第八十話 『食い違い』
魔法で出した縄を人喰い迷宮の入り口付近に張り巡らる作業を終えた俺たちは一息をついていた。 だが、油断はできない。この迷宮は静寂の中に牙を潜ませているってことを俺はもう嫌というほど思い知らされている。そして、リーネの提案で今後の方針を決める前に、一度それぞれが持っている情報を整理し、交換する場を設けることとなった。
俺とリーネとアリアさん、そして新たに合流した二人――ヘルガとアセビ。 二人は俺たちの視線に気が付くとすぐに喧嘩を中断し、わずかに気まずそうな表情を浮かべながらも落ち着きを取り戻した。その二人の様子に迷宮内に漂う冷たく、張り詰めていた空気がわずかに緩む。俺たちはそんな雰囲気の中、円陣を組むように互いの顔を見ながら、静かに話し合いが始まった。
「ということは、カツキとトール君は本当に無事だったのか……よかった」
「そうね。二人にはシュテンたちがミノタウロスと戦闘している場所まで案内をしてもらったのだけど、怪我をした様子はなかったわね。だから、安心しなさい」
俺の声は思った以上に安堵に満ちていた。 胸の奥に溜まっていた不安が、少しずつほどけていくのを感じる。ヒビキの言葉を疑っていたわけじゃないが、彼が二人の死体を見落とした可能性だって無きにしも非ずだった。信用はしているが、確信はなかった。だから、第三者であるリーネからの生存報告を受けると安心感が別格だ。嘘を吐かないリーネからだったというのもあるだろう。
「ねぇー、カツキと陰険トールが無事なのはうちとしても嬉しいことだけど。うちらはその、みのたうろす? って、牛の怪物を先に倒さないといけないってことでいいの? それともこのまま迷宮からの脱出を目指すってこと? 結局、どっちがいいんだし?」
「アセビ。アナタ、ちゃんと何を聞いてたの? だから、この話し合いは脱出を目指すんじゃなくて、その……ミノ……たろす? って怪物を先に仕留めよるってワタシたちの意思統一しておこうってことでしょ? これくらい少し頭を使えば分かるでしょ?」
「……ちょっと二人とも、ミノタウロスくらい教養として知っておきなさい。ミノタウロスっていうのは迷宮内で外から送られてくる若者たちを生け贄として喰らう牛頭人身の怪物のことよ。こんなこと海賊の中では常識よ。常識。黄泉の国に帰ったら二人で仲良く図書館に行って、調べておきなさい」
リーネが眉間に皺を寄せて、呆れるようにそんなことを口にした。その言葉を聞いたアセビはむすっと頬を膨らませるが反論はしない。 その代わり、ヘルガは不満を持ったようで噛みつくために口を開いた。
「はぁ? 何それ。なら、ワタシたちに事前に言っておきなさいよね。他人に勉強をしろって言えるくらい知識豊富だったなら『人喰い迷宮』なんて呼ばれてる時点でその、ミノタウロスってのがいるって察しても良かったんじゃないの?」
「私だって、百年以上放置された遺跡に、まさか生き物がいるなんて思わなかったわよっ! それに、首を落としても再生するって伝承があるヒュドラであっても長く眠る前には住処の周囲一帯の生き物を絶滅に追いやるまで食い荒らしたって話だったじゃない。あんな巨体が、飲まず食わずでも大丈夫って生物的に何かがおかしいわよ! 私たちだって、迷宮の情報がほとんどない中で可能な限りは用意したわよ。あらゆる危険を想定してね! 迷宮と聞いてロバーツがたくさんの縄を用意したじゃない。ジンの魔法の発現でそこまでの量を用意する必要性がなくなったけど。……まあ、ジンが魔法で生み出したこの荒縄こそが私たちにとってのアリアドネの糸ね。でも結局、入り口の場所が分かったとしても。あの光のせいで閉じ込められているから、私たちにはどうすることもできないんだけどね……」
リーネの言う通りだ。こちらの準備を人喰い迷宮の……いや、古代ドワーフの遺跡の不確定さの方が上回ってしまった。だから、こんな事態に陥っているのだ。つまり、ロバーツさんやリーネ、他の皆が必死に搔き集めた情報でもまだ足りなかったということだ。
あの光を――ワープ現象のことを事前に知っていれば、誰一人として足を踏み入れるという愚かな判断を下さなかったはずだ。
「リーネ、戯れ合いよりも先にミノタウロスの情報を共有してくれませんか? 私も、ミノタウロスの姿を直接この目で見たわけではないので……」
その言葉を聞いたリーネとヘルガの視線がアリアさんに集まる。船の上だったら二人の小競り合いはいつものことだと笑っていられた。だが、今は違う。俺たち全員を襲った人喰い迷宮の毒牙は、そんな猶予も与えてくれない。些細なことが命取りになる可能性がある。というか、俺たちが餓えてまともに動けなくなるまでがタイムリミットだ。
そこで、俺はふと発言がめっきりとなくなった最後の一人、アセビに視線を向けると――彼女はすでにこの話し合いの空気に飽きてしまったようで、俺が魔法で出した縄を端を指でいじって手遊びに没頭していた。俺と同じくアセビの様子に気が付いたリーネは何かに耐えるように深く溜息を吐いた後「分かったわ……」と小さく呟いた。
「この場でミノタウロスの姿を直接見たのは私とジンだけみたいだからね。ジン、悪いけど私から説明させてもらうわね。何か気が付いたことがあったらその都度、口を挟んでくれていいから」
「……ああ、分かった」
俺は短く答え、リーネに任せることにした。すると、彼女は腰にあるサーベルを抜き、円陣の真ん中、冷たい石床の上にサーベルでミノタウロスの絵を描き始めた。ジュッ、と音が鳴った。焦げ臭い。どうやら彼女はサーベルの先端を魔法で高温にして、石床を焦がしながら線を描いているようだ。
「まず、背丈はだいたい十五、六メートルほど。目は四つあって。上下に二対。血のようにどす黒い赤色の瞳ね。角は左右に大きく湾曲していて根元は太く、先端は鋭い。まるで鉄の杭のようだったわ。そして、身体は異常なほど筋肉が発達していたわね。皮膚は黒く、毛並みは茶色。角の先端に黄金の輪っかみたいなのをつけていたわね。あと、そう言えば尻尾もあったわ。動きは鈍重かと思ったけど、違ったわ。あの巨体でありながら、力ではなく瞬発さが一番の脅威ね。……それに、恐らくだけど、魔法や毒の類はないみたいね。あと一歩のところまで追い詰めても、使ってこなかったから。ただ、ヒュドラほどではないけど再生力が高い。私たちが与えたはずの傷が、数分で治りかけているくらいには治りが早かったわね」
リーネは口を動かしながらも、サーベルも止めない。視線が彼女の手元に集まった。その手つきには一切の迷いがなく、線を刻むたびに確かな意志が宿っていた。 まるで記憶の中に焼き付いた怪物の姿をそのまま写し取るように。彼女の声は淡々としているが、石床を焼く焦げた線が、ゆっくりと円陣の中心に浮かび上がっていく。そして、徐々にミノタウロスの姿形が浮かび上がってくる。
「……よし、これで完成ね。これが、私の記憶に残っているミノタウロスの姿よ」
リーネは最後にミノタウロスの顔の輪郭を描き終えると、そのままサーベルを静かに下ろした。 焼き焦げた石床には、歪んだ牛頭の怪物が刻まれていた。その完成されたミノタウロスの絵を見たヘルガは小さく息を呑み、アセビは腕を組んだまま目を細める。そして――
「……ミノタウロスって、ずんぐりむっくりなのね」
「何か、うち一人でも勝てそうなくらい弱そうだし……」
「……あの化け物が、随分と可愛らしくなったな」
「そうですね。もしかしたら私たちが知識として知っているミノタウロスではないのかもしれません。現世の文献も、存外当てになりませんからね。リーネの目を頼りにしましょう」
リーネの絵を見て、俺たちは思うがままの感想を口にした。だが、その言葉の数々が、無邪気な棘が、逆に彼女の神経をじわじわと逆撫でしていたようだった。恥ずかしさからか顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。
「もう、うるさいわねっ! 別に下手ってわけじゃないでしょう! そんなに馬鹿にするんだったら、ジンが描けば良かったじゃない!」
「いや、俺がミノタウロスと遭遇したときは必死こいて逃げてたからさ。細かいところはあやふやっていうか、実は俺、絵とか歌とか芸術方面のことは、あんまり得意じゃなくて……」
「じゃあ、ジンは私の絵に文句は言わないで! アリアたちもよ! これ以上のクレームは受け付けないから! もう、こんなに言われるなら、絵が上手いレインがここにいてくれたら良かったわ。……結構、自信作だったのに……」
