第八十三話 『照準を合わせる』
皆たちがミノタウロスと激しい戦闘を繰り広げている最中、私は戦いの邪魔にならないように、ずっと石柱の裏に身を潜めていました。石柱の全身を隠すには少しばかり心許ない太さにすら、安心感を覚えているはずなのに、心臓の鼓動がやけに大きく響いているように感じる。耳に届くのは剣戟の音、獣の咆哮、仲間たちの短い叫びと熱。息を潜めながらも、視線はどうしても彼ら彼女らがいる戦場へと吸い寄せられてしまう。
ミノタウロスが振り回した右腕が、まるで巨大な鉄槌のように壁や石柱を巻き込み、破片が礫のように散らばり皆を目指して飛んでいく。石片が空を裂く音が耳打ち、天井から零れる粉塵が視線を曇らせる。ひとつ間違えれば、私が隠れているこの石柱も私の身体ごと容易く砕かれてしまうだろう。そう想像すると、自然と背筋に冷たい汗が流れ落ちた。
皆はその嵐のような攻撃の中で、必死に立ち回り、互いに声を掛け合いながら隙を突こうと、打開策を見つけようと奮闘している。その姿を間地かで見ていると、何もできない自分に歯痒さを感じて不思議と視線が下に向く。私はただ祈るような気持ちで、石柱の陰からその光景を見守るしかできなかった。すると――
「キャッ!」
と短い悲鳴が聞こえた。ヘルガの声だ。何事かと思い、私がミノタウロスに向けて顔を上げると運悪くヘルガの頭に石片が落ちてきたみたいだ。最強の種族。妖精の風。彼女はまだ慣れない風の魔法でミノタウロスの首を斬り飛ばそうと試みていた。しかし、落石により集中が途切れた。ヘルガはミノタウロスに放つために集めた自身の風に吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。
何故、こんなことになっているのかは分からなかった。目まぐるしく変わる戦況に、私の目ではついていけなかった。だけど、ヘルガがピンチに陥った。それだけは、すぐに理解できた。皆が瞬時に判断し、ヘルガを逃げる時間を稼ぐために攻撃を再開する。ミノタウロスの漆黒の体皮が割れるように血が噴き出す。ミノタウロスの茶色の体毛を押しのけるように真っ赤な血が広がる。だが、動けないヘルガを助けるには間に合わない。私がそう思った、次の瞬間――視界の端であたふたとしていたはずのジン君がいきなり銃を構えて、発砲をした。
誰に教えられたかは分かりませんが……その姿は、妙に堂に入った様子で、構えは完璧でした。引き金が絞られ、銃声が轟く。放たれたその弾丸は正確にミノタウロスの眼球へと着弾した。石柱から身を乗り出すように私はジン君に視線を向けた。『何をしているの?』とも『よくやりました!』とも思った。同時に二つの感情が生まれた影響で、この場にいる全員の思考が混乱してしまった。ほんの数秒、時間が止まったかのような錯覚を覚える。身体が上手く動かない。
発砲音が気に障ったのか、眼球の痛みで怒りを抱いたのか、唸り声を上げたミノタウロスはゆっくりと、だが確実に、ジン君へ強烈な殺気を含んだ苛立ちを向けた。この場にいる全員、その気配を見逃さなかった。ただ一人、成功体験に興奮しているジン君本人を除いては。次の瞬間、ミノタウロスは巨体に似合わぬ速さで一足に距離を詰め、ジン君の息の根を止めるために襲いかかった。
「逃げなさいッ、ジン!」
リーネの鋭い声が迷宮内に響く。一足遅れてロバーツが壁を蹴り、ミノタウロスの背中を追いかける。焦りの表情を浮かべたアセビは双剣の一つを回転させて投げたが、初めての試みだったようで当然上手くいかなかった。投擲した剣は石壁に当たり、反射し、勢いを失った。カンッ、と簡素な音を立てて地面に転がった。ここでようやくヘルガが体勢を立て直す。間に合わない。ジン君のことを助けるには、あまりにも遅すぎた。遅れた一秒が、致命的だった。
誰もが、この迷宮の生贄に捧げられた一人になるのを覚悟した。その刹那、ユキの小さな身体が飛び出した。リーネたちの邪魔にならないように少し離れた場所にいたことが結果として功を奏したみたいだ。仲間を守るための本能が彼女の身体を突き動かしていた。
「……ジン君、ユキッ!」
私は噛み締めるように二人の名前を呼ぶ。間一髪で、ユキがジン君を救出できたみたいだ。ミノタウロスの大きな拳が振り下ろされる直前、ユキは飛び込んだ勢いのままジン君を押し倒すように、衝撃の軌道上から逸らした。拳が石床を砕き、砂煙が舞い上がる。私が二人の無事を確認できたのは砂塵の中から飛び出してきた後だった。ジン君は呆然とした表情で、ユキに何かを伝えていた。助かったからいいものの……後で二人には説教とご褒美を上げないと。
「おやおや? おやおやおや……発砲音が聞こえたので急いで来てみたら。まさか、ボクをほったらかしにしてこんなところで戦闘あそんでいるとは。先約はボクだったはずなのに、仲間外れですか? ボクは友人があまり多くはないので、数少ない友人たちに仲間外れにされると……正直、妬けてしまいますね?」
私がそんなことを考えた次の瞬間、どこからかヒビキが姿を現した。いえ、声がした方向に私が飛び上がるように振り返ったらすでにいたと言った方が正しいかもしれませんね。彼の姿を目視したミノタウロスは咆哮を上げた。これまで以上に激しい、耳を劈くような咆哮だった。
石柱に寄りかからなければ立っていられない衝撃。頭痛がした。頭痛がした。頭蓋骨の奥に鈍い痛みが走り、鼓膜が破れてしまいそうでした。着込んだ鎧が、何の意味をなしていない。圧力に耐えれずに膝を折り、地面に蹲った。迷宮全体が揺らぎ、視界が白く霞んでいく。そして、そんな痛みと同時に――声が聞こえた。
