第八十一話 『急襲』
迷宮を、ミノタウロスを目指して俺たちは走り続けていた。走って、走って、走っている。体内に息を、酸素を回す暇すらなく足を動かす。走る。走る。魔光石の灯りが、石壁に揺れる怪しい影を伸ばす。先頭を走るヘルガの足音がやけに気になる。次に、アリアさんの鎧が擦れる金属音が気になる。神経が過敏になっているのだろう。だが、文句なんて口から出ない。いや、出せない。
口から出るのは乱れた息だけだ。走る。ただ、走る。ミノタウロスに誰かが襲われる前に、殺される前に、向かわなければいけない。だから、全力で走った。皆に置いて行かれないように走った。そして、そして――
「……ッ、は……はぁ、嘘だろ? このメンツで、俺が一番体力ないの?」
限界を迎えた。第一陣として二時間近くも早く迷宮内を探索していたリーネたちよりも先に、重たそうな鎧を着込んでいるアリアさんよりも先に、俺の体力が限界を迎えた。膝が笑い始めている。口の中に血の味が広がる。身体が、足が、とても重たい。心臓の音が耳の奥で鳴っている。『何故、ここまで体力がないのか』と不思議に思いながら、俺はついに足を止めた。もう一歩も動けない。
「はぁ? もう限界なの? アンタ、弱っちすぎるし!」
足を止めた俺にいち早く気が付いたアセビが、振り返りざまにそう罵ってきた。そのセリフには容赦のかけらもなかったが、顔色が悪くなっていく俺を心配するように何度もチラチラと盗み見ていたのは理解していたので、彼女なりの照れ隠しも混じっているのだろう。それは、これまでの付き合いの中で理解できた。というかカツキが前にこそっと教えてくれた。
だが、俺は彼女に返事する余裕もなく、ただ肩で息をしていた。異様な脱力感がある。それに、肺が焼けるように痛い。じくじくと爪楊枝で刺されているみたいに鋭く、肺が疼く。右手ではなく、肺が疼く。すると、俺の様子を心配そうに見ていたアリアさんがフォローするように言葉を紡いでくれた。
「ジン君はミノタウロスと接敵して逃げ延びていますからね。それに、迷宮の入り口付近を埋めるように魔法を使い続けています。私たちの中で、一番疲労がたまっているのも仕方がないことですよ」
「……それでも弱っちいし!」
アセビはそう言い放ちながらも、俺に合わせて歩調を緩めてくれた。言葉と態度が噛み合っていない。そして、競うように先を進んでいたリーネとヘルガが、俺たちの気配が止まったことにようやく気が付いたみたいだ。俺の声が聞こえるくらいの距離まで戻ってきてくれた。
「ちょっと! アナタたち、こんな場所で立ち止まって何をやってんのよ……って、ジン。やけに顔色が悪いけど、大丈夫なの? 土色みたいになってるわよ?」
「ああ、これは見た感じ、魔力欠乏症ね。体内にある魔力をほとんど吐き出してしまったのね。ここまで走って、体力も消耗したし……一度、ジンが回復するまで少しだけ休みましょうか?」
「……ッ、大丈夫だ。そこまで心配しなくても、すぐに動けるようになる。それに、歩くだけだったらできるから、先を進もう。……いや、というか、本当に、こっちで合ってるのか? 場所は、二人が頼りだから、どれくらいで着くのか俺たちは分からないし。……あ、そうだ。迷宮の中がこんなに広いんだったら、シュティレ大森林のエルフたちみたいに、笛で居場所を報告し合った方が……いいんじゃないか、これ?」
ゼーゼーと荒い呼吸を繰り返しながらも、リーネたちの会話は続ける。俺たちは今、迷宮内の橋のような場所を歩いている。断崖絶壁のような場所で、転落防止の柵もない。落ちたら一溜りもない。命はない。さっき、この橋の下を試しに覗いてみたが……真っ暗で何も見えなかった。ガラス板の上に立っているときみたいに下半身から背筋、そして頭まですべてが順々に冷えていく感覚が味わえた。男なら分かると思うが、”あれ”が縮み上がる。いや、まどろっこしいな。女性陣しかいないので決して口には出さないが……玉がヒュンってする、あの感覚だ。
グリフォンの巣で奮戦――命懸けの抵抗をした影響で、脳味噌が高い場所を嫌いになった。いや、違うな。もともと嫌いだったので、大嫌いだ。高所恐怖症になったよ。もとからそうじゃないかと思うことはあったが、今ではもう自分が橋の真ん中を歩いているはずなのに床が崩れて落ちるんじゃないかというイメージで吐きそうになる。逆に魔力を使い過ぎていて、余計なことを考えなくてよい分、助かっているまである。
「あ! ワタシ持ってるわよ、笛!」
「……何で持ってるんだよ」
俺の問いを無視して、ウキウキとした表情を浮かべたヘルガは、どこからか笛を取り出して見せてきた。鳥の嘴のような形状をした笛だ。それを、俺はよく覚えている。エルフの里で利用されているものだったはずだ。ホヴズに預けられたことがあるし、魔素が多すぎて体調を崩したノギさんを運んでもらうのに利用したので、記憶に残っている。
「はぁ? しまえし、そんな縁起が悪いもの! つーか、アンタだけ持ってても連絡を取り合えないならあんまり意味ないし!」
「……ちょっと、アセビ。今のは聞き捨てならないわね。縁起が悪いって何よ? これはカーリがワタシに餞別としてくれたものよ! バカにするつもりなら許さないわよ!」
