第八十二話 『星を拾う』
ミノタウロスの恐ろしい姿が俺の視界に入った瞬間、二つの影が素早く駆け出した。アセビとロバーツさんだ。二人が同じタイミングで、変貌したミノタウロスへと攻撃をしかけた。唸り声を上げるロバーツさんは、まるでナイフのように鋭い爪を剥き出しになった筋肉に突き刺した。好戦的な笑みを浮かべたアセビは美しく装飾された双剣を交差させ、低く身構えながら接近し、ミノタウロスの太い腕へと一気に振り下ろした。血が噴き出す。血が噴き出す。鮮血が舞う。迷宮の天井から降り注ぐ夥しい量の血の雨が、俺の髪を真っ赤に濡らす。
近くでリーネがサーベルを鞘から引き抜いたようだ。金属が擦れるような音が聞こえてきた。視界の端にヘルガが弓に矢を番える姿が見えた。アリアさんが石柱の陰に身体を隠し、レインちゃんはいつの間にかユキへと変わっていた。
再び、ミノタウロスの方に視線を戻せば、魔法によって五人に『分身』したアセビが絶え間なく攻撃を浴びせていた。ロバーツさんはすでに獣のような俊敏さで側面へと回り込み、ミノタウロスの逞しい首筋を鋭利な牙で噛み千切っていた。場面の転換が……移り変わりが激しすぎてついていけない。ミノタウロスと接敵してまだ十数秒。俺は動けずにいた。目まぐるしいく変化する戦況に、動き続ける二人に、もう頭が追い付かない。何をするべきか、何ができるのか、動いていいかどうかすらも判断ができない。俺がこんな危機的状態で呆然としていると――
「ユキッ!」
レインちゃん……いや、ユキはリーネの期待の込められたその声に応えるように、ミノタウロスの巨大な拳を身体で受け止めた。迷宮の壁を粉砕するほどの凄まじい衝撃を少女がその身一つで受け止めた。彼女は父親による秘術でキョンシーになった影響で、刀やナイフや斧といった刃物を振り下ろされたとしても彼女の血の気がなくなった青白い肌は傷一つつかないだろう。最硬の肉体。偶然の産物ではあるが、彼女は最硬の肉体を手に入れたのだ。
「ヴッッッ!」
ユキはそのまま伸びた爪をミノタウロスの腕に食い込ませ、捻じ切るように全身を一回転させた。だが、皮膚では包み切れない筋肉の塊は今も再生を続けている。浅い。浅い。まるで鋼線の束を密集させたような肉質の前に、ユキの攻撃は阻まれてしまった。彼女が与えた切り傷はミノタウロスに微量のダメージしかない。もう再生を終えてしまった。だが、いきなりユキが攻撃したミノタウロスの腕の部分が、青紫色に変色した。
「な、なんだ?」
「知らないの? キョンシーの爪牙には毒があるのよッ!」
ミノタウロスを警戒した俺の問いにヘルガが答えてくれた。俺よりも付き合いが短いはずなのに、ヘルガの方がキョンシーの特性を知っているのは不思議だが……どうやらミノタウロスの攻撃ではないようだ。安心した。俺がこんなことをしている間に、ヘルガが風の魔法で操った矢がミノタウロスの右上の目に当たった。リーネが地面を這うような火炎で右脚を燃やす。
ロバーツさんが野生の敏捷さでミノタウロスを翻弄し、上手い具合に注意を引く。アセビは彼が生み出した隙を突くように、的確な攻撃をくらわす。爪が抉り、双剣が裂く。だが、大した損傷ではなさそうだ。というか、ミノタウロスの再生が早すぎてダメージが与えられているかも分からない。ユキの毒は結構効果があったみたいだがすでに元通りになっている。再生力が高すぎるせいか、連撃で血を流し過ぎているせいか、もともと毒に耐性があるのか分からない。だが、ミノタウロスに毒は有効打にはならなさそうだ。
というか、ミノタウロスは再生すればするほど原形を保てなくなっている気がする。最初に見たときはゲームでよく登場する人間の身体に牛の頭を持つ化け物の姿だったはずだ。だが、今のこいつはミノタウロスというよりも、スライムに近い。液状だ。無理やりにでも表現するなら筋肉のスライムだ。攻撃されたそばから回復しているせいで、傷口が蠢き合っている。まるで触手のように筋肉の繊維が、筋が蠢き合っている。グロイ。手足があるせいで……ギリギリ原形が分かるせいで、かなりグロイ。というか、何でここまで不気味な姿に変貌しているんだ?
