第八十五話 『星に触れる』
「……なるほどね」
リーネはアリアさんの話を聞き終わると、ふっと吐きながらそう呟いた。彼女の表情には驚きと納得、そしてほんの少しの寂しさが混じっていた。
「つまり、私たちがミノタウロスを拘束している間にアリアがロザリオを――『呪具』を押し当てることで、ミノタウロスを無力化できるかもしれないってことね」
「……はい」
アリアさんは小さく頷いた。その返事は控えめではなったが、確かな決意を感じさせるものだった。迷いから脱し、覚悟を決めた者だけが纏うことができる、静かな強さが彼女の声には滲んでいた。
リーネの視線が、アリアさんの胸元にあるロザリオへと自然と向かう。あのロザリオはいつも彼女が肌身離さずに身に着けていたもので、彼女という人物を象徴するような品だった。食事の時間も、夜の見回りの時間も、彼女の胸元には必ずそれがあった。俺たちの記憶の中の彼女は常に微笑み絶やさずに、ロザリオを身に着けていた。彼女のその姿が、俺たちにとっては当たり前で、変わらない彼女の一部だった。
だからこそ、強い違和感が拭えない。そのロザリオが『呪具』——つまり、特別な力を秘めていた道具であり、ミノタウロスを無力化しこの状況を打開できるかもしれない可能性を秘めていたという事実。さらに、彼女がすでに迷宮の外に出てウルージさんと接触しているという事実。その二つが合わされば穏やかな顔ではいられないだろう。彼女の口から打ち明けられた秘密の一部は、ただの驚きでは済まされない重さを持っていた。
「……アリアが大切にしているロザリオが『呪具』だってなんてね。私にぐらい教えてくれても良かったんじゃないの? 初めて知ったわ」
リーネの声は、どこか拗ねたような響きを帯びていた。責めているわけではない。けれど、信用している相手だからこそ知りたかった――そんな素直な気持ちが、言葉の奥に滲んでいた。それは愚痴のようでいて、彼女の心からの本音だった。でも、それは無理もないと思う。俺でさえ、『祭壇』で彼女の抱える秘密を明かされたときは、心の底から驚いたのだ。もっと付き合いの長いリーネにとっては、まさに天地がひっくり返るのような衝撃だっただろう。仲の良いリーネでさえ知らなかったのだから、他の誰にも彼女のロザリオをの秘密を知る機会はなかったはずだ。たった一人、アリアさん本人を除いては。
沈黙が落ちる。アリアさんは胸元にあるロザリオにそっと手を添える。その仕草を、リーネはじっと見つめていた。言葉は交わされていない。誰もが次の言葉を探しているような、そんな間だった。彼女たちの沈黙が、何よりも雄弁にその重みを語っていた。そして、その空気を最初に破ったのは、俺だった。
「……いや、アリアさん。そもそも、ミノタウロスの動きをどうやって止めるんですか? ミノタウロスが醜い風船みたいに巨大化して、動かなくなるまで……ヒビキのヤツに斬り刻んでもらいますか?」
自分でも少しだけ棘があったと思う。でも、言わずにはいられなかった。これは、俺の不安の裏返しだった。この作戦がどれほど現実的なのか分からない。そもそもアリアさんのロザリオを、『呪具』の効果が本当だとしてもミノタウロスが無力化する補償なんてどこにもないはずだ。というか、何も起こらない可能性だって十分ある。可能性を秘めているということはそういうことだ。同時に失敗するかもしれないということでもあるのだ。だったら……ヒビキに殺してもらった方が確実だ。そんな気持ちが先行し、自分の意見に反映されていたかもしれない。すると、隣にいたヒビキがいつもの調子で軽く肩を竦めて言った。
「ああ、その手がありましたか。発想の外でした。ボクの活躍の場をくれるだなんて、さすがはジン君ですね。では、喜んで――」
口調は軽快で冗談めかしているが、彼は本気でやるつもりだろう。ぬるりと、草を薙ぐように鞘から刀を抜いた。魔光石の温かな光に温かな光を受けて、刀身は鈍い輝きを放っていた。まるで、もう待ちきれないとでも言うように刃がきらりと光を反射する。だが、リーネはすかさず口を挟んだ。