「――ッ!」
最初は、幻聴かと思った。いえ……幻聴であって欲しかった。信じたくなかったからです。頭の奥で響くような何者かの声。だって、それは……あまりにも懐かしい感覚だったから。キーンと耳鳴りのようなものが混じるミノタウロスの咆哮の中でも、その声だけはやけに鮮明に届いた。まるで、私の名前を呼んでいるかのように。
迷宮の入り口で聞こえてきたものと同じだ。現世でも、生前の私が似たような体験をしたことがある。先程は突然の出来事に耐えれず、私はその声を拒むかのように、なりふり構わず白銀の兜を脱ぎ捨て、力一杯に耳を塞いでいたからです。
――の声なら、今さら遅すぎる。だって、だって……私は諦めた。私は、ずっと、ずっと、あなたの言葉を待っていたのに。赦しを待ち続けていたのに。それなのにッ……だけど、その声は『……ェ』『……タ……テ……』と何度も私に呼びかけて来る。何度も、何度も、繰り返すように呼びかけて来るのです。
「……えぇ?」
そこで私は……私の耳に届く声が記憶にあるものと違っていることに気付きました。必死になって記憶の糸を辿る。懐かしい感覚ではあるものの、よく聞けば明確に違った。やはり、私が覚えている声ではなかった。かなり幼い。あまりにも、乖離し過ぎている。胸の奥にざわめきが広がった。懐かしさと拒否感がないまぜになり、心臓を締め付ける。誰なのか、誰の声なのか。なぜ、今、こんな場所で声が聞こえてきたのか。そんな、あるはずのない答えを求めるように私は視線を宙に彷徨わせる。答えを求めるように彷徨わせて、彷徨わせて……そこで私は、怯えた様子のミノタウロスで視線を止めた。
「もしかして……あなたが?」
私の口から放たれたその言葉は祈りにも似た問いだった。あまりにも、あまりにも、あり得ない可能性に思い至ったからです。思わず震える指先に力を込め、ギュッとロザリオを握り締める。冷たく、硬い、金属の感触が鎧越しでも手のひらに伝わってくる。その感触が、夢ではなく現実であると確かめさせる結果になった。この声は、ミノタウロスから発せられているものだとようやく理解した。
何を言っているか、ずっと分からなかった。ずっと『……ェ』『……タ……テ……』と蚊の鳴くような意味の分からない声が聞こえていただけだった。だけど、聞き取れてしまった。耳を塞いでいた手を離した影響か、それともミノタウロスから発されている声を聞こうと意識を集中させた影響か……そのどちらでもないのか、私にも分からない。だが、今度こそはっきりと聞き取れた。少年の声だ。巨体には似つかわしくない、震えるような幼い声。その少年の声が『イタイ、イタイ、誰か助けて……』と告げていた。
怪物の咆哮に混じるのは確かに人の……少年の声だった。血と怒りと怯えに染まった巨体の奥底で、目の前に怪物は、ミノタウロスは必死に助けを求めている。そんな、あり得ない可能性が私の心を激しく揺さぶった。
「……ッ!」
私が口を開きかけた次の瞬間、ミノタウロスがヒビキから逃げるために暴れ始めた。左腕を薙ぎ払った。右手を天井に打ち付ける。接近すれば勝ち目がないヒビキをこれ以上近づけさせないために、天井を、壁を、石柱を巧みに利用して無軌道な石礫のように飛ばしてきた。弾丸のような威力を秘めた岩石から私たちは必死に身を隠す。反射して、威力がなくなった小さな石粒が雨のように降り注いぎ、キンッと金属が硬いものを弾く音が響いた。砂塵の中で私は目を細める。礫が当たらないように祈りながらmギュッと目を瞑った。降り注ぐ石粒が収まり、視界が晴れてきたかと思い目を開いたときには、ミノタウロスは踵を返し、背を向けて私たちから逃げ出していた。
「……」
迷宮の奥底に消えていくミノタウロスの小さな背中を見つめながら、私は再度、ミノタウロスについて考えを巡らす。あの声を聞いてしまった今、私の胸の奥には恐怖よりも深い疑念と苦悩が渦巻いていた。一瞬だけ……ほんの一瞬だけ、皆の真ん中で笑っているリーネを見る。いっそのこと打ち明けてしまおうか……と少しだけ考えてしまった。だけど、それはダメだと震える唇をキュッと引き締める。
客観的に見れば、私のいっていることはめちゃくちゃだ。支離滅裂だった。証明なんて到底できない。できるわけがない。それを、私は生前に学んだはずだ。それに、私が一番嫌なことはリーネの決断を迷わせてしまうこと。リーネに迷惑をかけてしまうこと。それが今の私にとって一番嫌で、一番恐ろしいことだった。
でも、もしかしたら――いや、するべきじゃない。試すべきではない。ヒビキがいるなら、ミノタウロスを仕留めてしまった方が確実のはずだ。無駄な危険を冒すべきではない。感情に流されるべきではない。そう自分に言い聞かせながらロザリオを胸に近づける。私は自身の心を胸の奥底に秘めたままミノタウロスの背を見送った。リーネから声をかけられるまで、心ここに在らずといった様子で……ただ、ジッと見つめていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
俺たちが来た道を引き返している途中、シュテンとハイレッディンさんの二人が遅れて合流した。ヒビキが言っていた通りだった。負傷しているようでシュテンは、血の臭いを漂わせ、肩を借りて歩いてきていた。二人のまなざしはまだ強い闘志と殺気が宿っていた。鬼気迫る勢いだ。恨みを募らせるとでも言えばいいのか、色濃い恨みの影がまるで二人の後ろに実際に見えそうな雰囲気がある。