生物の原型をかたどるように存在する皮膚が破れて中身の筋肉が漏れ出している。学校の理科室に放置されている人体模型を見たような気分になった。最悪だ。粘性の筋肉が地面を這うようにもぞもぞと動いている。気持ち悪い。だが、こんな姿になっても一丁前に痛みだけは感じているようだ。痛みに耐えかねたミノタウロスは、大暴れしながら右手を振り上げる。そのせいで、天井を崩れた。落石が起こった。落石が起こった。我に返った俺は急いで距離を取る。
「……ッ!」
落石から頭を守るように腕を上げて走った。走って、走って、走って、何とか石柱の陰まで辿り着き、身を隠す。避難を終えた。そして、荒くなった息を整えながら振り返ると、戦況は拮抗を始めていた。いや、優勢のはずなのにミノタウロスの高い再生力がそれらを帳消しにしている。決定打を与えられていない。どれだけ攻撃を重ねても傷は瞬く間に塞がり、血肉が盛り返す。つまり、このままこの状況が続けば、先に体力を消耗するのはこちらだ。俺の頭に『こんなヤツを殺せる手段があるのか?』という疑問が過った瞬間、全員に聞こえるようにリーネが声を張り上げた。
「前よりも再生が早いわ! このままッ、ちまちまと攻撃をしても埒が明かないッ! どうにかして重たい一撃を与えないと!」
「ッ、言うは易く行うは難しっテナ! それを、どうするかが難しいんじゃねぇノカ?」
「でも、何とかしないと、このまま消耗戦で押し負けるだけだし!」
苛立ちが声に出ている。いや、それは当たり前だ。目の前で『お前たちのやってきたことはすべて無駄だ』と見せつけられてイラつかない人間はいない。じわじわと削られ、押し負ける……そんな未来が俺にだって分かるんだ。当事者の、全力で頑張っている彼らにはとてつもないストレスだろう。
努力が無駄になることの虚しさを俺は知っている。徒労に終わった努力を飲み込む時間が必要なことを俺は良く知っている。それが、自らの命懸けている最中ならなおさらだろう。彼らが受けているストレスは俺の想像を絶するはずだ。それでも、彼らは立ち止まらない。すると――何かを悩んでいたリーネが意を決したような表情で、力強く迷宮内に再び声を響き渡らせた。
「……一つだけ策があるわッ! 皆はこのままミノタウロスを攪乱してちょうだい! 私が何とかしてみせるわ! これからサーベルに炎を、熱を、一点集中させてミノタウロスの首を焼き斬り落とす。始めてやるから、一か八かになるし、時間もかかるけど……それでもやらないよりは――」
「なら、ワタシがやるわ!」
その瞬間、リーネの言葉を切り裂くように別の声が鋭く割り込んだ。声の主はヘルガだ。鈴を転がすような澄んだ声で、彼女は高らかにそう宣言した。彼女の声には焦りはなく、確かな覚悟が滲んでいた。だからだろう。リーネが試すように、託すように、ヘルガの瞳を見つめていた。その視線にはわずかな安堵と仲間に対する深い信頼が宿っていた。
「……できるのね?」
「ええ、任せなさい!」
ヘルガは自信満々に微笑みながら、深く頷いた。その笑みはまるで断崖に咲く一輪の花のように、凛としていて、どこか頼りない。だが、それ以上に強く、逞しく思えた。張り詰める糸のように迷宮全体が震えていた。俺たちには時間がない。考えるだけの時間がない。だから、リーネは即座に決断を下した。
「ジン、縄!」
「え、お、おう!」
いきなりの船長命令に、どこか気が抜けたような返事をしながら俺は魔法で縄を生み出し、束ねて、リーネに投げ渡す。
「前言撤回するわ! ミノタウロスがこうなってしまった以上、捕獲する術が今の私たちにはない! だから、犠牲者を出さないようにここで絶対に仕留めましょう! 三人はヘルガが魔法を撃つ隙を作るために協力してちょうだい!」