「ちょっと、ヒビキが一人で追い回したらさっきみたいになるでしょう? あなたは本当は乗り気じゃないみたいだしね」
「おっと、どうしてそう思ったのですか?」
ヒビキは目を丸くして、芝居がかった声で返した。すると、リーネは肩を竦め、まるで漫画に登場する名探偵が意気揚々と犯人のトリックを暴くように、少しだけ意地悪そうに笑った。
「決まってるでしょう。ヒビキが本気で殺そうと思っていたら……もうとっくに、ミノタウロスの首と身体は『さよなら』しているはずよ。そうなってないということは――あなたがミノタウロスを殺すことに本気になれていないって何よりの証拠じゃない!」
リーネの言葉に、ヒビキは一瞬だけ目を細めた。彼の瞳にはどこか満足そうな光が宿っていた。まるで『よく見ていますね』とでも言いたげな目だ。褒められて、まんざらでもなさそうな表情だった。そして、リーネはふっと息を吐き、肩の力を抜くようにして、穏やかに言葉を繋いだ。
「でも、そうね。ミノタウロスって、どうやれば拘束できるのかってところが一番の問題よね。ジンの縄だと、すぐに千切れちゃったみたいだし。方法が思い浮かばないわ」
彼女の言葉に、俺は思わず顔をしかめた。さっきアセビに言われたことが脳裏に過る。悔しさと情けなさが同居したような感情が胸の奥でじわりと広がる。黒い、黒い、シミのような俺の嫌な部分がじくじくと滲み出ているのを感じた。彼女は責めていないし、そんな性格でないことは分かっている。でも、俺が勝手に想像した頭の中の彼女に責められているような気がして、言葉が喉に苦く引っかかる。
「……悪かったな。どうせ俺の魔法なんて――」
「それなら、束ねてみてはどうでしょう?」
自嘲気味に口を開いたそのとき、静かに割って入る声があった。アリアさんだ。誰もが、彼女へと自然に視線を向ける。彼女はロザリオに添えていた手をそっと離し、静かにこちらを見つめていた。彼女の発想は、この場の誰も思いつかないほど単純で、脳筋で、驚くほど簡単な方法だった。あまりにも明快な方法。何で今まで思いつかなかったのか不思議なほどだ。
「……確かに、そうね。何で今まで思いつかなかったのかしら! 一本では心許なくても、注連縄みたいに束ねてしまえばどうでもいいものね! これなら、ミノタウロスの怪力でも耐えれるわ! ジン、さっそくだけど魔法で縄を生み出してちょうだい! 今すぐよ!」
「お、おう。任せろ!」
リーネはぱっと顔を上げて、手を打つような声を上げた。そして、勢い良くこちらを振り返り、目を輝かせながら叫んできた。俺はどちらかといえば、ミノタウロスの捕獲に反対の立場だったが、頼られたことが嬉しくて、つい返事の声が大きくなってしまった。返事をすると同時、俺は深く息を吸い込み、身体の内側に意識を向けた。心臓から熱を放つような感覚。くすぐったくなるような感覚。それが、最初の頃より少しだけ鈍くなったような気がした。魔素が濃い迷宮内にいるせいかもしれない。あるいは、アセビが言ったいたように、少しだけ魔法の練度が上がったのかもしれない。だが、理由はどうでもいい。今の俺はこれまで以上に、魔法を上手く使える気がした。根拠なんてなくても、今はそれだけで十分だった。彼女の明るい声に背中を押されるように、俺は掌を前に突き出した。
「……いくぞ」
気合を込めた一言とともに、俺は右の掌から縄が生み出される。心臓の鼓動と重なるように、体内を巡る魔力が噴き出してくる。縄が一本、とするすると生み出された。順調だった。二本目も問題なく生成される。手応えも悪くない。縄を生み出すのも、操るのも、以前よりもずっと楽になっている。ボロボロだったはずの縄の精度が、粗削りではあるが形になっている。強度が上がっている。それが、ちょっとだけ嬉しかった。そして、三本目を生み出そうとしたその瞬間だった。視界が、ぐにゃりと歪んだ。
「……っ、な、なんだぁ?」