彼の様子を見たリーネが「シュテン。あなた、大丈夫なの? 無理なら私に休んでてもいいのよ?」と優しく聞いたが「……うるせぇ。このまま借りを返さずにいられるかッ! 借りる時の地蔵顔、返す時の閻魔顔って言うだろうが! 鬼はぜってぇに借りだけは返さねぇといけねぇんだよ!」と荒々しく答えていた。どうやら、だいぶ意固地になっているようだ。というか、それはだいぶ意味を間違ってると思うぞ。ミノタウロスはずっと俺たちを虫のように殺そうとしているからな。ずっと閻魔顔だ。少なくとも俺は菩薩顔なんて見たことない。
まあ、それはともかく。二人の無事な姿を、確認できたことで、仲間が揃ったことで緊張が少しだけ和らいだのは事実だ。もう結論を先に言ってしまうが、リーネとロバーツさん、二人の船長主導の下、チーム分けはすんなりと決まった。
一方が、シュテン、ロバーツさん、ハイレッディンさん、アセビ、ヘルガ、ユキ。もう一方が、まさかの俺、アリアさん、リーネ、ヒビキ、と戦闘ができるのがたった二人しかいない。正気には思えない組み合わせだった。だが、駄々をこねているアセビを除いて皆が納得している様子だったので、俺が二人の実力をまだまだ過小評価していたみたいだ。その後は順調に……ロバーツさんに首根っこを掴まれて引きずられてアセビを除いては議論もチーム分けも順調に進んでいった。
だから今は、ヒビキ、リーネ、アリアさんの三人と俺は迷宮内を並ぶように固まって歩いていた。隣にいるヒビキには悪いが、リーネとアリアさんが仲睦まじく会話をしている姿を後ろから見ているだけで胃の辺りがキリキリと痛む。先程の『輪廻転生』の話を聞いた後だとなおさら気が気でない。
「あ、そうでした。リーネ、よければこれをどうぞ」
「うん、いきなりね。その袋には何が入ってるのよ?」
「クッキーです。特別ですよ? 食べすぎないようにしてくださいね?」
「え、いいの!」
手渡されたクッキーを頬張りながら、リーネとアリアさんが俺たちを先導するように歩く。どこかで拾った金の腕輪を片手でいじりながら俺たちの前を歩いている。アリアさんがリーネとの会話の中で『輪廻転生』を考え直してくれたら嬉しいが……無理だろうな。無理そうだったから、俺も説得を諦めたんだ。アリアさんの計画を何とかリーネに伝えたい気持ちはあるけど、やっぱりそれはダメだよな。俺からリーネに伝えるのは筋が通らない。アリアさんは頑張っていつか自分の口で伝えると言ったのに俺が代わりに話すのはありえない。これは、俺がアリアさんの秘密を打ち明けて一人で勝手に楽になりたいだけだ。でも……なら、どうすればいいんだ?
ここまで他人のことで頭を悩ませるのは生まれて初めてのことだ。もう何が正解か俺には分からない。いや、正解がない問題だからここまで困ってるんだ。アリアさんの約束を守ってリーネに『輪廻転生』のことを伝えなくても後悔するし、約束を破ってリーネに『輪廻転生』のことを伝えても後悔するだろう。どちらを選んでも俺はきっと後悔する。言わなかったら言わなかったことに後悔するし、言ったら言ったで言ってしまったことに後悔してしまう。それに、リーネがアリアさんのことを信じて待つと言ったのに、横から俺が水を差すようなマネをするべきなのか。でも、手遅れになるかも……そんなことを真剣に考えていると、マイペースなヒビキが横から話しかけてきた。
「……あれ? ボクの記憶違いでなければ、確かジン君は『祭壇で待っている』って言っていませんでしたか?」
「ぅ、それは、そうだったけど。……ミノタウロスの死に様を俺はこの目で見ておきたかったんだよ。危ないことは分かっていたけど、そうしないといけない気がしたんだ。いや、ヒビキから見たらこの意見も場の流れに流された結果の後づけに聞こえるかもしれないけど、俺はこの結末を見届けたいって、見届けないといけないって、今は本気でそう思ってる」
「フフッ、言い訳をしなくても誰も責めていませんよ? いや、ジン君自身が責めてきているんでしょうか? 逃げたままだと勝てませんから」
ヒビキはゆらゆらと楽しそうに着物を揺らす。体幹がブレていないのが素人目にも分かるので、その技量は確かにスゴイ。だが、着物の裾がチラチラと視界の端で動いていて、目に邪魔なことには変わりがない。
「……また、ここでもお前は勝ち負け優先なのかよ。ヒビキは自分がミノタウロスに殴られて、死んでしまうとか考えないのか?」
「もちろん考えはしますが……それはそれで満足するでしょうね。死合いに負けるというのはボクにとっては死も同然ですからね。ミノタウロスに追いつくまでにはまだまだ時間があるようなので、ボクの不敗神話を聞かせてあげましょうか?」
「……例えば、それがじゃんけんでも?」
「おー、また意地悪な質問ですね。ですが、それがボクが命を懸けるに足るべきだと判断したら迷いなく死にますね。ボクが負けるときは、死ぬときだと決めています。人間が神話になるには不敗であることが前提です。例え、運良く生き延びたとしても自分で自分の腹を斬るでしょう。つまり、今、ボクがジン君の隣を歩いているということこそボクが一度たりとも死合いに負けたことがないということの証左です」
「……ッ、どいつもこいつも」
自分でもいつものヒビキの軽口に苛立ちを覚えたことを不思議に思った。彼はいつもと変わらない。変わってしまったのは俺だ。おかしくなっているのは俺だ。いつもなら気にも留めない言葉が、死や終わりという単語に過剰に反応している。クックの死を目の前で見て、ヤモリさんたたちに命を助けられて、アリアさんのいなくなるかもという話を聞いて、俺の中で『何か』が変わった。意識というか、考え方というか、まだ今の俺には明確な言葉にできない『何か』が変わった。だから、いつもなら軽々と流しているところをさらに一歩彼の内面に踏み込んだ。