最後に寂しそうな一言をこぼしたリーネはすぐに表情を年頃の少女から、海賊船の船長がするきりっとものへと切り替えた。瞳の奥には眩く、目を逸らしたくなるほどの光が宿っている。それは、炎のように熱く、燃え上がり、揺らめいている。彼女のその瞳に宿る光が、俺の身体を射抜くように見てきた。
「私が実際にミノタウロスと遭遇し、戦闘した結果、手に入れた情報はさっき言ったものがすべてよ! ジン、何か補足があればお願い!」
「いや、俺なんか……」
「今は、色々な視点からの情報が少しでも欲しいわ。ただでさえイレギュラーの連続で、私たちには圧倒的に情報が足りないの。そして、ミノタウロスと接敵した経験があるのはこの場で、あなたと私だけ。まあ、私の情報が完璧で、正しいっていうなら、それでもいいんだけどね……」
「……リーネの情報の方が、やっぱり正確で間違いがないと思う」
「はぁ? それだけ? 他には何か無いの? つーか、そもそもジン。アンタが何で、迷宮の中にいんの。うちらと違って、弱っちいアンタは第二陣に配属されてたはずだし」
「いや、第一陣の救出に……あー、クッソ。これ毎回説明しないといけないのか。めんどくさいな……」
「はぁー? めんどくさいって何だし! 前も思ってたけど、ジン。アンタ、弱っちいクセに、結構は生意気だし! そういうところだけ、カツキと似てるし! つーか、アンタもカツキもうちの方がセンパイなんだから敬意を払えしッ!」
俺がそう本音を漏らすと、すかざずアセビが不機嫌そうな顔で詰め寄ってきた。キャンキャンと、まるで小型犬のように甲高い声で文句を言ってきた。彼女には、本当に噛み付いてきそうな勢いがある。だから俺は、アセビの頭に手を乗せて、これ以上こちらに近づいてこれないように距離を取った。
小柄だが、力はアセビの方が強い。遥かに強い。そして、加減を知らない彼女に叩かれるとかなり痛い。なので、先んじて腕を固定するように伸ばし切ることで、彼女が懐に飛び込んでくるのを阻止する。リーチで勝る。人体の仕組みを利用するのだ。腕力だけではなく、頭も使わないと。俺とアセビがそんな風にふざけていると――パンッ、と乾いた音が横から響いた。リーネが緩んだこの場の空気を引き締めるように、わざと手を叩き、全員の視線を自分に向けさせた。
「そうっ! なら、次の問題ね! 私の方針としては、このままミノタウロスを追い詰めて――」
「殺すのねッ!」
「……何で嬉しそうなんですか」
唐突に割り込んできたのはヘルガの鈴を転がすような声だった。リーネの話している途中だったが、ヘルガの声に迷いがなかった。その確認に満ちた物騒な内容の響きに、逆にリーネの方が言葉を止めてしまったくらいだ。アリアさんも反応に困っている。
「……ちょっと、ヘルガ。私が話しているんだから口を挟まないでよ。それに、さっきから言っていることが物騒よ? 今のあなたの姿をカーリが見たらなんて言うかしらね?」
「フン、あまりカーリを侮らないことね。カーリなら『流石だな。』くらいのことをワタシに言ってくれるわよ」
「そうだったわ。カーリは口調が厳しいだけで、特にあなたに甘いんだったわね。最初からヨルズを例に挙げたら良かった……」
「……ワタシに甘いんじゃなくて。カーリは誰に対しても優しいのよ。それはヨルズも。今は、ニンゲンへの怒りや復讐心に――悪戯好きな火の精に憑かれるだけで、ヨルズはとても優しいわよ。確かに、アナタたちから見たらちょっとだけ分かりずらいかもしれないけど……」
「……そうね。確かに。嫌いって私たちに面と向かって言ってくれる時点で彼女の心根や気質はとても優しいわね。私たちのことを受け入れているから否定ではなく、距離を取ってくれているんだもの……」
ヘルガの言い分を聞いたリーネが、ふっと笑った。柔らかな笑みだった。彼女の燃えるように赤い瞳が、珍しく遠くを見つめるように少しだけ伏せられている。カーリはともかく、ヨルズって方は俺も名前だけしか知らない。姿は一度だけ見た気がしないでもないが、もうよく覚えていない。思い出せない。確か……あ、そうだ。初めて会ったときのヘルガと同じでニンゲンが嫌いなエルフだと、誰かから聞いたことがあるな。その印象だけが、ぼんやりと記憶の片隅に残っている。
俺がその記憶の断片だけを頼りに、脳の奥からさらに情報を引っ張り出そうとした次の瞬間――アセビが静かに口を開いた。とても真剣な表情をしている。彼女のその声にはいつもの少女のような幼さを残した口調とは違う。それは、少しだけ鋭さを帯びているように思えた。
「つーか、アンタにできんの? まだ、魔法もロクに使えないって聞いたし。エルフの魔法が使えるなら話は変わるかもだけどさ……自由に使えないなら、宝の持ち腐れってヤツでしょ? ……宝を腐らせるなんて、それこそ海賊としても二流だし。その、ミノ……何とかってヤツとの戦闘はうちとリーネに任せて、アンタはそこの二人と一緒に下がった方がいいし。こっちとしても、足手まといになられる方が迷惑だし。足を引っ張るヤツよりも、身の程をわきまえて何もしないヤツの方が百倍マシだし……」
「はぁ? アナタ、ワタシのことを見誤らないでくれる! ミノタウロスなんて、ワタシの手にかかればイチコロだから! イ・チ・コ・ロ! 海賊として云々って言うなら、ワタシというお宝の価値を見誤ってるアナタの方が二流でしょ!」
「……ッ、どいつもこいつも! 最近の新入りは敬意の『け』の字も敬語の『け』の字も両方知らない生意気なヤツばっかだし! いいし! そこまで言うんだったらアンタの力を見せてみろ! 一度吐いた唾は絶対に飲ませないしっ!」
「唾を吐くなんて汚いことワタシがするわけがないじゃない! でも、いいわ! 望むところよッ! そもそもワタシが負けるわけないしね! アナタに、『最強の種族』と呼ばれたエルフの片鱗を見せつけてあげるわ!」
「……ヘルガは、私と同じで見たことないのに。スゴイ自信ですね。こちらとしては頼もしい限りですが……」
「本当よ。それに、どうせならあなたの力の片鱗じゃなくて全力を見せて欲しいところだけどね。ヘルガは梅雨の間、ずっと魔法の練習をしてたんだから、その成果を存分に見せてちょうだい。期待してるわよ、二人とも」
煽り合うような二人の言動に呆れたのか、リーネは額を右手で押さえながら、ゆっくりと目を閉じた。その仕草は、頭痛をこらえているようにも、あるいはこれ以上の情報を得たくないようにも見える。俺には彼女の心理は分からない。想像したくない。だけど、彼女のその動作を見た俺はとあることを思い出した。
「”魔法使い”は目を閉じると……迷宮の構造がぼんやりと分かる」
そんな言葉を、ヒビキが語っていたのを思い出した。彼は両目を閉じながら、滔々とそんなことを語っていた。一人で気持ちよさそうに、俺には止められない勢いで。俺は話半分でそれを聞いていた。正直、いつもの妄言だと切り捨てて、あまり興味もなかった。だが今、リーネの行動を見ていたおかげで、彼の言葉を鮮明に思い出せた。記憶の引き出しがふと刺激された。すると――
「アンタ、いきなり何言ってんの?」
「いや、今、思い出したんだけど。目を閉じたら迷宮内の構造がぼんやりと分かるって聞いたんだ。試してみたけど、俺は目を閉じても何も分かんなかったんだけど。みんななら、もしかてって思ってな……」
「目を閉じたらって……そんなの、瞼の裏側しか見えないし! 恐怖で、バカになり過ぎて分かんないかもしれないけど、目を閉じたら暗闇しか広がってないんだから! いや、今ジンは聞いたって言ったし。つーか、誰だし? そんなアホなことをアンタに吹き込んだバカは?」
「いや、これヒビキのヤツが言ってたんだけど」
「……それを先に言いなさいよ。ヒビキの言うことなら間違いないし!」
「アセビの中の信用度は俺よりもヒビキの方が高いのかよ。なんか癪だな。あんなに、胡散臭いのに……」
アセビは眉をひそめて、俺を睨むようにそんなことを言ってきたが、ヒビキの名前を出した瞬間少しだけ大人しくなった。その変わり身の早さに、俺は思わず苦笑した。そして、アセビを最後にこの場にいる全員が静かに目を瞑った。ヘルガ以外。自分で言っておいてまだ半信半疑だ。目を閉じてもやっぱり、何も見えない。アセビの言う通り瞼の裏側に広がっているのは、ただの暗闇だけだった。一秒、二秒と時間が過ぎる。すると、変化が起こった。突然、アセビが俺の首根っこを掴んで身体を揺さぶってきたのだ。