口から漏れた声は、自分でも驚くほど不明瞭だった。滑舌が悪い。舌が上手く回らない。まるで水面に映った景色が揺れるみたいに、視界が激しく歪む。頭の奥がぐらりと揺れる。頭蓋骨の内側から釘を打たれているかのような鋭い痛みが走った。鼻血が出た。止まらない。意識ははっきりとしているはずなのに、俺の身体が他人にもののように動かない。言うことを聞いてくれない。重たい。手足が重他人い。これは、明確な異常だった。
「ジン!」
リーネの声が鋭く響いた。次の瞬間、倒れかけた俺の身体を、彼女が慌てて抱き留めてくれた。支えてくれた。自分の足で立ちたかった。けれど、踏ん張りが効かない。力が入らない。リーネの肩にもたれかかることでしか、立っていられなかった。この感覚には、覚えがある。体内の魔力を絞り出し過ぎると起こる現象。これは、これは――
「魔力欠乏症ですね。それも、かなり重度の……」
アリアさんの冷静な声が、すぐそばから聞こえてきた。彼女はすぐに俺の前にしゃがみ込み、懐から取り出した白い布で鼻血をそっと拭ってくれた。その手つきは落ち着いているが、表情には明らかな焦りが浮かんでいた。布越しに緊張感と動揺が伝わってくる。俺は、ただ呼吸を整えることしかできなかった。
「でも、どうして? 迷宮内はこんなにも魔力が濃いのに。私の魔力はもうだいぶ回復したわよ? なら、ジンはもっと回復していないとおかしいじゃない!」
「……おそらく、ジン君は現世からこちらに来たばかりですから。魔素が身体に馴染み難いんじゃないでしょうか?」
ヒビキはじっとこちらを観察してくる。そして、ギュッと頬を掴み上げてきた。俺の虚ろな目と自分の視線を無理やり合わせるようにして顔を近づけてくる。心を見透かしてくるような真っ黒な瞳が、胸の奥を鋭く突き刺してきた。
「うーん、この調子では……これ以上、魔法を行使するのは難しそうですね。顔は蒼白、瞳孔は焦点があっておらず、反応が鈍い。鼻血の量も尋常ではない。おまけに、自分の足で立っていることすらままならないとは。これではもう、完全に足手まといですね。このまま無理をさせれば、意識を失うだけでなく、最悪の場合、死に至る可能性も十分あります。となると……さて、どうしましょうか? 頼みの綱のジン君がこの様では、ミノタウロスを拘束する以前の話ですね。いやはや、困りました。せっかくの作戦も、要の一手が使えないとなると台無しです」
「……うっ、るせぇよ」
ヒビキは淡々とした口調で医者の診断のようにそう言い放つ。かろうじて絞り出した俺の声は、まったく生気のないものだった。声に力が入らず、子供の駄々のようにしか聞こえなかった。悔しいな。せっかく頼られたのに、少しだけ自信が持てたのに。ようやく役に立てるのに。魔法を使いたい。もっと、やれるはずだった。今の俺なら。でも、心と身体が分離したような感覚。この身体は俺の思うようには動いてくれない。
「いえ、まだ大丈夫です」
アリアさんが静かに口を開き、周囲を見渡しながら言葉を続けた。
「ジン君が事前に生み出した縄をロバーツが武器と一緒に運んでいたはずです。確か、迷宮の入口近くにまとめて置いてあったと思います。一本一本の強度こそありませんが、束ねて使えば十分な耐久力を発揮するはずです。それを使いましょう」
彼女の言葉を聞いたリーネがはっと顔を上げる。そして、すぐに頷きヒビキの方へと視線を向ける。
「そうね。そうしましょう。ヒビキ、悪いけどがその縄を取ってきてくれないかしら? ここから迷宮の入口までは遠いけど、あなたの足ならすぐに戻ってこれるでしょう? それまで私とアリアが二人でジンの様子を診ておくわ。しっかりとね!」
「まあ、それは構いませんけど。っていうか、縄や合図がなくとも、ボクなら一人でも――」
ヒビキは腰に下げた刀の柄を撫でるように触れながら、いつもの調子で軽く笑い飛ばそうとした――そのときだった。彼の言葉が途中で止まった。気になってふと視線を横に向けると、ヒビキは無言のままアリアさんの方を見ていた。湖面のように澄んだ青い瞳をじっと見つめている。真剣な目で、アリアさんのことを見ている。揺るぎのない意志を湛えた瞳。彼も彼女のその瞳に決意のような何かを感じ取ったのだろう。深く静かな呼気が聞こえた。そこで、ヒビキは自嘲するように深く息を吐き、わずかに目を伏せたのだ。
