第八十四話 『贖罪』
彼の地獄は奇怪な産声と共に始まった。クレタと呼ばれた地を統治する父王からは祝福の言葉はなく、家臣たちは疎むような目で彼の顔を覗き込んでいた。だが、それも無理もない。生まれたばかりの赤子は人間の姿ではなく――人間の身体に、牛の顔を持つ怪物だったからだ。
『神々に呪われて誕生した子供』と噂が広まることを恐れた父王は、彼を自身が暮らす城の離れに彼を閉じ込め、軟禁するような形で生活を許した。殺さなかったのは父王が化け物になった息子に負い目があったのかもしれない。何故なら、父王が神々に背いたことで生まれたのが、呪われた彼という存在だったからだ。父王の愚かな罪に、母と子が罰を受けたのだ。
しかし、この軟禁のような生活は、父王の心中とは裏腹に――彼にとっては人生で唯一穏やかで幸せな暮らしができていたと言っても過言ではなかった。城の離れの中という制限付きにはなるが彼が人生で自由に空の下を歩けていたのはこのときだけだったからだ。そして、ここからさらに彼の不幸は加速する。
彼の身体は、人間とは思えない速度で成長を遂げた。一歳の頃には、片手で自身の全体重を支えることができるほどの筋力を持て余していたし、五歳を過ぎる頃には、すでに城を守る兵士の上背を遥かに上回っていた。そして、彼は身体と反比例するように知性を獲得するのが遅かったのだ。
いや、正確には彼には年相応の知性はあった。だが、誰もそれに気付かなかっただけだ。牛の顔ではヒトと同じ発声をすることすら難しい。それ以前に、彼は分厚い青銅の鐘の中にいるような気分だった。語学習得において音がくぐもって聞き取り辛いという致命的な不利が彼にはあったのだ。
意思疎通が上手くいかない苛立ちと、周囲のまるで化け物を見る視線が彼の心をじわじわと蝕んでいった。心が成長する機会を実の父に奪われたまま身体だけは日に日に目に見えて巨大化していく……やがて彼は、自分の血に流れる本能を制御できなくなっていた。
最初はただの事故だった。
三歳の頃。侍女の腕を軽く握っただけで……彼女の腕は潰れた。骨が折れ曲がり、真っ赤な血が彼の顔に飛び散った。その半月後にも、さらにそのまた半月後にも、彼の大きな手は、触れた者を肉塊へと変えることしかできなかった。他者との繋がりを求めて伸ばした彼の幼い手は、ただの凶器でしかなかった。城の離れには、彼という存在への恐怖だけが充満していた。
数々の事件を重ねた彼を危険視した父王は、ついに『もう手に負えぬ』と判断し、名のある職人に命じて巨大な迷宮を建造させ、そこに彼を閉じ込めてしまった。父王は七人の少年と七人の少女を迷宮へ『食料』として送り込むことを誓い、母である王妃はずっと父王の命によって彼と、我が子との接触を禁止されていたが……迷宮に幽閉される前に一度のみの接触を許された。王妃はついに彼と会うことを許されたのだ。そのとき王妃は、こっそりと我が子の懐に『黄金の輪』を忍ばせた。黄金で作られたただの何の変哲もない腕輪だったはずだが……それは、白い牡牛に化け王妃と関係を持ったとある神が、彼女の決断に同情し、密かに『加護』を与えた特別な一品だった。
黄金の腕輪を装着している者は生涯、餓えることも渇くこともない。それが、王妃が我が子に示すことができた最初で最後の愛情だった。
こうして、迷宮を彷徨う怪物――ミノタウロスが誕生した。時が経つごとに彼の身体は巨大化し、醜悪な怪物へと変貌していた。ミノタウロスに中に残る彼の幼い理性では迷宮内に送り込まれた少年・少女たちに助けを求めて縋りつくことしかできない。だが、その結果はいつも同じことだった。城の離れにいた頃と同じ、彼の大きな手では若い命を物言わぬ肉塊へと変えることしかできなかった。
彼は生涯、父王への神罰として与えられた『ミノタウロス』という呪いに、その暴力性に、振り回され続けた。恐怖と暴力の象徴として、彼は人々に忌み嫌われた。だが、そのミノタウロスの伝説はある日唐突に終わりを告げた。英雄が彼を討ち取りに来たからだ。勇敢な青年の知恵と愛と武力によって、激しい戦いの末、この伝説は幕を閉じた。