リーネはそう言うとアセビに俺が生み出した縄を投げ渡した。五人いるうちの一人が、その縄を空中でキャッチし、ロバーツさんがその端を受け取る。ミノタウロスの首を縄を巻きつける二人の動きは、まさに阿吽の呼吸だ。お互いが何をしたいのか、言葉にせずとも通じ合っている。先に意図を読んでいなければできない所業だ。そのまま速度を保ったロバーツさんが石柱や壁を足場に何重にも巻きつけていく。自縄自縛。再生をするために膨張を続けるミノタウロスの筋肉は、自分で自分を締め上げている。ミノタウロスは苦しそうな悲鳴を上げ、動き回るアセビとロバーツさんに攻撃を仕掛けたが、二人は縄を手にしたまま華麗にその攻撃を避けてしまう。見惚れてしまうほどの連携だった。
その間にも、ユキは毒牙で引っ掻き傷を与え続け、リーネは二人の邪魔にならないように魔法で生み出した火炎を器用に操りミノタウロスの血肉を炙っていく。肉が焼ける。肉が焼ける。焦げ臭い。嫌な臭いが迷宮内に充満する。順調だ。今のところは順調だった。未だに何をするかは分からないが、ヘルガは意識を一点に集中させている。そんな彼女にミノタウロスの攻撃の余波がいかないように皆が巧く立ち回っていた。きっと、何か秘策があるのだろう。だが――
「これ、ボロッちいし! ジンは帰ったら、魔法の練度をもっと上げとけしッ!」
ぷちん、と嫌な音がした。俺が魔法で生み出した縄が、千切れてしまったようだ。だが、ミノタウロスを翻弄していた二人は突然のアクシデントにも動じることなく動き回る。息が上がってきたアセビから文句が飛んできたが、黙って受け入れよう。ミノタウロスは自身の呼吸を妨げていた縄がなくなり、調子を取り戻してきたみたいだ。これで、窒息による気絶も狙えないことが分かった。本格的に打つ手がなくなったようだ。額に大量の汗を浮かべたリーネが、急かすようにヘルガに声を投げかける。
「……くッ、ヘルガ! そっちはどう?」
「――ええ、いつでもイケるわ!」
集中を保ったままヘルガはリーネの呼びかけに応えるかのように、ゆっくりと両の瞼を開けた。先ほどまでの彼女は、自分の内側に語りかけるように静かに佇んでいたが、いつも通りの彼女に戻ってしまった。いや、いつも通りではない。ヘルガの周囲を漂う風の流れが、明らかに変わった。敵を威圧し、押しのけるような風圧。その風圧を受け、俺は思わず身体をのけぞらせた。彼女を中心に渦を巻くように流れ始めている。まるで彼女が台風の目になったかのようだ。そして、そのまま――風を纏い、彼女は一歩、前へと踏み出した。
その動きは、舞いのように優雅で、一切の無駄がなかった。彼女の一歩はおとぎ話の妖精のように軽やかで、目を奪われるほど美しかったのだ。風が唸りを上げる。ミノタウロスが敏感に迷宮内の空気の流れの変化を察知し、四ツ目でヘルガの位置を捉えようとする。だが、その瞬間、ロバーツさんの爪とアセビの双剣が、二ツの目玉を同時に斬り裂いた。視界の半分を奪われた怪物が、苦悶の悲鳴を上げる。ヘルガは、彼らが生み出した隙を見逃さなかった。風を纏ったままミノタウロスの身体を中心に反時計回りに走る。視界の外へと滑り込み、身を隠すように、距離を離れる。
「フッ!」
鋭い息とともに、激しい火の手が上がった。遠くにいるはずの俺でさえ、火傷を負ったのかと錯覚するほどの業火。身体が、脳味噌が、熱を認識した次の瞬間には、リーネの炎がミノタウロスの右腕を焼き切っていた。最大火力だ。疲労の色が濃く浮かぶ彼女の表情を見るに、魔力をかなり消費したのだろう。次はない。感覚的に理解できた。ぼとり、と地面に落ちた右腕に残された二ツ目が、なおもぎょろりと動いていた。導火線のように走るリーネの炎が、散った火花が、綺麗に残された大きな目玉の一つに吸い込まれるように入った。絶好のチャンスだ。ヘルガは石壁を垂直に蹴り上げて、ミノタウロスの背後――首の後ろに狙いをつけて、両手を突き出す。