「……これは、ボクの方が無粋でしたね。覚悟を決めた者を前にして言うべきことではありませんでした」
その声は、いつもの軽口とはまるで違っていた。静かで真摯だった。自らの軽率さを悔い、自戒の響きを帯びている。まるで、自らの未熟さを認めるかのようにヒビキは深々と頭を下げた。本当に、自分の言動を恥じるように。アリアさんに向かって、まっすぐと頭を垂れた。
「では、ミノタウロスのことはアリアさんに任せましょう。ボクはボクに頼まれた役割を果たすために『縄』を取りに行きましょうかね。すぐに戻ってきますから。それまでの時間を無駄にしなように、準備を整えておいてください」
そう言ってヒビキはくるりと踵を返し、迷宮の奥へと身体を向けた。その動きには、もはや迷いなどなかった。そして、彼の魔法で発動する。次の瞬間、彼の足元の石畳が深く沈み込み、弾くように激しく跳ね上がった。まるでトランポリンのようにだ。カランコロンと下駄の音が通路に響き渡る。ヒビキの身体が宙に舞い、風を切る音とともに一気に加速する。瞬きをする間もないほどの速さだった。彼はそのまま迷宮の奥へと姿を消した。
「……ヒビキはあんなこと言ってたけど、アリアは本当にやるつもりなの? その『呪具』をミノタウロスに触れさせるだなんて……どう考えても危険すぎるわ。ミノタウロスはあなたが想像している以上に厄介な力を持っているのお。もし、万が一、何かがあったらどうするの? やっぱり、危ないわよ。私が代わりに――」
言いかけたその言葉を、アリアさんがそっと遮った。その声色は穏やかだったが、決して揺るがないものであると俺たちに感じさせるものだった。有無を言わせない彼女の意志を感じさせる響きだった。
「いえ、大丈夫です」
その一言に、リーネは思わず言葉を失った。アリアさんの力強い瞳が、まっすぐに彼女を見つめていた。まるで夜明け前の空に差し込む一筋の光のように澄んでいて、どこまでも揺るぎない意志が宿った瞳。その視線を受けたリーネは、息を呑んだ。彼女の仕草は、喉の奥に潜む言葉を探っているかのようだった。だが、リーネの返答を待たずに、アリアさんがはっきりと口を開いた。
「これは、私が自分の手でしなければならないことですから」
彼女にはもう迷いや恐れはなかった。譲れないという使命感が、彼女の全身から滲み出しているようだった。リーネは彼女の言葉を受け、しばらく黙っていた。やがて彼女は、小さく息を吐き、肩を竦めるようにして、ぽつりと呟いた。
「……そっか。あなたって、本当に変わらないのね。昔からそうだったわ。昔から私のどんな無茶にも付き合ってくれたのに、自分が一度やるって決めたら、私がお願いしても止まらない。もっと頼ってくれてもいいのに。そういうときだけ一人で悩んで、背負い込もうとして。ほんと、あなたって変なところで意固地っていうか、頑固っていうか……」
ようやくリーネの口から零れた言葉には、呆れと心配、そして彼女への深い信頼が滲んでいた。それは、彼女たちの長い付き合いの中で育まれた絆の証だった。言葉にすれば陳腐で簡単なもののように聞こえるけど、その裏には数えきれない時間と想いが積み重なっている。
「はい、私は頑固な女ですから」
アリアさんはふっと微笑み、まるで決め台詞のようにそう言った。それは、長年の友人にだけ見せることのできる飾らない彼女の本音だった。そして、少しだけ視線を落としながら、アリアさんは静かに続ける。
「それに……我儘は、自分の力で叶えなくてはいけません。特に、それが他者を巻き込む我儘ならなおさらです。自分の願いで誰かを危険に晒すのなら、自分の手で責任を取らないといけない。自分が口にした理想を本当に叶えたいと願うのならすべての責任は、願った本人が引き受けるべきなんです。だって、理想には責任が伴うものですから」