「ちょっと、どういうことだし! うちには何にも見えないんだけど! アンタ、ウソ吐いたの? 傍から見たら、全員で間抜けを晒しただけじゃない!」
「し、知るか……そのクレームは、俺じゃなくて、ヒビキのバカに言ってくれッ! これは、ヒビキの言ってことで、俺の、責任じゃないっ」
「ヒビキが間違ってることを言うわけないし! ジン、どうせアンタが聞き間違えてるだけだし! ほら、このまま脳を動かして思い出させてやるしッ! ヒビキの言っていたことを一言一句、思い出すし!」
「こ、恋は盲目って言うけど。あ、あいつ、偶に。クソ、どうでもいい嘘を吐くぞ? 教えてもらった掃除道具の位置が違ったり、夜の見張りの当番が俺じゃなかったり。今回も、どうせそれだって。いつものことだって!」
「はぁ、マウント? アンタが、ヒビキと同じ船に乗ってるからってあんまり調子に乗るんじゃないしッ! うちだって本当は、ヒビキに雑用でも何でも同じ船の上で手取り足取り教えてもらいたかったし!」
「……あ、アセビ……ちょっと……マジで、勘弁してくれ。そろ、そろ……意識が……」
アセビの細い腕に首を絞められながら、何とか言葉を喉の奥から捻り出す。抗議を続ける。彼女も鬼の血が流れているだけあって力が異常に強い。小柄で、可愛らしい見た目に騙されてはいけない。彼女は、シュテンと同じタイプだ。自分の力を理解できていない。加減が下手なんだ。いや、実際に手加減はしてくれているんだろう。そうじゃなければ、もうとっくに俺の首の骨が折られている。
だけど、痛いものは痛いんだ。よく吠える小型犬みたいな性格をしているのに、人間より遥かに力が強い。自分のサイズを理解できていない大型犬に飛びつかれているみたいなものだ。
「いや、ヒビキが言っていたことはまるっきり嘘ってわけじゃないみたいよ?」
突然、リーネが発したその一言によって、アセビは俺の首に回していた両腕の力を抜いた。拘束が解かれた。自然と俺たちの視線が彼女に集まる。俺とアセビが揉めている間、彼女はずっと唸るような声を上げて、目を閉ざしていた。
「……どういうことだし?」
「ほら、深呼吸してみて? 目を瞑って、ゆっくりと魔素を感じるの。足元から根っこが生えたみたいに、身体が迷宮と繋がって壁や床の一部になっているみたいな感覚よ。そうすると、ぼんやりとだけど感じるわ。見えるのよ。壁や床、迷宮全体を透過して自分が今いる立っている位置が客観的に把握できるの。それで、だいたい迷宮のどこら辺にいるのかが分かるはずよ!」
リーネはそう言うと、きっぱりと目を開けた。燃えるような瞳が俺たちを見つめてきた。俺とアリアさんとアセビの三人は顔を見合わせて、もう一度だけ目を閉ざしてみる。彼女の自信満々な声で発破をかけられると、俺たちの方が間違っている気がするからだ。だが、彼女の言うように自分が樹々になったイメージをしてみても、真っ暗で何も分からない。
「これ、さっきまでと何か変わったし?」
「……いえ、私にも何が何だかさっぱりです。真っ暗で何も分かりません」
「……アリアさんもですか。一応聞いておくけど、ヘルガはどうだ?」
俺は片目だけを開く。そして、横目で何も言わなくなったヘルガのことを見る。さっきから彼女は微妙そうな表情を浮かべていた。腕を組んだまま、石壁に寄りかかり、眉間に皺を寄せている。なので、たぶん何か言いたいことがあるのだろう。
「一応って何よ! というか、アナタたちもしかして気付いてなかったの? 鈍臭いわね。アセビに関してはワタシがここまで案内してあげたじゃない?」
ヘルガは急に声を荒げた。その声は、こちらを嘲笑することが目的ではなかったが『どうしてこんな簡単なことが分からないの?』といった不満と呆れが混じっていた。だから、結果としては、少しだけ嘲笑するような感じになったかもしれない。だが、俺たちは彼女の声音よりも、彼女が語ったその内容の方に引き込まれていた。険悪な仲であるアセビでさえも怒りではなく、心底驚いたような表情を浮かべて、ヘルガに視線を向けた。
「……ということは、ヘルガとリーネは入り組んだ迷宮の構造がなんとなくでも『視えてる』ってことだな? 二人の感覚を頼りにしていいってことか?」
「ええ、そうよ。『視えてる』のよ! そして、ワタシは最初からそのことに気付いたんだから! この古代ドワーフの遺跡はね、霊樹みたいなものなのよ。古代ドワーフたちが霊樹の仕組みを真似をしたのね。だけど、これは見よう見まねの、猿真似ね! 本物っぽくないわ! 所詮は、ただの作り物ね! ……いい、ジン? 気分がいいから、アドバイスしてあげる。この迷宮を『視る』ためには、流れている魔素の気配を感じ取ればいいのよ。ただ、それだけよ。そして、それは森に住んでいるワタシたちエルフのとっては造作もないことよ! アナタたちには、ちょっとだけ難しいかもしれないけどね。まあ、できないなら、できないでいいわ! 道案内ならこのワタシに任せておきなさい!」
「はいはい、頼りにしてるぞ、本当に……」
ヘルガは胸を張って、得意げにそう言い放った。その姿はまるで自分の成果や才能を褒めてもらいたくて仕方がない子供のようだった。俺はそんな彼女の様子に、思わず苦笑いを浮かべながら言葉を返す。もう慣れた。すると、彼女もいつものように、調子良さそうにフンと鼻を鳴らした。
「それよりも、だ。これから俺たちはどうするんだ? 二人が口裏を合わせてるんじゃなくて、本当に入り組んだこの迷宮の中で迷わなくなるとしても。これからどうすればいいんだ? 当初の計画通り、このまま迷宮からの脱出を目指すのか? それとも、戦力が安定したって言っていたけど先にミノタウロスを倒すのか? 次に何を目指すのかを決めなきゃ意味がない……皆の目的がバラバラなら、この話し合いをした意味がないはずだろ?」
「はい、ジン君の言う通りです。リーネとジン君はミノタウロスと接敵して得た情報を。ヘルガとアセビは二人で迷宮内を彷徨って得た見解を。私は、迷宮の外にいるウルージさんに内部の状況を伝えたことを。それぞれの視点については十分に話し終えました。なら次にするべきことは、目的の共有です。このまま迷宮からの脱出を最優先に動くのか、それともミノタウロスを倒した後に迷宮からの脱出を目指すのか。選択肢は、この二つです。……では、このまま決を採りま――」
「いえ、その必要はないわ。この場には、船長である私がいるもの。みんなには悪いけど、私の決定に従ってもらうわ。あ、もちろん、私の判断が客観的に見て間違っている場合もあるわね。なら、半数以上が反対するなら私の意見を取り下げてもらって結構よ。そっちの方が話し合いを円滑に決めれるでしょう?」
リーネはそう言うと、静かにアリアさんの方を見た。自分の言葉を遮られたことに驚いたのか、アリアさんは驚嘆したような表情のまま、動きを止めてしまった。まるで鳩が豆鉄砲を食ったようかのような顔をしている。少なくとも……そんな例えが俺の頭に浮かぶほど、彼女は何かに強い衝撃を受けたことは確かだ。だが、しばらくの沈黙の後、アリアさんは湖面のように穏やかな青い瞳をゆっくりと開く。その瞳は、今のリーネの姿を、姿勢を、在り方を、まっすぐに見つめていた。
「……はい、私はそれで構いませんよ。リーネの決定に従います」
「まあ、別にそれでもいいし。うちはセンパイだからね、船長の決定に逆らうほどガキじゃないし。……それで、どうするし? このまま脱出? それとも、そのミノタウロスって怪物を倒す? うちはどっちでもいいし……」
「それは、もう決まってるでしょ? ワタシたちの目標はミノタウロスって化け物を殺すってこ――」
「いや、殺すつもりはないわ。私たちの目的はミノタウロスの『捕獲』よ。脱出よりも先に、ミノタウロスの捕獲を優先するわ。まあ、可能ならって枕詞がつくのだけど……」
今度は、リーネがヘルガの言葉にかぶせるようにそんなことを口にした。彼女の言葉を、その意味を理解するのに時間を取られ、場が再び静まった。俺も思わず息を呑んだ。口の中がやけに乾く。彼女に何も言えなくなるほどに、口の中が乾いて仕方がなかった。
ミノタウロスを捕獲するって……そんなこと可能なのか? いや、可能かどうかじゃなくて、そもそも捕獲なんてする必要なんてあるのか? もし、ミノタウロスを殺せるのなら容赦なく殺した方がいいんじゃないのか?