唸りを上げる。唸りを上げる。唸りを上げる。唸りを上げる。ヘルガの魔法で操った風が、唸りを上げる。目には見えないはずの空気の塊が、圧縮されているのを肌で感じる。ふつふつと、圧力が高まり、今にも爆発しそうだ。恐怖すら覚える。気配だけで、背筋が凍る。そして、それが最高潮に高まった瞬間――ついに、押し出された。彼女の両手から放たれたのは、風の刃。風そのものが刃と化していた。風が叫ぶ。彼女が叫ぶ。空間が歪む。軋む。空気の塊がヘルガの手元で収束し、圧縮され、鋭利な一線となっていた。
「風刃よ!」
エルフの魔法。それは、火・水・風・地の四大精霊の加護をその身に授かった結果として、種族単位で四つの魔法を使えるようになった。エルフが最強と称される所以。その中でも、エルフの魔法の代名詞とされている風の魔法。ヒュドラ討伐を経てヘルガが習得した風の魔法。それが今、炸裂しようとしていた。勝った。勝ちを確信した。勝利への期待が胸中で渦巻き、興奮と高揚が血に溶けて全身を駆け巡る。だが、「キャッ!」とヘルガが短い悲鳴を上げた。全員の時間が、一瞬だけ止まった。
風刃は確かに放たれた。放たれた。ミノタウロスの後ろ首を狙い澄ました風の刃は、確かに存在していた。ただ――風刃と呼ぶにはあまりにも不安定で、お粗末だっただけだ。刃にしては鈍らすぎる。圧が、抜けていた。彼女に何が起きたかと言うと……さきほど、ミノタウロスが天井を破壊した。その瓦礫が、運悪くヘルガの頭に落ちてきたのだ。奇跡だ。勝利の女神がミノタウロスに味方した。そうとしか思えない、奇跡的なタイミングだった。暴発した風の魔法の余波で、ヘルガは背後の壁に激突してしまった。鈍い音が響き、彼女の身体は崩れるように地に伏せた。失敗した。失敗した。でも、まだミノタウロスとの戦闘は続いている。
「はぁ? 何それ、そよ風? アンタ、さっき『ミノタウロスなんてイチコロだ』って言ってなかったし?」
一早くサポートに入ったのはアセビだった。彼女は息を切らしながらも、皮肉を込めた声を投げつける。ミノタウロスの視線が負傷したヘルガに向かないように、アセビが猛攻を仕掛ける。彼女の態度に、声に、苛立ちと焦りが滲んでいた。全員が彼女の魔法に賭けていた。それが崩れてしまった今、次の一手が視えない。ロバーツさんが獣のように低く唸る。リーネが歯を食いしばる。
「ッ、うる、さいわねぇ……」
どうやら、気を失っていなかったみたいだ。ヘルガはアセビの声に反応したように、ゆっくりと立ち上がった。流血はない。血は出ていない。だが、凄まじい勢いで壁に激突したせいで、足元がふらついている。その姿は、とても痛々しかった。そして、ミノタウロスの本能が先に手負いの者を見つけ出した。鼻が悪いくせに、死肉には鼻が利くのだろう。四ツ目の、残された最後の一つが、じりじりとヘルガの方を向き始める。巨体が、巨躯が、ゆっくりとだが確実に彼女へと歩み寄る。
見えていないはずなのに、見えているかのような動きだった。アセビが、ロバーツさんが、リーネが、ユキが、全員が止めるように攻撃を続けるがミノタウロスは見向きもしない。自身を傷つける攻撃の嵐にすら、興味がないようだ。痛覚が死んだかのみたいだ。あるいは本能が痛みを超越しているかのようだ。ミノタウロスの動きが止まらない。その視線は、確実に、吸い寄せられるように――ボロボロになったヘルガの姿を捉えた。
「ッ」
ミノタウロスの口元が、醜く歪んだような気がした。嘲笑っているように、俺には見えた。誰かが動かなければ、誰かが動かなければ、ヘルガが死ぬ。誰か、誰かが……そのとき、何故か俺はクックの姿を思い出していた。手の施しようがなかった。どうしようもできなかった。そんな、彼の無残な姿が頭を過った。だが、へルガはまだ死んでいない。ヘルガはまだ救える。そう考えた俺は、ベルトの間に挟んであったリーネのピストルに手を伸ばした。重たい。鉄の、命を奪う鉄の重み。ずっしりとした重量に負けないように、腕に力を入れる。ピストルを両手で支え、両足を開き、身体を軽く後ろにのけぞらせる。我武者羅だった。無我夢中だった。俺は、ミノタウロスの残された最後の目玉に銃口を向けて、引き金を引いた。
――パンッ、と味気ない発砲音が迷宮内に鳴り響いた。