アリアさんは静かな炎のような強さ……リーネと似たような強さがあった。誰かに背中を押されて進むのではなく、自らの足で立ち、自らの手で掴み取る強さ。彼女の言葉はまるで自分自身に言い聞かせるようでもあった。それは、彼女という人間の生き方であり、彼女が信じる道だったからだ。そして――それはやっぱり俺の持っていない強さだった。
「……っ」
思わず喉の奥から声にならない息が漏れた。俺はリーネに支えるように必死に意識を繋ぎ止める。情けない。もしかしたら、気絶した方が遥かに楽だったかもしれない。それほどまでに、彼女の言葉が俺の胸に鋭く突き刺さっていた。理想の責任。その単語が、頭の中で何度も何度も反響する。俺には想像できない。だって、現世から俺は夢や目標を、理想を吐くことだけができなかったのだから。理想を持つことも、願いを抱くことも、ずっと避けてきたから。だから、俺には夢の責任なんて……そんな重さ、想像すらできなかった。物理的にも、精神的にも、きつかった。身体の痛みと心の痛みが同時に押し寄せて来る。俺は己の限界を――今、まざまざと思い知らされていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
私とリーネは、それからヒビキが縄を持って戻ってくるまでの間、じっとその場で待機していた。魔素が枯渇し、もはや自力では立ち上がることすらできなくなっていたジン君を、私たちは石柱の近くにそっと寝かた。
彼の額にはうっすらと汗が滲み、呼吸は浅く、時折苦しげに眉をひそめていた。口では「へ、平気です」と強がってはいるが、身体は正直だった。とても辛そうでした。私はそんなジン君の傍らに膝をつき、懸命に介抱を続けた。私は彼が少しでも楽になるようにと、呼吸のリズムに合わせて背中をさすることにした。弱弱しい。見ているこちらの胸を締めつけるほど今のジン君はとても弱弱しい。この人喰い迷宮内で彼が必死なって頑張った代償がこれなのでしょう。戦った者を、戦っている者を、生き延びた者を、私は彼のことを心の底から尊敬します。死者を尊重し、生者は尊敬する。それは、どんなに酷い世界になっても、決して失ってはいけない不変の価値観だと、私は信じています。
やがて、五分も経たないうちにヒビキは私たちの元へと戻ってきた。カランコロンと子気味良いを鳴らし、ささくれ立った縄がぎっしりと詰まっている木箱を両手で抱えて戻ってきた。彼は、役目を果たしたとどこか誇らしげな笑みを浮かべている。私は持ってきてもらった縄の状態を確認する。縄はやはりボロボロで、ところどころ粗さが目立つ。だが、それでも量は十分だった。これだけの量と長さがあれば、ミノタウロスを拘束するには最低限の条件は満たしているはずだ。
私たちは顔を見合わせて、小さく頷き合った。言葉を交わさずとも、互いの意志で通じていた。だから、無言のまま三人で縄を手際よく束ねていく。掌に伝わる縄のざらつきが、両手の間で揉まれて、ゆっくりと研ぎ澄まされていく。まるでこれから危険な場所に向かうための覚悟を、静かに形にしていく作業のようでした。そんな中、作業に飽きたのかヒビキはふと手を止めて口を開いた。
「それよりも、この縄を束ね終わった後はどうしますか? 走りながら考えてみたんです。ミノタウロスはボクがいたら逃げると言っていましたが、縄で拘束するだけならボクが一番適任ではないでしょうか? ボクが少しばかり丈夫になったジン君の縄を持って、先にミノタウロスを拘束する役割を引き受けるのも一つの手だと思ったんですけど――」
「いいえ、ヒビキじゃなくて私がやるわ。ヒビキは失敗したときのバックアップをお願い」
ヒビキのその提案を聞いたリーネは、束ねていた縄から手を離し、彼の方を静かに見た。彼女の瞳は相変わらず燃えているかのようだ。彼の真っ黒な瞳に、一瞬だけ戸惑いの感情を浮かべたが、すぐに真剣な面持ちに戻り、彼女の真意を確かめるように問いかけた。
「……それは、何故でしょう? 先程、アリアさんにも似たようなことを言いましたが、ボクがやった方が確実ですよ?」