ミノタウロスの血に濡れたような瞳が脳裏によみがえる。俺はもう、ミノタウロスのことを考えるだけでも、身がすくむ。巨大な掌に潰される恐怖で身体が強張り、指先が震え始める。クックを。ヤモリさんを。俺を助けて死んでいった人たちの無念を思うと……捕獲よりも、殺したいという気持ちの方が勝ってしまう。
だが、俺には何もできない。実際に、ミノタウロスと戦うのは俺ではない。だから、俺はこの感情は胸の奥にしまい込んだ。何もできないヤツが、口だけのヤツが、発言すると事態がややこしくなることを俺は学んだ。場を乱す。言わなければならないこと言うことと、ただ我儘を言うことは根本的に違う。この場において、それが最も愚かな行為だと思うから口を閉ざして、リーネの意図を考える。すると、隣にいたヘルガの整った眉がピクリと動いた。
「ちょっとリーネ。アナタ、それ正気で言ってるの?」
「私はいたって正気よ。心配いらないわ」
「……ッ! なら、言い方を変えてあげるわ! 何を生温いこと言ってんのよ? らしくないじゃない? こんなことしている間にも、誰かがミノタウロスって怪物に誰かが殺されてるかもしれないんでしょ? それなら、力のあるワタシたちが動かなくてどうするのよっ!」
ヘルガは力強い声で、リーネ相手に食ってかかった。その言葉には、強者としての矜持と責任感が滲んでいた。彼女にとって、力を持つ者が動かないことは罪に等しいのだろう。エルフの、カーリたちの在り方を見ているとそのことが良く分かる。だが、リーネの瞳は燃えるように熱く、それでいてどこまでも冷静だった。まるで、どこか遠くの方を……先の未来を見ているような、そんな達観しているような眼差しだった。
「ええ、分かっているわ。だけど、軽率な行動はなるべく避けたいのよ。ヘンリーは今、ドワーフたちとの関係の修復に力を入れているからね。刺激するようなことをなるべくしたくないのよ」
「はぁ? 何よそれ? そもそも、この迷宮……古代ドワーフの遺跡の調査を頼んできたのは領主ってヤツ何でしょ? 偉いニンゲンなんでしょ? ニンゲンの生活や文化は、まだまだ分からないことの方が多いけど。そいつに全部の責任を取らせればいいだけじゃない? この迷宮を壊すわけじゃないし、命を奪おうとしてくる化け物を退治するだけだしさ。ワタシたちが、そこまで気を遣う必要なんてないでしょ?」
「……いや、アイツらならやるし。絶対に、難癖のいちゃもんをつけてくるし!」
アセビがベーッと舌を出しながら、そう口にした。虫唾が走るとでも言いたげな表情で、眉をひそめている。その仕草だけで、彼女がドワーフに対して抱いている印象が、かなり悪いことが伝わってくる。
「ヘルガはまだ噂だけで、実際にドワーフと関わったことがないから知らないのも無理はないわね。彼らはねとても信心深くて、同族や先祖など繋がりを大切にしているの。仲間思いなのよ。それはきっと、技術の伝承や発展させるためね。古代ドワーフたちが編み出した、魔剣の技術を失伝したことの反省でしょうね。だけどね……それと同じくらい執念深くて、やり口が陰湿なの。一言で言えば、とんでもなくしつこいのよ」
「……しつこい?」
リーネの会話に思わず口を挟んでしまった。俺だって、外界からは遮断されたあの森で暮らしていたヘルガと立場はほとんど同じようなものだ。こっちに来てまだ日が浅い。ドワーフの姿なんて見たこと……いや、古代ドワーフの遺骨らしきものをこの迷宮内で発見したが、それだけだ。人づてに聞いたことがあるだけで、実際の彼らの文化や暮らし、問題となっている宗教などは何も知らない。
「ええ、私たちが……いえ、私の父たちがこの大陸を発見し、貿易を始めたばかりの頃にね。グリフォンに襲われて、積み荷を奪われたらしいの。何とか撃退には成功したみたいだけど……その腹いせに、グリフォンの巣を見つけ出して、そこにあった財宝の数々を行商人がグリフォンに襲われて、奪われたものだと勘違いしてしまったらしいのよ。彼らの供物だったなんて、こちらに来て日の浅い、関係を作れていない父たちは知りようがなかったからね。それは、ジンも知っているでしょう? ほら、『度胸試し』よ。ジンがグリフォンに背中にしがみついたやつ。あなたも、強く印象に残っているでしょう?」
「ああ、あれか……思い出したくなかったな」
落ちないように、死なないように、必死でグリフォンの背中にしがみついていた。太ももに突き刺さった羽軸の痛みを、暴れるグリフォンの大きな筋肉の躍動とその熱を、振り回されるたびに聞こえる風切り音を、目を閉じれば……今でも鮮明に思い出せる。軽いトラウマだ。もう二度と、あんな経験はしたくない。
「あれは、私たちとの関係の修復を拒んだからできていることなんだけどね。そのとき揉めたせいで、今も内陸側ではほとんど商売できていないの。ヘンリーは商売の拠点を築くことができなくてね、困っているらしいの。こんな感じで、ドワーフとの関係は悪化の一途を辿っているわ。ヘンリーは今、ドワーフとの関係の修復に……過去の自分たちの尻拭いに奔走しているわけ。だから、なるべく彼らを刺激したくないし、父たちと同じような轍も踏みたくないの。それが、ミノタウロスを殺したくない一番の理由ね。こっちとしてはめんどくさい限りだけどね。……もともと、危険な古代ドワーフの遺跡の調査を請け負い始めたのだって、そんな下心があってのことだし。外交的なことだから、あなたたちは無理をさせるつもりはないけど……私は、そういう立場で、船長として常に先を見て動かないといけないのよ」
「……そうか。まだまだ勉強不足で、その辺の事情が俺にはまったく分からないけど。納得はした。……できた。というか、一番ってことは他にも何か理由があるのか? リーネがミノタウロスを殺したくない訳ってのはドワーフを刺激したくない、政治的な理由がすべてなのか? リーネの目を見てると、何だか……」
「……何だかって、何よ?」
「いや、ただ何だかしっくりこなくてな。……もちろん、リーネがヘンリーさんのことを慮っているのは、本心だと思う。政治的、外交的な話も嘘じゃなくて本当だ。……だけど、それだけだと、理由が足りない気がしたんだ。普段のリーネなら、何て言うかさ……そんな外面を取り繕うよりも先に、自分の気持ちに素直に行動するだろ? ほら、『仲間を傷つけるなんて許せない!』みたいな感じなことを言って来るかと思ってたからさ」
「あら? ダメかしら? これでも私は、船長として日頃からいろいろと考えてはいるんだけど……」
「……ダメってわけじゃないけど。正直、ちょっと意外だと思っただけだ」
そう言うと俺はこちらを見つめる赤い瞳から顔を逸らした。リーネの冗談めかした微笑みを真っ正面から見ていると……何故か、これ以上、俺の心の内を言葉にするのは躊躇われたからだ。心の奥が変にざわついてしまうからだ。そのときだった。リーネがいきなり口を開いたのは。
「――泣いてたのよ、ミノタウロスが」
一瞬、何を言ってるのか理解できなかった。だから、自分から顔を逸らしたにもかかわらず、思わず彼女の方を振り返ってしまった。
「はぁ? だから何なのよ?」