「……なぁ、ヒビキ。お前も死にたいのか?」
「『お前も』と複数形なことが気がかりですが……ジン君が、ボクの生き方に興味を持ってくれたことに免じて流しましょう。君の『死にたいのか』という今の問いは、いいえと否定しなければいけません。ですが、『死んでもいいのか』という問いだったならば、それでも構わないと肯定しなければいけません。それが、ボクの在り方ですかね?」
俺の問いを聞いた瞬間、ヒビキは足を止めず心底愉快そうに笑っていた。着物の裾が揺れるたびに、彼の巨大な影が迷宮の壁に踊る。彼の声色と雰囲気が、俺にはいつもより少しだけ真剣なものに変っている気がした。
「重要視するべきは『どう生きるか』ではなく『どう死ぬか』。強く意識するのは常に『生』よりも『死』であるべきです。死を意識してこそ、今この瞬間の生に価値が生まれるものですから。それに、数々の死を間地かで見てきたボクが言いますが……死に様とは存外、呆気ないものです。だから、侍はわざわざ死を着飾って意味のあるものにしたのですよ」
「だから、ミノタウロスとの戦闘で死んでも構わないって?」
「はい、ボクはそれでも構いません。むしろ、ボクを殺せるほどの凶悪な怪物、神話の化け物どもに挑んで殺されるという名誉ある死を遂げることにボクは大変満足するでしょう。美しく死にたい、綺麗な形で終わりたい、というのは人間の中にあるどうしようもない欲望のはずでしょう? 生来、人間とは格好つけて死にたい生き物なのですから。ジン君にも覚えはありませんか? 恋人を、子供を、兄弟を、赤子を、友を、身近でなくてもいいから誰かを守って死にたいと妄想したことは? 夢のためになら死んでもいいと妄執に駆られたことは? 君たちはまるでボクのことをを異常者のように語りますが、常に『死』を覚悟し、限られた『生』を大事にしているこのボクが実は、一番人として正しい道を歩んでいるのではないでしょうか?」
「……」
「人生は死ぬまで暇つぶし……いえ、死んでからもすべては暇つぶしでしたね。ならばこそ、目指す高みが高ければ高いほど、幸せなんじゃないでしょうか?」
一理ある。彼の言っていることがすべて正しいとは言わない。だが、少なくとも彼なりの理屈が通っているのが分かる。死を飾ることで生を際立せるという哲学は、武士道は俺にだって理解できる。だが、気に食わない。チラリとアリアさんのことを盗み見る。リーネのことを優しく見守っている彼女のことを見る。死を恐れずに受け入れることを美徳としている彼の在り方が、彼女の生き方が、とにかく俺は気に食わなかった。そして、心の底から彼の言っていることが間違っていると俺は思った。だから――
「なら……なら、言わせてもらうが……お前は絶対に神になんてなれないよ。このままだと、ヒビキは……神話に名を残すことさえできない。お前は夢を叶えることはできずに、いつか皆の記憶から忘れられる。……大多数の人間と同じようにだ」
「……今日は特に、面白いことを言うのですね。その心は?」
ヒビキの声音はいつもと変わらない。抑揚がなく、平坦としていて、声から感情を読み取ることができない。そんな彼が、ヒビキは流し目でこちらを見てきた。ゾッとするほど美しい。もともと目鼻立ちは整っているとは思っていたが、何よりも彼の表情が美しかった。まるで抜身の刀のような怖さと美しさが今の彼の表情に同居していた。彼の初めて見る表情だった。敵意だ。これは、敵意。彼が俺に初めて向けた明らかな敵意の感情。そんな、俺の考えを肯定するかのように彼の漆黒の瞳、その目の奥底には俺の答えへの好奇と、わずかな苛立ちと、こちらの真意を探るような威圧が宿っていた。
俺は思わず生唾を呑んだ。喉元に、切っ先を向けられているような緊張感に表情がこわばる。彼が発する底知れぬ冷たさのせいで、腹まで痛くなってきた。冗談抜きに殺されるかもしれない。彼が俺に向けた敵意は、グリフォンやヒュドラやミノタウロス、神話の怪物たちと対面したときの威圧感と大差がない。いや、それどころか、彼らが振り回す暴力の気配よりもさらに鋭利に研ぎ澄まされていた。
そんな殺意に近い暴力の気配が、俺一人に向けられているのだ。理性は今すぐに頭を下げて謝るべきだと囁いてくる。だって、今の俺はヒビキに八つ当たりをしているだけだ。気に食わないからと深く考えずに適当を言ってるだけだ。彼はスゴイ。かの有名な大剣豪、宮本武蔵のように磨きぬいた人外級の武芸だけで、彼はやすやすと歴史に名を残せるだろう。後は、悲劇的な死や、記憶に残るような死に方をすれば完璧だ。だが、感情が、本能が、思いの丈を吐き出してしまえと告げてくる。気に食わない。何故か、苛立つ。どうしても俺は、彼の言い分が気に食わなかった。理由は自分でもまだよく分かっていない。分からないが、モヤモヤとするのだ。
子供っぽい、幼稚だ、そう言われても仕方がない行為だ。これは今、俺が自分自身に対して思っていることだ。大人しくヒビキに『ごめん、俺が間違えていた。忘れてくれ』と謝って口を閉ざした方がこの場は丸く収まる。というか、俺の意見はどこまで行こうとただの感情論だ。俺の言うことには一理もない。だから、正しいわけがない。そんなことは頭では理解できている。だが、止まれなかった。俺は、頭に浮かぶ理屈をすべて押しのけて感情だけで言葉を続けていた。
「これは、これは……エルフの里で、ヒビキの話を聞いた俺の考え、俺なりの解釈だから……もしも間違っていたら、否定してくれても構わない。ヒビキは『神になりたい』『神話になりたい』と言っていたが、ヒビキの夢は、求めているものの本質は……ただの功名心だ。違うか?」