少量の血が飛び散った。反動で肩が跳ね上がる。至近距離で乾いた破裂音を聞いたせいで、耳鳴りがする。だが、気にしてはいられなかった。銃口から放たれた銀の弾丸は、ミノタウロスの眼球に直撃した。銃弾は一直線に軌道を描き、目玉を貫いた。時間が、引き延ばされたように感じた。一秒が十秒に。十秒が百秒に。世界の時間が引き延ばされたような気がした。
「……え、当たった? 嘘? 俺、スゲェ……」
命中した。命中した。俺が放った弾丸が、残された最後の目玉を正確に撃ち抜いた。驚いている。周囲の皆の目線が集まる。驚いている。自分が一番驚いている。映画で見た俳優の構えを真似ただけなのに、ここまで上手くいくとは思わなかった。俺はピストルを持ったまま、呆然と立ち尽くしていた。両肩に走った衝撃の反動を無視して、ただ立ち尽くしていた。目をやられたミノタウロスの巨体が、ぴくりと震える。怒りと痛みと混乱で、ミノタウロスという怪物の絶叫が迷宮中に響き渡った。ぐらりと揺れ、膝が崩れる。そして、そのまま――
「逃げなさいッ、ジン!」
「……え?」
ミノタウロスは、発砲音で俺の位置をある程度掴んでいたらしい。リーネの鋭い叫びが、俺の耳を突き刺す。状況がよく理解できていない。だが、その状況が、俺を待ってくれなかった。ミノタウロスの巨体が崩れ落ちる寸前、その重心が俺の方へと傾いた。沈み込んだはずの左足がわずかに膨れ上がり、力を込めて――俺が立ち尽くしている石柱に突撃してきた。俺も逃げるように、石柱から離れようとした。だが、一手、遅かったみたいだ。というか、接近したせいで、聴覚に優れていないはずのミノタウロスでも、足音を頼りに俺のいる位置がより正確に特定できたのかもしれない。だが、今となってはどうでもいい。腕が、振り上げられる。腕が、振り上げられる。最後の一撃。今しがた、二人に切り裂かれた目が再生を終えたようだ。血に濡れたような瞳と、目が合った。ヤバい、ヤバい。死ぬ。
急激な状況の変化に身体が固まってしまった。命の危機だ。生存方法を考えるために脳が絶え間なく働いているはずだ。だが、身体の動きが追い付かない。打開策が思いつかない。いや、打開策を思いついたとしても……もう間に合わない。俺にできることは、振り上げられた大きな手を、振り下ろされる瞬間を待つだけだ。あの三ツ目が、俺を逃してくれないだろう。つまり、俺は叩き潰されて死ぬ。蚊のように潰されて死ぬ。無残に死ぬ。クックのように死ぬ。俺を助けてくれた彼らのように死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ――
「ヴッ!」
ミノタウロスの大きな手に潰される恐怖から、俺は両眼をギュッと閉じた。その瞬間、いきなり何かに全身を痛いほど抱きしめられた。冷たい。何かが、誰かが、俺とミノタウロスの間に割り込んできたみたいだ。そのおかげで、痛みはなかった。強いて言うなら、背中に回された腕に締めつけが少し苦しいくらいだ。俺は、そっと目を開ける。ユキだ。そこにはユキの姿があった。まだ俺の匂いを覚えてくれていたようで再び、ユキが俺を助けてくれた。
「ユキッ!」
「ヴヴッ!」
ユキは低く唸りながら、犬のようにグリグリと頭を押しつけてきた。ミノタウロスが腕を振り下ろした場所は罅が入っていた。まともに食らっていたら、俺の命はなかっただろう。だが、何も変わっていない。初めての銃撃が信じられないほどうまくいったせいで、つい油断してしまったが……戦況は依然不利なままだ。魔力を、体力を、集中力を削りながら必死に攻撃を続けているが、ミノタウロスはすぐさま回復してしまう。リーネが全力を尽くして肩の辺りから焼き落とした右腕も、すでに再生を始めていた。二の腕辺りまで、もう再生を終えている。焼け焦げた部分は再生していないが、それもほとんど誤差だと言い切れるほど再生が速い。絶体絶命。そんな言葉が俺の頭に過った瞬間――カランコロンと下駄の音が聞こえてきた。