ヘルガが取り出した笛を見た瞬間、アセビが露骨に嫌そうな顔をした。見るのも嫌だといった様子だ。その反応にムッとなったヘルガが言い返すと、彼女は可哀想なものを見るような目でヘルガと俺の顔を順々に見渡し、そして深い溜息を吐いた。
「……はぁ、アンタら、本当に何にも知らないのね。バカになんてしてないし。ただ、笛なんて吹いたら天井が落ちてきて、生き埋めになるかもしれないし。うちとしては、そんなリスクを絶対に冒したくないし!」
「て、天井が落ちる? 何で?」
足を止めると、呼吸をするのがかなり楽になった。シュティレ大森林に向かう途中で俺は一度、魔力欠乏症を引き起こしたことがある。そのときは、身体を動かすことすらできなかった。数時間ほどベットの上で休んでようやく回復したのだが……今回は、異様に回復が早い。症状はあそこまで酷くなかったとはいえ、ここまで回復が早いとは思わなかった。
ヒビキがこの迷宮は魔素を吸い上げているみたいなことを言っていたが、もしかしたらそのことと関係があるのかもしれないな。俺がそんなことを考えていると、アセビの代わりにアリアさんが話を続けた。
「かなり昔にですね、とある事件が起こったんです。私たちではなく、どこかの街の調査隊の話なのですが……古代ドワーフの遺跡の調査中に外部と音で連絡を取り合ったことがあるらしいんですよ。船上にいる私たちは汽笛や旗、光などを用いて相手と連絡を取ることがあるじゃないですか? ほら、ジン君とヘルガに勉強会で教えた『旗振り』もそうですよ。あれらと要領は同じです」
あー、あれか。手旗で信号を送り合うあれだ。アリアさんの勉強会で習ったな。そこで初めて、ヘルガが暗記するのが早いことに驚いたんだ。何で現世で勉強してきた俺よりも、勉強してこなかったヘルガの方が暗記が早いんだよ。まあ、それ自体はいいんだけど、ヘルガのドヤ顔にはムカついたな。そんな風に俺が夏の思い出を振り返っていると、アリアさんはさらに言葉を続けた。
「例えば、一回笛を鳴らすと『安全なので進もう』、二回で『危険だから引き返す』みたいに事前に決めていたとします。そして……ここで問題が起きました。『死んでいる』古代ドワーフの遺跡の調査中に、先遣隊が『安全だから進もう』という合図を送るとですね。長年の年月が積み重なり、風化していた遺跡の天井は笛のわずかな振動にも耐えることができずに突然、瓦解したんです。幸いなことに死者は出ませんでしたけど……それ以来、古代ドワーフの遺跡を探索するのに笛は絶対に持っていくなという教訓が広まったんです。まあ、まだ『生きている』この迷宮がその程度の振動で崩れることはないでしょうけど」
「それって、つまり……どういうことですか?」
「はい、つまりですね。今回、我々が笛を持ってこなかったのはですね……ただの怠慢です! 思考放棄をした結果ですね!」
「ち、違うわよ! これは、そう、験担ぎ、ジンクスってやつよ!」
アリアさんがパンッ、と手を合わせるととても良い笑顔でそう言ってきた。金属音が響く。彼女の無邪気な笑みを前にした俺たちは、これ以上、何を言えばいいのか分からなくなっていると、すぐさまリーネがツッコんできた。
「以前の失敗を繰り返さないために学んだだけよ! そうよ、私たちは過去に学んだのよ! 七回転んでも八回起き上がるための工夫をしただけだから! これは決して、怠慢じゃないわ!それに、自分たちのジンクスを信じるって、当たり前のことでしょう? 特に私たちみたいな命の危険と隣り合わせな仕事ではなおさらよ?」
「……急に開き直ったわね。その、じんくす? っていうの? リーネには悪いけど、ワタシにはまだ良く分からないわね。それって端に、自分の失敗を引きずっているだけじゃない。失敗することを過度に恐れて、自分に必要以上に余計なプレッシャーをあたえてるだけじゃない。失敗するときは失敗するし、成功するときは成功するものよ。たぶんそういうヤツって失敗した途端、今度は『今までの経験が、ジンクスが通用しなかっただけ。だから、自分は悪くない』って言い訳をするんでしょ? ワタシ、嫌いなのよね。失敗した理由を他になすりつけて、曲解するようなタイプ。原因はいつも他人じゃなくて自分自身にあるのにね。……それとも、リーネもそういうヤツらと同じで、挑戦の心を忘れたの?」
「あるわよ! あるから今、ミノタウロスを『捕獲』しようって挑戦をしてるのよ!」
「ちょっとそれとこれとは話が別でしょ? 論点を変えないで。リーネがしようとしていることは失敗の積み重ねじゃなくて、愚かしさの積み重ねでしょ! 殺した方が楽で確実なのに、命が危険に晒される選択肢を自分の意志で選ぶだなんて……いつからリーネは知能のない獣以下になってしまったのよ? きちんと危険を知覚できてる分、動物や昆虫の方がまだマシよ?」
「いいえ、違うわ。そこが、人間が他の動物とは違うところだもの。野生に生きているだけの動物は危険があると感じたら絶対に近寄らない。でもね、人間は時に危険があると分かっていても、そこに自分を満たすものがあると思ったら迷わずに進んでしまう生き物なのよ!」