「アリアが言うには、我儘には……理想には責任が伴うらしいわ。私もずっと思っていたの。ミノタウロスを殺したくないって。理由を言えっていわれたら、自分でもよく分かってないけど。ミノタウロスの命を奪うことに、何でか分からないけど抵抗があったの。吐いた唾は呑めぬって言うでしょう? だから、私も危険を冒さないといけないわ」
リーネは少しだけ昔の光景を思い描くかのように目を伏せ、そしてさらに言葉を続けた。
「……それに、私の隣にはいつもアリアがいてくれたわ。だから、危険な場所に行くなら私が隣に立ちたいの。私の我儘を聞いてくれるのはアリアであって欲しいし、アリアが我儘を言う相手は私であって欲しいのよ。だから――今回も私に、見せ場を譲って頂戴?」
リーネの言葉には、飾り気のない真っ直ぐな想いが込められていた。これが彼女なりの責任の取り方なのだろう。ヒビキはしばらく黙って彼女のことを見つめていたが、やがてふっと口元を緩めた。彼女の出した回答に満足がしたのか、彼の笑みには優しさと信頼が滲んでいた。そして――
「……そうですか」
と、柔らかな声でそう言った。そして彼は再び手を動かし、ミノタウロスを拘束するための縄を束ねる作業に戻った。もう彼は何も言わなかった。ただ黙々と作業を続ける。私は彼女の答えに、何も言うことができなかった。口を噤んだ。胸の奥にじんわりと熱いものが広がっていくが、冷たい虚無感も同時に広がっていく。私はいつか彼女の前から姿を消そうと思っていたから。私は、私のためのこの世界から去ろうという覚悟を、もうずっと昔に決めていたから。だって、この世界に私の救いはないのだから。神の元へ行く。それだけが、私に残された唯一の希望だとずっとそう思って生きてきました。
でも今、この世界に残っているのは……心残りができたから。最初は、ほんの些細なことだった。ジョンとの約束でした。幼いリーネのことを見守って欲しいという、ただの口約束。それだけのはずだった。ほんの小さな灯火のようなものだったはずなのに――その灯火が、私の足をまだこの世界に留めている。それどころか、だんだんと大切な人たちが増えた。増えてしまった。リーネだけじゃない。レインに、ヘルガに、ジン君。今、私が見守りたいと思う小さな背中が増えてしまった。
そのせいか日に日に、この世界で生涯を終えてもいいんじゃないかという想いが強くなっている。でも、それが嫌だった。それが許せなかった。自分の心を慰めるだけの毎日。すぐそこにある救いから目を背けて、心を慰めているだけの生。この世界には……慰めはあっても、救いはない。分かっている。これもすべて、時間稼ぎだ。私の心がずっと、そのときが来るのを避けているだけだ。決断はとっくの昔に終えている。だから、だけど……いつかこの世界を去らなければいけない。そうじゃないと、私はずっと後悔し続ける。このままでは、何も変わらない。ただ、流されるように日々を彷徨い、過ごし、自分の過去をごまかして、慰めの中で生きていく。それが、悪いことだとは言わない。けれど、私はそれを選ぶことはない。選べるわけがないのだから。
私も歩き出したい。昔のように。彼らのように。彼女たちのように。……私も太陽に胸を張れるように歩き出したい。それがたとえ、今の私にとってどれほど遠く、眩しく、手の届かないものに思えても。それでも、願ってしまうのだ。もう一度、自分の足で歩く出したい。祈るように、目を瞑ったまま生きていくのが得意になんてなりたくない。そのためには――私がそんなことを考えていると、ふと気付いた。縄はきれいに束ねられ、手の中にずっしりとした重みを残している。私はそっと立ち上がり、深く息を吸い込んだ。
――準備は終わった。
あとは実行するだけ。ちょうどそのとき、ミノタウロスが暴れ始めたようだ。迷宮の壁が破壊されたのをリーネとヒビキの二人が鋭く察知したみたいだ。「ジン君のことはボクに任せてください。ゆっくり運びますから」と言ってくれたヒビキにジン君のことを預けて、リーネに先導されるように私は駆け出した。走る。走る。ただ、前へ。急いだ。金属音が石の床に響く。私たちがミノタウロスのもとに到着したとき、そこにはすでに戦いの気配があった。戦っていたのはシュテンたちだった。彼らは力を合わせ、一丸となり、巨大なミノタウロスに向かって立ちはだかっている。