――だが、彼の地獄はここで終わらなかった。
『神々に呪われて誕生した子供』は、死してなお父王が犯した過ちの贖罪には足りなかったらしい。神々は死後の世界に住まうドワーフ……古代ドワーフたちに命じた。『内に閉じ込めたミノタウロスが、決して外へ出られぬ迷宮を造れ』と。
古代ドワーフは神々の命に逆らうことなどしなかった。彼らにとって神々の命令は絶対だったからだ。彼らは死後の世界においてな鍛冶と建築の技を極めた種族であり、このときの彼らには魔剣と呼ばれる独自の……神々の御業に匹敵するほどの独自の技術を獲得していた。彼らは、古の大戦で神々の持つ武器を自らの意思で製造し、献上したほどだ。ゆえに、神々の新たな命令は彼らにとって歓喜するべき使命だった。こうして彼らは、喜び勇んで『永遠の牢獄』を造り始めた。
カンカンカン――と、昼夜問わずに響き続けた槌の音は、五年以上の歳月を費やしてようやく止んだ。ついに完成した『迷宮』は神々が望んだ『内に閉じ込めたミノタウロスが、決して外へ出られぬ迷宮を造れ』という命令にどこまでも忠実だった。完璧だったのだ。
外の世界から切り離されたその空間は、時間の流れすら歪んでおり、光も風もほとんど存在しない。ただ、果てしなく続く石の回廊が延々と続いていた。古代ドワーフたちはその中心に、ミノタウロスと呼ばれる存在の四肢を杭で打ち付け、鎖で身体の自由を拘束していた。牛の頭と人の身体――生前と変わらぬ姿のまま彼は再び迷宮に閉じ込められたのだった。迷宮の完成後に何故か、数人のドワーフたちが何かに憑かれたような狂気じみた笑みを浮かべたまま彼に歩み寄り、四肢に突き刺さっていた杭を一本、また一本と抜いた。やがて、その中の一人が――
『貴様が何をして我らが神々の怒りに触れたのか、それは我らには知らぬ。だが、もはやこの『迷宮』からは逃れる術はない。一族の中から腕を見込まれ、選ばれた我らが最後まで残り、血と汗と魂を注ぎ込んで仕上げてみせた。この『迷宮』は完璧だ。我らが、この身をもって『迷宮』からは逃れられぬと証明してみせた。たとえ英雄であっても、たとえ同族であっても……たとえ神々であっても、一度この『迷宮』に足を踏み入れた者に逃れる術はない。貴様は生まれてきたことが罪なのだ。恨むなら――誕生を恨め。恨むなら――運命を恨め。そして永遠に、我らが造りし『迷宮』の中で、己の罪と向き合い続けるがいい』
と、低く呪詛のように語り聞かせてきた。その言葉を彼は一言一句違わずに覚えている。何故なら――その時、彼は初めて自分の意志で人を殺したからだ。彼の独り善がりな断罪を聞かされて、頭の奥で何かが弾けた。怒りを抑えられなかった。だから、逃げ惑う彼らを容赦なく踏み潰した。最後の杭が抜けた瞬間、両腕を拘束していた鎖を力尽くで引き千切り、彼ら目掛けて襲いかかった。たった一人のみ逃げられてしまったが他は全員、彼が踏み殺してしまった。明確な殺意を持って命を奪ったのは、このときが初めてだった。それから彼は、彼は、自らに巣食うミノタウロスの加虐性に操られるように迷宮内で暴れ続けた。長すぎる幽閉の果てに――幼い彼はついに理性を手放してしまった。
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何十年も、何百年も、何千年も、彼はこの迷宮でただ一人。理性を失ったまま暴れ回っていた。迷宮の壁を壊しても、天井や床を砕いても、外の世界が見えたと思った瞬間――謎の白い光がミノタウロスの身体ごと迷宮全体を包み込んでしまう。そして次の瞬間には、時間が巻き戻ったかのように迷宮のすべてが元通りに修復されている。破壊の痕跡すら残らない。すべてが徒労に終わる。出口はない。救いもない。ただ、永遠だけが続く。それでも彼は、迷宮の出口という名の希望を探し、彷徨い続けている。彼は今も地獄の中にいる。