ヘルガに対した言い切ったリーネは、熱くなった自分を少しだけ反省するように、落ち着けと言い聞かせるように静かに一息ついた。その吐息は、胸の奥に溜まった熱をゆっくりと排出しているかのようだった。だが、彼女の燃えるような赤い瞳は初めて会ったときと何一つ変わっていない。その瞳には、揺るぎない意志が、目を逸らしたくなるほどの眩い光が宿っていた。
「だけど……そうね。ヘルガの言うことも一理あるのは間違いないわ。私のこの試みは、ただ愚かしいだけで終わるかもしれない。何の意味もなく、誰にも知られることなく終わってしまうかもしれない。でも、そういう愚かしさの積み重ねを私たちは挑戦と呼んできたのよ!」
ヘルガが再び、ムッとした表情になったのが分かった。リーネに言い返そうとしていると気配がありありと伝わってくる。だからこれ以上、口喧嘩に発展しないように体力がほどほどに回復した俺が、間に割って入った。口を挟んだのだ。彼女の意識をリーネから逸らすために。
「おー、何かカッコイイこと言ってるな」
「いや、ただの屁理屈だし。つーか、口車に乗せようとしてるだけだし」
「……う、うるさいわね。ほら、ジンももう大丈夫みたいだし、先を急ぎましょう? ミノタウロスがいる場所まではもう少しのはずよ!」
リーネはアセビの余計な一言にぷいっと顔を背けると、迷宮の暗闇に向かって一歩前に踏み出した。ヘルガもヘルガで何か言いたそうだったが、リーネが走り出す姿を見たら口を閉ざした。不機嫌そうな顔をしたまま黙って、追いかけていった。今の彼女には口がへの字に結んでいるという表現がピッタリだった。どうやら作戦は上手くいったみたいだ。彼女たちの意識を他に逸らすことには成功した。
全員がリーネの背中を追うように走り去ったのを確認した後、俺は足の筋肉をほぐすみたいに準備運動を行った。身体が冷えた状態でいきなり走るのはダメだ。筋肉が固まって、怪我をしやすくなる。ミノタウロスを前にしたら逃げることしかできないんだ。クックたちを殺したミノタウロスの最期をこの目に焼き付けるためについてきたのに、『足が攣って死んじゃいました』では笑い話にもならない。
結果的に、また最後尾になってしまったが……この橋の上は見通しが良い。なので、彼女たちの姿を見失うことは絶対にない。ミノタウロスがいる位置までもうすぐだと、リーネが言っていた。もうひと頑張りだ。あと少しだ。そう自分の身体に活を入れ、俺も彼女らに負けないように足に力を込めた。追いかけるために、右足をピクリと動かした次の瞬間――いきなり、背後に気配を感じた。
俺も海賊になって、もう数ヶ月。クラーケンに襲われないように夜の番をすることもあった。イナミ村のように森が近くにある村や、たまにグリフォンが頭上を飛ぶ樹海のど真ん中でテントを張り、名前すら覚えきれないほど大勢の人たちと寝食を共にすることが多々あった。どれも現世ではしなかった経験だ。そのせいで、野生の獣や人の気配に敏感になっているのだ。
音はない。血の臭いはある。しかし、何者かにジッと見られているかのような不快感な視線が背中に突き刺さる。まるで捕食者に舌なめずりをされているかのような嫌な気分だ。つまり、何かが俺の背後から近づいてきているってことだ。
ミノタウロスではない。ミノタウロスが近くにいるなら、迷宮全体を揺らすほどの地響きがするはずだ。どんな馬鹿でも音で分かる。でも、絶対に気のせいではない。嫌な予感がする。嫌な予感がする。何かが近づいてきている嫌な気配だ。
何かが近づいてきている。何かが近づいてきている。何かが近づいてきている。何かが近づいてきている。その奇妙な気配をいち早く察知した俺は、反射的に、飛び退くかのような背後を振り返った。すると――地を這う獣がいた。灰色の毛並みを持った大きな狼だ。その狼が、俺たち目掛けて、飛びかかってきていたのだ。
「うわぁぁッ!」
俺の叫び声が迷宮内にこだました。人間の頭を一口で食べれるほどの大きな口が見えた。鋭く湾曲した牙が見えた。地を掴み、獲物の肉を裂くためだけに存在する爪が見えた。俺はこれから、いきなり現れた狼に襲われる。どこからか迷い込んだ狼に襲われて、死ぬ。そう覚悟して恐怖や痛みを紛らわすように俺は固く目を閉じた。目を閉じて、目を閉じて……
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ハハハハッ! すまンナ! ジンの坊主を驚かすつもりはなかったんダガ……オマエらの匂いを見つけてテンションが上がっちまっテヨ。ヤッパリ初見じゃあインパクトがあるヨナ、この見た目? まあ、この姿になっても、イイ男であることには変わりねぇかラヨ! 安心しロヤ。……でも、あそこまで素直に驚かれると気持ちがいイナ! また、今度、オレのことを知らねぇヤツに同じことをしてミッカ!」
「……やめろし。それ、シンプルにうちらの評判が悪くなるだけだから」