到着するや否や、リーネは迷いなく動いた。彼女は三人で束ねた縄をしっかりと抱え、足を止めることなく前へと踏み出す。リーネの視線が、ちらりと私を捉える。言葉はなかったけれど、その瞳が語っていた。『合図を出すから、隠れていて』という彼女の想いがはっきりと伝わってきた。私は頷き、石柱の裏に隠れた。いつもそうだ。私には戦う力はない。守る力もない。でも……それでも、この作戦だけは絶対に成功させなければならない。
作戦を成功させるために目を閉じて、ただ意識を集中させる。力のない私が、自分にできることを、来るべき一瞬にすべてを注ぐために。私はただ、目を閉じる。目を閉じる。目を閉じる。目を閉じる。暗闇の中で、聴覚が研ぎ澄まされていくのが分かる。視界を閉ざすことで、迷宮の輪郭が音だけで浮かび上がってくる。苦悶に満ちた叫びが、鬨の音が、激しい戦闘の残響が、耳の奥に届く。硬いもの同士がぶつかり合う音。地を揺らすほどの咆哮。誰かの息遣い。すべてが、私の中に流れ込んでくる。そして、最後に――
「それじゃあ、後は任せたわよ――アリア!」
と、私の名を呼ぶ愛しい少女の声が最後にはっきりと耳に届いた。太陽を越えて、太陽よりも強い光がやってきたかのような、そんな感覚。全幅の信頼を寄せてくれる少女の声が聞こえた瞬間、私の身体は何かに弾かれるように、石柱の裏から飛び出していた。
「……はい!」
掛け声を上げる。自分に鼓舞するように。彼女の信頼に応えるために。私は走り出した。この一瞬のために、すべてを懸ける。すべてを出し切る。それが、今の私にできる唯一の戦いだから。
駆ける。
賭ける
懸ける。
心臓が胸を突き破りそうなほど高鳴っている。白銀の鎧がいつもよりも重く感じる。戦場に赴いているかのようだ。いや、違う。これは比喩ではない。私は今、まさに戦場に赴いる。ミノタウロスの巨大な拳が一度でも掠れば、私は命を落としてしまうだろう。けれど、怖くはなかった。戦場に、慣れているというのもあるかもしれない。何度も、死線は越えてきた。何度も、命の重たさを知った。だけど、それだけではない。今の私を突き動かしているのは……それ以上に、『幼子』を救わなければならないという使命感があるから。だから、足を止めることはない。
別に、ヒビキに任せても良かった。彼ならきっと私よりも確実に、上手くやってくれたでしょう。それでも私は、我儘を通した。我儘に付き合わせた。巻き込んでしまった。申し訳ないと思う気持ちは、確かにある。ですが、自分の意見を貫くというのなら。理想を語るというのなら。誰よりも先に、一番危険な場所に向かわないといけない。真っ先に命を投げ出さないといけない。そうじゃなければ、言葉に力が宿らない。行動に説得力なんて生まれるはずがない。私はそう信じている。私はそのことを良く知っている。だからこそ、走る。この想いをただの綺麗事じゃないと示すために。『彼』の心に届くように。そして、何よりも自分自身にもう嘘を吐かないために。
――神は乗り越えられる試練しか与えない。
昔、戦場で縋るように信じたその言葉を胸に、ただ前を見据えて……苦しむミノタウロスを見据えて走り続けた。それは、私はずっと胸に抱えていて、間違いだと知らしめられた言葉。私の中に残された希望であり、同時に呪いでもあったその言葉を思い出す。忘れようと努めたのに、結局忘れることができなかった。私はずっとその言葉に支えられ、縛られてきた。解き放たれたいとすら願っていたのに。それでも今だけは、それを信じたいと思った。私はただ前を見据えて走る。ミノタウロスを、あの巨体の奥に、救うべき命があると信じて。
――ただ、勇敢に進みなさい。そうすればすべては上手く行く。