「……聞きましょう」
ヒビキは俺の言うことが意外と的を得ていると思ってくれたのか、それともただ面白半分で見逃してくれているのかは分からない。だが、彼は鷹揚に頷くと聞きの姿勢を取った。俺のふざけた話をきちんと聞いてくれるようだ。
「ヒビキの価値観は俺からしたら遠すぎて、まだ共感できない部分もたくさんある。というか、数ヶ月間見てきてもお前のことは良く分からない。良く分からないことだらけだ。でも……でも、名声や成功だけを追い求めている人間のことは良く分かる。俺も、現世ではそうだったから。親に、兄貴に、誰かに、認めて欲しくて、褒めて欲しくて、頑張っていたからな。功名心が強い……つまり、ヒビキは誰よりも自分のことを認めて欲しんじゃないのか?」
「……」
「……もし、もしそうなら、やめておけ。さっきヒビキは、ミノタウロスに殺されても満足できるみたいなことを言っていたけどそれはただの勘違いだ。名誉ある死なんてこの世にはない。ただ、悔しい想いを抱えたまま……後悔を抱えたまま、無念のうちに死があるだけだ。死んだ後に褒められるようになっても、評価されても、遅いんだよ。生きてるうちに認められないと……」
ヒビキは悩むような仕草を見せて、ゆっくりと右目を閉じた。否定も肯定もしてくれない。沈黙が続く。彼はずっと口を閉ざしたままだった。苦しい。勢いが欲しい。今は、冷静になりたくない。冷静になってしまったら『俺なんかが何を言ってるんだ』と自己嫌悪が始まる。拳を握る。力一杯、拳を握った。俺では、彼の相手にもならない。彼の挙動一つひとつが鋭利な刃のように突き刺さる。右目を閉じたまま彼は、俺の内面を見透かすような素振りを見せてようやく口を開いた。
「……ボクは、大前提として人の生き死にに他者が口を挟むべきではないと思っています。その行為自体がすでに粋ではなく、野暮であると考えています。ですが、君の青さに当てられて気が乗りました。もう一度問いしますが……死の恐怖よりも、戦いの愉悦が勝ってしまうのはおかしなことでしょうか? 先程も述べたように……誰もが一度は思ったことがあるはずです。作家や画家がベットの上ではなく、ペンを握り締めたまま仕事場で死にたいと思うことは普通のことでしょう? 他にも、剣に生きた人間が命を懸けた激しい戦いの中で、血風の中で散りたいと思うことは自然ではないでしょうか? 能楽師や歌舞伎役者が舞台の上で死ぬのは本望ではないでしょうか? もっと、ジン君にも身近な例だと……愛する妻子のために身を粉にして働き、家族が幸せになるなら死んでもいいと思っている父の気持ちは? 病床に臥せた我が子を前に自分が死んでも我が子を助けたいと願う母親の気持ちは? これらすべての想いが間違いだと? これらすべての願いが誤りであると、君は断じるのですか?」
「……間違ってないよ。そういう人たちがいるのは、俺も知ってる。……だけど、それは勝手が過ぎるよ。お前の周りの人は、ペンを持って死ぬよりも、刀を振るって死ぬよりも、誰かを庇って死ぬよりも、生きて欲しいに決まってるだろ? しょうもない人間になってもただ生きているだけでいいと思ってるに決まってる。ヒビキもどうせ最後は綺麗に死にたいと思ってるんだろ? だけどよ、無様でも、生きた方がいい。死ぬよりも生きた方がいいに決まってる。生きたかったに決まってるんだよ。ヒビキがその、バカげたほどデカい夢を本気で叶えるつもりがあるなら、そっちの方がいいはずなんだ!」
「……その根拠は?」
「――ッ! 死に様が有名になった事例なんて、それこそ日本だと織田信長ぐらいだ。いや、世界史を調べれば他にもいるかもしれないけど。俺みたいな大多数の人間は歴史上の人物がどう死んだのかなんて興味がないんだよ! 神話に出てくるヤツらは死んだわけじゃない。星になって生きてるんだよ。だから、死を受け入れてる今のお前が、皆の心の中で生き続けてる神様になんてなれるわけがないだろ!」
「……良く分かりませんね。つまり、ジン君はボクに何を伝えたいのでしょうか?」
「ッ! つまり、生きろってことだよ! 本気で神様になりたいんだったら死に様じゃなくて、生き様で俺に語ってみろよ! 理想の生き方じゃなくて、理想の死に方ばっか考えているお前には難しいことだろうけどな? 俺から見た今のお前は、頑張ることが嫌になって逃げてるだけじゃないのか? 途中で夢もすべて投げ捨てて逃げたくなったんだろ? 違うんだったら違うと胸を張って言ってみろよ!」
自分でも滅茶苦茶なことを言っているのは理解している。だが、やっと分かった。今、胸の奥にあるこの焦燥感にも似た苛立ちの正体がやっと分かった。置いて行かれることへの苛立ちだ。一人で勝手に満足して、一人で勝手に死に場所を探している彼ら彼女らへの苛立ちだ。ようやく仲良くなれたのに。ようやく皆のことを知れてきたのに。仲間になれたのに。いなくなるなんて、いなくなろうとしているなんて……そんなの、嫌だ。寂しい。許せないんだ。
というか、おかしい。現世での俺は、もっと大人だったはずだ。大人ぶれていたはずだ。クラスでも騒がず、静かで、真面目で、ルールを守っていた。先生たちからもその点だけは評価されていた。それだけを、評価されていたのに……なのに、黄泉の国で人と深く関わるようになってから、感情の制御ができなくなっている。少なくともこんな駄々をこねるような真似はしたことがない。ここまで俺は精神年齢が幼かったわけがない。幼くなっている自分に嫌気がする。