「おやおや? おやおやおや……発砲音が聞こえたので急いで来てみたら。まさか、ボクをほったらかしにしてこんなところで戦闘とは。先約はボクだったはずなのに、仲間外れですか? ボクは友人があまり多くはないので、数少ない友人たちに仲間外れにされると……正直、妬けてしまいますね?」
場違いなほど軽快な下駄の音を鳴らしながら、いきなり姿を現したのはヒビキだった。彼の声は柔らかく、何故か艶めいていた。だが、その声音には、背筋が凍るほど底知れない殺気が混じっているのが分かった。彼の登場は誰も予期しなかったようで、事態は一変した。みんな来るとは思わなかった助っ人に歓喜の感情を露わにした。ただ一人、ミノタウロスを除いて。ミノタウロスの瞳には、怯えの色が混ざっていた。
「ッ、うるせェナ!」
ミノタウロスは突然、地を揺らすほどの絶叫を上げた。それは威嚇というよりも、悲鳴に近かった。ヒビキが、轟音に負けじと一歩踏み出す。一歩、一歩、焦らすように近づく。距離が近くなるたびに、ミノタウロスの巨体がわずかに震えた。まるで、我慢比べだ。だが、十メートルを過ぎた辺りでついに限界を迎えたようだ。ミノタウロスは次の瞬間、踵を返した。
目にも止まらぬ速さで迫ってくるヒビキに、簡単に追いつかれないように天井を、石柱を、次々と破壊しながら逃げ出した。落石で妨害しながら必死に距離を取り始める。ただ、恐怖に突き動かされるかのように。その情けない姿を見て、ロバーツさんは呆れたような声を漏らした。
「……ヒビキ。オマエ、何したんダヨ?」
「何をしたと言われても……ただ、鬼ごっこをしていただけですよ? 彼にはボクの戦闘相手になってもらっていただけです」
「ハハハッ、それは、ご愁傷様ダナ。さすがのオレも、ミノタウロスに同情するゼェ」
「……」
「つーか、前に喧嘩った時よりも、手強く感じたんだけドヨー。もしかして、オマエが無駄に追いかけ回したせいで、ミノタウロスの野郎が戦い方を覚えちまったんじゃねぇノカ? 大斧は使ってきたが……石柱や天井を崩落させるなんてさっきはしてこなかっタゾ?」
「そんなわけ……ないとは一概には言えませんね。だから、責任を持ってボクが相手をしていたのですが……」
肩で息をしているのに、ロバーツさんは軽口を叩く。珍しく、ヒビキは不機嫌そうに顔をしかめた。普段から飄々とした態度の彼からは想像しにくいくらい顔をしかめていた。ヒビキがロバーツさんに文句を言うために口を開きかけたが……それは、第三者によって阻止させれた。視界外からアセビが「ヒビキー! 愛してるし!」と甲高い声を上げながら飛んできた。勢いよく駆け寄ってきた彼女は、迷いなくヒビキに抱き着いた。スゴイ。何がスゴイって、彼女は避けられることを微塵も考えていない。恋の不意打ちに、さすがのヒビキも面を食らってよろけてしまった。
「ッ、っと。アセビ? いつも言っていますがボクを見かけた瞬間飛びつくのは危ないですから止めてください」
「それはもう観念するし! うちの清純な恋心を奪ったヒビキの責任だし! この愛は、もう誰にも止めることができないんだし!」
「……ボクは、恋心なんて奪った覚えがないのですが……」
「クク、ハハハッ、オマエらの絡みを見るのは本気で困ってるヒビキを見れるから好きダゼ。ヒビキも、もう腹を括ってもらってやレヨ? オマエのような変わり者をここまで好いてくれる物好きなんて、今後絶対に現れねェゾ? まあ、鬼嫁になるかもしれねぇが、嫁がいるだけマシだロウ? オスはたった一人の嫁を守り、支えられ、初めて完全になれるもんだ」
「……余計なお世話ですよ。それにですね。ボクは神になる男ですよ? まだ、鬼籍に入るつもりはありません。婚姻は時期尚早です」
