥に張り付いていた不安が少しだけ溶けたのを感じた。


「……アステリオス」


 アリアさんがぽつりと呟いたその名は、もうすでに馴染み始めていた。ずっと昔からそう呼ばれていたかのように違和感がなかった。もしかしたら、この出会いは運命だったのかもしれない。そう思わないとやっていけない。でも、そう思えるだけの何かがここにはあった。


 まあ、何はともあれ、迷宮を彷徨う牛の怪物――『ミノタウロス』こと『アステリオス』が仲間に加わった。怪物としての名を捨て、新たな名を与えられ、少年はリーネの手によって新たな仲間として迎え入れられた。


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