これも全部、ヒビキの……アリアさんの、リーネのせいだ。リーネと出会ってから俺は何かが変わっているんだ。知らぬ間に、俺は彼女に影響を受けて、変えれてしまったんだ。俺が一人そんなことを考えていると、感情の機微を見落とさないためかヒビキは瞳孔を見開き、こちらの様子を伺うようにジッと見つめてきた。
「ほぉ、言うようになりましたね。ならばボクも、意地悪な問答を君に返しましょう。ジン君だって何度も死ぬような経験に遭いながらもまだ海賊を続けている。そして今、ミノタウロスの最期を見届けるために危険を覚悟してここまで来ている。今の君は自分の在り方を求めて、探して、死の瀬戸際に向かっている。その行為は、ボクと大差ないように思えるのですが……それは、何故なのでしょうか?」
「それは――」
答えられなかった。悔しいことに、俺は彼の問いに答えを出せなかった。自分の感情に、考えに、整理がついていない状況で思うがままに言葉を、我儘をぶつけている今の俺ではヒビキの問いに対して何も答えることができなかった。
「……」
少しだけ真剣に考え込む。『何故、海賊になったのか』……それはリーネに誘われたからだ。シュテンに打ち明けて初めて自分で選んだ道。だが、ヒビキの問いの本質は『何故、今も海賊を続けているか』だ。食っていくため、餓えないため、それも理由の一つだ。リーネに誘われてそれ以外の選択肢がなか——いや、別に止めてもいいんだ。今は選択肢が色々ある。それこそ、頼み込んでサクラコさんの『藤の花』で働かせてもらった方が安全だ。というか、リーネも俺に、海賊以外の、他の選択肢を広げさせるために俺を紹介して回ったんだと、今なら思う。なら、何でこんなことを続けているんだ。もっと安全に、それこそ『綿菓子』のように現世の知識を活かした商売をする道だって俺にはある。あるはずなんだ。でも、考えたことがなかった。海賊を止めるなんて、一度も考えたことがなかった。そんなことを真剣な顔で考えていると、隣を歩いていたヒビキは呆れるような深い溜息を吐いた。
「……鈍いと言うべきですかね。ここまで分かっていて未だに自分のことすら分かっていないとは。君は、自分の心にできた新しい傷には見えていない。古傷ばかりに目を向けて……今、傷が増えていることにも気付いていない。見向きすらしていない。ボクにはそのことが哀れで、嘆かわしいことに思えます」
「……」
「今、君がするべきことは過去を振り返えることでも、感傷に浸ることでもありませんよ? 過去は変えられない。君にできることは今の自分の心に目を向けることだけです。でないと、いずれその傷は酷く膿み、取り返しのつかないことになりますよ?」
「……俺はあんまり頭が良くないからさ。ヒビキが何を伝えたいのかよく分からない。だから、もっと俺にも分かるように言ってくれないか?」
ヒビキは静かにこちらに手を伸ばし、そっと俺の胸に触れてきた。まるで心臓を撫でるような優しい手つきだ。俺は戸惑いながらも彼の行為を受け入れる。彼があまりにも寂しそうな表情をしていたからだ。同情するような、憐れむような、そんな寂しそうな表情だった。
「それは、ボクの口から言うべきことではありません。君が自分で見つけることこそが重要であるとボクは思います。それこそ、ゆっくりと時間をかけてね」
「……ゆっくりしてたら、傷が膿むんじゃないのかよ?」
「ハハハ、確かに。そうですね。これは一本取られました。ですので、傷が酷く膿む前にジン君は自分で自分の心の傷に気付かないということになりましたかね? そうでなければ後悔の念に苛まれて……いつか君の心が牙を剥き、君自身を殺してしますからね? これは先人であり、友人でもあるボクからの忠告です。頭の片隅にでも入れておいてください」
「……ああ、分かったよ。頭の……隅の隅くらいには入れておくよ」
さっきまでとは打って変わって心底楽しそうにヒビキは笑った。彼が何が楽しみを見出しているのかはよく分からない。というか、分かる気がしない。ヒビキの笑みの、言葉の裏に意識を向けようとすればするほど俺の胸の奥にざわめきが広がり、頭が痛くなってくる。
「素直ではありませんね。いや、逆に素直なのかもしれません。回りくどい言い回しでがありますが、ボクの忠告自体は聞き入れているわけですから。忠告を素直に受け入れることができるのは君の美徳です。ボクも少々見習わなければいけません。だから、ボクも先程のジン君の言い分を聞き入れましょう。うん、よくよく考えれば理にかなっている気がしてきました。ジン君は意外と口が上手いですね」
「回りくどいって……ヒビキにだけは言われたくないぞ。というか、さっきのって何のことだ?」
「……はぁ、呆れました。もう忘れたんですか?」
ヒビキ相手に感情に任せて、八つ当たり気味に言葉をぶつけてしまったので、あまり内容をよく覚えていなかった。
「ジン君は『死に様ではなく、生き様で俺に語ってみせろ』とボクに言いました。ボクを陰で『狂人だ』『頭がおかしい』と切り捨てる人間は数多いましたが……真っ向から否定した人間は今までいませんでしたからね。新鮮です。新鮮な気分です。だから、少しだけ影響されてもいいのかもしれませんね?」
「影響って、どういう……」
「本当に鈍いですね。ジン君の言葉に影響を受けて、生き方を変えてもいいと言っているんです。そもそもまだ舞台の途中なのに、終わり方を考えるだなんて……ボクらしくありませんでした。そのことに気が付いただけです。死に様ではなく、生き様こそを人は語るですか……そのことをついうっかり失念していました。ならば、ボクも自分の在り方を見直すべきでしょう。ボクが神へと至る階はまだまだ続いているのですから、最後の場面をどう美しく飾るかよりも、今この瞬間をどう演じるかが大切なのだと。ボクはもうそう在らねばならないはずなのに……君のおかげで初心に帰ることができました」