しかし、異変が起きた。久方ぶりに、ミノタウロスの中にいる幼い彼が目を覚ましたのだ。長い長い眠りから目覚めた理由は二つ。美しい金髪の女性の姿を見つけてしまったから。そして、冷たい外気に触れ、美しい満月を見てしまったから。その瞬間、彼の長い、気が遠くなるほど長い地獄の中で、唯一無垢な愛を与えてくれた母との思い出が、外の世界への未練が鮮烈なまでに蘇った。蘇ってしまった。
愛しさ、懐かしさ、そして救済を求める幼い願いが胸の奥から溢れ出し、届かない声を上げ続ける。『助けて』『助けて』と。何度も、何度も手を伸ばす。その手は、かつて母の温もりを求めた幼子のまま手であり――血に濡れたミノタウロスの大きな手に変貌していた。その矛盾こそが、今の彼の存在のすべてだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「……ッ、な、何なんだよ。この化け物」
ある男の情けない声が冷え切った迷宮の石壁に反響した。人間の身体に、牛の顔を持つ怪物――ミノタウロスについ先ほどまで隣にいた仲間が、無残にも目の間で肉片と化したばかりだったからだ。血の臭いが濃く漂い、石畳に広がる赤黒い液体が、男の足元にじわじわと染み込んでいく。その温もりがまるで死そのものが足元から忍び寄ってくるかのようだった。
ボトン、と重たい音を立てて”人だったモノ”が近くに落ちる。ミノタウロスは次の標的を定め、荒い鼻息を吐き出した。それは獣の咆哮にも似て、湿った迷宮内の空気を震わせる。鼻孔から吐き出される熱は生臭く、新鮮な血と肉の臭いが混ざり合い、男の頬を撫でるようにさらに恐怖心を煽った。まるで『次はお前がこうなる番だ』と告げるかのように。
ゆっくりと手を伸ばしてくる。ゆっくりと手を伸ばしてくる。確実に、逃げ場を塞ぐように、真っ正面からゆっくりと手を伸ばしてくる。赤黒い血に染まった大きな手を見た男は、これから待ち受ける自身の運命を悟ってしまった。滴る血が石畳の上に落ちては小さな水滴が音を立てる。手足は震え、まともに立ち上がることができない。胃が激しく痙攣し、吐瀉物を込み上げてきた。酸っぱい汗と胃液が喉を焼き、緊張で視界が揺らぎ始めた。原型を失ったノタウロスの瞳は暗闇の中でぎらついていた。存在感を放つその瞳は、まるで獲物を捕らえた猛獣そのもの。その視線に射抜かれた瞬間、男の背筋を氷のように固まり、逃げるという生物的な本能すら奪われてしまった。
「……ッ、ッ………ッ!」
声にならない悲鳴が漏れる。迷宮の中央部、出口はおろか逃げ場すらもない直線道で、一人の人間が怪物の前に立ち尽くす。絶望と恐怖が重なり合い、彼の心は根っこから折れしまった。呼吸が浅くなる。呼吸が浅くなる。まるで溺れているかのようにバタバタと足を動かすが、ミノタウロスの大きな手と上手く距離が取れない。ズボンの、股の間を液体が濡らした。恐怖が肉体の制御を奪う。そして、極度のパニック状態に陥った男の頭の、嫌に冷静な部分が先に理解した――もうここから、男は生きて帰ることができないのだ、と。
「……ッ!」
男は自らに迫りくる死の運命を受け入れるように目を閉じた。その瞬間、血飛沫が上がった。彼の顔面に赤黒いミノタウロスの血が飛び散り、熱と鉄の臭いが服どころか皮膚にまで焼き付いた。何が起きたのか理解するよりも早く、世界が赤に染まった。恐怖と混乱がさらに深く彼を飲み込んだ。
「……え?」
「呆けるなし! さっさとイケし!」
呆けた声が漏れた。可愛らしい声が耳を打った。振り向こうとしたが間に合わなかった。その声が耳に届くと同時に、男の身体は背後から物凄い力で持ち上げられた。骨が軋むほどの衝撃と共に、彼の身体は宙に舞い、遠くの方へと投げ飛ばされた。男はただ理解できなかった。状況を何一つとして理解できなかった。死を覚悟したはずの自分が、何故まだ生きているのか分からなかった。