気安い雰囲気のまま、アセビの頭を大きな手で鷲掴みにし、ぐりぐりと左右に動かしている灰色の毛並みを持つ大きな狼――ロバーツさんは、俺の情けない悲鳴を聞いて大笑いしていた。まるで狼……いや、まるで犬のように両頬が左右に深く裂けているせいで、そこから鋭い牙が丸見えだ。彼は気にしていないようだがかなり迫力がある。だが、その牙の迫力に負けないように恨めしそうにロバーツさんのことを見つめる視線が一つある。そう、俺の視線だ。俺は後ろからこっそりと近づいてきたロバーツさんのことを恨みを込めた視線で見つめていた。
「おい、坊主? そんな目で見んなッテ。短気は損気って言っテナ? 怒ると皺が増えちまうんだっテヨ。老けるんダよ。恐ろしいヨナ?」
「誰のせいっすか、誰の!」
「一体、誰のせいだろウナ? ジンの坊主がちびっちまったのはオレのせいじゃねぇだろウシ。まさかミノタウロスの野郎の仕業カッ!」
「……ロバーツさん。『狼の眉毛』って昔話を知ってますか? これは、広島県の昔話で……いや、もう知らなくてもいいです。これからアンタの眉毛をすべて毟り取ってやるって意味ですから、ねッ!」
「おっと、危ネェ。ハハハッ、生意気で大変結構! リーネ、そろそろ止めてクレ。怪我が痛ム」
「……はぁ、あなたが悪いわよ。それで、ロバーツはまだ戦えるの? 無理そうだったらジンと一緒に祭壇って場所に戻っても――」
「当ったり前ヨッ! 昔ほど若くはねぇが、オレだってまだまだ現役だかラナ? 舐めてもらっちゃ困ルゼ?」
「……舐めてるわけじゃないし、信用してるわよ。でも、それと同じくらい心配してるだけよ。最近、妙な胸騒ぎがするのよね」
ロバーツさんは本気で眉毛を毟り取ろうと近づく俺の頭を片手で押さえて距離を取る。そして、そのままリーネとの会話を続けている。獣化とでも呼べばいいのか、灰色の獣毛に覆われていても分かるほど固く引き締まっている脇腹辺りをもう片方の手で抑えていることから、本当に怪我をしているようだ。
だから俺は一度、彼の太い眉毛を毟り取るのを止めた。怪我をしている人に無茶をさせるのはよくない。だから、またの機会にしよう。そんな性格の悪いことを考えながら、俺はロバーツさんの背に捕まっていた合流したもう一人の方へ――レインちゃんの方へと視線を移した。
「レインちゃんも、無事で良かったよ。ロバーツさんとずっといたの?」
「はい……と、言いたいんですが。私はあの光に飲まれてからの記憶がほとんどありません。この迷宮の中で一人きりになり、取り乱してしまってですね……その……ずっと、”ユキ”に変ってしまっていたんです。衣服や爪に血はついていないので、誰も襲ってはいないはずですが……ロバーツさんに会わなければ、私の不安の感情に呼応して、”ユキ”が無差別に誰かを襲っていたかもしれません」
「そうなんだ、それは運が良かったね。いや、こんなことになってるんだから、運が悪いのか? まあ、どっちでもいいか。……それよりも、こうしてレインちゃんと顔を突き合わして話をするのは、何だか久しぶりな気がするね。何でだろ?」
「ふふ、そうですね。昨日も話したはずなのに……不思議ですね。私もお兄さんと同じ気分です。屋敷でも船内でも、毎朝顔を合わせていたはずなのに、こうして話をするのはしばらくぶりだと感じています。何ででしょうか?」
レインちゃんと顔を見合わせて、小さく笑った。すると、そののほほんとした緊張感のない雰囲気を前にしたヘルガは腹に据えかねたみたいで「ほら、アナタたち。何時までももたもたしないで、行くわよ!」と言い放った。そのまま、目を閉じて、ミノタウロスが暴れている場所を再び確認した彼女はコツコツと一人で歩き出してしまった。全員、それに続くように歩き始める。固まっていたメンツが、先頭のヘルガに引っ張られるように迷宮内を進むことになり、自然とグループができあがってしまった。
リーネとアリアさんはロバーツさんの身体を心配をしながらも、気安い感じで昔馴染みとの旧交を温めているし、アセビは「待てし!」と孤立しがちのヘルガへと話しかけていた。つまり、自動的に俺はレインちゃんとペアになってしまった。それはいい。それは別にいい。というか、初対面の人よりかは遥かにマシだ。マシなのはずなのだが……
「……」
「……」
レインちゃんと二人きりで話すとなると、どことなく気まずいんだよな。いや、前よりも仲良くはなっているはずだし、確実に心の距離も縮まっているはずだ。だけど、単純に話すことがない。現世出身やリーネたちのことなど、共通の話題は誰よりもあるのだが……どこまで踏み込んでいいのか分からないから、逆に気まずいと感じてしまう。
「お兄さん、その銃……」
すると、レインちゃんの方から声をかけてくれた。彼女の目は、俺のズボンのベルトに挟み込んであるリーネの銃に引き寄せられているようだ。
「あ、気付いてくれた? これは、リーネのヤツに貸してもらったんだ。俺も最初は乗り気じゃなかったんだけど……いざ、身に着けてみたらさ。リーネ風に言えば、ロマンっていうの? 何ていうか……その、ちょっとだけ、カッコいいなって思っちゃったり?」
「……そうですか。でも、お兄さんに銃はあまり似合っていないと思います」
「……そっか」