「なら、イツならいいし! うちの肌がピチピチのときのほうが、おばあちゃんになってからよりもお得だし! それとも、ヒビキはシワシワに垂れたうちの方がタイプ? まあ、どっちでもいいし。ヒビキがうちのことを好きになるのは運命なの! つーか、実はもう好きだし? 何度も言うけど、将来の妻であるうちのプロポーズを素直に受け入れた方が絶対に楽だし! うちはフラれても諦めるつもりがないから、ヒビキが折れなきゃ一生このままだから! うちはこのまま籍を入れて、新婚旅行に出かけたっていいしッ!」
アセビが両手を肩に回し、腰に足を絡めて、まるで捕食するように抱き着いていた。匂いを嗅ぐようにぐりぐりと頭を押しつけて。ヒビキはアセビの小さな顔を両手で鷲掴みにして物理的に距離を離そうと頑張っている。いや、粘っていると言った方が正しいな。両者、一歩も譲らないどうでもいい攻防だ。ロバーツさんは痛む腹を抱えて笑っている。というか、ヒビキがまともなことを言っていると何か違和感があるな。同情する。たぶん、現世だったら何かしらのハラスメントに抵触していると思う。だが、残念なことに、ここは死後の世界だ。ハラスメントという概念も価値観が前時代すぎて、もはや死んでいるようなものだ。
初めてできた喧嘩相手が知り合いの男に全力で媚びている姿を目撃したヘルガは、本気でドン引きしていた。アセビの猫撫で声にこれ以上は耐えれないといった様子で、ちょこんと尖がった耳を隙間なく塞ぎ、聞こえないように努力している。俺も彼女に同感だ。『俺は今、何を見せられんだろう?』という気持ちを抱えたまま、意識を顔色が悪そうにしているリーネたちがいる方に向けた。
「……はぁ、ッ……大丈夫よ、ユキ。心配してくれて、ありがとう。……アリアも、もう出てきていいわよ?」
「……はい。二人とも大丈夫ですか? 怪我はありませんでしたか?」
「ヴヴッ!」
石柱の陰に身を隠していたアリアさんが、リーネの呼びかけに反応して姿を現した。彼女の顔には安堵の色が浮かんでいた。まるで母親のような温かな目が、彼女たちの様子を一人ひとり細かく観察している。ユキもユキで、体調が悪そうにしているリーネを心配そうな眼で覗き込み、頭を押しつけ、甘えるように寄り添っていた。リーネはその柔らかな髪に手を添えて、かすかに微笑む。
「何か、気になることがあるの?」
「……いえ、それよりも……このまま、ミノタウロスの後を追いますか? それとも休憩を取りますか?」
アリアさんの声は控えめで、どこか遠慮がちだった。彼女の問いの裏には、リーネがどんな答えを導き出すのかすでに理解しているような確信が感じられた。彼女は一瞬だけ、神妙な面持ちを見せ、唇を結ぶ。まるでリーネの決断の邪魔になるからと、自分の意見を押し殺しているかのようだ。彼女は何か迷いを抱えているように見えたが、すでにその迷いは表情は消し去られていた。
リーネもリーネで、苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。疲労と苦痛と苦悩が表情に滲みだしていたが、次の瞬間にはいつもの調子を取り戻したようで、力強く首を横に振った。迷いを断ち切るような仕草だった。彼女の赤い瞳には、燃えるような強い意志が宿っていた。
「……ッ、決まっているでしょう。このまま、追いかけるわよ! 本当は、殺したくないって想いはまだあるし、できるなら『捕獲』を諦めたくない、けど……無理みたいね。再生力も、筋力も、悪知恵も、私が前に戦ったときよりも遥かに上。想定以上だったわ。いつか、私たちの手にも負えなくなる。いえ、もうそうなりかけているわ。なら、私たちができることは……これ以上、被害が広がらないうちに止めること。私たちが、この手で止めを刺してあげないと!」
「……」
彼女たちが、何故そこまでミノタウロスに感情移入しているのか、俺にはまったく理解できなかった。同情する余地など微塵も感じられない。だが、ミノタウロスを追わなければいけないという一点は同じ意見だ。リーネは最終目標を『捕獲』ではなく『討伐』に切り替えた。覚悟を決めたようだ。遠くにいるヘルガも『フン、ようやく分かったの?』と言いたげだ。勝ち誇るような笑みを浮かべている。だから、走った。我先にと、先頭を行くリーネに釣られるように石床を蹴った。