「……陽気に生きて、短く散ル。それがオレの、オレたちの船の信条って言っタガ……死ぬにしちゃあ、オマエは若すぎルナ。なら、さっさと退ケ。まだ死にたくねぇんダロ、お漏らし小僧?」
「ロバーツ船長!」
アセビにぶん投げられた男は、衝撃で意識を飛ばしそうになりながらも、ロバーツ船長の腕に抱き留められた。その逞しい腕に受け止められ、男は無事に着地した。恐怖と混乱と戸惑いの中で、わずかに安堵が胸に広がった。だが、男に構う暇など無いみたいだ。船長として乗組員を安心させてやりたがったが状況がそれを許してくれない。だから、ロバーツは彼の背中を強く叩きミノタウロスが見えないくらい距離を取れと言外に告げた。そのメッセージを感じ取った彼は、すぐさま迷宮の奥へと走り去ってしまった。背後で響く咆哮と血の臭いを振り切りながら――彼は悔しそうな表情を浮かべて、ただ生き延びるために足を動かし続けた。
「……いったな。それよりもコイツ、ヒビキのときは情けなく尻尾を巻いて逃げたくせに、オレたち相手だと全然逃げる素振りも見せねぇな。ムカつくぜ。脅威とすら思われてねぇとはな」
「眼中にもねぇってことだろ。あの節穴に、オレたちの根性を魅せてつけてやろう、ぜッ!」
シュテンの忌々し気な呟きを近くで聞いていたハイレッディンは軽く鼻を鳴らして応じると、片手斧を狙いを定めて投げつけた。鋭い風切り音が迷宮の湿った空気を裂き、斧は一直線にミノタウロスの眼へと迫る。
「おい、半エルフ。オレが左下の目を潰る、お前は弓で残りの三つを狙え!」
「ちょっと、上から命令しないでくれる! というか、半エルフって呼び方止めてよ! ワタシにはヘルガってちゃんとした名前があるんだから!」
「……おい、こんなときに喧嘩してんじゃねぇぞ! 作戦通りに動け!」
シュテンの怒声が響き渡り、場の空気を一瞬で引き締めた。そして、事前に決めていた作戦内容を大声で復唱した。
「いいか! アセビとロバーツが囮にうちに、飛び道具が得意なお前らは今のうちに目を潰れ。視界を無くしたミノタウロスをユキが押し倒して、最後にオレが首を刎ねる。それで死なないんだったら一度潔く退く。そして、本命のヒビキとリーネに託す。覚えてるな? 覚えているよなぁ?」
「バカにしないで。そのくらい分かってるわ、よッ!」
勇ましい掛け声と共にヘルガは、ヘルガは弓の中央に矢を番えて引き絞った。ギリギリと弦が音を上げ、彼女の腕に緊張が走る。集中力を高めるように深く呼吸を整え、心臓の鼓動を抑え込むように深く息を吐いた。矢に風が纏い、グリフォンの矢羽が震える。彼女の指先から放たれる瞬間を今か今かと待ちわびていた。
――そして、彼女は矢を放った。
彼女は命中を確認するよりも先に、洗練された滑らかな動作で次の矢を番える。その姿はどこか優雅でありながら、戦場の混乱の中に一瞬の静寂を生み出した。彼女が放った三本の矢が唸りを上げ、出鱈目な軌道を描きながらも、ミノタウロスの三つ目に吸い込まれていった。まるで風に導かれるように。矢が自分の意志を持つかのように、確実に目標へと突き進んだ。
エルフの魔法は風の流れ生み出し、矢の軌道を自由に操ることができる。ハイレッディンが投げつけた片手斧が鋭い風切音を立てて飛び、ミノタウロスの顔面に勢い良く突き刺さった。左下の目を潰す鈍い音が響くのとほぼ同時に、ヘルガが放った三本の矢が的中した。
すべての視界を同時に奪われたことに動揺したミノタウロスは迷宮全体を揺らすほどの咆哮を上げた。怪物の巨体が激しく揺らぐ。その瞬間、彼らは確かな手応えを感じ取った。
「ヴッ、ヴッ、ヴッー!」
その隙を突いた。ユキが呻くような声を上げて、ミノタウロスの太い右脚を全力で体当たりする。そして、押す。押す。押し続ける。原型を保てていないミノタウロスの唯一の弱点。ヒビキから逃げ延びるために形を変えることができなかった足の部分を彼らは狙った。重心がずれたことに気付いた時にはもう遅い。ミノタウロスは巨体を支えることができず、頭から転倒した。轟音が迷宮に響き渡り、魔光石の温かな光が揺れる。その様子を確認してから、シュテンは動き始めた。