俺は思わず、視線を銃から外してレインちゃんの顔を見た。場を和ませよう、会話を続けようとする一心で冗談半分でそんなことを口走ってみたが、想像よりもバッサリと言われて傷ついた。だが、彼女は特に悪気があるわけでもなく、ただ事実を述べただけのようだった。表情を見れば分かる。まあ、その事実こそが、俺の心を最も傷つけているんだけど。
「私は……個人的に、お兄さんにはあまり武器を持って欲しくありませんでした」
しばらく何かを考え込んでいたレインちゃんが。ぽつりとそう呟いた。淡々とした語り口ではあったが、肩を落としている俺でも、妙な引っ掛かりを覚える言葉だった。
「武器を持って欲しくないって、どういうこと? 俺はもともと”黒爪”とかナイフとか持ち歩いてるんだけど」
「でも、お兄さんは焚火の為に木の枝を斬り落としたり、薪を割ったり……くらいしか役に立てていなかったじゃないですか? 少なくとも、私の前ではそのくらいの用途でしか使用していませんよね?」
「……それは、そうだけど……でも、それでも、俺がいつも武器を持ってるって事実は変わらないしさ」
レインちゃんから指摘されて、俺はそっと腰に付けた”黒爪”へと視線を落とした。黒い光沢を放つその刀は、ヒビキから聞いた話によれば、舶刀を参考にして作られたものらしい。もし知らなければ、海賊が持っている刀をイメージしてもらえれば、だいたいあっている。狭く障害物が多い帆船の甲板上でも取り扱いやすく、重心が切っ先に偏っているので非力な俺でも振り回すと威力が出る優れものだ。実際。海賊たちの間でも大人気だそうだ。
だが、農耕用の鉈をサーベルに改造しただけあって……その、ちょっとだけ不格好だ。刀身が幅広で、短い。だから、動物を解体に利用するよりも、木の枝を斬り落とす方が向いている。それに俺は、刀身に血が付くのが嫌だ。赤色の液体を見るのも、鉄っぽい臭いを嗅ぐのも、刀身について血を拭き取るのも、何もかも嫌だ。殺生も嫌だ。ナイフの方も、ヘルガが蛇を解体したときに利用したくらいだ。正直な話、俺はまだ生き物をこの手で殺す覚悟ができていない。できるわけがない。そんなことを考えていると、レインちゃんがさらに口を開いた。
「それは……そうですね。これは……ただの、私の我儘でした。少し、押し付けがましかったです。だから、忘れてください」
「……いや、せっかくだし話してよ。何で俺に武器を持って欲しくないって思ったからさ。単純に興味があるし……それに、ヘルガの様子を見る限り、まだ時間はまだあるみたいだしね」
先頭を歩く彼女は、アセビと何かを言い合いながら進んでいる。その姿には、緊張感の欠片もない。ミノタウロスが近いなら、彼女たちも真剣になるはずだ。静電気のようにピリピリと肌を刺すような緊張感が走るはずなんだ。つまり、まだまだ時間には余裕があるってことだろう。
「これは……私とお兄さんが同郷の出身だからこそ、共感していただける話だと思います。武器を持つことの、異常性を……」
「異常性って……いや、確かに日本では銃刀法違反とかの問題で、ダメなことだったかもしれないけどさ。こっちでは、それが当たり前なんじゃないの?」
「そうですね。こちらでは、それが当たり前です。当たり前だからこそ、異常なんですよ。帯刀や銃の携帯を規制しようという動きがあるらしいですけど……まだまだ先の話でしょうね。黄泉の国だけでもクラーケンに、牛鬼に……鬼など、身近に脅威が潜んでいる環境ですから。火薬はヘンリーさんが規制したという話を聞いたことがありますが……お兄さんのように、自身を防衛するために武器を購入するという選択を迫られている人も多いでしょう。でも、私がここで言いたいのは、お兄さんにとってのお酒みたいなものだということですよ。こちらでは十五歳からお酒が飲めますが、お兄さんは二十歳にならないと飲みたくないと常々言っていますよね? それと同じです。ただの、気持ちの問題なんです。私は、武器を持つと……魂が武器に引っ張られて、形を変えてしまうだと思うんです。その変化が、とても恐ろしいんです」
「魂が、形を変える?」
俺は思わず、そう聞き返していた。レインちゃんとは身長差のせいでなかなか歩幅が合わない。というか、もしかしたら合わせる気がないのかもしれない。彼女は一度、俺の顔をちらりと盗み見て以来、こちらに視線を向けてこない。お互いが、ただ前を向いたまま歩いているだけだ。
「はい、どれほど清廉潔白で、品行方正な方であっても……刃物を手にすると気性が荒くなり、何かを傷つけたいと思う心が生まれてしまいます。そして、それは銃であっても同様です。銃を手にすると、何かを撃ちたくなってしまう。銃の威力や脅威を頭でも理解していても、それでも、物や動物……挙句の果てには、人間にまで銃口を向けたくなる。これは、お兄さんだけの話ではありません。これは私がこの目で、これまでの短い人生の中で見てきた人たちに……人間という生き物全体に共通することだと考えています」
「いや、理屈は分かるけどさ……それって、人によるんじゃない? 人を傷つけるって、普通の人からしたらかなり難しいことだよ。結局、そういう素養がある人が人を傷つける道具を持っただけだって。俺は……弱いし、度胸がないからさ、大丈夫だよ。レインちゃんの心配しているようには、ならないと思うよ?」