嘗ての自分自身に言い聞かせた言葉が、今の私を支えてくれている。迷宮の入口の前で怯えていたジン君に向けて、震える声で送ったはずの言葉が、私に還ってきた。ロザリオを握り締める。そして、再び足を強く踏み出した。走る。ただ、救いのために。ただ、信じるために。私は走る。
「……ッ!」
ミノタウロスの腕が、唸りを上げて振り下ろされた。喉を締める縄の苦しみから逃れるようと、暴れるように腕を振るう。暴れる。私は身を低くして、ギリギリでその一撃を回避した。風が頬を掠める。背中に冷たい汗が流れる。顔を上げると、血に濡れたような赤い瞳と目が合った。リーネたちの心配そうな声が近くから聞こえた。そして、苦悶の表情を浮かべてのたうち回るミノタウロスの方から『ニゲテ』『ニゲテ』『タスケテ』という幼い少年の声が耳に届いた。苦しみに満ちた、助けを求める声。
それを合図に、私は手中にあるロザリオを強く握り締める。それは、私が現世からこちらに来たばかりの頃、田舎の教会で出会ったひとりの神父から聖書とともに贈られたものだった。あの人は『あなたは今、深い悩みの森に迷ってしまわれたのですね。なら、迷ったときにはこれを握りなさい。きっと、正しい道が見えるはずです。あなたが選択するべき、正しい道が』と言ってくれた。そのロザリオは一週間で『呪具』へと変わってしまった。当時の私は文字が読めず、貰った聖書を最後まで読むのはとても苦労しました。何度もページをめくり、指でなぞった。けれど、その中にある一節が深く頭の中に残っている。
――信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中でも最も大いなるは愛である。
この一節が、私の心に深く刺さり、離れてくれない。信仰と希望と愛はいつまでも……死んだ後も残るものらしい。けれど皮肉なことに、私は死んだ後にそれらすべてを失ってしまった。信仰を、希望を、愛を、疑ってしまった。だから、否定したかった。疑ってしまった私自身を、否定したかった。今の私をすべてを否定したいと願った昔の私の執念が、この『呪具』を生み出した。信仰を失い、希望が陰り、神の愛を疑った私に残されたもの。それは祈りの形をした、呪いの結晶でしかなかった。それでも私は、この手で呪具を握り締めて、走っている。苦しみながらも、終ぞ手放すことはなかった。その呪具を握り締めて、走る。
そして、ついに私は手の中にあるロザリオをミノタウロスに向かって差し出すように伸ばした。震える手を伸ばした。そして、触れる。次の瞬間――異変が起こった。ミノタウロスの全身が眩い光を放ち始めたのだ。まるで、世界を真っ白に染めるような真っ白な光。ミノタウロスが悲鳴を上げているかのような光景だった。迷宮からの脱出を阻止するために私たちを飲み込んだ光に似ている。そして、その光はまるで迷宮そのものを喰い尽くすようにさらに膨張した。
「……ッ」
迷宮全体が、低く唸るように震えた。石壁が軋み、天井から砂粒がぱらぱらと降り注ぐ。押し寄せてきた閃光は、一瞬にして容赦なく私たちの存在を飲み込もうとしていた。また、ワープ現象が起こる。そう直感したのか、背後にいる仲間たちが一斉に声を上げた。ワープに備えて身体を強張らせる。誰かが私の名を呼んだ気がしたが、光の奔流に掻き消されてしまう。視界が真っ白に埋め尽くされていた。肌を焼くように、瞼の裏まで白く染めていく。音も色も、すべてが遠ざかっていく。だが、不安はなかった。そして、私はそっと目を閉じる。触れていた温かく、小さな『何か』の存在を感じ、ぎゅっと胸に抱きしめた。
だって――この呪具は、神の呪いすらも弾き飛ばすはずだから。
眩い閃光が視界を覆い、世界が真っ白に埋め尽くされていく。何も見えず、何も聞こえない。強烈な閃光に目が焼かれないように、瞼を閉ざしたままだ。それでも後悔はなかった。『アリガトウ』という少年の声が聞こえたからだ。心配そうに握り返してきた手を握る。最初は誰の声か分からなかった。前回は間に合わなかった。しかし今度は、しっかりと触れ合った。私は真っ白な光の中で、温かな存在を胸中に感じながら、そっと微笑んだ。