「オラ、よッ!」
先の戦いで負傷していたシュテンは、すでに限界が近かった。それでも傷ついた身体に鞭を撃ち、壁に飾られていた両刃の大斧を振り上げる。全力で両刃の大斧を振り下ろせるのは、恐らくこの一回だけ。血が伝い、震える腕を鬼の意地だけで従わせる。全身の筋肉が悲鳴を上げていたが、彼は力任せに振り下ろす。狙いを定める必要はない。ただ、あの首を目掛けて全力で振り下ろすだけだ。この一撃が戦況を決定づける、誰もがそれを分かっていた。
仲間たちは生唾を呑む。斧の刃がミノタウロスの逞しい首に迫る瞬間を見守った。迫り、迫り、そして――ミノタウロスの首に刃が届いた。夥しい量の血が噴き出し、ミノタウロスの首に深々と刺さる。『イケる、このまま首を刎ねれる』と、この場にいる誰もがそう思った。だが、次の瞬間。
「――ぁ?」
最初に異変に気が付いたのはシュテン本人だった。彼の口から漏れた声は、驚愕と困惑が入り混じったものだった。振り下ろしたはずの両刃の大斧が何かに弾かれたのだ。硬い感触が、両腕に伝わる。刃を阻んだのは、肥大化したミノタウロスの首の肉に埋もていた異物だった。血と肉の奥から覗いたのは、黒鉄に覆われた首輪だった。それは、かつて古代ドワーフがミノタウロスの巨体を拘束するために造り出した頑丈な首輪。刃が鋼鉄が交わり、火花を散らして弾かれる。その衝撃はシュテンの両腕を逆に震わせ、握力を奪うほどの反動を生んだ。
「ッ!」
まさか弾かれるなんて思っていなかったシュテンは、反射的に斧の柄を握り締めた。だが、万全ではない今のシュテンには、両刃の大斧を通じて返ってきた反動を受け止めれるだけの力は残されていなかった。腕は痙攣し、握力は抜け落ち、そして両刃の大斧は彼の手中から勢い良く滑り去ってしまう。すっぽ抜けた両刃の大斧は、鈍い音を立てて、シュテンの背後の壁に突き刺さった。
再び、戦況が不穏に揺らぎ始めるのを感じ取った。
「シュテン!」
ロバーツの怒声が飛ぶ。膝を地面につきかけたシュテンは、反動で痺れた全身の筋肉を無理やり躍動させ、その声に反応した。顔を上げると――視界を奪われたミノタウロスが、首に突き刺さった両刃の大斧の存在を鋭く感じ取り、周囲を攻撃するように腕を回し始めた。その動きは、盲目の暴れ牛そのもので、ただ近くにあるものを破壊しようとする暴力の塊だった。
「危ねェ、な!」
四ツ目を視界を奪っていたおかげでシュテンは何とかミノタウロスの手から逃げ延びた。間一髪だった。ほんの一歩遅れていれば、腕ごと吹き飛ばされていたかもしれない。まともに当たっていたら、少なくとも肋骨の数本は粉々になっていただろう。それほどの威力が秘められていた。
シュテンは荒い息を吐きながら、自身の渾身の一撃を弾いた――ミノタウロスの首元にある首輪に視線を向ける。ミノタウロスの首元からは血と肉片が飛び散っていたが、黒鉄の首輪はその傷を覆い隠すように鈍く光っていた。肉と鉄が融合してまるで鎧のように怪物の急所を守っている。拘束のための首輪は、皮肉なことに今は怪物の弱点を隠す最大の防御そのものとなっていたのだ。
「……クッソ、あれじゃあ斬れねぇぞ! どうする?」
ハイレッディンが舌打ちし、片手斧を構え直す。だが、彼の目には迷いが浮かんでいた。視界の端で、静かに身体を休めているシュテンが思っていたよりも限界に近いことを悟ったからだ。もう一度挑むべきだが――というよりも首が斬れていない以上、彼としては当初の目的を達成するために再度試みたい気持ちがあった。だが、馬鹿力のシュテンがいなければ、一撃で首を飛ばすことは難しい。それほど、今のミノタウロスの再生力は驚異的だったからだ。血を流しながらも、血肉は蠢き、首輪を覆い隠すように傷口は閉じようとしている。焦りが、彼の胸にじわりと広がっていった。
「よし、退クゾ!」