「本当ですか? 最初は身を守るためだけだったはずのものが、いつの間にか殺すためのものへと変っている。目的のための手段が、手段のための目的へと歪んでしまうことのは往々にして起こり得ます。そして、その変化は、本人も気づかないまま、まるで病のように少しずつ進んでいくものなんです。……お兄さんはすでに身に着けている剣や銃に安心感を得ているんじゃないですか? それが……異常でなくて何なんですか?」
冷たく、響いた。彼女の切実な声が迷宮内で冷たく響いた。レインちゃんの言葉が、胸に刺さったかのような衝撃を、錯覚を覚える。俺は、再び腰に付けている”黒爪”に触れた。その感触は急に冷たく、重く感じられた。図星を突かれた。図星を突かれた。完全に、痛いところを突かれた。ミノタウロスと対面したあの時。ヒビキとの会話で、黒爪に安心感を抱いたという事実を認めたくはなかった。見たくなかった。だが、レインちゃんの言葉でそれを直視することになった。
「……お兄さんには、そうなって欲しくありません」
そして、彼女は再び、同じ言葉を繰り返す。だが、こちらに顔を向ける気配はない。どこか居心地が悪そうに迷宮の壁の方に視線を彷徨わせている。まるで、俺という鏡越しに別の誰かを見ている感じがした。
「……それは、何で? そこまで気にかけてくれてるのは、たぶん……俺とレインちゃんが同じ、現世出身だからって理由じゃないよね? 俺を止めようとしているのは善意じゃなくて、何か別の理由が……レインちゃんにとっての別の誰かが関わってるんじゃないの?」
「そ、それは――」
俺の問いに、レインちゃんは言葉に詰まってしまったようだ。迷宮の地面を見つめたまましばらくの間、沈黙した。その横顔には普段とは明らかに違う。とても、困ったように眉をひそめている。しっかりと自分の考えがある彼女は周囲に気を遣って悩むことはあっても、返答に言い淀むことは珍しい。端的に言ってしまえば、揺らぎがあった。追い詰められた彼女の表情を見ていると……俺はそれ以上、問い詰めることができなかった。彼女も彼女で何かを大きな抱えていることは分かっている。察している。だから、下手に突っ込むことができない。長い沈黙だ。彼女から無理やり過去を引き出すのは違う気がした。
レインちゃんはずっと逡巡するように視線を彷徨わせている。彷徨わせていたが……その目が、ピタリと動きを止めた。彼女がようやく、言葉を絞り出そうと決心を固めた瞬間――前方のリーネたちが、立ち止まった。いや、リーネたちだけじゃない。最前線を迷いなく歩いていたヘルガが、目を閉じたまま動かなくなってしまった。突然の挙動に、訝し気な表情を浮かべたアセビが心配そうに声をかける。
「ちょ、どうしたし? いきなり立ち止まって?」
「……あれ、おかしいわね。さっきまでミノタウロスは迷宮を破壊しながら移動していたのに……ミノタウロスが『視えなく』なったわ。リーネ、アナタはどう?」
「……ダメね。私も何も感じないわ。それと……ヘルガが、素直に私に頼ってくれて嬉しいわ。なんやかんやで私のことを信用してくれてるのね」
「はぁ? 勘違いしないでよね! この場で迷宮の構造が『視えてる』のはワタシとリーネしかいないんだから、アンタに確認するのは当たり前のことでしょ!」
「そう。相変わらずツンデレなのね。あなたがそう言うなら、そういうことにしてあげるわよ」
リーネの揶揄い混じりの言葉をヘルガは反応を見せなかった。もう聞こえていないのか、それとも聞こえていてわざと無視しているのか、俺には判断ができない。だが、彼女の性格からして、集中しているせいで耳に入っていないのだろう。その顔には、珍しく苦悩な表情を浮かんでいた。眉間に皺を寄せて、何かを探るっているかのようにじっと目を閉じている。俺には彼女が何をしているのか分からないが、集中していることだけは伝わってきた。
一方のリーネは、ミノタウロスの捜索をヘルガに任せるつもりのようだ。他の皆も、その雰囲気をいち早く肌で感じ取っているのかすでに地面に腰を下ろし、少しでも体力を温存しようと休憩モードに入っていた。行動が早い。敏感に、本能的に、休めるタイミングを感じ取っている。俺は一先ずレインちゃんから先ほどの会話の続きを聞こうと周囲を探したら……アリアさんと話をしている。とても楽しそうに話している。そんな姿を見た俺は『あー、何かもういいや』と心の中で呟いて、皆に倣って静かに石壁に凭れかかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「……やっぱり、ヘルガに任せた方がよさそうね」
私たちは迷宮の十字路の近くで、じっくりと腰を据えていた。迷宮を破壊しながら移動していたミノタウロスの気配を突如として感じ取れなくなった。ヘルガが頑張っているみたいだけど……二分以上、悩ましげな顔で唸り声を上げている。