走る。
走る。
走る。
走る。
走る。
走る。
走る。
走る。
走る。
走る。
走る。
走る。
走る。
見えなくなったミノタウロスの背中を追うように、咆哮を追うように、迷宮内を漂う血の臭い追うように、体力の限り俺は走った。だが、結果として立ち止まることになった。理由は単純だ。俺たちがさきほど渡ったはずの橋が、なくなっていたからだ。石橋は途中で、中央で、ぽっきりと折られていた。ミノタウロスが強力な一撃で破壊してしまったみたいだ。これで、俺たちは向こう側には渡れない。足止めとしては、これ以上にない最高の一手だった。『牛に経文』ということわざがあるはずなのに、ミノタウロスは人間のように悪知恵が回る。『牛の歩みも千里』ということわざがあるはずなのに、ミノタウロスは馬のように逃げ足が速い。
破壊された石橋を前にして、緊張の糸が切れたのか、それとも単純に高所恐怖症のせいか、全身から力が抜けた。尻餅をついた。膝が笑っている。カクカクと、嘲笑っている。驚いているのは少数だった。リーネとヘルガとヒビキは、まるで知っていたかのように「……やっぱりね」と溜息を吐いた。ユキはただ呆けている。状況が理解できていないのか、皆の真似をするように石橋をジッと見て、首を傾げている。状況はまったく可愛くないのだが、彼女のその仕草は文句のつけようがないほど可愛らしい。この場で、唯一の癒しだ。
「途中で分かっていたことだけど……やっぱり、橋が壊されたのね。リーネ、どうするの? ミノタウロスは迷宮を破壊しながら移動しているから、場所は”視えている”けど……このままだと一生追いつけないわよ? 厄介なことに、アイツはただ逃げるだけで、ヒビキ以外は攻撃できなくなるんだから……」
「どうするって……どうしましょうか? いえ、すぐに追いかけるわ! ヘルガ、悪いけど――」
「なら、少しだけ待ってくれませんか? 負傷したシュテンとハイレッディンがボクの後をゆっくりと追って来ているはずなので……」
「合流を待つ、ってことね。なら、引き返すついでに二人を拾いましょうか? どうせ、ミノタウロスを追いかけるためには一度戻らないといけないし……それに、二、四、六、八……に、二人を加えてちょうど十人。これだけ人数がいたら逆に戦い辛いわよね……なら、二手に分けましょうか? 逃げ回るミノタウロスを追いかけるには二組でバラバラに追い詰める方が都合がいいもの!」
背中の痛みを誤魔化すように言い放ったヘルガの提案は的を射ているように俺は思った。本当に、本当に、厄介なことだが、ミノタウロスはあの巨大な身体に似合わずに足がかなり速い。そして、無駄に賢い。俺が見た限り、体力も無尽蔵みたいだ。ミノタウロスがただ走り続けるだけで、ヒビキ以外は追いつくことすらできないだろう。だから、二手に分かれて追いつめるというリーネの提案が間違いとは思えない。間違いとは思えないのだが……『戦力的な意味で大丈夫なのか?』『本当に半数でミノタウロスを仕留めることができるのだろうか?』と、戦力外ながらそんな不安がどうしても頭を過ってしまう。俺が頭を悩ませている横で、何かを思いついた様子のヒビキが芝居がかった口調で言葉を続けた。
「ボクは一人でもミノタウロスを殺れるのですが……ここは船長命令に従いましょう。念には念を入れて石橋を叩いて渡ることにします」
「……まあ、その叩く石橋はもうないのだけどね」
自信満々にボケをかまされてイラついたのは俺だけではないはずだ。彼の言葉に耳を傾けた俺の労力を返して欲しい。皆も無言だし、アセビはどうすればいいのか分からずに困っている。相手をしてあげるだけリーネは優しい。温情だ。ほら、見ろ。ツッコミを入れられて彼はとても気分が良さそうだ。だが、こんなときに……こんな危機的状況の最中に、クソつまらないことを言い放てる彼の面の皮の厚さは俺もちょっとだけ見習いたと思った。