そのとき、真剣に何かを考えるように腕を組んでいたロバーツが短く、迷いのない声でそう言った。ハイレッディンよりも先にロバーツは判断を下した。海賊船の船長として、乗組員を預かる立ち場にある者が持つ決断力……いや、ただの野生の勘っぽいな。
「はぁ? ちょっと正気、もう一回やんないの?」
「……船長命令だし。アイツの目が見えたないうちに大人しく退く準備をするし」
ロバーツの判断を疑問に思ったヘルガは口を挟む。その一方で、ミノタウロスへの攻撃の手を休めながら、撤退の準備を着々と進めているアセビが素早く双剣を収めた。その動きからは、ロバーツの扱いに慣れている様子がありありと見て取れる。彼女の視線はすでに次の行動に向けられており、撤退の段取りを頭の中で組み立てているのが伝わってくる。ロバーツの判断には素直に従うその姿から、彼女はなんやかんやでロバーツのことを信頼しているようだ。空気がじわりと好戦から撤退へと傾き始めていた。
ハイレッディンは口惜しさに顔を歪めるが、すぐに代案が思いつくわけでもなく、渋々といった様子でロバーツの命令に従う。胸の奥に『もう一度やれば、ミノタウロスを殺せるかもしれない』という燻る悔しさと焦燥感は、そう簡単には消えてくれなかった。だが――
「いいえ! もうちょっとだけ付き合ってちょうだい!」
と、凛とした声が聞こえてきた。ロバーツの判断を否定するような明るい声が迷宮内に響く。負傷していたはずのシュテンが飛び上がるように顔を背後に向けた。そこにいたのは、リーネだった。彼女が縄を持って、ミノタウロスに向かって……こちらに向かって突っ込んで行く姿を見て、シュテンは頭を抱えそうになった。ミノタウロスに殴られた痛みのせいではない、もっと別の精神的な意味での頭痛が込み上げてきた。
「シュテン、これ持って!」
「ぁ、おいっ!」
そんなシュテンの思考を知ってか知らずかリーネは四ツ目の再生を終えようとしているミノタウロスの首に縄を絡めた。シュテンの怪力とリーネの全体重が合わさって、ミノタウロスの首がギチギチと音を立てて、強烈に絞まる。苦しそうな呼吸音が聞こえてくる。彼の身体は、反射的にロバーツの判断ではなくリーネの判断に従った。戸惑いながらも、彼女の声に反応してしまったのだ。そのことを自覚しているからこそ、行き場のない怒りが彼の胸の奥に燻り続ける。
「ッ! リーネ、ヒビキはどうした!」
「置いてきたわ! だって、ヒビキがいたらミノタウロスが逃げてしまうもの!」
「ぁ!?」
リーネはミノタウロスの上で、まるで暴れ牛を乗りこなす騎士のように首に絡めた縄を器用に操りながら、どこか誇らしげに言い放った。彼女の無邪気さと大胆さ……いや、無謀さにシュテンは一瞬にして言葉を失う。苦しそうに呻くミノタウロスは、呼吸を阻害するその縄を掴み、力任せに引き千切りろうと試みた。ジンが魔法で生み出した縄はまだまだ練度が低く、ボロボロで、ミノタウロスの怪力を前ではすぐに千切れてしまう。ミノタウロスを拘束できるほどの強度はないと、アセビの件で分かっていた。
だからこそ、その問題をリーネは力技で解決したみたいだ。一本ではすぐに千切れてしまう縄を、何重にも束ねて太くし、強度を底上げしていた。その工夫が功を奏したようで、ミノタウロスの怪力でも縄は思うように外れない。巨体が暴れ、迷宮の床が震え、石片が跳ね上がる。それでもリーネは怯むどころか、むしろ望むところだと言わんばかりに強気な笑みを湛えていた。
そこでふと、アセビの頭に疑問が過る。ジンは先程まで魔力欠乏症だったはずだ。いくら迷宮内の魔素が濃いからといって、短時間でミノタウロスの首に巻き付けるほどの長さの縄を何個も生み出すことはできるのか――。そうアセビは思っていた。訝しげな表情を浮かべるアセビのすぐ近くで、ロバーツが何かを思いついたかのような声を上げた。
「あ、そういうこトカ。リーネ、オマエ。オレが迷宮内に持ち込んだ縄を勝手に使いやがっタナ!」
「ごめん、借りたわ!」
リーネは文句を垂れるロバーツに悪びれることもなくそう言い放つと、ヘルガに視線を向けた。