「ということは――」
「ただし、ジン君に一つだけ条件があります」
「……条件?」
喜びにも似た不思議な感情が湧いてきたのも束の間、その言葉を聞いた瞬間胸の奥に冷たいものが走った。冷や水をかけられたような感覚だ。ヒビキの声音は穏やかで落ち着いている。だが、その裏には何か得体の知れないものが潜んでいるように思えた。いつものことだ。俺は思わず息を呑み、警戒心を露わにしながら問い返す。条件とはなんだ。ヒビキは俺に何を求めているんだ。そんな疑念と不安が胸中で渦を巻く。そんなことを考えていると、ヒビキは色気すらある微笑み携えて、冗談めかした笑い声を漏らした。
「安心してください。ボクがジン君に求めることはたった一つです」
ヒビキの瞳には確かに冗談めかした軽さを帯びていた。軽さが帯びているのに、目が合うと真っ黒な瞳の奥の方では鋭い光が潜んでいる。目を逸らせば、たちまち飲み込まれてしまうような錯覚に襲われた。自分でも分かるほどに肩が強張り、無意識に背筋を伸ばした。ヒビキの言葉の裏にある真意をまだ測りかねているからだ。だが、彼は躊躇いも臆することなく、容赦なく口を開いて言葉を続けた。
「――ボクのことをずっと見ていてください。ずっと聞いてください。ボクのことを、ずっと忘れないでいてください」
カランコロンとわざとらしく下駄を鳴らし、俺の前に立ち塞がるようにヒビキは足を止める。彼の影が覆いかぶさるように俺の瞳を覗き込んでくる。ふざけたことを言う彼に対して俺は思わず苦笑を浮かべ、緊張を誤魔化すようにいつものような軽口を返した。
「……お前みたいなキャラの濃いヤツを忘れれるわけないだろ? 俺が出会ってきた中でも一二を争うキャラの濃さだぞ?」
「本当ですか? ボクは少なくとも後千年は生きるつもりですよ? ボクが言う『ずっと見ている』というのはボクの友人として千年を共に生きるという意味です」
「……お前が言うと嘘に聞こえないから怖いよ。というか、なら無理だ。俺はせいぜい百年くらいしか生きることができねぇよ。普通の、どこにでもいるただの人間だからさ。ギネスでも百二十歳くらいが限界じゃなかったか? 俺には到底無理だよ。……実際、もう一度死んでるようなものだしさ」
「……そうですか」
ヒビキはそう小さく呟いた。冗談めかしたいつもの調子は鳴りを潜め、ほんの一瞬だけ落胆した様子で肩を落とした。シュンとした仕草はどこか子供のように拗ねていた。ここまであからさまに落ち込まれると俺が悪いことをしたように思えてしまう。ただ普通のことを普通に言っただけなのに。最後の渾身のギャグがいらなかったかもしれないな。後悔が遅れて胸の奥で小さく疼いた。
「……まあ、俺が生きてる間くらい……少なくとも百年くらいなら、ヒビキのことを見ていてやるよ。俺の頭が先にボケてなければだけど……」
「そうですか」
だから俺は、軽口の体裁を保ちながらも遠回しに慰めの言葉をかけた。彼の機嫌を取るように。素直に正面から慰めの言葉をかけるだなんて小っ恥ずかしくて俺にはできない。だけど、ほんの少しでも落胆を和らげることができればいい……そんな思いを込めてぶっきら棒に言い放った。
ヒビキはその言葉を聞くと同時にわずかに目を細めた。先程まで沈んでいた肩がゆっくりと持ち上がり、口元に微かな笑みが戻る。何だか、とても嬉しそうだ。機嫌を取るのが狙いだったとはいえ、素直に喜ばれると気味が悪いな。
「延々と……一人きりでこの長い道を歩むのはお喋り好きなボクには寂しいことです。まあ、幸いなことにジン君とボクは歩んでいる道が違います。だから、命の取り合いに発展することはないでしょうから。そこは、安心してください」
「怖いし、物騒なんだよ、さっきから。というか……ん?」
「……喧嘩中だったかしら」
二つの人影が、リーネとアリアさんの姿が近くなったので顔を隣にいるヒビキから正面に向けると……俺たちの会話にリーネの小さな声が割って入ってきた。彼女は「珍しいわね」と呟きながら、心配そうにこちらを見てくる。眉をわずかに寄せて、俺たちの間に漂う空気を図るような視線だ。
アリアさんも彼女の隣で静かに立ち止まり状況を優しく見守っている。ヒビキは二人の視線に気付くと同時にわざとらしく肩を竦めて、お道化てみせた。大げさに両手を広げて、芝居がかった笑みを湛える。うん、いつものように胡散臭い笑顔を貼り付けたヒビキに戻った。
「心配ご無用です。ボクらはただ会話を楽しんでいただけですよ。とても仲良しですから。ねぇ、ジン君?」
「……ああ、そうだな」
俺はヒビキに合わせて短く答えた。軽口の延長のように聞こえるかもしれないが、リーネとアリアさんの視線を前にしてそれ以上言葉を重ねる気になれなかったからだ。心配をかけたくないのは彼と同じだ。特に世話になってる二人にはできる限り心配かけたくないと本心からそう思っている。すると、俺たちの思惑を察したリーネは心底呆れたように深い溜息を吐いた。
「……二人とも年頃の男の子だものね。私たちに聞かせられないことの一つや二つあるはずよね。なら、これ以上は深く聞かないわ……」
「おい、待て。リーネは何か致命的な勘違いをしてい――ブッ、タ!」
「それよりも何かボクたちに話すことがあったのではないですか? 先にそちらを聞きましょう」