さすがに、シュティレ大森林に住むエルフの一人なだけあるわ。魔力の流れが完全に『視えている』みたい。彼女の方が、やっぱり感覚が鋭いのね。それが、さっきの言葉の差で理解できた。私は『感じ取れる』だけだったけどヘルガは『視えている』。私は薄っすらとした宝の地図を広げながら、それを頼りに歩いているだけだけど……ヘルガは、前もって知っているかのように迷いがない。平面的と立体的の差ね。きっと、彼女の方がしっかりとこの迷宮の全体像を把握できている。大口を叩くだけあるわね。
だからこそ、私は彼女の能力に甘えて、すべてを任せることにした。適材適所ってやつね。心配いらないわ。最近はどこかついてないことが続くけど……この件だけは上手くいく気がするの。胸騒ぎの正体は、きっとミノタウロスの――この迷宮のことではない。他に何か原因があるはず。私の直感が、そう告げているわ。そんなことを考えながら、私は手持ち無沙汰に周辺をぶらぶらと歩き出した。
自分でも何故かは分からないけど、足を動かしていれば良いアイディアが思い浮かぶ。だから、思考を整理したいときや、思索を深めたいときは私は足を動かしながら考えるようにしている。幾度となく危険な航海を繰り広げてきて、一つ分かったことがある。私の勘は、絶対に当たるのだ。いい予感も、悪い予感も、両方とも外れたことがない。
私のそれは、ロバーツの勘の良さとは質が違う。彼は獣人の持つ鋭い五感で、危険を敏感に察知しているみたいだけど……私のはそれは違う、と思う。いえ、明確に違うわね。言語化できないけれど……私の勘は、レインから借りた本を読んでいるとき『この章で誰かが死ぬと』と別の誰かにネタバレされたような感覚に近い。そのおかげで助かった場面も多いから、別に文句はないのだけど。でも、最近は何故か、胸騒ぎが止まらない。でも、私はミノタウロスについては、この迷宮に足を踏み入れてからは、間違った選択をしていない。それだけは、確信している。
それでも、胸騒ぎは止まってくれない。『何かを見落としているんじゃないか?』『何かをやらかしているんじゃないか?』と、そんな思考が堂々巡りになってしまっている。つまり、何かが起こる前に、私がこの胸騒ぎの正体に気付かなければならない。もしかしたら、既に何か取り返しのつかないことが起こっている可能性だってある。だから、そうなる前に私は頑張らないといけない。他に気になること、他に気になること、他に気になることは……
あ、そうだわ。気になることと言えばアリアの態度が少しぎこちないことくらいだけど……それは、きっと話してくれないわよね。アリアって、変なところで頑固だもの。必要な報連相はしてくれるけど、一度話さないと心で決めたのなら絶対に話してはくれないわ。だから、いつも通り彼女が自分から話しをするまで気長に待ちましょう。
そこで、私は一度考えるのを止めて、レインやロバーツと楽しそうに話しているアリアの姿を見る。会話が弾んでいる。先ほどまでのぎこちなさが……完全に消えていた。ってことは、やっぱり私に何か隠し事があるのね。付き合いが一番長いのは私のはずなのに……やっぱり、気に入らないわね。付き合いが長いほど話せなくなることがあるって理屈は、私にも分かる。でも、二人との会話時は不自然さがなくなっているのは、見ていて気持ちが良いものではないわ。
私は不機嫌なことをアピールするように、ジッとアリアのことを見つめる。幼稚なのは自分でも分かっている。でも、感情を抑えられない。抑えたくない。だから、甲冑の下に隠している彼女の本心を見透かすように、穴が開きそうなほどジッと見つめる。そんなふうに私が、アリアの姿を見ていると――視界の端に、キラリと輝く何かを見つけた。
石柱の陰に隠れて見えなかったが、グルグルと歩きながら考え事をしていたおかげで気が付けた。何か、大きなものが落ちている。私はキラリと光った正体を探るようにゆっくりと近づき、それを拾った。
「うん? これは……」
リーネが拾い上げたのはヒビキが斬り落としたミノタウロスの巨大な角だった。そして、それがヒビキの仕業だと彼女には一目でわかった。だって、こんな芸当ができるのはヒビキしかいないから。こんな綺麗な断面のまま、ミノタウロスの角を斬り落とせるほどの実力を持っている人物を、私は一人しか知らない。だから、角が落ちていることに驚きはしたものの、彼女は誰がやったかはすぐに分かった。なので、彼女の目に入ったのは角ではなく……その立派な角を装飾している黄金の輪の方だった。
「これは、ヒビキの仕業ね。いい拾い物をしたわね! ……この感じ『呪具』じゃないわね。もしかして『魔剣』ってヤツかしら? そうだとしたらラッキーね! 初めて見たわッ!」
お宝の予感に、リーネは押し寄せる興奮を抑えることができなかった。突然テンションが上がった彼女の姿に、仲間たちがまるで不思議なモノを見るようなの視線を送ってきたが、今の彼女は背中に不躾な視線が集まるのを気にしてはいられない。リーネは黄金の輪を慎重に角から外し始めた。ぎちぎちと隙間なく詰まっている黄金の輪を、傷つけないように、滑らすようにして慎重に外す。すると――彼女の指が触れた部分から、ゆっくりと温かな光が脈動した。まるで、彼女の鼓動の音に呼応するかのように、黄金の輪が不可解な反応を示した。