「それよりも、ヘルガ! あなた、確か笛を持ってるって言ってたわよね?」
「ぇ、ええ。持ってるけど……」
「私たちの作戦が失敗したら、あなたの判断でその笛を吹いてちょうだい。その笛の音を合図にヒビキが飛んでくるから!」
ヘルガは困惑しながらもリーネの命令を聞くように懐へ手を伸ばし、カーリに渡された笛を大事に取り出した。その笛を見た彼女は「よし、大丈夫ね」と安心したように呟いた。ミノタウロスの動きを制限するために彼女から投げ渡された縄の先端部分を掴み続けていたシュテンが、ついに根を上げた。暴れ回る巨体に引きずられそうになりながら、怒鳴り声を上げる。
「あー、クッソたれ! これ以上は押さえられねぇぞ! 何がしてぇのか、いい加減説明しやがれ!」
その叫びには、彼女の前で『もう限界だー』と素直に言えない彼なりの強がりとそれでもリーネを信じて踏ん張ろうとしている必死さが入り混じっていた。思っている以上に、切実だった。縄を握る手は震え、全身が再び悲鳴を上げている。それでもシュテンは歯を食いしばり、ミノタウロスに抗い続ける。
「作戦よ! シュテンはミノタウロスの動きを止めて! ミノタウロスを捕獲する」
「あ? 捕獲って、それは無理だってさっき自分で――」
「言ったわ! でも、諦めきれなかったみたい。もし、失敗した後のこともちゃんと考えてるから。だから、あと数秒だけ耐えて! 私を信じて!」
「……ッ! アー、どうせやるんだったら成功させろ! ここまでさせて失敗したら、承知しねぇからなぁ!」
リーネが叫び返す。声は明るいが、その燃えるような赤い瞳は真剣そのものだった。そのことに気が付いたシュテンは、腹の底から残りの力を絞り出すような雄叫びを上げる。ギュッと足腰に力を込め、気合だけで踏ん張り続ける。そして、ロバーツとアセビとユキが同時に動き出す。
ユキが低く唸るような声を漏らした。立ち上がろうと体重を支えているミノタウロスの右腕をキョンシーの『毒爪』が襲う。鋭く突き刺さった。肉が裂け、黒ずんだ血が飛び散る。その隙を見逃さず、ロバーツが石柱と壁を交互に蹴り、軽やかに跳び移りながら、ミノタウロスの顔面に迫る。怪物の頭部を抉るように突き刺さっていた斧と矢をまるで自分の武器であるかのように迷いなく引き抜くと、後方にいるヘルガとハイレッディンの足元に正確に投げ返した。
ヘルガは慌てて矢を拾い、ハイレッディンは斧を掴み直す。魔法によって『分身』したアセビがそれぞれの足りない部分を補うように動き始めた。一人はミノタウロスの足元へ滑り込み、まるで撫でるように双剣で膝裏を裂き、体勢を立ち直らせないようにする。もう一人はロバーツと一緒に再生したミノタウロスの四ツ目を翻弄するように周囲を動き続ける。最後の一人はシュテンの横に並び、彼の体力が限界を迎えないように縄を綱引きの要領で一緒に引っ張った。少女ではあるが人間と比べようのないほどの腕力が加わったことでミノタウロスの巨体が大きく揺れる。ミノタウロスは首がさらに絞められたことで、呼吸が荒くなり、喉奥から苦しそうな声を漏らした。しかし――
「オイ、気道が塞ぎ切れてねェゾ!」
「今、やってるしー!」
リーネとシュテンの力で縄を締め上げられ、呼吸の通り道がほぼ潰れかけている。巨体が痙攣し、四ツ目が充血して苦悶に歪む。だが、それでも怪物は倒れる気配はない。ミノタウロスの喉は異様なほど太すぎて……今も巨大化しているせいで膨れ上がっている首の筋肉を、気道を潰せていないからだ。縄が手に食い込み、皮膚が裂け、血が滲んでも――ミノタウロスを締め落とすことができそうにない。締め落とすにはあまりにも分厚すぎた。それでも、アセビとシュテンは全身の筋肉を総動員させて踏ん張っていた。縄を握る指は白くなり、額から汗が滴り落ちている。
「リーネ、こっからどうする! オレたちだけじゃあ、締め落とすことはできねぇぞっ!」