「だから、ミノタウロスが月を見て泣いてたのよ。その姿を見て、私はミノタウロスの生前の話を……神話が少しだけ頭をよぎってしまったのよ。ほら、ミノス王がポセイドンって神様との約束を違えて、美しい牡牛を返さなかったって話よ。王の傲慢に、強欲に激怒したポセイドンは王の妻に呪いをかけてしまうの。牡牛に恋をするっていう呪いね。その結果、生まれた牛の頭をした子供がミノタウロス。あの恐ろしい怪物ね。そして、成長して次第に乱暴になり、手に負えなくなったミノタウロスを王は巨大な迷宮に閉じ込め、隔離してしまったの。食料として毎年、少年と少女を送ることにしてね。そんな……バカげた人の業を思い出しちゃったのよ。……それに……こっちとしては依頼されて、調査としてこの古代ドワーフの遺跡に土足で足を踏み入れたのだけど。ミノタウロスからしたら私たちの方が勝手に自分の家に上がり込んだ侵入者だし、殺す理由はあるものね。私個人としては、とても納得できるものではないけど。感情抜きで、理屈だけなら理解できるわ……」
「……えーっとね、リーネ。ワタシは優しいから、もう一度だけ言うわよ。で? だから、何なのよ? 過去も未来も関係なくて。大事なのは今よ、今! あっちは、こちらの事情なんて関係なしに殺しにきてる。なら、同情なんて必要ないでしょ? 過去に何があったかなんてこっちが考える必要はないわよ。悲劇も苦労話も、結局のところすべて自分に都合がいい言い訳なんだから! 今、相手を傷つけていい理由にはならないんだから! 狩りや争いと同じよ。自分が生きるため、しなければならないと思ったから、相手を傷つけるのよ! 自分の意志でね! そうやって、自分のための行為をわざわざ正当化する、ニンゲンのそういうめんどくさいところがワタシは嫌いなのよッ! それに、こっちが侵入者か何だか知らないけど、関係ないから! こっちに危害を加えてきた以上、ワタシはただぶっ飛ばすだけだからッ!」
「……何のために、家や領土って概念があると思ってんのよ。あなた、訴えられたら負けるわよ? ……まあ、でも、そうね。理由っていうのは、いつもシンプルなものだものね。たぶん、ヘンリーもドワーフも、理由は後で考え出しただけで、結局のところ私がミノタウロスを殺したくないって思っちゃったのよ。ただ勘だけど、殺したらダメな気がしたの。それがすべてよ」
「……何よそれ、船長としてとかいろいろ言ってたけど突き詰めていけばやっぱりただのアナタの我儘じゃない。ワタシたちが言うことを聞く義理も、付き合う意味も無いじゃない?」
「ええ、そうよ。ただの我儘よ。ヘルガのおかげで自覚できたからこの際、開き直っていうけど。私のミノタウロスを殺したくないって我儘に付き合ってほしいの。ダメかしら?」
「ダメかしらって、そんな可愛い声で頼んできたって、ダメなものはダメでしょ! アナタさっき、船長としての立場がどうたらこうたらって言ってたじゃない? なら、最後まで貫き通しなさいよ!」
「可愛い声で頼んでも、威厳ある声で頼んでも、船長命令であることには変わりないでしょう? いいじゃない。たまには私の我儘を聞いてくれても」
「だから、ちょっと、アナタね――」
「二人とも。このまま言い争いをしていても埒が明きませんよ。ヘルガの言うようにこのままミノタウロスを放置すると被害が広がるばかりです。そして、リーネの言うようにこのままミノタウロスを殺したと報告するとドワーフたちに謂れのない言いがかりで、さらに対立が深まる可能性があるのも事実です。少なくとも、何かしらの口実にされるのは間違いないでしょうね。……ですが、二人の主張はミノタウロスを武力で止めなければならないというところまでは同じですよね?」
リーネとヘルガ。二人の口論が行き詰まり、これ以上先に進むことはないというタイミングでアリアさんが口を挟んだ。絶妙なタイミングだった。二人の感情が落ち着く絶妙な瞬間に、釘を刺した。これはアリアさんがどちらの肩を持つわけでもなく、淡々とした声音だったことも大きいだろう。だが、ヘルガも少しだけ不満そうな顔をして、腕を組み直した。
「それは……そうだけど。ワタシたちの力でミノタウロスを無力化したとしても、最期の目的が『殺す』と『捕獲』じゃあ、いざってときに絶対に交わらないじゃない。どこまでいっても平行線……これが、水と油ってヤツじゃないの?」
「はい。なので、当初の予定通り決を採りましょう。多数決で決めるんです。牛の涙は船乗りにとって縁起が悪いですが、いざってときはそれでも海に出なければいけません。船内に入ってきた雨水を私たちはバケツで外にかき出さなければなりません。そして、船が沈没しないためには、船員の一致団結が必要不可欠ですから」
アリアさんがパンッ、と手を叩いた。鎧同士が擦れた影響で、金属の甲高い音が乾いた空気に鋭く響いた。俺たちの意識だけでなく、まるで迷宮の壁にまでその音が染み渡るようだった。その音を聞いた俺は思わず背筋を伸ばしてしまう。それほど、空気が一瞬で変わった気がした。だが、しばらくして隣から誰かに制服の袖を力強く引かれた。ゆっくりと視線を下げると、アセビが自慢気な笑みを浮かべながら俺に話しかけてきた。
「ねえねえ、牛の涙ってあれでしょ? 確か、牛が涙を流すと雨が降るみたいなヤツ。うちも田舎でお世話になってたときに、聞いたことあるし」
「ああ、俺も似たようなことをイサヒトさんから聞いたな。夜に口笛を吹くと蛇が来るとか、朝に蜘蛛を見るのは縁起がいいとか。そんな根拠がない迷信ばかりだったけど」
「根拠がないって……アンタ、占いとか信じないタイプだし? そういう斜に構えた態度を止めて、素直に楽しまないと人生損ばかりするし?」
「……余計なお世話だ」
「ちょっと! アナタたち聞いてたの? さっきからコソコソ、コソコソと!」
会話についていけなくなった俺とアセビは雑談に花を咲かせているとヘルガが文句を言ってきた。いや、まあ、真剣な話し合いの途中に雑談をしているヤツがいるとイライラするのは仕方がない。さすがに反省しないといけない。
「ほら、じゃあさっさと決を採るわよ! 文句なしの多数決だからねッ! ワタシの『ミノタウロスを殺す』って案に賛成の人は手を挙げて、ハーイ!」
「……はい」
ヘルガのその一声で手を挙げたのは……俺だけだった。リーネは自信満々に腕を組み、アリアさんは目を瞑っていた。そして、アセビは一瞬だけ逡巡したような表情をしていたが手を挙げることはなかった。
「決まったみたいね。じゃあ――」
「ちょっと待ちなさいッ! 理由を聞かせなさいよ! アリアはともかく。アセビ、アナタはこっち側じゃないの? ほら、『保護なんかよりも殺した方が楽だし、安心するし』とか言いそうじゃない!」
「はぁ? ウザ。つーか、アンタ、バカにしてるし? うちだってこの頭でちゃんと考えてるし」
「なら、理由を教えなさいよ。それくらいはいいでしょ?」
不貞腐れたような声で、ヘルガがそう呟く。まるで納得できない子供が最後の抵抗をしているかのようだった。そして、ヘルガの森のように深い緑色の瞳がアセビのことを見た。
「うちは……ナンつーか、リーネの話を聞いて単純に哀れに思っただけだし。今夜は、満月にはまだまだ早いはずだし。だから、ちゃんとした月を見れずに死ぬのは、さすがに可哀そうだって……そう、思っただけだし」