「…………ッ、え?」
不思議だった。不思議な感覚だった。自分の中の血や魔力ではない、別の何かに反応しているような不思議な感覚。リーネは戸惑いながらも、その感覚を確かに感じていたのだが、その変化は一瞬にして終わった。彼女の気のせいと言われれば、それも納得できるほどの一瞬の出来事だった。ミノタウロスの巨大な角から外れた黄金の輪はサイズを間違えた腕輪ほどの大きさで、筋骨隆々の大柄の男だったらギリギリ日常生活で使えるくらいのサイズ感だった。
どれほど昔からミノタウロスの角に装飾品としてついていたかは分からない。だが、黄金の輪には腐食や錆の類は見当たらなかった。それどころか、傷一つない。一般的に金が腐食しにくい金属であっても、この古代ドワーフの遺跡は発見されてから百年以上は経っているはずだ。それなのに、ここまで綺麗な状態なのはさすがに珍しい。黄金の輪は、人を惑わす光輝を放っていた。欲望を刺激してくる。魔光石の温かな光を受けて、その悪辣さをより一層際立たせているように思える。
「……うん?」
リーネがしばらくの間、その初めての感覚に酔いしれていた。だが、一つの疑問が頭に浮かび、彼女は正気に戻った。手触りが変化したのだ。黄金の輪の裏面が、微かにデコボコとしている。裏側に何か刻まれているようだ。文字だ。小さな文字が彫られてある。読めない。もしかしたら、古代ドワーフの文字なのかもしれない。だが、私にも読める部分も少しだけあった。恐らく、人名ね。そう判断した彼女は冷静に目を凝らして、その部分を読み取ろうとした瞬間――ロバーツがいきなり声を張り上げた。
「全員、警戒シロ! 何かが来ルゾッ!」
ロバーツの切迫した叫び声が、緩んでいた空気を引き締めた。遠吠えのように深く、長く、野太い声が周囲に警鐘を鳴らすように響き渡る。彼は周囲を警戒するようにピクピクと鼻や耳をせわしなく動かす。その姿を見たリーネは、反射的にサーベルの柄に手を置いた。アセビも素早く双剣を構えた。レインが不安そうな顔をしていることに気が付いたアリアが優しくその手を握った。ちょっと遠くで休んでいたジンの肩が大声に驚いて反射的に跳ねていた。その中で一人だけ目を閉じていたヘルガがカッと目を見開き、石壁の方を指差した。
「そこの、壁ッ!」
迷宮全体が揺れていた。揺れて、揺れて、揺れていた。地震が起こったのか疑うほどの激しい揺れ。まともに立っていられないほどの衝撃が、私たちを襲った。そして――ヘルガの一喝と同時に、壁が大きな音を立てて崩れた。突然の出来事だった。突然、分厚そうな迷宮の石壁が破壊され、その向こうから、ミノタウロスが姿を現した。全員の視線が一斉に集まる。その姿は、醜悪な怪物は……私が前に見たときよりも、明らかに変貌を遂げていた。っていうか、大きくなっていた。全身を覆う筋肉の鎧は膨張しすぎて皮膚が裂けそうになっている。いえ、よく見れば、ところどころ実際に皮膚が裂けているわね。
裂け目からは、赤黒い液体が滲み出ていた。とてもグロテスクだった。赤、白、ピンクと色とりどりの筋肉の束が、まるで触手のように蠢いている。その姿は、ミノタウロスと呼ぶにはあまりにも異質だった。少なくとも私が知っている……私が、見たミノタウロスと比較しても明らかに異質だった。血に濡れたような四ツ目は顔面の筋肉に圧迫され、飛び出し、ぎょろ目のようになっている。口元からは夥しい量の涎を垂らし、必死に何かを探すように血走った目の焦点を彷徨わせていた。
「第二ラウンド、ってわけね……!」
異形の魔物と化したミノタウロスの悍ましい姿を見て、リーネは黄金の輪を見下ろしながらそう呟いた。まるで、黄金の輪がミノタウロスを呼び寄せたかのような、完璧すぎるタイミングだ。偶然にしては、あまりにも出来過ぎていた。サーベルの抜く音。私が魔法で生み出した炎が、大気を焦がす。
突如として始まったミノタウロスとの戦闘に迷宮の弛緩した空気が、ゆっくりと戦いの熱で……私のサーベルの刀身が纏った炎で焼き焦がされていくのを感じる。合図はなかった。誰かが叫んだわけでも、命令を出したわけでもない。それでも、全員がほとんど同時に動き出した。
咆哮を上げる。
咆哮を上げる。
咆哮を上げる。
ミノタウロスは迷宮の奥底から響いてくるような低く、重たい、咆哮を上げる。怒りと、苦痛と、言葉にならない哀しみがその咆哮には孕んでいる気がした。それに反応した仲間たちの緊張が一気に高まり、戦闘態勢へと切り替わったのを肌で感じた。四つ目がロバーツを、アセビを、ヘルガを、ジンを……と、順々に見まわしていたがちょうど私のところで止まった。その視線には敵意はなく、何かを訴えかけるような奇妙なものだった。これも因縁ってヤツかしらね。
そう思った瞬間、私の胸の奥で変な感情が芽生えた。懐かしいような、恋しいような、そんな回顧の念を催される。不思議に思った。疑問を抱いた。何故か、ミノタウロスと奇妙な縁を……心の繋がりを感じている。だがもう、冷静にそのことを考えている時間は今の私にはなかった。ミノタウロス咆哮に抗うように、私たちの戦いが再び始まった。