訂正しようと開いた口を横にいたヒビキに素早く手で塞がれた。バシッと顔を叩かれて弱い痛みが広がっていく。音が出るほどの威力があった。否定の言葉が喉の奥で詰まった。だが、ヒビキは気にした様子はない。彼は俺の抗議を遮るようにわざとらしい笑みを浮かべたままリーネとアリアさんに次の話題を促した。
「いや、私たちは二人が喧嘩をしているのかと思ってね。さっき声を荒げていたでしょう。だから、もし喧嘩になったのなら間に入って仲裁しようとしただけなんだけど……でも、そうね。せっかくだし話を聞こうかしら。さっきから考え事をしているアリアにね」
「……私ですか?」
リーネの呼び掛けにアリアさんは少しだけ驚いたように目を瞬かせ、視線を彼女に向けた。彼女の声は明らかに戸惑いが混じっている。普段かは静かに場を見守ることが多い彼女が、急に話題の中心に引き寄せられたことで、わずかに肩を強張らせていた。
「ええ、さっきから何かを考え込んでいるように見えたの。言動もどこが上の空っていうか……不自然だわ。だから、何か気になることがあるならここですべて話してちょうだい? あ、もちろんさっきの話を聞き出そうとしているわけじゃないわよ。それは、いつか話すって約束したものね。でも、気付いたことがあるなら船長である私を信じて共有して欲しいのだけど……」
「……」
自身の悩みを見抜かれたアリアさんは、困ったように眉尻を寄せ、視線を宙に彷徨わせていた。言葉を探して誤魔化そうとしているのが、俺にだって分かる。だが、リーネは真剣な眼差しでジッとアリアさんのことを見つめる。逃げ場を与えないつもりのようだ。そして――
「それとも……また、私に言えないことなの?」
リーネは先ほどと同じように不貞腐れたように頬を大きく膨らませて、さらに言葉を続けた。その仕草はまるで子供のように見えて……いつもよりも幼く思えた。そして、その行為が逆にアリアさんを追い詰める圧を持っていた。やがてアリアさんは小さく息を吐き、根負けしたように静かに口を開いた。
「……はい、分かりました」
長い沈黙を破った彼女の声は微かに震えている気がした。
「……リーネはすでにミノタウロスを殺すと決めたんですよね」
「ええ、そうね」
アリアさんはリーネの答えを聞くと、わずかに目を伏せた。長い睫毛が影を落とし、彼女の横顔には複雑な感情が浮かんでいる。俺は二人の会話に口を挟むことができなかった。隣のヒビキは事の成り行きをいつも通りの笑みを貼り付け、静か見守っている。完全に静観を決め込むつもりのようだ。
「私が最初に出会ったミノタウロスは工夫をすれば捕獲ができると思っていた。実際、そこまでの脅威には感じなかったからね。でも、ああなってしまったら話は別よ。私たちにはミノタウロスを止める確実な手段がない。それこそ、息の根を止めることしかね。私が言ってもどの口がと思うかもしれないけど……上に立つ人間が何度も何度も決定を覆すのは皆の方が振り回されて迷惑になるでしょう?」
リーネは自らの言葉を噛み締めるように、船長としての立場を戒めるようにさらに続けた。彼女を見ているとまるでアリアさんではなく自分自身に言い聞かせるような感じがする。
「……正直、今も私の思いはアリアと同じよ。ミノタウロスをできるだけ傷つけずに捕獲する方法があるならそうしたい。でも、私はいつまでも悩んではいれないもの。悩みは躊躇いを、躊躇いは取り返しのつかない隙を生んでしまう。だから、あの暴れん坊のミノタウロスを無力化する方法でもない限り、私の判断は――」
「……一つだけ」
アリアさんのその声は小さかったが、確かな意思を秘めていた。迷宮に足を踏み入れる前と同じ湖面のような澄んだ瞳で彼女を見据える。美しい瞳だった。今の彼女の瞳には有無を言わせない雰囲気があり、信心にも似た強い光が宿っていた。
「……一つだけ、試してみたいことがあるんです」
ロザリオをぎゅっと握り締めながら放たれる彼女の覚悟の一声。彼女の響きは場に重く落ち、彼女の震えは心臓の早鐘のように打つ。言葉一つひとつが際立っていて、不思議とストンと頭の中に沈み込んでいる。凶悪なミノタウロスを最後まで救おうとする彼女の姿は、俺の目には聖女のように見えた。
「……戦えない私が口を出すべきではないし、ミノタウロスが殺すべき存在であるというのは分かっています。でも、殺すのなら……最後に……リーネはこれから私が話すことを信じてくれますか?」
「ええ!」
リーネはアリアさんの質問に間髪入れずに短く答えた。さきほどまでのリーネは船長としての責務と仲間への思い、その二つが彼女の胸の中でせめぎ合っているように感じだ。だが、今の彼女の声色には迷いなど一切なく、アリアさんへの信頼や信用だけが滲んでいた。
一瞬だけ、意表を突かれたような驚きの表情を見せたアリアさんはやがて静かに、ゆっくりと息を整えた。いつも通りのリーネの声で、彼女の震えが収まり、胸の奥に渦巻いていて不安が解消しいくのが見て取れる。彼女の内面を表すみたいに手に持っていたロザリオが鈍い光を放つ。
そして彼女は、俺たちに『試したいこと』をポツリ、ポツリと話してくれた。言葉は慎重に選ばれ、吐き出すたびに俺の心には『それは、ありえないだろ?』という気持ちが広がっていく。だが、リーネは目を逸らさずに彼女の一言一句を逃がすまいと耳を澄ませている。彼女たちのそんな彼女たちの姿を見て、俺もまた心のどこかで思っていた。もしかしたら、本当に奇跡が起きるかもしれない、と。こうして俺たちは、ミノタウロスを捕獲するという目標を再び掲げることになった。船長命令には逆らえない。アリアさんのどれまで信じていいか分からない……けれど、どこか信じたくなるような、そんなふざけた作戦を実行することになった。