「だから、何でアナタたちはそんな感情論ばっかりなのよッ! 論理的に考えれば怪物は殺した方がいいに決まってるじゃない! バッカじゃないのッ!」
「バカって何だし! うちにだって権利は平等にあるはずだし! うちの感情を納得させられなかったアンタの負けでしょ。なら、そこのッ! ボーっとしているジンは何で、殺そうと思ったし?」
「……え、いや、俺はただミノタウロスに殺されかけて怖かったからだけど」
「ほら、そっちも感情論のヤツがいるし! これで、お相子だし!」
ヘルガとリーネの言い争いを止めたと思ったら、今度はヘルガとアセビの二人がまた、喧嘩が始まりそうになってアリアさんが困ったような微笑みを湛えている。
「……アリアさんは、何で捕獲の方に票を入れたんですか?」
「そうですね。私もリーネと似たような考えだったので、ミノタウロスについてはこれ以上、ドワーフたちを刺激しないように慎重に物事を進めて行きたいです。それに……そうですね。私も、ミノタウロスを殺してはダメな気がしたんです」
「それは、何故ですか?」
「……分かりません。どうするべきかは、いくら考えても分かりませんでした。リーネとヘルガ、立場や見方が違うだけでどちらの意見も一理ありますからね。どうするべきかは分かりません。だから、あとはどうしたいかです。なので、自身の直感に従うことにしました。今日の私は、どうやら冴えているようなので」
「だから! ワタシはそこが分かんないっていってんの! ワタシだってアナタたちの直感を信じてあげたいし、納得したいの! ただワタシにも伝わるようにそれを言語化してちょうだ――」
ヘルガが最後に『い』を言い切る直前、二人の瞬きのタイミングが重なり、ピタリと身体の動きを止めた。そして、同時に天井の一点を……俺たちの斜め左上方向を凝視し始めた。その異様な動きに、全員の頭に『何事だ?』という疑問が浮かび上がり、奇異な視線が二人に注がれた。
「……今、大きく揺れたわね。ヘルガも感じだ?」
「誰に言ってんのよ? ワタシもしっかりと感じたわよ。当たり前でしょ? この感じ、流れが乱れたみたいね。たぶん……誰かが、ミノタウロスと戦闘してるわね。急がないと被害が広がるわよ?」
「……分かってるわよ。ヘルガ、ジン。悪いけど二人にも私の命令に従ってもらうから。多数決までしたんだから文句はもう聞かないわよ? どうしても言いたいなら移動中に出し尽くしなさい」
「……俺は、それでもいいけど」
まるでリーネのその一言に対抗するかのように、二人の間に光が出現した。ヘルガの魔法だ。光を操るその魔法は、綿毛のようにふわふわと揺れ動く光の塊は、彼女の全身を照らすように周囲をゆっくりと回転する。光の塊は、彼女の頑固さを、覚悟を象徴するように、直視すれば眩しいと感じるほどの光束を放ち、薄暗い迷宮内を照らしていくれる。
「ワタシも従ってあげるわ。文句なしって言ったのはワタシだもん。でも……殺す気でやるから。間違えて殺しちゃっても構わないでしょ?」
「……もうそれでいいわよ。容赦なんていらないわ。もともと、『できれば』っていう『たられば』の話だもの。このメンバーが揃っていてもミノタウロスを『捕獲する』余裕がないと私が判断したら、その時は切り替えてちょうだい。合図は出すわ。皆も、それでいいでしょう?」
場に沈黙が訪れる。たぶん、了承の意味があるのだろう。俺がそう判断したのは、ピリピリとした雰囲気ではなく、呆れたような雰囲気が漂っていたからだ。まるで空気が否定ではなく、了承の意思を示しているかのようだった。だが、ただ一人、アリアさんだけが表情に迷ったような色を滲ませた。彼女は眉をひそめ、何か言いたげに唇を動かしていた。
「どうでもいいし。まず、ミノタウロスって化け物をボコボコにしないといけないってことにはどうせ変わりないし。最後に『殺るのか』『殺らないのか』それだけはっきりとしてくれたら、あとはうちらでリンキオウヘンに対応するし! つーか、これ以上無駄話をするくらいならそっちの方がうちは楽だし!」
俺はその彼女の異変に、微かな変化に気付いたのだが……喉から出かかった掠れたような、言葉にならない俺のその声は、隣にいるアセビの元気な声にかき消されてしまった。そして、その一瞬の間に、アリアさんの顔はもとのにこやかな笑みに戻ってしまった。まるで何事もなかったかのように。
「……そうね。皆、もう何もないようね。なら、行くわよッ! ほら、私の後に続きなさい!」
「ちょっと、リーネ。ワタシが先頭よ! アナタが後ろ! ワタシの方が強いし、賢いし、エルフなんだから当たり前でしょ!」
ヘルガの声が響き渡る。そう言うと、二人はまるで競うように迷宮内を駆け出してしまった。足音が石畳に鳴り響き、闇の中へと吸い込まれて、消えていく。だが、二人は人喰い迷宮の闇を切り裂きながら迷いなく進む。まるで恐怖を振り払うような迷いのない足取りに、俺の心は少しだけ軽くなった気がした。だんだんと小さくなっていくその背中をジッと見つめていたアセビは小さく溜息を吐くと「……はぁ、バカらしいし」と呟くと、肩をすくめながら、軽い足取りで二人の背を追いかけていった。
残された俺とアリアさんはお互いに顔を合わせる。これからリーネとヘルガの後を追って俺たちもミノタウロスがいると思わしき地点に向かう。その前に、どうしてもさっきの彼女の表情の意味を聞こうと思った。それが何だったのか、確かめたかった。だが、それはできそうにない。何故なら彼女はいつも通りの優しく笑みを浮かべると、何も言わずにアセビの後を追って行ってしまった。その行為に壁や溝ができたかのような錯覚を覚えた。
さっきと同じだ。彼女の優しくて、柔らかな、あの青色の瞳の奥に宿る慈愛に満ちた光を見ていると俺は何も言えなくなってしまう。何もかもを包み込むような穏やかな笑顔を向けられると言葉が喉の奥で絡まり、声にならない。声にできない違和感が、胸に棘が残る。そしてそれは痛みではなく、ただ静かに、後悔としていつも俺の表情に浮かび上がる。
「……ッ」
掠れた息が漏れる。そして、最後に俺が走り出した。リーネ、ヘルガ、アセビ、そしてアリアさん。全員の背中を見てようやくミノタウロスと対面する決心ができた俺は走り出した。情けない話だ。だが、俺もこの迷宮の闇の中へ、仲間の背を追って進むことができた。背後から吹く冷たい空気が肌を撫でる。俺の足音がやけに残響する。こうして、俺たちはミノタウロスの元へと駆け出したのだった。恐怖も、迷いも、後悔も――すべてを抱えたまま未熟な俺は前に進んだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ハイレッディンはどこかで聞きかじった鼻歌を陽気に口ずさみながら、片手斧をぶん回していた。その音程の外れた旋律は、場違いなほど明るく、嫌なくらい耳に残る。ワープ現象のせいで仲間と離れ離れになったことなど、まるで気にも留めていない様子だ。ズカズカと傲慢に足音を鳴らしながら、薄暗い人喰い迷宮の中を一人で進み続ける。
気が短いせっかち野郎なのか、それとも正反対の気が長いマイペース野郎なのか――この一連の行動だけでは、まだ判断できない。ただ一つ言えるのは、彼の歩みには目的地も緊張感もなく、ただ無造作に突き進んでいるということだった。