シュテンが呻くように焦りを吐き出す。呼吸は荒く、手足の皮が剥け、焼けるような痛みが走る。彼なりにリーネの意図を汲んだ発言だった。このまま完全にミノタウロスの呼吸を止めるためには、あと一押し……いや二押しは必要だった。だからこそ、シュテンは悟っていた。このまま気絶させて、捕獲を狙うのは不可能だ。そんな意味を込め、次の指示を仰ぐ。余力はもうない。正直なところ、彼は縄でミノタウロスの動きを止めている間に、笛でヒビキを呼んでこの場で首を刎ねてしまいたいとすら思っていた。
ロバーツの言う通り、一度退いて立て直すべきだとも考えてたが……リーネとヒビキの二人がいるなら話は別だ。ヒビキがいれば容易くミノタウロスの首を切断できるだろうし、首を斬り落としてもヒュドラのように再生するならリーネがいれば焼き塞ぐことが可能だ。二人が揃えば、ミノタウロスを確実に殺せる。問題はただ一つ。ミノタウロスを殺せる可能性を秘めたその二人が、ミノタウロスを殺すことに難色を示していることだ。
ミノタウロスに同情しているのか、情が移ったのか、それとも別の理由があるのかシュテンには分からない。だが、リーネの真剣な横顔を見れば、彼女がただの気まぐれで『捕獲』という選択をしたわけではないことだけは、伝わってきた。彼女が本気で何かを成そうとしているなら――全力で支えてやるしかない。リーネの我儘を聞くことが、シュテンの昔からの役目なんだから。だから、彼女の覚悟に呼応するようにシュテンは全身を無理やり動かしていた。
シュテンの必死な声を聞いても、リーネは振り返らなかった。焦ることはない。そこには、全幅の信頼があるからだ。振り返る必要がないほど彼女はシュテンを信じている。だからこそ、彼女は燃えるような赤い瞳をミノタウロスを見据えたまま、次の船長命令を、短く、そして強い声で言い放った。
「いいえ、このまま拘束するだけでいいのよ!」
「ァ? どういうこッタ?」
「そのままの意味よ。私たちの役割は、ミノタウロスの動きを拘束するだけ。それだけで十分なの!」
「拘束するだけって……おい、リーネ! それじゃあ、トドメはどうすんだよ!」
シュテンはミノタウロスを睨みつけたまま短く息を吸う。リーネはシュテンの問いに首を横に振って、それをきっぱりと否定する。
「トドメなんて必要ないわ。もう一度言うけど、私たちはミノタウロスを殺す気なんてないもの! 私たちの仕事はこのまま動きを止めること。ミノタウロスを倒すのは私たちの役割じゃない!」
「はァ!? 意味分かんねぇよ。締め落とすんじゃねぇのか! じゃあ、ミノタウロスはどうやって倒すんだ?」
「――倒すんじゃない。救うのよ!」
「……はぁ?」
シュテンが気の抜けるような声を上げる。思わず縄を引く手を緩めそうになり、横にいるアセビに鋭く睨まれながら慌てて踏ん張り直す。理解が追い付いていない様子だ。頭の中が真っ白になっているのが見て取れた。救うという単語が……目の前で暴れている怪物を倒すのではなく、救うといわれて頭で上手く結びつかなかったからだ。そんな発想は、彼の中には存在していなかった。
しかし、彼女の瞳には揺るぎない意志が宿っていた。その『救う』という言葉が、ただの口先だけでは終わらないことを示すかのように彼女の瞳は激しく燃えていた。この場にいる全員が、リーネの言葉が聞こえた全員が戸惑いの表情を浮かべる。どうやってミノタウロスを倒すのではなく救うのか、と。そして、リーネは迷いのない声で、この場にいない人物の名前を呼んだ。
「それじゃあ、後は任せたわよ――アリア!」
「……はい!」
かちゃ、かちゃと金属が擦れるような音をが響き、迷宮の暗闇を切り裂くようにアリアが姿を現した。彼女の足取りは軽やかで、どこか祈りにも似た厳粛さを帯びていた。彼女が放つその音は、静かに、しかし確実に場の空気を換えていく力があった。まるで、彼女の『贖罪』の幕が上がる合図のように。彼女の手には、剣も槍も、攻撃に使える武器の類は握られていない。彼女の細い指が包み込むのは、鈍色の光を放つロザリオだけが握られていた。