右へ、左へ、さらに左へ。彼は行く当てもなく、迷宮内の道を進み続ける。その姿は、まるでシャーロックホームズのように注意深く何かを探しているようで、何も探していない。無遠慮な彼の足音だけが、迷宮の静寂を乱すように響いていた。
そして、石柱をさらに右へと曲がったその瞬間――彼の視界に、真っ黒な人影を映った。シュテンだ。シュテンはミノタウロスの足止めを、激戦を繰り広げた影響で力を使い果たしたのか、死体のように静かに石壁にもたれかかっていた。身体はほとんど動いていない。口と鼻から漏れる呼吸音と、息をするために微かに上下している肺の動きだけが今の彼の唯一の生きている証だった。
ハイレッディンは、まだこちらの気配に気付いていないシュテンの姿を見つけて、鼻歌を止めた。手遊びがてらに回していた片手斧を肩に担ぎ直し、ゆっくりと歩み寄る。無遠慮がちから遠慮がちへ。気配を消して、慎重に、慎重に、シュテンの傍へと近づいた。そして――
「お、さっきぶりだな?」
彼はわざと気安く声をかけた。どこか茶化すような調子が混ざったハイレッディンのその声にピクリと、シュテンの眉が反応した。意識の底に沈んでいた感覚を取り戻すように、ゆっくりと、シュテンの瞼が開かれた。琥珀色の瞳が、迷宮の薄暗がりの中で静かに生命の光を宿す。その瞳に、ハイレッディンの逞しい身体がはっきりと映り込んだ。
「……チっ。また、うるせぇのがいるな」
「ハハッ! そういうなよ。天使のお迎えじゃなくてよかったじゃねぇかッ! それよりも……シュテン、怪我の具合はどうだ?」
「……ッ、てめぇ、誰にモノ言ってんだ? 万全に決まってんだろ?」
シュテンは石壁にもたれたまま、ゆっくりと、睨みつけるように視線を上げる。戦いの炎は宿している。だが、その瞳はわずかに細まり、呼吸が浅くなっている。強気な言葉とは裏腹に身体は動かせないようだ。回復するまで、まだまだ時間がかかるだろう。
「ああ、その意気だ! 根性入れろ! 今度こそ、ミノタウロスの野郎をぶっ殺してやろうぜぇ!」
「あ、ったりめぇだッ! 次こそ、仕留めてヤル!」
掠れたような声で、腹の底から雄叫びを上げたシュテンは根性で立ち上がった。石壁にもたれかかりながら、歯を食いしばり、膝に力を込め、根性で立ち上がった。動くはぎこちなく、痛々しい。ミノタウロスとの戦いの中で額が割れていたのか、頭からは血が流れている。それでも、確かに彼は立ち上がった。その立ち姿は、彼の背筋に一本の芯があるかのように、まっすぐだった。
「よしっ、イイ根性だ! だが、リーネのヤツと合流しないと首を切り落としても再生しちまうかもしれねぇからな。リーネとの合流を第一目標にすっか! それに、オレと瀕死のシュテン一人だけじゃあ頼りねぇからな。ついでに、ロバーツたちを拾って……ん?」
ハイレッディンは満足げに笑い、今にも倒れそうなシュテンを支えるように腕を掴むと、ふと靴裏から小さな違和感を感じ取った。地面が揺れている。地響きだ。いや、地面だけではない。よく見ると壁も、天井も、石柱も、すべてが揺れていた。その揺れが激しくなってきている。震源が、すべてを揺らすような地響きが確実にこちらに近づいている。これは、こんなことができるのは、迷宮内でただ一匹。
――ミノタウロスだ。
ミノタウロスが、あの巨体を揺らしながらこちらに向かってきている。何故、二人の居場所に向かって真っ直ぐと向かってきているのかは分からない。だが、分かることは一つある。このままだと、また戦闘になる。逃げることはできそうにない。そう判断したハイレッディンは、素早く片手斧を担ぎ直すと、地鳴りがする方へ、正面へと構える。
「……来るぞ、シュテン」
「ああ、気付いてるよ。どうやら、オレたちが当たりを引いちまったみてぇだなぁ! 次から次へと手元に当たりが舞い込んでくる! これだから賭け事はたまらねぇんだよ!」
彼らはすでに次の戦いを見据えていた。シュテンは血を流し過ぎてふらついている。壁に手をつかなければ、立っていることすらままならない。だから、ハイレッディンが一歩前に出る。棍棒を失い、まともに戦闘は望めないシュテンを庇うように、今度はハイレッディンが一歩前に出た。
「……おい!」
不機嫌そうなシュテンの声が背後から飛ぶ。だが、ハイレッディンはそれを無視して、正面からくるミノタウロスへと意識を集中させる。地響きが近づく。地響きが近づく。地響きが近づく。まだあの醜悪な牛の怪物は姿を見せない。地響きが近づく。地響きが近づく。地響きが近づく。地響きが近づ――見えた。血に濡れたような赤い瞳が、闇の中でぎらりと光るのが見えた。角が見えた。涎を垂らし、肩をぶつけて石柱を薙ぎ倒しながら、こちらへと迫ってくる姿が、ミノタウロスの全身が見えた瞬間、ハイレッディンは片手斧をぶん投げた。
綺麗な放物線を描いた斧が、ミノタウロスの肩口に深々と突き刺さる。悲鳴を上げった。だが、巨体から放たれる突進の威力は止まらなかった。勢いが止まらない。ヤバい。ヤバい。ミノタウロスの巨大な掌に潰される未来を想像したハイレッディンは咄嗟に、シュテンを巻き込むように石柱を盾にするように身を隠す。だが、盾になるわけがない。無駄な行為だ。焼け石に水ってやつだ。姿を見られた時点で、逃げる術などもとからない。数メートルに近づいてきたミノタウロスが視界に入ると同時に、死ぬ覚悟をしたハイレッディンは衝撃に備えるために瞳を閉じた。瞳を閉じて、瞳を閉じて――いつまで経っても痛みが襲ってこないことに疑問に思い、目を開いた。
そこに、ミノタウロスの姿はもうなかった。それどころか地鳴りが遠ざかっている。ミノタウロスは、ハイレッディンたちを目に留めず、走り去ってしまった。理由が分からないが、助かった。いや、理由はすぐに分かった。理由の方から近づいてきたからだ。一足遅れて、迷宮の奥の方から男の高笑いが聞こえてきた。男、男だ。紫陽花のように鮮やかな色合いの着物をきた、腰まで伸びた黒髪が特徴的な男だ。そいつが能面のような笑顔をして、高笑いしながら、刀を振り回してミノタウロスを追いかけていた。
「ッ、ヒビキ!」
脇目も振らずにミノタウロスを追い続ける男――ヒビキの名を、まるで一喝するようにシュテンが力強く呼び止めた。その声で、ヒビキは正気を取り戻したのか、カランコロンと下駄を鳴らし、二人を間に着地した。
「おー、シュテン。これはまた……豪快な、戦化粧ですね。大丈夫ですか? 気づいてないかと思いますけど……今のシュテン、顔が真っ赤ですよ? もしかしてボクは二人の恋路の邪魔をしてしまいましたかね?」
音を立てずに、ぬるりと刀を鞘に収めたヒビキは涼しい顔をしてくだらない冗談を言った。
「おい、ゴラ! くだらねぇ戯言は後にしろ!」
ハイレッディンが低く、鋭く言い放った。彼はミノタウロスと対面したときよりもピリピリとしているかもしれない。
「おやおや、ハイレッディン。こんな冗談を真に受けるようではダメですよ? もしかしてお腹が空いてピリピリしているんですか? そんな君には『武士は食わねど高楊枝』ということわざをプレゼントしましょう。貧しい中であっても、気位を高く持ち、見栄を張って生きなければいけません。まあ、ボクはお腹が空いているわけじゃないんですけどね。ほら、ハイレッディン。見栄を張るのに重要なのはスマイルですよ。スマイル。笑わないと。そんなことだから、新入りに避けられるんですよ?」
「うるせぇよ! オマエに言われたくねぇよ。ってか、相変わらずだな。久しぶりに話すのにわけがわかんねぇことばかり言ってきやがって! だけど……まあ、戦力として見れば頼もしすぎるくらいだぜぇ。一人でミノタウロスを追っていたのか?」
「はい、そうなんですよ! 聞いてください! ボクがあの子とですね。楽しく鬼ごっこをしていたらですよ。あることに気が付いたんですよ。我慢できないから、もう言いますけど。なんとですね、ボクがつけた傷を回復するたびに少しだけ身体のサイズが大きくなってるんですよ! これは、迷宮の魔素や魔力を吸い取って怪我を治している影響でしょうか?」
「……おい。それって、ヤバいんじゃね?」
長広舌をふるうヒビキの話を大人しく二人は聞いた。ミノタウロスが身体が肥大化している。その事実を聞いたハイレッディンが冷静にヒビキに対してそうツッコムと――
「ヤバいですかね? このままいけば、自分の身体のサイズが大きくなりすぎて迷宮で身動きが取れなくなってしまうんじゃないでしょうか? 打ち出の小槌はここにはありませんが、代わりにボクたちが傷を与え続ければ『捕獲』も『保護』も容易でしょう?」
「それで、それには何時間かかるんだ? オレたちが空腹で動けなくなるよりも先なんだろうな? それに、デカくなるってことは単純にその分だけ強くなるってことだろうが! ニンゲンも一メートル身長が変わるだけで筋肉はもちろん、リーチも、スピードもすべてが上昇する。筋肉はパワーだからな。そんなミノタウロスをこれ以上暴れ回らせるのはバカなオレでも分かるぐれぇの悪手だ。クックたちみてぇな被害者がこれ以上出る前に、さっさと殺しちまった方がいい」
「ボクが追いかけているんですから、そんな状態のミノタウロスの攻撃を避けられないノロマの方が悪くないですか?」
「おい、さすがに言葉が過ぎるぞ。みんな、オマエじゃないんだから、普通は避けれないんだよ。ってか、避けれねぇのが普通なんだよッ!」
「……オレは、ハイレッディンに賛成だな。ただでさえミノタウロスを殺した後にも、オレたちは迷宮からの脱出方法を探さないといけねぇんだ。そんな『保護』だの『捕獲』だの、甘いことを言ってる場合じゃねぇ」
シュテンが再び、壁に体重を預けて立ち上がりながらそう言い放った。『捕獲』よりも『討伐』の方が確実だ。それに、そうじゃないとミノタウロスに一方的に殺されるヤツらが殺されてしまう。そんな思いをきちんと受け止めてなお、ヒビキは悩まし気に頭を捻っていた。
「いや、これはボクの勘なのですが。この迷宮から出るにはミノタウロスを殺せばいいだけだと思いますよ。それで、この迷宮は……古代ドワーフの遺跡は役割を終えて、死ぬんだと思います」
「……ん? なら、よりいっそう殺しちまった方がイイんじゃねぇのか? それとも……何か殺しちまったらいけねぇ理由でもあるのかよ?」
ハイレッディンが予備の片手斧を取り出しながら眉をひそめた。その刃が迷宮の魔光石の温かな光に反射して、鈍く光った。ヒビキは彼が取り出した斧の光をちらりと見つめ、自嘲気味に少しだけ口元を緩めた。その笑みには、どこか割り切れない感情が滲んでいた。
「……うーん、そうですね。単純に、気乗りしないんですよね。何故でしょう? 彼はボクからみてもかなり上等な獲物なのは確かです。戦うなら、喜んで相手を引き受けましょう。ですが、いざ殺すとなると気分が乗らないんです。不思議な気分なんですよね。神を目指していて、初めてこんな気持ちになりました。二人はどうしてだと思いますか?」
「そりゃあ、あれじゃねぇか? 鬼の目にも涙ってヤツだ。殺人鬼であるオマエの心もついに人情ってのを覚えたんだろうよ!」
からかわれたことを根に持っていたハイレッディンが、鬼の首を取ったような勢いでヒビキのことをおちょくった。大げさに喜ぶながら、肩を揺らして笑う。だが、ヒビキは気にも留めた様子もなく、ただ静かにミノタウロスが逃げ込んだ迷宮の闇を見つめていた。しかし、シュテンの琥珀色の瞳が真剣にヒビキのことを見つめているその気配に気付いて、名前を呼ばれるよりも早く視線を向けた。
「……ヒビキ、ダメだ。お前ならオレらと合流する前に殺すこともできたはずだろ? それなのにしなかったのは、気の迷いが原因なのか? なら、オレたちが取り払ってやる。これ以上、被害が広がる前にお前がミノタウロスを仕留めろ」
「えー、どうしてもダメですか? もういっそのことうちでペットとして飼いましょうよ。ボクが三食面倒見ますし。毎日、散歩にも連れてでかけますから」
「それでもダメだ。オレはリーネみたいに優しくないからな」
シュテンの声は低く、揺るぎがなかった。古参としての立場が、怪物と対峙した長年の経験が、ミノタウロスを放置する脅威の方が上回ると判断したのだろう。彼の言葉には断固たる決意が込められていた。
「えー、しょうがないですね。シュテンがそこまで言うのなら、殺しましょうか。どうせこの迷宮から出るには、いつかは殺さなければならない相手ですし。少し早いですが、楽にしてあげましょう。ボクたちの仲間を殺した分の痛みは、もう十分に味合わせたことですしね」
ヒビキはそう言うと、一度鞘に収めた刀を抜いた。その刃は、迷宮の魔光石の淡い光を受けて、静かに輝いていた。まるで、彼自身が抱いていた迷いも断ち切るかのように、凛とした美しさを放っていた。そして、ヒビキは軽く肩を回し、刀をひと振りして空中を斬った。その動きは滑らかで、無駄はなかった。肩慣らしとしての彼の一振りは、他者からみれば目にも止まらぬ極められた技だった。
「じゃあ、行きましょうか。姿を見失ってしまったのでまた気配を探るところからですか。……あ、シュテンはかなりの重症ですから、ハイレッディンが肩を貸してあげてくださいね」
「……ああ、オレは後から追いかける。だから、無理はすんなよ。お前が強いことはよく知ってるが、遊ぶ癖はこの機会にとっとと直せ。ヒュドラのときにも出てたが、ただの悪癖だぞ?」
「呼び止めたのはそっちじゃないですか。でも、いいですよ。少し迷いましたが、これから彼にはボクの偉大なる神話の一ページになってもらいます。『牛の歩みも千里』ってヤツです。一歩、一歩、着実にボクは夢に向かって進み続けましょう。……既存の神話を踏み台にすれば、ボクもいつか神になれるんでしょうしね?」
シュテンの言葉と拳を背に受けたヒビキは笑いながらも、刀を構える手に力を込めた。その笑みは、いつも通りの軽さと胡散臭さを保ちながらも、どこか決意の色を帯びていた。そして、彼はカランコロンと下駄を鳴らし、迷宮の壁を足蹴にして跳躍した。彼の動きは、まるで重力すら拒むように軽やかで、鋭く、目には見えない速さでミノタウロスを追いかけてしまった。遠すぎて、地鳴りはもう聞こえない。三人は――いや、ヒビキは迷宮のどこかで息を潜めているミノタウロスを、その先にある”何か”を目指して、一直線に飛び立っていった。
こうして、リーネとヒビキ。二つの陣営はそれぞれ違う目標を掲げたままミノタウロスの元へと駆け出した。




